消えた秘書
しばらく不定期更新で進みます。
光が均一になった。
斜めだった影が縮んで、部屋の中に白いものが満ちた。庭師は箒の跡を砂に残して、もうどこかへ行っていた。昨日と同じ庭が、光の角度だけ違う顔をしていた。
ベッドには戻らなかった。椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。
シリルは今、筆頭秘書の部屋に向かっているか、あるいはすでにその者と向き合っているかだった。三年前に若様の筆跡を模した者。査察書類に偽の署名を入れた者。グレゴールが静かに名前を言った。シリルの背中ごしに聞いた。三音節の前半だけ届いて、それ以上は廊下の奥に消えた。
知らない名前かもしれない。あるいは聞いたことはあるが、まだ顔のない名前かもしれない。
ノックがした。
「失礼いたします」
若い声だった。使用人が食事の盆を持って入ってきた。昨日まで食事を届けていた者ではなかった。
トーストと薄いスープと、小皿に切った果物が乗っていた。普通の朝食だった。量も問題なかった。使用人は卓に盆を置いて、礼をした。
「いつもの方は」
使用人の動きが止まった。一拍だけ。背中が硬くなった。
「本日は担当が変わっております」
「どうして」
「別の任があると聞きました。詳しくは存じません」
盆を置く最後の動作で、指が縁を一度だけ押さえた。中身が揺れないようにしたのかもしれない。それだけかもしれない。
「屋敷に来て何年になりますか」
使用人がこちらを見た。
「三年になります」
「三年前、査察がありましたね」
目が静かだった。静かすぎた。
「私はまだ下働きでしたので、存じません」
礼をして出た。扉が閉まった。
レティシアはスープに手をつけなかった。卓の上を見ていた。
三年。
査察のあった年と一致する。だからといって何かが繋がるわけではない。三年前に屋敷に来た者が全員疑わしいわけではない。それはわかっている。ただ——静かな目だった。問いへの答えが、早すぎも遅すぎもしなかった。用意されていたような間だった。
手首の監視札を見た。白く光っていた。痛みはない。
昼前、シリルが来た。
外套を着たままだった。夜通し動いていた顔ではなくなっていたが、また動き始めた顔だった。
「筆頭秘書の部屋は空でした」
レティシアは椅子から立ちかけて、監視札が光るのを感じて止まった。
「今朝早く出たと思われます。昨夜の見回りではいた。今朝の点検でいなかった」
「荷は」
「残っていました。急いで出たか、あるいは戻るつもりでいたか」
シリルが窓の方を見た。
「逃げたのではないかもしれない」
「屋敷の内側に動きがあった可能性がある」
「そう見ます」
レティシアは黙った。シリルも黙った。
庭で鳥が鳴いた。二声だけで止まった。
「昨夜、グレゴールが私のところへ来たことを知っていた者がいたとすれば」
「廊下を通った者です」とシリルが言った。「記録しています。業務上の位置にいた。不審とは断定できない」
「朝食を届けた使用人は」
シリルが少し間を置いた。
「同一人物の可能性があります。目撃した者の記録と照合しました」
静かな目の使用人。指が一拍だけ縁を押さえた。三年前から屋敷にいる。三年前の査察を知らないと言った。
いない。接触がなければ知らないでいられる。ただ、あった。
「その使用人の担当者が今朝から連絡が取れていない、とおっしゃいましたか」
「確認中です」
レティシアは卓の上の盆を見た。スープは冷めていた。果物は皿の縁に一切れ残っていた。
「担当が変わった、と使用人が言いました。理由は別の任があると聞いた、とだけ」
「調べます」
シリルが出た後、また一人になった。
窓の外の庭に風が来た。砂の上に残っていた箒の跡が崩れていくのが見えた。形が崩れると、最初からなかったようになる。
切れ端を並べた。
三年前から屋敷にいる若い使用人。昨夜の廊下で目撃。今朝の担当変更。筆頭秘書の失踪。
四つ。三つを繋げば形が見える。一つだけ繋がらない。
昨夜書類の筒を届けた者の目的が何かだった。
もし使用人が秘書と繋がっているなら、書類を渡すはずがない。証拠が出れば秘書が追われる。追われれば、使用人自身も危うくなる。渡さない方が得になる。
では逆の立場からだとすれば。
書類を出すことで、秘書を追い詰めようとした側の者が届けた。
だがそうなると、秘書が逃げたことは想定外の事態になる。証拠が出る前に逃げられた。
どちらでもない第三の可能性がある。
使用人は昨夜の廊下で何かを見た。グレゴールが動くのを見た。そこで何かを判断した。判断した内容次第で、誰かに伝えた。
伝えた相手が秘書だったとすれば——使用人と秘書の間に直接の繋がりがある。
伝えた相手が別の誰かだったとすれば——屋敷の中にまだ別の動く者がいる。
監視札が光った。レティシアは動いていなかった。定期の確認だった。時刻が進んでいた。
グレゴールは三年前、書類に偽造署名があったことを知らなかった、と言った。知らないまま三年を過ごした。その三年の間に、何かが屋敷の中に根を張った。
根を張るには時間が要る。
三年は長い。
三年前から屋敷にいる使用人は一人ではない。ほとんどの使用人がそうだろう。絞り込めない。
ただ、昨夜廊下にいた者は限られている。今朝の担当変更を知っていた者も。その使用人の通常担当者と連絡が取れなくなったことも。
シリルが調べている。
調べている間、こちらは動けない。
夕方になる手前、シリルが戻ってきた。
今度は外套を脱いでいた。局員を三人連れていた。表情に変化はなかった。目の奥だけが、朝より深かった。
「使用人の担当者が見つかりました」
「生きていますか」
「はい。物置部屋に閉じ込められていました。今朝の交代時刻の少し前から」
レティシアは窓の外を見た。光が傾き始めていた。夕方の色だった。
「入れ替わったということですか」
「そう見ます。担当者を閉じ込め、別の者が朝食を届けた。その者はその後、屋敷から出た可能性があります。姿が確認できていない」
「秘書と同じルートで」
「同じかどうかはわかりません。ただ——同じ時間帯に、屋敷の勝手口の鍵が一時的に開いていた形跡があります」
沈黙があった。局員の一人が手帳に何か書いていた。ペン先の音だけが続いた。
「勝手口を開けた者は誰ですか」
「不明です。鍵は内側からかけられていました。合鍵があった可能性が高い」
レティシアは手首を一度見た。監視札は静かだった。
「筆頭秘書と、今朝の使用人と、勝手口。三つが同時に動いた」
「はい」
「計画的に」
「そう判断しています」
シリルが少し止まった。
「あなたに一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「今朝の使用人が部屋に来たとき、何か気づいたことはありましたか。言動、動作、何でも」
レティシアは朝の場面を戻した。盆を持って入ってきた姿。卓に置くときの一拍の停止。縁を押さえた指。静かすぎた目。三年、と言ったときの間。
「問いへの答えが、用意されていたように聞こえました」
シリルが少し目を動かした。
「どの答えが」
「三年前の査察を知らないという答えです。聞いてもいない話題に、先に答えが来ました」
シリルが一度だけ、手帳を閉じた。
「それは有用な観察です」
有用、という言葉が平らだった。評価でも否定でもなかった。事実の確認だった。
局員たちが出た後も、シリルは少しの間残った。
「秘書は今も屋敷の近くにいるかもしれません」
「逃げきれる距離ではない、ということですか」
「屋敷から出たとしても、目的地があったはずです。目的地に向かったか、あるいは——まだ近くにいて待っているか」
「何を待つのですか」
シリルが窓の方を一度見た。
「それが次の問いです」
出ていった。扉が閉まった。
レティシアは椅子に座ったまま、部屋の中を見た。
昼に届いた盆はすでに回収されていた。夕食はまた誰かが届けるはずだった。その誰かが今朝の者ではないことを願うと、すぐに考え直した。今朝の者はもう屋敷にいない。別の誰かが来る。別の誰かが本物かどうかはわからない。
今朝、物置部屋に閉じ込められた使用人は、何も知らなかったはずだ。ただ担当の時間に向かおうとして、閉じ込められた。
それが昨夜から計画されていたとすれば。
昨夜の廊下の目撃よりも前に、計画は動いていた。
では、書類の筒を届けた若い声の者は、何を知っていて届けたのか。
計画の外にいた者かもしれない。計画を壊そうとした者かもしれない。
あるいは——計画の中にいて、別の目的を持っていた者かもしれない。
監視札が光った。夕刻の確認だった。
部屋の中に夕方の影が伸び始めていた。窓の外の庭が、また光の角度を変えていた。
誰かがこの屋敷の中で、すべてを見ていた。
そしてその誰かは、今もどこかにいるかもしれなかった。
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