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転移先は密室殺人事件の渦中!? 悪役令嬢に憑依した私が、魔法世界で異能力探偵になります   作者: 堀吉 蔵人


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夜明けの手渡し

しばらく不定期更新で進みます。

窓が白くなっていた。


 ランプは消えていた。部屋の隅の影はまだ濃かったが、窓の際だけが薄く光を帯びていた。夜が終わるとき、闇は窓から先に退く。電気のある場所で育った身には、それが当たり前ではなかった。


 眠れなかった。


 グレゴールが昨夜来た。ルーファスの話をした。三年前の査察書類の話をした。写しは焼いた、と言った。写しだけ、と言った。


 グレゴールが夜中に、北庭で誰かと接触し、何かを受け取った。


 受け取ったものが証拠になりうるなら、持ち出すか燃やすかを選ぶはずだった。それをしなかったとすれば——渡すためのものだった可能性がある。だがシリルに渡せば自分の立場が揺れる。自分のところへ来ても、監視札がある限り情報は広げられない。


 どちらも選ばないなら——自分から出ていく。


 廊下に足音が増えた。



 一人分ではなかった。早足だが走っていない。局員の動き方だった。夜の間に何度か耳にして覚えていた。


 監視札が手首で光った。白い、動きを許す色だった。立ち上がった。扉を開けると、シリルが外套を着たまま廊下に立っていた。夜通し動いていた顔だった。目の下の陰が廊下の光の中でもわかった。


「グレゴールが自室を出ました」


「自分からですか」


「はい。詰め所の方へ歩いてきた。止める前に出てきていました」


 廊下の北側に局員が二人いた。南の角から三人目が手を挙げた。シリルがこちらを向いた。


「来ていただけますか」



 応接間へ向かう廊下で、使用人とすれ違った。


 若い男だった。水差しを持っていた。こちらを見た瞬間、目を伏せた。一礼はしなかった。足を速めて横を抜けていった。


 不自然だった。使用人なら一礼して通り過ぎる。向かう先があれば、なおさら。局員の存在に動揺した可能性がある——だがこの廊下にまだ局員はいなかった。いるのはシリルとレティシアだけだった。


 判断できなかった。廊下を進んだ。



 応接間に入ると、グレゴールが椅子に座っていた。


 窓を背にしていた。逆光で顔の細部が暗かった。盆は持っていなかった。両手を膝の上に揃えていた。背筋は伸びていた。老いた体に無理がかかっているような、それでいて崩れのない座り方だった。眠っていなかった。一目でわかった。


「レティシア様」


 顔を上げた。目の下の陰が深かった。


「グレゴール」


 シリルが後ろで扉を閉めた。局員が一人、部屋の隅に立った。


「昨夜、北庭で誰かと接触されましたね」


 責める声ではなかった。確認するだけの声だった。


「はい」


 迷いのない一語だった。


「受け取ったものを見せていただけますか」


 グレゴールが懐に手を入れた。小さな筒を取り出した。革で巻いてあった。手のひらに収まる大きさだった。卓の上に、自分で置いた。


「これを渡しに来ました」


 シリルが筒を手に取った。封を確かめた。開けられていなかった。


「中身をご存じですか」


「口頭で聞きました。開けていません」


「何だと聞きましたか」


 グレゴールがレティシアの方を一度だけ見た。正面に戻した。


「三年前の査察に関わる書類の写しです。若様の名が入ったものではない。若様の筆跡を模して、別の者が作った書類の写しです」


 シリルの手が止まった。


「若様の署名が偽造された、ということですか」


「はい。若様は署名していない。ですが書類の上では、若様が確認し署名した形になっている。三年前の査察書類の中に、そのような文書が混入していた。その写しに、作成者の名が残っているそうです」


 窓の外で鳥が一声鳴いた。それだけで止まった。


 シリルが封を割った。音が短く立った。折り畳まれた紙が出た。広げた。読んだ。


 レティシアにはシリルの顔だけが見えた。表情が動かなかった。それが続いた。続いた。やがてシリルが一度だけ、静かに長く息を吐いた。指先が紙の端を一度押さえた。それだけだった。


「差出人は名乗りましたか」


「名乗りませんでした」


「外見は」


「暗くて顔はわかりません。声が若かった。渡した後すぐに走り去りました」


「なぜあなたのところへ来たと思いますか」


 グレゴールが少し間を置いた。膝の上の手が、かすかに位置を変えた。


「若様に近い人間を探したのかもしれません。若様を介した何らかのつながりがあったかもしれない。それ以上はわかりません」


 シリルが紙を折りたたんだ。局員に向かって低く一言言った。局員が扉を出た。



 局員が出た後、シリルが室内に向き直った。


「もう一つだけ」


「はい」


「三年前、若様の筆跡を模すことができた者は誰がいますか。書類を直接扱う立場の人間で」


 グレゴールの背筋が動かなかった。


「公式書類に若様の署名が入るものは、屋敷では私が保管しておりました。それ以外では、若様と書信を交わした方々ならわかります。直接見た機会があれば」


 一度区切った。


「屋敷の内部で、その書類を扱う立場にあった人間は——私と、当時の文書係と、若様の筆頭秘書を務めていた者です。文書係は五年前に屋敷を離れています」


「筆頭秘書は今もここにいますか」


 グレゴールが少し止まった。


「……はい」


「それは誰ですか」


 グレゴールがシリルを見た。


「捜査官として、正式に確認されますか」


「はい」


 名前を言った。


 レティシアには聞き取れた。知らない名前だった。この屋敷に来てから出会った人間の中に、その名はなかった。いるが、まだ会っていない。あるいは名前として聞いたことがないだけで、顔は見ているかもしれない。廊下ですれ違っているかもしれない。


 グレゴールの手が、膝の上でかすかに動いた。止まった。動いたことには理由があったが、止まったことにも理由があった。


「グレゴール」とシリルが続けた。「三年前、あなた自身はこの書類の存在を知っていましたか」


「知りませんでした。査察の後に若様の評価が急に下がったことは知っていました。理由はわかりませんでした」


「調べなかったのはなぜですか」


「若様が話さなかった」


「なぜ話さなかったと思いますか」


 グレゴールの目が少し動いた。窓の方を向いた。戻した。応接間の壁が少し明るくなっていた。夜明けの光が廊下を伝ってきた。逆光が薄れ、グレゴールの顔の陰が薄くなった。


「……若様は察しておられたのかもしれません。私に話せば、私が動く。動けば、見えていない相手の目に入る。それが嫌だったのかもしれない」


 口を閉じた後、グレゴールは何も付け加えなかった。言葉を尽くさなかった。両手が膝の上に戻った。きつく押さえていた。震えではなかった。指の白さだけが、そこにあった。


「グレゴール」


 レティシアが言った。グレゴールが顔を向けた。


「これを燃やすこともできましたね」


「できました」


「しなかった」


「はい。若様はもういない。ですがこの書類に名が入っている者は、今もいます」


 平らな声だった。揺れのない声だった。それが逆に、三年分の重さを感じさせた。



 廊下に出ると、窓から庭が見えた。


 庭師が箒を持って端に立っていた。仕事を始めたところだった。昨日と同じ庭だった。光の角度だけが違った。


「書類の出所が確認できれば、動けます」


 シリルが横に来た。


「今動けますか」


「今動きます」


「その名前を教えてもらえますか」


 シリルが少し間を置いた。


「あなたが知れば、行動が変わる可能性があります。意図せずとも」


「意図せずとも、というのは」


「屋敷内でその名前を知っている者がいれば、顔が変わります。わずかでも。相手が気づく可能性があります」


 監視札を見た。白く光っていた。


「わかりました」


 シリルがこちらを一度だけ見た。何かを測る目だった。


「一つだけ」とシリルが言った。


「なんですか」


「グレゴールが昨夜あなたのところへ来た理由について。一つの解釈があります」


「教えてもらえますか」


「接触が来ることを、事前に知っていたとすれば——その前に若様のことを語る時間を作ろうとした。書類が出れば捜査が動く。その後では話せなくなることが出る。昨夜のうちに話しておく必要があった」


「知っていなかった、と言っていましたが」


「言っていました。そちらが真実かもしれません。ただ——若様のことを話したかったのは、どちらであっても本当だと思います」


 廊下の奥から足音が戻ってきた。局員が早足で来た。シリルが振り返った。短い言葉のやり取りがあった。


「動きます」とシリルが言った。「必要なら声をかけます」


「わかりました」


 廊下を進んだ。局員がついた。足音が遠ざかった。



 部屋に戻る廊下で、また使用人を見た。


 別の使用人だった。年配の女だった。掃除の道具を持っていた。こちらを見て一礼した。足を止めずに行った。自然な動きだった。


 先ほどの若い使用人を思った。水差しを持って、目を伏せて、足を速めた使用人。局員が廊下にいれば動揺するかもしれない。だがそのとき局員はまだそこにいなかった。


 名前を知らない。顔を確認していない。追えない。


 記憶に残しておくだけだった。



 部屋に戻った。


 窓の前に立った。


 グレゴールが受け取った革の筒は、今シリルの手の中にある。老執事は自分から来た。証拠を差し出した。若様の名を借りた者がまだいるから、と言った。


 燃やさなかった。


 昨夜、写しは焼いた、と言っていた。写しだけ、と言っていた。その老人が今朝、筒を卓に置いた。自分から。守れなかったことは変わらない。三年前の書類が存在したことも変わらない。それでも来た。できることを選んだ。


 監視札が光っていた。痛みはなかった。


 シリルは名前を持って動いている。書類一枚でどこまで動けるかはわからない。筆頭秘書という立場があれば、記録も残っている。三年前に書いたものが、今日、証拠になる。


 若い使用人が足を速めた廊下を、シリルは今歩いているかもしれない。


 箒の音が遠ざかった。庭師が向こうへ移ったらしかった。


 窓の光が、確かな朝の色になっていた。

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