名前を出せない人物
しばらく不定期更新で進みます。
雪が積もっていた。水槽の縁に手をかけて外へ出ると、踝まで冷気に埋まった。昨夜からの積もり方だ。足跡の輪郭がまだ崩れていない。
七歩分の跡を辿りながら、シリルは足元だけを見ていた。門扉に近づくにつれて踏み幅が変わる。小走りになったか、荷を持ち直したか、どちらかだ。
「話してください」
歩きながら言った。前を向いたまま、こちらへ視線を向けない。
前夜から話す。ルーファスが西塔へ呼び出されていたと聞いた時点から。
声を抑えて順番に並べていくと、シリルは一度も遮らなかった。足跡の変化した地点で立ち止まり、また歩き出す。話の途中でも止まる。足元に用事があるときだけ立ち止まり、それ以外は歩きながら聞いている。
門扉の前まで来たところで話が途切れた。
「グレゴールが言えませんと言った場面」
「はい」
「その前後に何がありましたか」
「台帳の立入許可者の名を聞いた直後です。複数おりますと言いかけて止まった」
シリルが門扉の閂を確認している。外側から工具を差し込んで閂を動かした跡を、指の腹で辿る。手袋越しでも形を読んでいる。
「立入許可者のうち、名前の出せない者がいる」
「グレゴールがそう解釈できる言い方をしていました」
「立場ではなく、名前を出せない人物です」
金属の縁を親指で確認した後、シリルは手を下ろした。振り向かないまま雪の面を見ている。
「昨夜、屋敷に来客はありましたか」
「夕方に一名。ただ正式な来客ではなく、裏口から入っていたようです」
「誰の裏口ですか」
「グレゴールが案内した出入り口です。公爵は夕食の席にいましたから、グレゴールが独断で通した相手だと思います」
シリルが振り向いた。
「見ましたか」
「顔は見ていません。廊下の角で黒い外套の裾だけが見えました」
「女でも男でも入れる体格ですか」
廊下の石の上の靴底の深さを思い出した。雪の中の足跡とは違う。
「男性の歩幅か、脚の長い女性のどちらかです」
シリルは再び足跡の方を向いた。七歩の跡が外壁の向こうへ消えている。その先に続く道を目で追うようにして、一拍置いた。
「局員に命じて追わせます。今日中に宿場と人別に当たれば、昨夜の外来者の身元が出るかもしれません」
「出ますか」
「昨夜のように慎重に動く者なら、身元を隠しています。ただし七歩分の靴底の形は残っています」
屋敷に戻るとグレゴールは書斎の前に立っていた。朝食の準備を終えて廊下に出てきた形だ。シリルの姿を見て背筋が伸びた。
「足跡がありました。北庭の外れから搬送路に入った者の足跡です」
シリルの言い方は報告に似ていた。問いの形を取っていない。
グレゴールの目が動いた。水槽の方角を向いた後、こちらを一瞬見た。確認するような視線だった。
「存じませんでした」
「立入許可者の名を全員教えてもらう必要があります」
「それは」
「一名でも隠れば、その一名が疑いの筆頭になります。逆に、名前が出た者は事件から遠ざかる」
グレゴールは口を閉じた。廊下の先、朝の光が石の床に落ちている。手が制服の縫い目を探しているのが見えた。縫い目に指先を置いて、動かさないようにしている。
「台帳の許可者は三名おります」
声が低かった。
「本家の家令として私、亡くなったルーファス様、それともう一名」
「その方の名は」
「申し上げられません。私の一存ではお答えできない立場の方です」
シリルは即座に返さなかった。廊下に間が広がった。グレゴールは視線を下げている。足元を見ているのではなく、何かに耐える形だ。
「公爵閣下の一存でもお答えできない立場ですか」
「はい」
一語だった。
シリルが歩き出した。書斎を通り過ぎて廊下の先へ向かう。追いかけながら、グレゴールの手が縫い目から離れたのが見えた。
図書室に戻ると、局員の一人が書架の前で待っていた。夜間に取り寄せた資料を機の上に広げている。
「封じの刻印について調べました」
局員が紙を差し出した。シリルが受け取って縦に走り読む。
何かを見て、紙を機に置いた。一度こちらを見た後、局員に告げた。
「北庭の聞き込みを続けてください。水槽の周囲の足跡を記録させること」
局員が出た後、シリルは窓の方を向いた。
「封じの刻印が確定しました」
「どこの部署ですか」
「王立魔法捜査局の内偵部です」
体温が落ちた感覚があった。
「内偵部は局内の不正を扱います。局員の横領、規則違反、上位者の指示に反する動き。外部には存在を公表していない部署です」
「その刻印がなぜここに」
「昨夜ここへ入った者が内偵部の関係者だったか、内偵部の文書を持ち出していたか、あるいは両方です」
窓の外に北庭が見える。水槽は庭師の作業台の陰に入って見えないが、方角はわかる。
「ルーファス様は内偵部と接触があったと思いますか」
シリルは答える前に数秒あった。
「黒檻台帳の立入許可者に内偵部の者がいる。その者を台帳に記載したのが誰かを調べれば、ルーファスとの接触の有無がわかります」
「台帳の記載は誰がするのですか」
「本来は王立書記局です。しかし台帳が公爵家の書庫で保管されていた理由は、まだ確認できていません」
また一つ、答えの出ない場所が増えた。
機の上の紙が目に入った。シリルが走り読んだ紙だ。手前から読める向きになっている。意図的に置いた形かどうかは判断できないが、文字は読める。
内偵部の封じ印の規定と、使用者の範囲。最後の行に小さい文字が追記されていた。「現在の担当者は停職中につき印の使用権は一時凍結」という記述だ。
「停職中の人物が昨夜ここに来た可能性があります」
シリルが振り向いた。
「その文字まで読みましたか」
「読める位置に置いてありました」
一拍後、シリルは紙を手に取って裏返した。確認の動作ではなく、追記部分の精度を見ている。
「停職の理由は記載されていません」
「グレゴールが名前を出せない人物の、停職です」
「続けてください」
「停職中の内偵部員が、公爵家の書庫に保管された台帳の立入許可を持っている。昨夜、搬送路から入って公文書を焼いた。ルーファス様と台帳が接触した場所で、二人がかりで何かを運んだ」
口に出すと形になった。ただ一点、まだ合っていない部分がある。
「ルーファス様が殺された動機が、この経路に入っていません」
「なぜだと思いますか」
問い返された。
考える。ルーファスが知っていたことを並べていく。台帳の存在、内偵部との接続、帳簿の抹消記録。昨夜西塔へ呼び出された経緯。呼び出したのが誰か、まだわかっていない。
「ルーファス様が台帳の内容を使って何かをしようとしていたか、台帳の内容を誰かへ漏らそうとしていたか、どちらかではないかと思います」
「根拠は」
「焼かれた公文書の量です。薬草炉の灰の量からして、複数枚の文書を一度に燃やした跡でした。一人の人間の記録だけではあれだけの量にならない。複数の人物に関係する資料が焼かれた」
シリルが機に指を置いた。音ではなく、指の置き方で考えていることがわかる。
「それはルーファスが持ち出したのか、搬送路に入った者が持ち込んで焼いたのか」
「ルーファス様が一人で搬送路を使って運んだとすれば、引きずった跡は一本のはずです。実際は二人がかりの跡でした」
「持ち込んだのは外から来た者だった可能性がある」
「はい。ルーファス様は搬送路の中で待っていた。外の者が文書を持ち込み、二人で確認した後に焼いた。その後に何かが起きた」
その先は言葉にならない。搬送路の隠し部屋から西塔の密室までの距離と時間が、まだ繋がっていない。
シリルが立ち上がった。
「ルーファスが西塔で発見されたのは朝の第五刻です。搬送路に足跡が残っていた時刻と、西塔で何かが起きた時刻の前後を確認する必要があります」
「グレゴールが昨夜ルーファス様の部屋を確認した時刻を、まだ聞いていません」
「次に聞くことです」
廊下へ出る前に、機の上の紙を手に取ってポケットへしまった。
グレゴールは食堂の入口に立っていた。朝食の確認のためだと、立ち方でわかる。
「昨夜、ルーファス殿の部屋を最後に確認したのは何刻ですか」
グレゴールは一拍置いた。
「第二刻の少し前でございます。鍵のかかった状態を確認しました」
「中から鍵がかかっていましたか」
「はい。鍵穴から光がなかったため、内側から差されておりました」
「第二刻から第五刻の間、部屋の前を通ったのは誰ですか」
グレゴールが視線を動かした。記憶を辿る動きだ。
「夜番の者が第四刻前後に廊下を回っています。ただ西塔の回廊は通常の経路に入っていないため、夜番が近づくことはありませんでした」
「昨夜の夜番を担当したのは誰ですか」
「リーと申します者です。下の廊下番です」
「今日の午後に話を聞きます」
グレゴールは頷いた。それ以外に動きがなかった。
「グレゴール」
シリルが名前を呼んだ。
「あなたが昨夜、ルーファス殿の部屋の前を第二刻に確認したとき、下の扉の閂はかかっていましたか」
グレゴールの手が制服の縫い目を探した。
「かかっておりました」
「確認しましたか、それとも普段通りだと思いましたか」
沈黙が続いた。食堂の中から椅子を引く音がして、また静かになった。
「確認は、しておりませんでした」
声が低かった。
シリルは何も言わなかった。廊下の先へ歩き出した。グレゴールは動かなかった。
追いかけながら、背後でグレゴールが立ち続けているのが気配でわかった。制服の縫い目から手を離しているはずだ。
廊下の角を曲がったところでシリルが立ち止まった。
「閂が確認されていなければ、外から閂を開けた者が先に屋敷に入っていた可能性があります」
「搬送路を通って西塔まで」
「封鎖魔法が使えない環境でも、鍵さえあれば扉は開けられる。搬送路から書庫へ上がり、書庫から西塔へ続く廊下を使えば、誰とも会わずに移動できます」
「グレゴールは搬送路の外側の出口を知っていましたか」
「知っていました。グレゴールの写しに外側の出口の記述があります」
「では閂の状態を確認しなかったのは」
「不注意か、確認した上で何も言わないことにしたか、どちらかです」
シリルが歩き出した。
「今日中に搬送路の外側出口の周囲の聞き込みと、内偵部の停職者の身元を照会します。局に戻って指示を出す必要があります」
「屋敷を出るのですか」
「一時間で戻ります。その間」
足が止まった。こちらを向いた。
「監視札の痛みが出たらすぐに局員に言ってください。今日は外に出ないようにしてください」
命令に近い言い方だった。ただ声の硬さが普段より少なかった。
「わかりました」
シリルは頷いて廊下を進んだ。角を曲がって見えなくなった後も、足音が続いた。
一人になると、体温の変化に気づいた。
寒い。北庭で雪の中にいた時間が体に残っている。手首の監視札が冷えた金属の重さで皮膚に当たる。
廊下の窓から北庭が見えた。水槽の方角に局員が二人立っている。足跡の記録をしている。
七歩分の跡の持ち主が昨夜ここにいた。公文書を焼いて、閂を開けて屋敷に入った。内偵部の停職者で、公爵家の台帳の立入許可を持っている。グレゴールが名前を出せない人物だ。
炉の灰の崩れ方を思い出した。複数枚の紙を束ねて燃やした跡。封じの金具は一個だった。一束の公文書のために人が死んだのか、公文書が証拠になる何かを隠すために人が死んだのか、まだどちらかわからない。
内偵部が扱う案件は局内の不正だ。局員の横領か、上位者の規則外の命令か。その記録が台帳の中にあって、ルーファスがそれを掴んでいた。
シリルが内偵部の封じを見た瞬間の、手の止まり方があった。
知っていたか、心当たりがあったか。
廊下の石が冷えている。足の裏から体温が奪われていく。監視札の金属が腕に当たる。逃げられないための道具が、今日は奇妙に頼りになる感触で腕にある。
昨夜の来客が裏口から入って廊下の角に現れた方向がある。黒い外套の裾が消えた先だ。そこから続く廊下を、まだ確認していない。
一時間でシリルが戻る。局員が北庭にいる。屋敷の外には出るなと言われた。廊下の中を歩くことは禁じられていない。
裏口の方角へ歩き出した。
右手の廊下が続いている。窓がなく、ランプが等間隔に並んでいる。昼の光が届かない経路だ。正規の来客を通す廊下ではない。使用人と荷物を動かすための経路だ。
廊下の突き当たりに扉があった。
鍵穴がなかった。引き手だけある。引くと開いた。
向こうは資材置き場だった。棚に布の束、縄、工具が収まっている。普段使いの倉庫だ。奥の壁に小窓がある。外に面した採光窓だ。
小窓の縁に何かあった。
近づいて縁を見た。外側の縁、石の角に繊維が引っかかっている。黒い繊維だ。外套の生地と同じ色だ。小窓の下の床に、砂が落ちていた。外の地面の砂だ。
小窓は内側から錠がかかる形だが、錠が開いている。
窓から外を見た。倉庫の外は裏庭で、塀が近い。塀の際に足跡があった。昨夜の雪の上だ。塀の外から乗り越えた跡、着地の深い窪みが二か所。
裏口ではなかった。
グレゴールが案内した来客と、昨夜搬送路に入った者は、同一人物ではない。
塀を乗り越えて直接倉庫の小窓から入った別の者がいた。
北庭の七歩の足跡の主とも、別の者かもしれない。
昨夜この屋敷に、少なくとも二人が独立して侵入していた。
手首の監視札が鈍く疼いた。体が動けと言っているのか、戻れと言っているのか、区別がつかなかった。
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