裏庭の人影
しばらく不定期更新で進みます。
倉庫の小窓から手を離した。
石の縁に引っかかった繊維は、触れると粗かった。指の腹に毛羽立ちが残る。宮廷服や軍装に使われる素材ではない。もっと実用的な、防寒用の粗い織りだ。生地を引っ張ると繊維がほどけるような、安価な素材。
砂は乾いていた。昨夜の雪で湿った外の地面から運ばれたにしては、乾き方が早い。暖かい室内に時間が置かれた砂だ。着地した直後に窓から入ったのではなく、何時間か前に入った可能性がある。
錠の金具を改めて見た。
錠前の内側に細い線があった。金属の光沢に傷が走っている。外から細い道具を差し込んで開けた跡だ。専用の道具を使うか、錠の構造を知っている者がやる。公爵家の敷地に接した塀を越えて、倉庫の小窓を道具で開ける。昨夜の雪の中で。
今朝、搬送路の隠し扉を探した時と似た技術の痕跡だ。搬送路の扉は古い蝶番で、知っていなければ見つけられない造りだった。この錠は知っていなければ開けられない造りだ。どちらも、屋敷の構造に詳しい者がやった。
棚の並び方を確認した。布の束、縄、工具類。どれも使われた跡がない。物が動かされていない。倉庫に入ったのは通過のためだけで、ここで何かをした形跡はない。
廊下へ出た。
ランプの列が石の床を照らしている。窓のない廊下は昼でも暗い。右から来た道を左へ戻る。足音が石に反響する。
廊下の角に差し掛かったところで、使用人服の女が正面から来た。布の束を抱えている。倉庫へ向かっているらしかった。
「昨夜の夜番は、この廊下を通りましたか」
女が立ち止まった。十代後半で、まだ研修中の様子だ。
「存じません。私は昨夜は厨房の当番でした」
「倉庫の錠前は、いつ確認されますか」
「グレゴール様が朝と晩にご確認されると聞いております」
「ありがとうございます」
道を空けると、女は早足で倉庫の方向へ去った。背中が廊下の暗がりに消えた。
グレゴールが錠前を管理している。
朝の確認でこの錠が開いていたなら、グレゴールは既に知っている可能性がある。今朝ここを確認に来なかったのは、知っていたからか、知らなかったからか。どちらにしても、午前中にグレゴールがこの廊下へ来た形跡はない。
メインの廊下に戻ると、北庭の窓の前でシリルが局員と話していた。外の光の角度から、昼を過ぎたことが分かる。一時間の約束より早い帰りだった。
「倉庫を見ましたか」
こちらへ向きながらシリルが言った。確認ではなく、確定の問いかけだ。
「裏口からではなく、倉庫の小窓から入った者がいました」
シリルの目が一度だけ細くなった。
「窓の石縁に黒い繊維。塀際に二か所の着地の跡。錠前の内側に道具を使った痕跡。倉庫の中で物は動かされていません」
「繊維の素材は」
「粗い織りです。防寒用の外套に使われる素材だと思います。高価なものではない」
「砂の状態は」
「乾いていました。着地してすぐに入ったのではなく、深夜より前に侵入したと思います」
シリルが局員に何かを短く言い、局員が廊下を引き返した。シリルは窓から外を見た。北庭の足跡の記録が続いている。
「搬送路の外部出口と、倉庫の裏の塀。昨夜、二か所から別々に侵入した者がいた」
「はい」
「グレゴールが案内した者と、倉庫から入った者。同一人物の可能性は」
「時刻が合いません。グレゴールが玄関の客を案内したのは第一刻の少し後です。搬送路の外部出口の記録と合わせると、その者は搬送路を通って内側へ入った。倉庫の砂の乾き方は、第三刻以前に入ったことを示している。同一人物が二か所から別々に入るには、動線に無理があります」
「どこで気づきましたか」
「昨夜の来客が消えた廊下の向きです。グレゴールが案内した客が消えた方向は東でした。倉庫は西です」
シリルは窓から顔を離した。
「夜番のリーを呼びます」
リーは厨房の裏の小部屋で待機していた。二十代前半で、背が低く、手が大きかった。椅子に座ると足が床にしっかりついた。
「昨夜の夜番担当区域を教えてください」
「南廊下と厨房横の通路、それから裏庭に出る扉の確認です」
「裏庭を確認した時刻は」
「第三刻と第四刻の二回です」
「第三刻の確認で、異常はありましたか」
リーが大きな手の指を組んだ。
「裏庭に人がいました」
「何をしていましたか」
「塀の際に立って、ランプを持っていました。何かを確認しているようでした。最初は勝手口の周りを見ている屋敷の者だと思いました」
「なぜ警戒しなかったのですか」
「その者の動き方が、慣れていたからです」
シリルが少し前に身を傾けた。
「詳しく言ってください」
「迷っていなかったんです。裏庭の石畳の端を歩いて、水槽の場所を自然に避けた。暗い中でも、どこに何があるか知っているような動き方でした。見知らぬ者が夜に入ってくれば、もう少し不確かな動き方をするはずです」
「顔は」
「外套の帽子を被っていて、見えませんでした」
「背丈は」
「高くありませんでした。性別は判断できませんでした」
「外套の素材は分かりますか」
リーが少し考えた。
「粗い造りでした。縫い目が分厚い感じで、いつも屋敷の者が着るものとは違いました。でも、そのときはそこまで気にしませんでした」
「第四刻に再度確認した時は」
「裏庭に人はいませんでした」
シリルが立ち上がった。
「続きを聞くことがあれば戻ります。通常の当番を続けてください」
「はい」
リーが出た後、扉が閉まって部屋に二人だけになった。
「第三刻から第四刻の間に裏庭にいた。砂の乾き方と時間帯が一致します」
「裏庭の動線を把握していた。水槽の位置まで。あの石畳の配置は、昼間に来ても覚えにくい」
「屋敷の内部に詳しい者か、詳しい者から情報を得た者が、昨夜そこにいた」
シリルが紙を出して何かを書いた。
「錠前の痕跡を写し取ります。錠前師に見せれば、道具の種類が分かる。使える者の範囲が絞れます」
シリルが局員を連れて倉庫へ向かった。
廊下に一人残った。
昨夜この屋敷にいた者を並べる。
グレゴールが玄関から案内した客。名前を出せない者。搬送路を使って、文書を運ぶか確認するかした。
塀を越えて倉庫から入った者。屋敷の構造を知っていた。裏庭を迷わず歩いた。粗い外套を着ていた。
搬送路の足跡を残した、二人がかりの作業。焼かれた文書の束。封じの金具一個。
三つが繋がっているのか、別々なのか。
搬送路の足跡が二人分なら、中にはグレゴールが案内した者と、もう一人がいた。その「もう一人」が倉庫から入った者と同一であれば、まず塀を越えて屋敷に入り、搬送路の者を待ち合わせて文書を焼いた後、裏庭に出て様子を確認してから去ったことになる。
時間の流れとして、矛盾はない。
廊下の遠くでグレゴールが使用人に指示する声がした。午後の業務が動いている。屋敷の時間は止まっていない。
シリルが戻ってきた時、錠前の痕跡を写し取った紙を持っていた。
「内偵部の停職者の照会結果が午後には届きます。それと合わせて絞り込みます」
「照会結果で、屋敷の内部情報を持てる立場の者が特定できれば」
「そうなれば、名前が出ます」
名前。グレゴールが出せなかった名前だ。
廊下の奥から足音が来た。
グレゴールが歩いてきた。歩き方はいつも通りだが、食堂の方向ではなかった。こちらへ向かっている。
「シリル様」
グレゴールがシリルに向かって言った。
「今朝、お話しできなかったことがあります」
シリルの足が止まった。
「聞きます」
「昨夜、第一刻半過ぎに、裏庭の方から物音がしました。小窓を開けて確認したのですが、誰の姿も見えませんでした。ただ、塀の際の雪に何かの痕跡があったように思いました」
「なぜ今まで言わなかったのですか」
グレゴールが制服の縫い目に手を触れた。今朝と同じ動きだ。
「確認できなかったことを申し上げるのは、誤情報になりかねないと思いまして。しかし、リー様への聞き取りの内容が廊下を通じて聞こえましたので」
「廊下に声が漏れる構造は承知の上で話していました」
シリルが一歩前に出た。
「グレゴール。昨夜裏庭で見た者の特徴を、確認できなかったとしても話してください」
「背の低い人物でした。帽子を被っていた。それだけでございます」
「外套の素材は」
「粗い造りでした。光沢がなかった」
沈黙があった。食堂の奥でカトラリーが触れ合う音がした。
「昨夜の第二刻に、下の扉の閂を確認しなかったとおっしゃいました。裏庭の人影に気づいたのが第一刻半であれば、閂を確認しに行く時間はあった」
グレゴールの手が制服の縫い目を強く握った。
「閂の場所まで行く前に、物音がやみました。人影が消えたと判断しました」
「つまり裏庭から消えたことを確認した。消えた後で閂の確認をしなかった」
「はい」
「それはなぜですか」
長い沈黙だった。食堂の音が止んだ。
「わかりません」
声が低かった。
シリルは何も言わなかった。グレゴールが一礼して食堂の方へ戻った。廊下の角を曲がって見えなくなった後も、しばらく足音が続いた。
「グレゴールは裏庭の者を確認していた」
「リーの証言が聞こえたから言いに来たと言いましたが」
「先手を打ったとすれば、疑われる前に同じ情報を出した。背の低い人物、粗い外套。リーの証言と一致している」
「一致するように合わせた可能性は」
シリルが廊下の先を見た。
「グレゴールが案内した客と、倉庫から入った者が繋がっているとすれば、グレゴールはその繋がりを知っているかもしれない。裏庭の者を黙っていたのは、かばっているからかもしれない」
「または、確信がなかったから言わなかっただけかもしれない」
「そのどちらかが、今は分かりません」
廊下の外から、局員の話し声が届いた。北庭の記録がまだ続いている。
窓から午後の光が差している。
雪が解けていた。北庭の足跡が崩れ始めていた。昨夜の痕跡が、時間とともに輪郭を失っていく。七歩の跡も、着地の窪みも、今夜には形が変わる。
名前のない三人の輪郭は、まだぼんやりとしている。
監視札が腕に当たる。金属の温度が体温に近くなっていた。寒い廊下にいる時間が長いはずなのに、冷えていない。体が緊張しているのか、それともこの場所に慣れてきているのか。
シリルが横に並んだ。
「レティシア様が見つけた証拠で、今日の捜査の方向が変わりました」
褒めているのか、確認しているのか、判断がつかない言い方だった。
「倉庫の廊下を選んだのは偶然です」
「その廊下の向きを覚えていたのは偶然ではない」
答えなかった。
午後の照会結果が届けば、名前が出るかもしれない。名前が出れば、グレゴールが案内した客の正体に近づく。倉庫から入った者の素性が繋がれば、昨夜の二つの侵入が同じ目的に向かっていたかどうかが分かる。
それまでは三人が名前のない影のまま、昨夜の屋敷を動き回り続ける。
雪が解けている。足跡が崩れている。
手首の監視札が、今日初めて、重さより温かさで腕に当たっていた。
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