夜の筆跡
しばらく不定期更新で進みます。
蝋燭を一本だけ残した。三本あった燭台のうち、窓から一番遠い一本だ。理由を問われれば答えられないが、真っ暗よりも光が一点ある方が頭が動く。
手首の監視札は冷えていた。暖炉の火が落ちると石の温度が伝わってくる。それでも痛みはない。ただ夜は動きが少ないから反応しないだけだという気がした。
記録板の図形を思い浮かべる。
直線と斜線。端の縦線が二本。
見た、ではなく使った、に近い馴染みだった。手が動きを覚えている種類の記憶だ。どこかで自分がこの記号を書いた、あるいは読んだ。この身体ではない。日本にいたときだ。
ただし日本に魔法はない。だから記号そのものではなく、形式が同じなのだろう。管轄区分のための印とシリルは言った。何かを区画に分けて、それぞれに記号で印をつける。その発想は現代にもある。消防設備の点検記録でも、倉庫の棚番でも、どの区画かを示す記号は直線と角度の組み合わせになる。
棚番だ。
腹の底が静かに固まった。
黒檻台帳は人の名前を管理する記録ではない。区画を管理する台帳だ。人の名が載っているのは、区画ごとに誰が立入許可を持つかを記録しているからだ。記録板の図形は区画番号に相当する符号で、公爵の書斎の帳簿の表紙裏にも同じ形が書き込まれていたのなら、書庫の棚から抜かれた本冊とその帳簿は、同じ区画に属する記録だ。
区画の実体が、搬送路だとすれば。
蝋燭が微かに揺れた。暖炉の残り火が落ち着いたからだ。部屋の空気が動いたわけではない。
シリルは絵図を持ってから降りると言った。書斎の帳簿に絵図があるのならそれが正しい。ただし今夜侵入すれば証拠として使えない、とも言った。昨夜の侵入者が書庫の台帳を持ち出した後、次に向かったのが書斎ならば。今夜のうちに書斎へも手が伸びていたとすれば。
明朝、正規の手続きで入ったとき、帳簿が残っている保証はないとシリル自身が言っていた。
足が寝台から床に下りていた。
廊下の局員に声をかけたのは、グレゴールの部屋の場所を聞くためだけだった。
「老執事は三時頃から起きておいでです。給仕棟の突き当たり、厨房に隣接した部屋です」
三時から、という部分が引っかかった。
廊下の絨毯が薄くなる区画へ入ると、足音が石に直接響く。局員が背後からついてくる。監視札は冷たいが痛みはなかった。給仕棟の突き当たりの扉の下から、光が漏れていた。
ノックした。
「開いています」
眠れないというより、起きているつもりで起きている声だった。
グレゴールは小さな機の前に座っていた。機の上に書き物がある。こちらへ顔を向けたとき、手をその上に重ねた。反射ではなく、手の届く位置に置いていたことを示す動き方だった。
「眠れませんでしたか」
「考えていました」
席を勧められた。暖炉の脇の椅子に老執事が移ったので、機の前の椅子に座る。ランプの光が書き物の端を照らした。紙に文字が並んでいる。細かく、隙間なく。
「記録板の図形が棚番だとすれば、書庫の台帳と書斎の帳簿は同じ区画に属します。区画の実体が搬送路なら、黒檻台帳は地下経路の管理台帳です」
グレゴールの目が動かなかった。
「答えたくなければ構いません。ただ書斎の帳簿に搬送路の絵図が含まれているなら、今夜それが持ち出されている可能性があります。明朝のシリルの調査より先に、伝えておくべきことがあれば今の方がいい」
暖炉の残り火が一度音を立てた。老執事の手が杖の柄を握り直した。
「搬送路は、ございます」
声は低く、落ち着いていた。
「地下の経路です。厨房から北庭の外れまで、屋敷を横断する形で通っております。かつては食材の運搬に使っておりましたが、十年ほど前から使われていない」
「十年前から」
「はい。旦那様が書斎を封じた頃と、ほぼ同時でございます」
公爵が封鎖を選んだ。搬送路の使用をやめ、書斎に鍵をかけた。そこまでは意図があった。
「黒檻台帳は搬送路の区画管理台帳ですか」
長い間があった。機の上の書き物を一度だけ見て、老執事は頷いた。
「黒檻とは区画の名でございます。地下経路を幾つかの区画に分けて管理するために作られた台帳です。各区画の鍵の所在、保守の記録、立入許可者の名を記したものでした。最初は単なる管理の記録でしたが……立入許可者の中に、後に問題となる方がおられました」
「王立の人間」
「旦那様が生前に許可された方でございます。ただ後にその方が、王立のある立場から離れ……別の立場で動くようになった後も、台帳には名が残ったままで」
「消せなかった」
「旦那様は消すことを選ばれませんでした。なぜかは最後まで伺えませんでした。消すことで証拠を失うより、残すことを選ばれたのかもしれません。あるいは相手を縛るために」
名前を残す。それは交渉の駒にもなる。あるいは保険だ。
「ルーファス様はその名を知っていましたか」
「存じません。ただ若様は、ここひと月、書斎の鍵を渡されない理由を繰り返しお聞きになっておいででした。旦那様の遺志として渡さないよう言われていたのは私でしたが、理由をお伝えしませんでした」
ルーファスは書斎へ入ろうとした。鍵が渡されないから、搬送路を探した。搬送路への入口が西塔の書庫の書架の裏にある螺旋階段だとわかって、夜に入り込んだ。
書架の裏まではたどり着いた。しかし台帳は書庫の棚にあった。持ち出そうとしたところを誰かに見られた、あるいは呼び出した者に待ち伏せされた。
「書庫に台帳があることを、ルーファス様に教えた人間がいます」
グレゴールは否定しなかった。
「その人間のことは言えますか」
「私には言えません」
言えない。知らないではない。
それ以上は押さなかった。老執事が一晩かけて書いていたものが何かは、もうわかっていた。
部屋を辞したのは空が白み始める少し前だった。
廊下に出ると局員がまだそこにいた。
「シリルには朝に話します。搬送路の概要を確認しました、とだけ伝えておいてください」
局員は頷いた。
窓の外、庭の雪が青白く光り始めていた。轍の跡はもう見えなかった。昨夜のうちに埋もれたか、雪が新しく積もったかのどちらかだ。
黒檻の区画に立ち入った王立の人間。その名は台帳に残っている。写しは燃やされ、本冊は持ち出された。書斎の帳簿も今夜消えたとすれば、残るのはグレゴールの記憶だけだ。
老執事が三時から起きていた。機の上の書き物。隙間なく並んだ細かい文字。
燃やされる前に書き写す時間を、一晩かけて作っていたのだ。
朝の光が廊下に入った頃、書斎の前に局員が三人いた。
シリルが正規の手続きの書類を手に持ち、公爵家の管財人と並んで扉の前に立っていた。こちらに気づいて短く視線を送ってくる。
「搬送路の概要を確認しました。老執事から聞きました。シリルに全部話します」
シリルの目が一瞬動いた。片眼鏡の青光が監視札を確認してから顔に戻る。
「昨夜、同行した局員がいたか」
「います」
「入る前に一つ」
扉の前の局員へ目を向けた。
「昨夜、書斎の封印に異常はなかったか」
「外からの封印は無事です」
外から、という部分をシリルは聞いた。一瞬の間があった。
「内部から入る経路があります。搬送路の話です」
それだけでシリルは頷いた。扉の施錠が解かれた。
書斎の空気は澱んでいた。封鎖されて長い部屋の匂いだ。埃と古い紙と、それから、数時間以内の呼吸の匂いが混じっていた。
壁の書棚のうち、一か所だけ本の並びが変わっていた。書庫の書架と同じ、内側から圧を加えて戻した跡の歪み方だ。
機の上は空だった。中央の引き出しが数寸だけ開いていた。鍵穴に傷はない。内側から開けた跡だ。
「帳簿はありません」
シリルが確認して言う。
「引き出しの底に窪みがあります。長期間、同じ物を入れていた跡です」
窪みの縦横を見た。記録板の図形ではなく、台帳そのものの形だ。
「帳簿が昨夜まで、ここにありました」
「搬送路の経路図も含めて持ち出されました。ただし」
シリルが振り向いた。
「老執事が昨夜、何かを書き写していた可能性があります」
眼が細くなった。しかし否定はしなかった。
「確認します」
それだけで書斎を出た。廊下で局員に指示を出している。その間、書棚の歪んだ一角を見ていた。
誰かがここの帳簿を持ち出した。それがルーファスを呼び出した者と同じ人間かどうか、まだわからない。同じ目的で動いた別の人間という可能性もある。黒檻の名前を知りたい者が一人だとは限らない。
監視札が腕の中で一度だけ温かくなった。痛みではなく、体温が上がったからだ。
手元にあるのは断片だけだ。ただ昨日より多い。今日は地図を持って降りられるかもしれない。
朝の光が書斎の窓枠を白く縁取った。雪はまだ降り続けていた。
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