第四話 王妃の影を演じた女
第四話 王妃の影を演じた女
## 一 枢機卿の願い
ヴェルサイユ宮殿には、王妃に会いたい人間が大勢いた。
王妃に一言、声をかけてもらいたい者。
王妃に名前を覚えてもらいたい者。
王妃の近くに席を得て、国王の耳に自分の言葉を届けたい者。
そして、王妃の機嫌を損ねたことを、何年たっても忘れられない男がいた。
ルイ・ド・ロアン枢機卿。
名門ロアン家の出身であり、聖職者として高い地位にあり、かつてはウィーンのフランス大使を務めた人物である。
その肩書だけを見れば、彼は宮廷で何不自由なく暮らせるはずだった。
しかし、ロアンには一つ、どうしても手に入らないものがあった。
マリー・アントワネットの信頼である。
かつてロアンは、オーストリア宮廷に関わる立場にあった。そのころの言動や、女帝マリア・テレジアに関する不適切な発言などが問題となり、彼は王妃の不興を買っていた。
王妃にとって、ロアンは好ましい人物ではなかった。
母マリア・テレジアからも、軽々しく信用してはならない相手だと警戒されていた。
ロアンは、そのことを知っていた。
知っていたからこそ、何とかして関係を修復したかった。
王妃の信頼を取り戻せば、宮廷での立場も回復する。
国王の側近として、より大きな役割を担えるかもしれない。
彼が求めていたのは、単なる謝罪の機会ではなかった。
失った栄光を取り戻すための、入口だった。
ところが、その入口は、王妃自身によって閉ざされていた。
正面から訪ねても、歓迎される見込みはない。
書簡を送っても、返事が来る保証はない。
ならば、どうすればよいのか。
そんなロアンの前に、一人の女が現れた。
ジャンヌ・ド・ラ・モット。
彼女は、自分には王妃に近づくための特別なつながりがある、と語った。
そしてロアンに告げた。
「枢機卿猊下。王妃陛下は、あなたを永遠にお許しにならないと決めたわけではありません」
その言葉は、ロアンが何年も待ち望んでいた知らせだった。
「あなたには、王妃陛下のお気持ちを変える機会がございます」
ジャンヌは、そう言った。
ロアンは彼女を見つめた。
「あなたは、王妃にお会いしているのか」
ジャンヌは、ためらわなかった。
「ええ。少なくとも、あなたが思っていらっしゃる以上に、王妃陛下のお心に近いところにおります」
その答えが真実であるかどうか。
ロアンは、十分に確かめなかった。
いや、確かめたくなかったのかもしれない。
人間は、ときに嘘を信じるのではない。
信じたい願いに、嘘の形を与えるのである。
## 二 届いた返事
最初の手紙は、慎重なものだった。
ロアンはジャンヌに、自分の立場と、王妃に対する忠誠を伝える文面を託した。
王妃の不興を買ったことを悔いている。
もし許されるならば、再び王妃のために働きたい。
かつての言動について、誤解があるのならば解きたい。
そうした内容だった。
数日後、ジャンヌは返事を持ってきた。
王妃の言葉だという。
ロアンは封を開いた。
そこには、彼を完全には拒絶しないという趣旨の文章が記されていた。
少なくとも、ロアンにはそう読めた。
彼は何度も読み返した。
一度目には、警戒しながら。
二度目には、期待を込めて。
三度目には、すでに許された人間のような気持ちで。
「王妃陛下は、私をお許しくださるのか」
「その可能性はございます」
ジャンヌは静かに答えた。
「ただし、宮廷には耳の早い人々が大勢おります。王妃陛下のお気持ちが定まるまで、事を急がないほうがよろしいでしょう」
それは、もっともらしい助言だった。
宮廷では、誰かが誰かに近づいただけで噂になる。
まして、王妃と枢機卿の関係となれば、どんな話に変わるか知れない。
秘密にする必要がある。
そう言われれば、ロアンも納得せざるを得なかった。
やがて、手紙のやり取りは続いた。
ロアンが書き、ジャンヌが届ける。
そして、王妃からの返事だという手紙が戻ってくる。
それは、王妃の意向を伝えるものとして、少しずつロアンの心に入り込んでいった。
彼は、その筆跡を確かめたのだろうか。
差出人の署名を、疑ったのだろうか。
後になって考えれば、疑問を差し挟む余地はいくつもあった。
しかし、そのときのロアンにとって、最も重要だったのは、手紙の真正性ではなかった。
王妃が自分を拒絶していない。
そう信じられることだった。
彼は、長いあいだ閉ざされていた扉の向こうに、自分の居場所が戻ってくるのを感じていた。
そして、ジャンヌは、その希望を決して一度に与えなかった。
少しだけ与えた。
足りなくなれば、もう少し与えた。
人間が自分から一歩を踏み出すには、ほんのわずかな希望で十分なのだ。
## 三 夜の庭園
一七八四年八月。
ジャンヌは、ロアンに一つの知らせを伝えた。
「王妃陛下が、あなたにお会いくださるそうです」
ロアンは言葉を失った。
「本当に?」
「ただし、誰にも知られてはなりません」
それは、王妃の名誉を守るためだという。
宮廷の噂を避けるため。
余計な誤解を生まないため。
そして、何よりも、二人のあいだに残されたわずかな信頼を守るため。
ロアンは、その説明を疑わなかった。
指定された夜、彼はヴェルサイユの庭園へ向かった。
夜の庭園は、昼間とは別の場所だった。
噴水の水音も遠く、木々の枝は暗闇の中に溶け込んでいる。
宮殿の窓から漏れる光が、ところどころに小さな明かりを作っていた。
ジャンヌに案内された先で、ロアンは一人の女性を見た。
顔ははっきりとは見えない。
夜の薄暗さ。
衣服の陰影。
そして、秘密の逢瀬に臨む者の緊張。
それらが、彼の判断を鈍らせていた。
女性は、王妃に似た姿をしていた。
ロアンは、胸の鼓動が速くなるのを感じた。
「陛下……」
彼は、そう呼びかけた。
女性は、彼に近づいた。
ロアンは、一輪のバラを差し出した。
それは、王妃への敬意を示すための、小さな贈り物だった。
女性はバラを受け取った。
そして、短い言葉を告げた。
過去のことは、忘れましょう。
もう一度、希望を持ってもよいでしょう。
その言葉が、本当に彼女の口から発せられたものだったのか。
後世に伝えられた細部には、証言や記録による違いがある。
しかし、ロアンがその夜、自分は王妃と和解したのだと信じたことは、この事件を理解するうえで重要だった。
彼にとって、その短い時間は、失われた名誉が戻ってくる瞬間だった。
女性の顔を、もっとよく見るべきだったのかもしれない。
声に違和感がないか、確かめるべきだったのかもしれない。
しかし、人は、長いあいだ待ち望んでいたものを目の前にすると、それが本物かどうかを確かめるより先に、手に入れたと信じてしまうことがある。
ロアンは、その夜、希望を持ち帰った。
一方、女性は闇の中に消えていった。
彼女の名は、ニコル・ルゲ。
王妃本人ではない。
ジャンヌが王妃に似ている女性として用意した人物だった。
少なくとも、この夜の出来事について伝えられているのは、そういう筋書きである。
王妃の姿を借りた女。
王妃の名を信じた男。
そして、その二人を結びつけた女。
誰もが、何かを演じていた。
ただ一人、王妃本人だけが、その舞台に立っていなかった。
## 四 王妃の名前
その後も、ジャンヌはロアンの希望を支え続けた。
王妃はあなたのことを気にかけている。
王妃は、あなたの誠意を理解し始めている。
今はまだ公然と動くべきではない。
そうした言葉が、ロアンの心を少しずつ満たしていった。
そして、やがて金銭の話が持ち出されるようになった。
王妃には、表立って行えない慈善のための支出がある。
王妃の名誉を守るため、秘密裏に処理しなければならないことがある。
そう説明されれば、ロアンには、王妃に役立つ機会を与えられたように思えた。
彼は金を渡した。
一度だけではなかった。
金銭がどこへ向かい、何に使われたのか。
その説明を、彼はどこまで確かめたのだろう。
王妃のためだと信じた金が、実際にはジャンヌの生活や野心を支えていたとしても、ロアンはすぐには気づかなかった。
彼は王妃の信頼を取り戻そうとしていた。
ジャンヌは、王妃の信頼が存在するように見せかけていた。
二人は同じ言葉を使いながら、まったく違う場所を見ていたのである。
ジャンヌの周囲には、夫のニコラ・ド・ラ・モットや、手紙の偽造に関わったレトー・ド・ヴィレットらがいた。
事件は、一人の女の思いつきだけで動くものではなかった。
人間の欲望に、人間の技術が結びつく。
そこへ、名門の肩書と、王妃の名前が加わる。
そうなれば、嘘は一個人の言葉を離れ、社会の中を歩き始める。
そして、社会の中を歩く嘘は、時として本当のことよりも強い力を持つ。
なぜなら、人々は事実を確かめる前に、その話を信じる理由を見つけてしまうからだ。
浪費家だと噂される王妃。
王妃に嫌われた枢機卿。
王妃の友人だと名乗る女。
それぞれの人物には、それぞれの評判があった。
ジャンヌは、その評判を利用した。
ロアンは、その評判の隙間に希望を見た。
そして、マリー・アントワネットは、まだ何も知らなかった。
彼女の名前が、彼女の知らない場所で使われていることを。
彼女の意思とは無関係に、彼女のためだという名目で金銭が動いていることを。
彼女が断った首飾りが、再び彼女の人生へ近づいていることを。
## 五 消えない署名
パリの宝石商、ベーマーとバッサンジュは、長いあいだ首飾りの買い手を探していた。
二人が扱っていたのは、六百個以上のダイヤモンドを組み合わせた、途方もなく高価な首飾りである。
かつてルイ十五世の愛妾、デュ・バリー夫人のために構想された品だったが、国王の死によって計画は実現しなかった。
宝石商たちは、首飾りを売らなければならなかった。
あまりに高価な品を抱え続けることは、商売上の大きな負担だった。
そして、その首飾りを王妃に勧めたこともあった。
しかし、マリー・アントワネットは購入を断っていた。
彼女は、宝石商の申し出を受け入れなかった。
その事実は、首飾りの売却をめぐる話が、すでに一度、王妃の前を通り過ぎていたことを意味する。
それなのに、首飾りは、再び王妃の名と結びつこうとしていた。
ジャンヌは、その事情を知っていた。
ロアンも、首飾りが高価な品であることを知っていた。
彼らのあいだで、首飾りの購入を王妃のために取り計らうという話が進んでいく。
王妃が本当に欲しがっているのか。
王妃が本当に購入を命じたのか。
それを確かめるための、最も確実な方法があった。
王妃本人に尋ねることだ。
だが、それをすれば、これまで積み重ねてきた秘密は崩れてしまう。
ジャンヌは、ロアンが王妃の意思を疑わないことに賭けた。
ロアンは、ジャンヌが王妃の意思を伝えていると信じた。
そして宝石商たちは、王妃の名が関わっていると聞けば、長年売れなかった首飾りを手放せるかもしれないと期待した。
誰もが、自分に都合のよい未来を見ていた。
しかし、その未来の中心にいるはずの女性は、そこにいなかった。
マリー・アントワネットは、首飾りを注文していない。
少なくとも、彼女が自ら注文したという事実は確認されていない。
それでも、彼女の名前は、書簡の中に現れようとしていた。
署名は、本人が書かなくても作れる。
言葉は、本人が口にしなくても伝えられる。
そして、いったん誰かの名前が嘘の中に組み込まれると、その人間は、自分の知らない行為について説明を求められることになる。
王妃の名前は、王妃の手を離れようとしていた。
その名前が、いつ、どのように、首飾りの取引を動かすことになるのか。
それを知る者は、まだ多くなかった。
そして、王妃本人は、まだ何も知らなかった。
一七八四年の夜の庭園で、ロアンが見た女性。
その女性が手にしたバラ。
ジャンヌが運んだ手紙。
そして、買われることのなかった首飾り。
それらは、やがて一つの事件へと結びついていく。
だが、事件が明るみに出たとき、人々が最初に尋ねるのは、首飾りを誰が盗んだのか、ということだけではないだろう。
人々は、もっと簡単な答えを求める。
誰が悪かったのか。
誰が恥をかくべきなのか。
誰に責任を負わせれば、この奇妙な事件を理解したことになるのか。
そして、その問いに対する答えとして、王妃の名前が選ばれることになる。
まだ、何も知らない王妃の名前が。
そのとき、首飾りは単なる宝石ではなくなっていた。
それは、欲望を映す鏡であり、嘘を運ぶ器であり、そして、歴史が一人の人間に何を背負わせるのかを試す、危険な道具になりつつあった。
マリー・アントワネットは、首飾りを断った。
しかし、首飾りは、彼女を断ってはくれなかった。




