第三話 王妃が断った宝石
第三話 王妃が断った宝石
その首飾りは、王妃のために作られたはずだった。
少なくとも、宝石商たちはそう信じていた。
いや、そう信じたかったのかもしれない。
無数のダイヤモンドを連ねた、途方もなく高価な首飾り。
それは、ただ美しいだけの宝石ではなかった。
王侯貴族の富を示し、身につける者の権威を飾り、所有する者の名を後世に残すための品だった。
しかし、その首飾りは、長いあいだ持ち主を得られなかった。
そして、やがて一人の王妃の名を背負い、フランス王政を揺るがす事件の中心へと転がり込んでいく。
*
話は、マリー・アントワネットが王妃になる前の時代にさかのぼる。
フランス国王ルイ十五世の宮廷では、豪華な宝石は単なる装飾品ではなかった。
王の寵愛を受けること。
宮廷での地位を示すこと。
他の誰にも手に入れられない品を所有すること。
宝石には、そうした欲望が幾重にもまとわりついていた。
二人の宝石商、シャルル・オーギュスト・ベーマーとポール・バッサンジュも、その欲望をよく知っていた。
彼らは、王侯貴族の注文を見込んで、高価な宝石を集め、加工し、時には莫大な資金を投じて商品を用意した。
売れれば大きな利益になる。
だが、売れなければ、宝石は美しいまま、借金と不安を生む重荷になる。
この首飾りも、そんな危険を抱えた品だった。
当初、ルイ十五世が、寵愛する女性マダム・デュ・バリーのために購入することを検討したと伝えられている。
王の寵愛を受ける女性にふさわしい、並外れた豪華さ。
それこそが、この首飾りに求められたものだった。
ところが、計画は実現しなかった。
1774年、ルイ十五世が死去したのである。
王がいなくなれば、王の寵愛を受けていた女性の立場も変わる。
新しい王、ルイ十六世が即位すると、宮廷の人間関係も、政治の空気も、少しずつ変化していった。
デュ・バリーは宮廷の中心から遠ざかり、宝石商たちは、巨額の費用をかけて用意した首飾りを抱えたままになった。
ダイヤモンドは輝いていた。
だが、買い手がいなかった。
宝石商たちは、あきらめるわけにはいかなかった。
首飾りを売らなければ、投じた資金を回収できない。
王族に売れれば、名誉も利益も得られる。
そこで彼らが目を向けたのが、新しい王妃だった。
マリー・アントワネット。
オーストリアから嫁いできた、若く華やかな王妃。
彼女ならば、この首飾りにふさわしい。
そう考えたのだろう。
だが、宝石商たちの期待は、思いどおりにはならなかった。
*
マリー・アントワネットがフランスへ嫁いだのは、1770年。
まだ十四歳だった。
異国の宮廷で、彼女はフランス王太子妃としての役割を学び、やがて王妃となった。
母マリア・テレジアは、遠く離れた娘の暮らしを心配していた。
母の目から見れば、娘はまだ若く、宮廷の複雑な人間関係や、王族の振る舞いが持つ政治的な意味を、十分に理解しているとは言いがたかった。
華やかな衣装。
舞踏会。
賭博。
贈り物。
それらは若い王妃にとって、宮廷生活を彩る楽しみだったかもしれない。
しかし、母にとっては、娘の評判を危うくしかねないものでもあった。
王妃の行動は、本人が考える以上に、多くの人々に見られていた。
贅沢をすれば、浪費と批判される。
誰かと親しくすれば、その関係をめぐって噂が立つ。
何かを拒めば、傲慢だと受け取られることもある。
王妃には、自由があるように見えた。
けれども、その自由は、宮廷の人々の視線から切り離されてはいなかった。
それでも、マリー・アントワネットは、自分の好みを持つ一人の女性だった。
華やかなものを好んだことも事実である。
衣装や装飾品に多くの金を費やしたことも、否定できない。
だからといって、彼女が目の前に差し出される高価な品を、すべて買い求めたわけではなかった。
首飾りの話が持ち込まれたとき、彼女は購入を望まなかった。
宝石商たちにとって、それは大きな失望だった。
彼らが用意したのは、並外れた品だった。
ダイヤモンドを惜しみなく使い、王族の威光を飾るために作られた、まさに王妃にふさわしい首飾り。
それなのに、王妃は手に取ろうとしなかったのである。
なぜか。
彼女は、ダイヤモンドに興味がなかったのだろうか。
そんなはずはない。
王妃は宝石を好んでいた。
では、値段が高すぎたのか。
それも理由の一つだった可能性はある。
だが、問題は金額だけではなかった。
王妃が首飾りを買えば、その購入は宮廷の噂になる。
王室の財政を心配する人々の目にも触れる。
王妃の贅沢を批判する者たちに、新たな材料を与えることにもなる。
そして、この宝石には、かつての国王とデュ・バリーをめぐる過去がまとわりついていた。
新しい王妃が、それを自分のものにする必要はなかった。
彼女が購入を断った理由を、一つだけに決めることはできない。
けれども、少なくとも、王妃が豪華な宝石を好んだからといって、どんな宝石でも欲しがったと考えるのは間違いだった。
王妃は断った。
その事実が、やがて奇妙な皮肉を生むことになる。
彼女が買わなかった首飾りによって、彼女の名が傷つけられていくのだから。
*
宝石商たちは、首飾りを売ることをあきらめなかった。
王妃が断ったからといって、首飾りの価値が消えるわけではない。
ダイヤモンドは、依然として美しかった。
その輝きは、誰かの欲望を刺激し続ける。
そして、欲望は時として、事実よりも強く人を動かす。
首飾りを手に入れたい者。
王妃に近づきたい者。
宮廷での地位を取り戻したい者。
巨額の利益を得たい者。
それぞれの思惑が、やがて一つの場所に集まっていく。
その中心にいたのが、ロアン枢機卿だった。
彼は高位聖職者であり、王族に近い地位を望んでいた。
しかし、マリー・アントワネットとの関係は、彼が期待するようなものではなかった。
王妃から信頼されたい。
王妃に認められたい。
その思いは、彼を危うい立場へと導いていく。
さらに、そこへ一人の女が現れる。
ジャンヌ・ド・ラ・モット。
彼女は、王妃とのつながりを装うことで、ロアン枢機卿の願望を利用しようとする。
王妃本人が首飾りを断ったという事実は、すでに過去のものになっていた。
だが、その事実を知っていることと、その事実を信じ続けることは違う。
人は、自分が望む答えを見つけると、疑うべきところを疑わなくなることがある。
王妃が本当に自分を認めてくれたのなら。
王妃が本当に自分を頼っているのなら。
そう信じたい気持ちが、確かめるべき事柄を見えなくしていく。
ロアン枢機卿は、王妃の意思を確かめることができたはずだった。
しかし、彼は別のものを信じることになる。
王妃の名を借りた言葉。
王妃の意思であるかのように示された証拠。
そして、王妃に近づけるかもしれないという期待。
首飾りは、まだ彼の手に渡っていない。
だが、事件はすでに動き始めていた。
*
1901年。
プチ・トリアノンの庭園を歩いた二人のイギリス人女性は、まだ、この首飾りの謎を知らなかった。
彼女たちが調べることになるのは、過去の風景だけではない。
歴史に残された記録。
人々の証言。
そして、ある女性の名に結びつけられた、あまりにも強固な物語だった。
首飾りは、王妃が断った。
それなのに、なぜ王妃の名が事件の中心に置かれることになったのか。
その答えを探すには、首飾りを売ろうとした者たちだけでなく、首飾りをめぐって何かを信じた人々の心も、見つめなければならない。
霧の向こうに、まだ姿の見えない女がいる。
彼女は、何を知っていたのだろう。
そして、何を知っているふりをしたのだろうか。




