第十二話 首飾りは、誰の首にも掛からなかった
第十二話 首飾りは、誰の首にも掛からなかった
物語には、肉づけが必要だ。
歴史書に書かれた日付と人名を、そのまま並べただけでは、読者はなかなか夢中になれない。
誰が、何を欲しがったのか。
なぜ、その人は嘘をついたのか。
どんな思いで、その一言を口にしたのか。
そうしたものが加わると、過去の人間は、急に生きているように見えてくる。
私は、アレクサンドル・デュマの小説を思い出していた。
『王妃マルゴ』。
宗教対立と宮廷政治の渦巻く十六世紀フランスを舞台に、歴史上の人物たちが愛し、疑い、裏切り、陰謀をめぐらせる。
デュマは、歴史を年表のまま読者に渡す作家ではなかった。
歴史を、物語に変える作家だった。
それは、文学の力である。
しかし、私は、そこで一度立ち止まらなければならなかった。
物語として面白いことと、史実として正しいことは、同じではない。
*
「デュマは、歴史を面白くするために、人物を動かした。会話を作り、場面を組み立て、心理を描いた。でも、それを読んだ人が、すべて実際に起きたことだと思ったら?」
私は、机の向こうにいる彼女に尋ねた。
「小説を歴史資料として読んでしまう、ということ?」
「そうです」
「それは、小説の責任だけではないでしょうね。読む側が、何を読んでいるのかを区別する必要もある」
彼女は、そう言ってから、机に広げた一枚の資料を指さした。
そこには、マリー・アントワネットの名があった。
「この王妃についても、似たことが起きているのかもしれないわね」
私は、首飾りの図版を見た。
ダイヤモンドを幾重にも連ねた、豪華な首飾り。
この宝石をめぐる事件は、王妃の浪費を象徴する逸話として語られることが多い。
だが、事件の記録をたどると、よく知られたイメージとは異なる事実が見えてくる。
宝石商のボーマーとバッサンジュは、もともとルイ十五世の愛妾デュ・バリー夫人に売ることを想定していた首飾りを抱えていた。
ところが、ルイ十五世が亡くなり、その計画は実現しなかった。
高価な首飾りは、売れ残った。
宝石商たちは、その処分に苦慮した。
そして、そこに現れたのが、ジャンヌ・ド・ラ・モットだった。
*
ジャンヌは、王妃の名を利用した。
ロアン枢機卿は、王妃との関係を回復したいという思いもあって、ジャンヌの話を信じるようになった。
王妃が首飾りを望んでいる。
その購入を、自分が仲介できる。
そう信じ込ませることが、計画の核心だった。
ジャンヌは、王妃に似た女性ニコル・ルゲー・ドリヴァを使い、夜の庭園で王妃との面会を装う芝居を仕組んだ。
実際には、王妃本人がそこにいたわけではない。
それでも、ロアンは、自分が王妃との関係を取り戻す機会を得たと信じた。
首飾りは、王妃の名のもとに動き始めた。
しかし、王妃自身は、その購入を注文していなかった。
彼女は、首飾りを買うことを断っていたのである。
ここで、私は資料を閉じかけて、もう一度開いた。
事件の名前は、首飾り事件。
人々が思い浮かべるのは、贅沢な王妃が高価な宝石を欲しがり、国の財政を顧みずに騒動を起こした、という筋書きかもしれない。
だが、その筋書きに従うと、事件の核心が見えなくなる。
王妃が注文していないものを、王妃が注文したことにして売買が進められた。
その名を利用した人間がいて、それを信じた人間がいた。
首飾りが動いたのは、王妃の欲望によってではなく、王妃の名が信用を生み出す道具として使われたからだった。
*
「でも、マリー・アントワネットが浪費家だったことは、事実でしょう?」
私は言った。
「そうした批判には、検討すべき根拠があるわ。王妃の支出も、宮廷生活も、当時の人々の不満も、きちんと調べる必要がある」
「なら、首飾り事件も、その延長に見えてしまいますよね」
「見えてしまう、ということと、証拠があるということは違うの」
私は黙った。
すでに悪い評判を持っている人物がいる。
その人物の名前が、新しい事件に登場する。
すると、人々は、以前からの印象を使って、新しい事件の意味まで決めてしまう。
浪費家なのだから、首飾りを欲しがったに違いない。
王妃なのだから、何をしても許されると思っていたに違いない。
そうした想像は、物語としてなら、筋が通っているように見える。
だが、歴史を調べるときには、その筋のよさが危険になる。
人間は、ばらばらの事実よりも、ひとつにつながった物語を好む。
誰かが欲望に負けた。
誰かが嘘をついた。
誰かが罰を受けた。
そういう筋書きは、わかりやすい。
しかし、現実の事件は、必ずしもわかりやすい形をしていない。
*
私は、もうひとつの有名な逸話を思い出した。
「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」
フランス語では、「Qu’ils mangent de la brioche」。
厳密には、ここでいう *brioche* は、現代の日本語でいう一般的な「お菓子」とは少し違う。バターや卵を使ったパン菓子、ブリオッシュのことだ。
この言葉は、マリー・アントワネットの無理解や冷酷さを象徴するものとして、繰り返し語られてきた。
けれど、彼女が実際にそう発言したという確かな証拠はない。
ルソーの『告白』には、パンを持たない人々にブリオッシュを食べさせればよい、という趣旨の逸話が登場する。
しかし、その逸話が記された部分で、ルソーは発言者をマリー・アントワネットだとは述べていない。しかも、その文章が書かれた時期には、彼女はまだ幼い子どもだった。
後世の人々が、この言葉と王妃の名を結びつけたのである。
もちろん、だからといって、当時の王侯貴族が民衆の生活を十分に理解していたと証明されるわけではない。
フランスには、深刻な財政問題があった。
税負担の不公平があり、食料事情への不安があり、特権を持つ人々に対する反発があった。
そうした不満には、現実の理由があった。
だが、社会の不満に理由があったことと、特定の人物が特定の言葉を口にしたことは、別の問題だ。
民衆の苦しみを描くために、王妃に言わせた言葉があったとしたら。
その言葉が、物語としてあまりにもよくできていたために、いつしか本人の発言として定着してしまったとしたら。
そこには、物語が持つ力と危うさが、同時に現れている。
*
「では、マリー・アントワネットは、何も悪くなかったんですか?」
私は、彼女に尋ねた。
「そういう結論を出す必要はないでしょう」
「でも、彼女を擁護する話になってしまいませんか」
「事実を確かめることと、擁護することは同じではないわ」
彼女は、首飾りの図版を私のほうへ向けた。
「王妃には、王妃自身の判断があった。支出についても、政治的な振る舞いについても、批判的に検討できる。でも、本人が注文していない首飾りまで、彼女の責任にすることはできない。本人が言ったと確認できない言葉を、本人の言葉として扱うこともできない」
私は、図版を見つめた。
そこに描かれた首飾りは、いまも光を放っているように見えた。
ダイヤモンドは、光を反射する。
その光が、誰かの欲望を照らすこともある。
誰かの虚栄を照らすこともある。
そして、誰かが仕組んだ嘘を、まるで真実であるかのように輝かせてしまうこともある。
宝石は、何も語らない。
語るのは、いつも人間だった。
*
一七八六年、首飾り事件の裁判で、ロアン枢機卿は無罪となった。一方、ジャンヌ・ド・ラ・モットは有罪となり、処罰された。
しかし、裁判の結果だけで、王室への不信が消えたわけではなかった。
事件によって傷ついた王妃の評判は、その後も長く残った。
そして、王妃の名は、実際の事件を越えて、浪費と傲慢の象徴として語られるようになっていく。
歴史上の人物は、本人が生きているあいだだけ、評判に苦しむわけではない。
死後も、さまざまな物語の中で、何度も別の姿を与えられる。
勇敢な英雄にされることもある。
冷酷な悪人にされることもある。
悲劇の犠牲者にされることもある。
そのどれもが、部分的な事実を含んでいる場合もあるだろう。
だが、部分的な事実を集めた結果、全体として正確な人物像になるとは限らない。
むしろ、ある人物をひとつの役割に押し込めるほど、その人が実際に持っていた矛盾や複雑さは失われていく。
デュマのような作家は、そうした複雑な過去を、読者が楽しめる物語に変えた。
それは、作家の才能だ。
私も、物語を読む喜びを否定したいわけではない。
もし、歴史小説に登場するすべての人物が、史料に記されたことしか話さず、確認できる行動しか取らなかったら、物語はずいぶん窮屈なものになるだろう。
創作には、想像力が必要だ。
しかし、想像力によって生まれた言葉を、史実の証拠にしてはいけない。
その境界を忘れたとき、物語は、過去を楽しむためのものから、過去の人物を裁くためのものへと変わってしまう。
*
私は、ノートを開いた。
そこには、すでに二つの文章が書かれていた。
証言を疑うことと、証言した人間を疑うことは、同じではない。
証拠が足りないことと、罪があることも、同じではない。
その下に、私は三つ目の文章を書き加えた。
**物語として真実らしいことと、歴史上の事実であることは、同じではない。**
首飾りは、マリー・アントワネットの首には掛けられなかった。
それでも、首飾り事件は、彼女の名に長く結びつけられた。
ブリオッシュの逸話も、彼女が実際に発言したと確認できないまま、王妃の人物像を語るために繰り返し使われてきた。
どちらも、わかりやすい物語だった。
欲深い王妃。
民衆の苦しみを理解しない王妃。
そして、その報いを受ける王妃。
物語としては、ひとつの筋が通っている。
しかし、歴史は、その筋書きのために存在するわけではない。
私は、資料を閉じた。
王妃を聖人にするつもりはなかった。
彼女の欠点を、なかったことにするつもりもなかった。
ただ、彼女が実際にしたことと、彼女がしたことにされてきたことを、分けて考えたかった。
それだけだった。
首飾りは、誰の首にも掛からなかった。
けれど、その物語は、二百年以上ものあいだ、ひとりの女性の名に掛けられ続けた。
私は、ノートの最後に書いた。
**欠点を認めることと、すべての罪を負わせることは違う。**
その一文を、しばらく見つめていた。
それから、次のページを開いた。
答え合わせは、まだ終わっていない。




