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マリー・アントワネットの首飾り、237年目の答え合わせ  作者: 東曌


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第十一話 証言は、誰のためにある

第十一話 証言は、誰のためにある


 記録というものは、不思議なものだ。


 紙の上に文字が残っていれば、人はそれを真実だと思いたくなる。


 誰かが署名している。

 日付が記されている。

 公的な印章まで押されている。


 ならば、そこに書かれたことは、確かな事実なのだろうか。


 けれど、記録に残るのは、必ずしも起きたことのすべてではない。


 誰かが見たこと。

 誰かが聞いたこと。

 誰かが、そうだったと信じたこと。


 そして、ときには。


 誰かが、そうであってほしいと願ったこと。


     *


「つまり、二人は本当にプチ・トリアノンで奇妙な体験をしたと主張した。でも、それが十八世紀への時間旅行だったかどうかは、別の問題なんですね」


 私は、机の上に広げた資料を見つめながら言った。


 向かいに座る彼女は、うなずいた。


「そう。そこを混同すると、話は簡単になるけれど、歴史は簡単になりすぎる」


 モーバリーとジョーダン。


 一九〇一年、ヴェルサイユのプチ・トリアノンを訪れた二人の英国人女性は、そこで奇妙な体験をしたと、後年になって公表した。


 周囲の景色が通常とは違って見えたこと。

 見慣れない人々に出会ったこと。

 そして、その場所に、過去の時代が重なったかのように感じたこと。


 二人は、一九一一年に『アドベンチャー』という本を出版し、自分たちの体験を詳しく記した。


 ただし、ここには重要な問題がある。


 体験が起きたとされる一九〇一年と、それが本として公表された一九一一年のあいだには、十年の隔たりがある。


 しかも、私たちが読めるのは、基本的に二人が後年に書き残した記録だ。


 その場で録音された会話でもなければ、第三者が連続して撮影した映像でもない。


「じゃあ、嘘だったんですか?」


「それも、すぐには言えない」


 彼女は、私の言葉を遮らずに答えた。


「本当に不思議な体験をした人が、あとから説明を試みることはあるでしょう。記憶は、本人にとっては鮮明でも、年月とともに整理されたり、別の記憶と結びついたりする。だから、本人が誠実であることと、その記憶が客観的に正確であることは、同じではないのよ」


 私は、資料の端を指で押さえた。


 本人が嘘をついていないとしても、記憶がすべて正しいとは限らない。


 反対に、説明が不十分だからといって、本人が嘘つきだとも限らない。


 歴史を調べるということは、どうやら、白か黒かを決める仕事ではないらしい。


     *


「でも、マリー・アントワネットの首飾り事件も、似ていますね」


 私は別の資料を引き寄せた。


 そこには、十八世紀のフランスを揺るがした事件の名前が記されていた。


 首飾り事件。


 高価なダイヤモンドの首飾りをめぐり、王妃マリー・アントワネットの名が利用され、やがて王室そのものへの不信が深まっていった事件である。


 宝石商のボーマーとバッサンジュは、もともとルイ十五世の愛妾デュ・バリー夫人に売ることを想定していた首飾りを抱えていた。


 しかし、ルイ十五世が亡くなり、その計画は実現しなかった。


 後に、ラ・モット伯爵夫人ジャンヌが、王妃の名を利用して首飾りを手に入れる計画を進める。


 その過程では、王妃に似た女性ニコル・ルゲー・ドリヴァが、夜の庭園で王妃を装うという芝居まで行われたとされる。


 だが、マリー・アントワネット本人が首飾りを注文したという証拠はなかった。


 彼女は購入を断っていた。


 それでも、事件の噂は王妃の名と結びついて広がっていった。


「王妃は浪費家だった。それは否定できない。でも、浪費家だったから、この事件でも悪いことをしたに違いない、と考えるのは違う」


 彼女は、資料の一文を鉛筆で囲んだ。


「ある人について、すでに悪い評判がある。その人に関する新しい事件が起きる。すると、人は新しい事件の証拠を調べる前に、以前からの評判で答えを決めてしまうことがある」


「つまり、王妃に対する世間の印象が、証拠の読み方まで変えてしまった?」


「そういう可能性がある、ということね」


 私は、首飾りの絵を見た。


 数えきれないほどのダイヤモンド。


 人間なら、一生かかっても使いきれないほどの価値。


 その宝石をめぐって、人々は利益を求め、嘘をつき、他人を信じ、あるいは信じることをやめた。


 けれど、宝石そのものは、誰が正しく、誰が間違っているかを語らない。


 光を反射するだけだ。


     *


「裁判では、どうなったんですか?」


「一七八六年、ジャンヌ・ド・ラ・モットは有罪になった。一方、ロアン枢機卿は無罪となった」


「王妃の名誉は回復したんですか?」


 彼女は、すぐには答えなかった。


「裁判の結果と、人々の心に残る印象は、必ずしも一致しないのよ」


 ロアンは無罪になった。


 ジャンヌは処罰された。


 しかし、事件によって傷ついた王室への信頼が、それだけで元に戻ったわけではない。


 法廷で示された判断が、社会のすみずみまで同じ形で受け入れられるとは限らないのだ。


 しかも、当時のフランスには、王室の支出だけでは説明できない財政問題が山積していた。


 戦争による負担。

 不公平な税制。

 特権を持つ人々への反発。

 改革を進めようとしても、既得権益との衝突を避けられない政治。


 首飾り事件は、そうした問題を生み出した唯一の原因ではない。


 けれど、すでに不信が積み重なっていた社会では、王妃の名を冠した醜聞が、強い印象を残すことになった。


「ひとつの事件が、すべてを壊したわけではない。でも、すでにひびの入っていたものを、さらに傷つけることはある」


 彼女の言葉を、私はノートに書き留めた。


     *


 その日の夕方、私は二つの資料を並べていた。


 片方は、一九〇一年のプチ・トリアノンで奇妙な体験をしたという二人の女性の記録。


 もう片方は、一七八〇年代のフランスで、首飾りをめぐって起きた事件の記録。


 時代も、場所も、性質も違う。


 片方は、過去の時代に迷い込んだという、説明の難しい体験についての回想だ。


 もう片方は、裁判記録や関係者の証言をもとに、歴史家たちが検討を重ねてきた事件だ。


 両者を同じものとして扱うことはできない。


 それでも、私には、ひとつだけ共通する問いが見えてきた。


 人は、何を根拠に、誰かの話を信じるのだろう。


 本人が強くそう信じているからか。


 多くの人が同じことを言っているからか。


 立派な肩書を持つ人が保証しているからか。


 あるいは、その話が、自分の知っている世界の形にぴたりと収まるからか。


 私は、首飾りの絵を裏返した。


 そこに描かれていたのは、宝石ではなく、紙の裏面だった。


 何も書かれていない。


 その白さが、妙に気になった。


 私たちは、記録に書かれたことを読む。


 けれど、記録に書かれなかったことを、どう扱えばいいのだろう。


 証言者が知らなかったこと。


 証言者が見落としたこと。


 証言者が語る必要を感じなかったこと。


 そして、語れば自分に不利益が及ぶため、黙っていたこと。


 空白は、必ずしも秘密の証拠ではない。


 しかし、空白があるからといって、そこに何もなかったとも言い切れない。


     *


 私は、ノートの最後に、一行だけ書いた。


 **証言を疑うことと、証言した人間を疑うことは、同じではない。**


 その下に、もう一行を加えた。


 **証拠が足りないことと、罪があることも、同じではない。**


 マリー・アントワネットは、完全無欠の人間ではなかった。


 彼女には、彼女自身の判断があり、失敗があり、特権的な生活があった。


 しかし、その欠点を認めることと、彼女が関与していない事件まで背負わせることは違う。


 歴史上の人物を、聖人にする必要はない。


 だからといって、悪人に仕立て上げる必要もない。


 私たちがすべきなのは、残された証拠を確かめ、確かなことと不確かなことを分け、わからない部分をわからないままにしておくことなのだろう。


 窓の外は、すっかり暗くなっていた。


 机の上では、二冊の本が並んでいる。


 一冊には、過去の時代を見たという女性たちの記憶。


 もう一冊には、首飾りをめぐって、王妃の名が利用された事件の記録。


 私は、どちらの本も閉じなかった。


 まだ、答えは出ていない。


 けれど、答えが出ていないからこそ、調べ続ける意味がある。


 首飾りは、誰の首にも掛けられなかった。


 それなのに、その物語は、ひとりの女性の名に長く掛けられ続けた。


 その重さを、私たちは本当に測ったことがあるのだろうか。

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