7話「私を殺してほしい」
その日、アルが店に来たとき。
私はすぐに、いつもと違うことに気づいた。
「……アルさん?」
「ああ」
「顔色、悪くないですか?」
「そう見えるか?」
「見えます」
アルは苦笑した。
「少し疲れているだけだ」
「本当に?」
「本当だ」
そう言いながら、アルは椅子に座った。
けれど、いつものように話し始めようとはしなかった。
両手を膝の上に置いたまま、じっと黙っている。
「今日は、何の相談です?」
「……相談というより、頼みがある」
「頼み?」
「ああ」
アルは顔を上げた。
その目は、今まで見たことがないほど真剣だった。
「もし私が、私でなくなったら」
「はい?」
「君に、してほしいことがある」
私は黙って続きを待った。
「私を殺してほしい」
「……」
一瞬、意味が分からなかった。
「今、何て?」
「私を殺してほしい」
「お断りします」
私は即答した。
アルは少しだけ目を細めた。
「そう言うと思っていた」
「なら、どうして頼むんですか」
「それでも、君に頼みたかった」
「無理です」
「ああ」
「絶対に無理です」
「分かっている」
アルは静かに頷いた。
冗談ではない。
本気で言っている。
それが分かって、私は背筋が冷たくなった。
「何があったんですか?」
「……少し前から、体の調子がおかしい」
「病院には?」
「診てもらっている」
「なら、治療すればいいでしょう」
「そうできればいい」
アルは自分の手を見た。
「だが、もしこのまま悪くなったら」
「悪くなったら?」
「判断できなくなるかもしれない」
私は黙った。
「自分で何を言っているのか分からなくなるかもしれない。誰かの言葉を、自分の意思だと思ってしまうかもしれない」
「……」
「そのとき、私が王であることを利用される可能性がある」
私はようやく理解した。
この人は、自分が死ぬことだけを恐れているわけではない。
自分が自分でなくなることを恐れている。
「だから、私に殺してほしいんですか?」
「そうだ」
「嫌です」
「分かっている」
「そんなこと、できません」
「ああ」
アルは否定しなかった。
ただ、静かに私を見ていた。
「それでも、頼んでおきたかった」
「……どうして私なんですか?」
「君なら、私の言葉を覚えているからだ」
「言葉?」
「私はこれまで、君にいくつもの相談をした」
「はい」
「そのとき、君は私に答えを押しつけなかった」
アルは少し笑った。
「だから、もし私が何かを命じても、それが本当に私の意思なのか、疑ってくれると思った」
「……」
「君は、私が言ったことと、君が考えたことを混同しない」
そんなふうに考えたことはなかった。
ただ、相談されたことに答えていただけだ。
「だから頼む」
アルの声が、少しだけ弱くなった。
「私が私でなくなったときは――」
「嫌です」
私は遮った。
「それでも、嫌です」
アルは黙った。
「私は、人を殺すために相談屋をやってるんじゃありません」
「そうだな」
「だから、その相談には答えられません」
「ああ」
アルは目を伏せた。
しばらく、店の中に沈黙が落ちた。
やがてアルが顔を上げる。
「では、もう一つ頼んでもいいか?」
「……何です?」
「私が死んだあとも、相談相手でいてくれ」
私は言葉を失った。
「私がいなくなっても、私の残したものを見てほしい」
「そんなの……」
「王太子のことも」
アルは静かに続けた。
「国のことも」
「アルさん」
「君なら、私が言ったことを覚えていてくれる」
私は何も言えなかった。
「頼めるか?」
私はしばらく考えた。
そして、小さく息を吐いた。
「……相談相手でいるだけですよ」
「それでいい」
「勝手に答えを決めたりはしません」
「ああ」
「誰かに言われたからって、その人の言葉を信じたりもしません」
「それでいい」
「それなら」
私は頷いた。
「約束します」
アルは目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
安心したように見えた。
「ありがとう」
その声は、とても小さかった。
私はまだ知らなかった。
この人が死ぬまで、もうそれほど時間が残されていないことを。
そして数日後。
私は、本当に王を失うことになる。




