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世界樹は来客を選ばない  作者: azar


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3/4

不眠の歯車

「——おや」


 声が、した。


 歯車の駆動音に紛れそうなほど、落ち着いた声。でも、不思議とよく通る声だった。


 わたしは、ゆっくりと、そちらに顔を向けた。


 そこに、一人の女性が立っていた。


 背が高い。わたしが見上げる角度が、シルヴァ と話していた時よりも、もう少し深い。短く切り揃えた褐色の髪が、歯車の隙間から漏れてくる光を受けて、うっすらと赤みを帯びて見えた。瞳は、黒。膝下まである白いロングコート——白衣、というのだと思う。前世のドラマで、何度か見たことがある。研究者が着ているやつ。


 その女性は、片手に何かの工具らしきものを持ったまま、もう片方の手をコートのポケットに突っ込んで、こちらをじっと見ていた。姿勢に、緊張というものがまったくなかった。わたしという闖入者を見ても、むしろ、面白そうなものを見つけた、という顔をしていた。


「——あなたが、『最初の方』ですね?」


 そう、訊かれた。


 意味が、一瞬わからなかった。  最初の方。  つまり、わたし、のことか?


「えっ、あ、」


 口から出たのは、みっともなく掠れた音だった。


「ええと、その、」


 自分でも、何を言っているのかわからなくなる。慌てれば慌てるほど、言葉が喉のあたりで絡まる。前世から変わらない癖だった。知らない女性に話しかけられたら、それがどれだけ当たり前の質問でも、まず反応が遅れる。そして、それを自覚すると、さらに遅れる。


「あ、はい、そう、です、たぶん、」


 たぶん、とは何だ。


 けれど、相手は、わたしのしどろもどろを、特に気にした様子もなかった。むしろ、ほんの少し、口角を上げた。


「大丈夫ですよ、そう構えなくて」


 白衣の女性は、穏やかに笑った。


「こちらも、少し驚いただけです。予定より、だいぶ早い到着でしたから」


 工具を、傍らの作業台にそっと置いて、彼女はこちらに向き直った。片手を、軽く差し出す。


「ウェンディ、と申します。以後、よろしく」


「……あ、リリアン、です」


 反射的に、その手を握ってしまった。握ってしまってから、握手って、女同士でもするものだっけ、と今更のように思った。ウェンディさんの手は、節くれだっていて、皮膚は硬かった。工具を長く握ってきた手だ、というのが、触れただけで伝わってきた。


「リリアン、ですか」


 ウェンディさんは、名前をひとつ、確かめるように繰り返した。


「いい名前ですね。——シルヴァが選んだのでしょう」


 シルヴァ のことを、知っている。  いや、そうか、この「機械層」とやらが、世界樹の一部なら、当然か。


「あの、」


 わたしは、ようやく少しだけ落ち着いて、周囲を見回した。


「ここは、」


「機械層と呼ばれています」


 ウェンディさんは、軽く答えた。


「世界樹の、下のほうですよ。上のほうは——そうですね、シルヴァがいる、あの図書館のような空間のことでしょう? あれは『書庫層』。ここは、それより下。世界樹を正常に稼働させるための、機構が詰め込まれている場所です」


「世界樹を、稼働させる」


「ええ」


 ウェンディさんは、頭上を指差した。


 釣られて見上げる。天井、というよりは、もはや「上層」と呼ぶべきか、歯車と鎖と管で埋め尽くされた複雑な構造が、視界の限界まで続いていた。大きさも、材質も、回転速度も、それぞれ違う。油の焼けた匂いがする。どこかで蒸気が抜ける音がしている。


「……あの、」


 わたしは、訊かずにはいられなかった。


「魔法の、世界、なんですよね? ここ」


「ああ、そのように聞きましたか」


 ウェンディさんは、少し楽しそうに目を細めた。


「まあ、そう呼ぶ方もいますよ。呼びやすいですから。ただ、正確ではありません」


「……正確じゃない、って」


「いわゆる『魔法』というのは、」


 彼女は、作業台の端に、軽く腰を預けた。


「十分に発達した科学のことです。仕組みさえわかってしまえば、どれも、ただの技術ですよ。再現できる。解析できる。壊すこともできるし、組み直すこともできる。シルヴァ が指を鳴らして服を変えた? あれも、原理はあります。原理があって、装置があって、動いている。ただ、周りからは原理の説明が省かれるので、『魔法』に見える——それだけのことです」


 ……有名な、言葉のような気もした。


 SF小説で、読んだことがあるような、ないような。それを、こうして、白衣を着た女性から、歯車に囲まれた空間で聞かされると、妙な説得力があった。


「ですので、あまり気に病まないことです」


 ウェンディさんは、軽く肩をすくめた。


「『魔法の世界に来てしまった、どうしよう』と悩むのも、『ここは実は科学文明だったのか、どうしよう』と悩むのも、どちらも大差はありません。答えは同じ。——慣れるしかない、です」


 ——慣れる。  さっきから、わたしが一番求めているはずで、一番遠い場所にある言葉だった。


「あの、」


 聞きたいことは、山ほどあった。  けれど、どこから手をつけていいのか、わからなかった。


 ウェンディさんは、そんなわたしの顔をしばらく眺めてから、小さく微笑んだ。


「今は、あまり一度に詰め込まないほうがよろしいでしょう。どうせ、また会うことになりますから」


「また、」


「機械層には、これからも何度か、足を運ぶことになると思います。ゆっくり聞いてくださいね」


 彼女が、そう言った、その時——


 足元の床が、また抜けた。


 ぱちん、という音は、聞こえなかった。けれど、シルヴァ がやっている、あれと同じだということは、すぐにわかった。なぜなら、わたしの視界の上方で、ウェンディさんが、軽く片手を振ってくれているのが見えたからだ。


「またお会いしましょう、リリアンさん」


 その声が、落下する感覚と一緒に、耳から遠ざかっていった。


 次に足の裏に触れたのは、硬い金属ではなく、先ほどの滑らかな石の床だった。


 書架の谷間。蛍火。苔の匂い。  ——戻ってきた、と、そう理解するまでに、数秒かかった。


 呼吸を整える。スカートの裾を軽く直す。それから、顔を上げて、


 ——立っていた。


 シルヴァ の隣に、小さな人影が、一つ。


 身長は、わたしよりも、ずっと低い。腰のあたりまで、ふわりと広がる金色の、長い巻き毛。頭の上には、小さな金色の冠のようなものが、微かに光を反射している。身に纏っているのは、薄水色のドレスで、幾重ものレースが裾のほうで波打っていた。瞳は、澄んだ、深い青。


 ——童話の中から、そのまま抜け出してきた。


 そう表現するしかできなかった。


 その子は、わたしのほうを、じっと、見ていた。見ていた、というよりは、見据えていた。瞬きの回数が、少ない。口は、薄く、一直線に結ばれている。


 ……何か、言うべきだろうか。  挨拶とか。


 でも、声をかけていいのか、わからなかった。その子の周囲の空気が、音を受け付けない種類のもののように感じられた。


「——ご紹介いたしますね」


 シルヴァ の声が、静かに間に入った。


「こちらは、ティリア様。リリアン様と同じく、先ほど、お招きいたしました」


「……ティリア、様」


 わたしは、ぎこちなく、その名前を口にした。


 ティリア様と呼ばれた少女は、何も答えなかった。視線は、わたしから外さない。けれど、嫌がっているというわけではなさそうだった。警戒でもない、好奇でもない、何か——もっと、静かなもの。


 じっと、見ている。


「——お二人は、異なります」


 シルヴァ は、続けて、そう言った。


「異なる、って、」


「ティリア様には、接客の役目を、特には課しておりません」


「……え、」


「同じく召喚された方でも、役割は、それぞれでございます」


 話が、わからなくなってきた。


 訊きたいことが、また、十も二十も、喉元に集まってくる。なぜ、わたしだけ接客なのか。なぜ、ティリア様は違うのか。そもそも、同類、というのは、何人いるのか。


「リリアン様」


 シルヴァ が、わたしの視線を、静かに拾った。


「お訊きになりたいこと、たくさんおありかと存じます」


「……はい」


「けれど、」


 彼女は、ほんの少しだけ、首を傾けた。


「今すぐお答えできるものも、できないものも、ございます。疑問の多くは、これからの日々の中で、少しずつ、解けていくでしょう」


 ——いや、それは、あまりにも便利な返事ではないか。  と、思ったけれど、口にはしなかった。


「その前に、」


 シルヴァ は、わたしと、そして隣のティリア様とを、静かに交互に見た。


「お二人に、いくつか、お伝えしておきたいことがございます」


 彼女は小さく息を吸った。息を吸うという動作を彼女がしたのを、わたしは初めて見たかもしれないと、どうでもいいことを思った。


「一つ」


 と、彼女は言った。


「あなた方がこの場所へお招きされたのは、幸運や、特別な選別によるものではございません」


 彼女の、緑掛かった金色の瞳が、一度、わたしを捉え、それからティリア様を捉えた。


「ただ——お二人が、独自の、自分というものを持っておられる。それだけでございます」


 ……独自の、自分。


 その言葉が、なぜか、胸のどこか、奥深いところに、ひっかかった。


「二つ」


 シルヴァ は、続けた。


「本日より、お二人は、世界樹の住人となります。ここで、お暮らしいただき、相応の権利を享受なさり、同時に、応分の義務を負っていただきます」


 住人。  ——それは、つまり。  つまり、もう、「客」ですらない、ということだ。


「三つ」


 淡々と、彼女は言葉を続けた。


「ここには、夢が、ございません。したがって、眠りも必要ございません。疲れも、お感じにはならないでしょう」


「……眠りが、ない」


 わたしは、思わず繰り返してしまった。


「はい」


「……じゃあ、」


「時間を、持て余されることもあるかと思います」


 シルヴァ は、ほんの少しだけ、目を伏せた。


「そのような時は——どなたかを、助けて差し上げてください」


 どなたかを。


 助ける。


 その言葉を、しばらく、頭の中で転がした。助ける、という単語は、前世の自分には、ほとんど縁のない動詞だったからだ。助けてほしいと思ったことは、数え切れないほどある。助けてあげた経験は、片手で足りるくらいしかない。


 隣で、ティリア様が、ようやく、瞬きをした。


 一度だけ、ゆっくりと。


 そして、相変わらず一言も発しないまま——視線だけが、わたしのほうへ、少しだけ傾いた。


 言葉はなかった。けれど、その視線が、何かを、求めているのかもしれないと。そう感じた。


 それは、たぶん、気のせいだった。気のせいのはずだった。

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