不眠の歯車
「——おや」
声が、した。
歯車の駆動音に紛れそうなほど、落ち着いた声。でも、不思議とよく通る声だった。
わたしは、ゆっくりと、そちらに顔を向けた。
そこに、一人の女性が立っていた。
背が高い。わたしが見上げる角度が、シルヴァ と話していた時よりも、もう少し深い。短く切り揃えた褐色の髪が、歯車の隙間から漏れてくる光を受けて、うっすらと赤みを帯びて見えた。瞳は、黒。膝下まである白いロングコート——白衣、というのだと思う。前世のドラマで、何度か見たことがある。研究者が着ているやつ。
その女性は、片手に何かの工具らしきものを持ったまま、もう片方の手をコートのポケットに突っ込んで、こちらをじっと見ていた。姿勢に、緊張というものがまったくなかった。わたしという闖入者を見ても、むしろ、面白そうなものを見つけた、という顔をしていた。
「——あなたが、『最初の方』ですね?」
そう、訊かれた。
意味が、一瞬わからなかった。 最初の方。 つまり、わたし、のことか?
「えっ、あ、」
口から出たのは、みっともなく掠れた音だった。
「ええと、その、」
自分でも、何を言っているのかわからなくなる。慌てれば慌てるほど、言葉が喉のあたりで絡まる。前世から変わらない癖だった。知らない女性に話しかけられたら、それがどれだけ当たり前の質問でも、まず反応が遅れる。そして、それを自覚すると、さらに遅れる。
「あ、はい、そう、です、たぶん、」
たぶん、とは何だ。
けれど、相手は、わたしのしどろもどろを、特に気にした様子もなかった。むしろ、ほんの少し、口角を上げた。
「大丈夫ですよ、そう構えなくて」
白衣の女性は、穏やかに笑った。
「こちらも、少し驚いただけです。予定より、だいぶ早い到着でしたから」
工具を、傍らの作業台にそっと置いて、彼女はこちらに向き直った。片手を、軽く差し出す。
「ウェンディ、と申します。以後、よろしく」
「……あ、リリアン、です」
反射的に、その手を握ってしまった。握ってしまってから、握手って、女同士でもするものだっけ、と今更のように思った。ウェンディさんの手は、節くれだっていて、皮膚は硬かった。工具を長く握ってきた手だ、というのが、触れただけで伝わってきた。
「リリアン、ですか」
ウェンディさんは、名前をひとつ、確かめるように繰り返した。
「いい名前ですね。——シルヴァが選んだのでしょう」
シルヴァ のことを、知っている。 いや、そうか、この「機械層」とやらが、世界樹の一部なら、当然か。
「あの、」
わたしは、ようやく少しだけ落ち着いて、周囲を見回した。
「ここは、」
「機械層と呼ばれています」
ウェンディさんは、軽く答えた。
「世界樹の、下のほうですよ。上のほうは——そうですね、シルヴァがいる、あの図書館のような空間のことでしょう? あれは『書庫層』。ここは、それより下。世界樹を正常に稼働させるための、機構が詰め込まれている場所です」
「世界樹を、稼働させる」
「ええ」
ウェンディさんは、頭上を指差した。
釣られて見上げる。天井、というよりは、もはや「上層」と呼ぶべきか、歯車と鎖と管で埋め尽くされた複雑な構造が、視界の限界まで続いていた。大きさも、材質も、回転速度も、それぞれ違う。油の焼けた匂いがする。どこかで蒸気が抜ける音がしている。
「……あの、」
わたしは、訊かずにはいられなかった。
「魔法の、世界、なんですよね? ここ」
「ああ、そのように聞きましたか」
ウェンディさんは、少し楽しそうに目を細めた。
「まあ、そう呼ぶ方もいますよ。呼びやすいですから。ただ、正確ではありません」
「……正確じゃない、って」
「いわゆる『魔法』というのは、」
彼女は、作業台の端に、軽く腰を預けた。
「十分に発達した科学のことです。仕組みさえわかってしまえば、どれも、ただの技術ですよ。再現できる。解析できる。壊すこともできるし、組み直すこともできる。シルヴァ が指を鳴らして服を変えた? あれも、原理はあります。原理があって、装置があって、動いている。ただ、周りからは原理の説明が省かれるので、『魔法』に見える——それだけのことです」
……有名な、言葉のような気もした。
SF小説で、読んだことがあるような、ないような。それを、こうして、白衣を着た女性から、歯車に囲まれた空間で聞かされると、妙な説得力があった。
「ですので、あまり気に病まないことです」
ウェンディさんは、軽く肩をすくめた。
「『魔法の世界に来てしまった、どうしよう』と悩むのも、『ここは実は科学文明だったのか、どうしよう』と悩むのも、どちらも大差はありません。答えは同じ。——慣れるしかない、です」
——慣れる。 さっきから、わたしが一番求めているはずで、一番遠い場所にある言葉だった。
「あの、」
聞きたいことは、山ほどあった。 けれど、どこから手をつけていいのか、わからなかった。
ウェンディさんは、そんなわたしの顔をしばらく眺めてから、小さく微笑んだ。
「今は、あまり一度に詰め込まないほうがよろしいでしょう。どうせ、また会うことになりますから」
「また、」
「機械層には、これからも何度か、足を運ぶことになると思います。ゆっくり聞いてくださいね」
彼女が、そう言った、その時——
足元の床が、また抜けた。
ぱちん、という音は、聞こえなかった。けれど、シルヴァ がやっている、あれと同じだということは、すぐにわかった。なぜなら、わたしの視界の上方で、ウェンディさんが、軽く片手を振ってくれているのが見えたからだ。
「またお会いしましょう、リリアンさん」
その声が、落下する感覚と一緒に、耳から遠ざかっていった。
次に足の裏に触れたのは、硬い金属ではなく、先ほどの滑らかな石の床だった。
書架の谷間。蛍火。苔の匂い。 ——戻ってきた、と、そう理解するまでに、数秒かかった。
呼吸を整える。スカートの裾を軽く直す。それから、顔を上げて、
——立っていた。
シルヴァ の隣に、小さな人影が、一つ。
身長は、わたしよりも、ずっと低い。腰のあたりまで、ふわりと広がる金色の、長い巻き毛。頭の上には、小さな金色の冠のようなものが、微かに光を反射している。身に纏っているのは、薄水色のドレスで、幾重ものレースが裾のほうで波打っていた。瞳は、澄んだ、深い青。
——童話の中から、そのまま抜け出してきた。
そう表現するしかできなかった。
その子は、わたしのほうを、じっと、見ていた。見ていた、というよりは、見据えていた。瞬きの回数が、少ない。口は、薄く、一直線に結ばれている。
……何か、言うべきだろうか。 挨拶とか。
でも、声をかけていいのか、わからなかった。その子の周囲の空気が、音を受け付けない種類のもののように感じられた。
「——ご紹介いたしますね」
シルヴァ の声が、静かに間に入った。
「こちらは、ティリア様。リリアン様と同じく、先ほど、お招きいたしました」
「……ティリア、様」
わたしは、ぎこちなく、その名前を口にした。
ティリア様と呼ばれた少女は、何も答えなかった。視線は、わたしから外さない。けれど、嫌がっているというわけではなさそうだった。警戒でもない、好奇でもない、何か——もっと、静かなもの。
じっと、見ている。
「——お二人は、異なります」
シルヴァ は、続けて、そう言った。
「異なる、って、」
「ティリア様には、接客の役目を、特には課しておりません」
「……え、」
「同じく召喚された方でも、役割は、それぞれでございます」
話が、わからなくなってきた。
訊きたいことが、また、十も二十も、喉元に集まってくる。なぜ、わたしだけ接客なのか。なぜ、ティリア様は違うのか。そもそも、同類、というのは、何人いるのか。
「リリアン様」
シルヴァ が、わたしの視線を、静かに拾った。
「お訊きになりたいこと、たくさんおありかと存じます」
「……はい」
「けれど、」
彼女は、ほんの少しだけ、首を傾けた。
「今すぐお答えできるものも、できないものも、ございます。疑問の多くは、これからの日々の中で、少しずつ、解けていくでしょう」
——いや、それは、あまりにも便利な返事ではないか。 と、思ったけれど、口にはしなかった。
「その前に、」
シルヴァ は、わたしと、そして隣のティリア様とを、静かに交互に見た。
「お二人に、いくつか、お伝えしておきたいことがございます」
彼女は小さく息を吸った。息を吸うという動作を彼女がしたのを、わたしは初めて見たかもしれないと、どうでもいいことを思った。
「一つ」
と、彼女は言った。
「あなた方がこの場所へお招きされたのは、幸運や、特別な選別によるものではございません」
彼女の、緑掛かった金色の瞳が、一度、わたしを捉え、それからティリア様を捉えた。
「ただ——お二人が、独自の、自分というものを持っておられる。それだけでございます」
……独自の、自分。
その言葉が、なぜか、胸のどこか、奥深いところに、ひっかかった。
「二つ」
シルヴァ は、続けた。
「本日より、お二人は、世界樹の住人となります。ここで、お暮らしいただき、相応の権利を享受なさり、同時に、応分の義務を負っていただきます」
住人。 ——それは、つまり。 つまり、もう、「客」ですらない、ということだ。
「三つ」
淡々と、彼女は言葉を続けた。
「ここには、夢が、ございません。したがって、眠りも必要ございません。疲れも、お感じにはならないでしょう」
「……眠りが、ない」
わたしは、思わず繰り返してしまった。
「はい」
「……じゃあ、」
「時間を、持て余されることもあるかと思います」
シルヴァ は、ほんの少しだけ、目を伏せた。
「そのような時は——どなたかを、助けて差し上げてください」
どなたかを。
助ける。
その言葉を、しばらく、頭の中で転がした。助ける、という単語は、前世の自分には、ほとんど縁のない動詞だったからだ。助けてほしいと思ったことは、数え切れないほどある。助けてあげた経験は、片手で足りるくらいしかない。
隣で、ティリア様が、ようやく、瞬きをした。
一度だけ、ゆっくりと。
そして、相変わらず一言も発しないまま——視線だけが、わたしのほうへ、少しだけ傾いた。
言葉はなかった。けれど、その視線が、何かを、求めているのかもしれないと。そう感じた。
それは、たぶん、気のせいだった。気のせいのはずだった。




