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世界樹は来客を選ばない  作者: azar


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4/4

72時間

——以上でございます」


 シルヴァ は、三つの言葉を告げ終えてから、小さく息を吐いた。その吐息が、本当に呼吸として必要なものなのかは、わたしにはもうわからなかった。


 と、その時。


 彼女の視線が、ふと、宙を泳いだ。


 わたしたちの誰もいない、書架のいちばん奥の方。あるいは、もっと遠い場所。何かを、聞き取ろうとするような仕草だった。耳ではなく、皮膚で、あるいは、もっと別の感覚で。


 数秒、静止。


「……お客様が、お見えのようです」


 彼女は、そう言った。声の調子は、変わらなかった。けれど、言葉の選び方が、微妙に変わっていたことには、わたしも気づいた。「かもしれません」でも、「かもしれない」でもなく、「お見えのようです」。確定事項として、話している。


「リリアン様、ティリア様」


 シルヴァ は、わたしたち二人に、ゆっくりと向き直った。


「大変恐縮でございますが、わたくしはこれより、接待に向かいます」


「あ、」


 わたしは、思わず声を上げた。


「えっと、わたしは、」


「お二人には、お残りいただいて結構です」


 シルヴァ は、軽く首を振った。


「今回の来客は、リリアン様にお頼みするものではございません。いわゆる、わたくしの担当、と思っていただければ」


 シルヴァ に担当がある。ということは、やはり、客は複数の種類があるらしい。以前、彼女が言いかけた、「別の作法」の話を、ふと思い出した。


「この書庫層は、自由にご覧いただいて構いません。書架も、卓も、お茶の道具も、ご自由にお使いください」


 一拍、置いて。


「それから、もしご関心があれば、下の階にも、お立ち寄りいただいて結構です」


「……下の、階?」


「ええ。機械層と、それから、娯楽層。おそらく、お二人がお時間を持て余されるには、じゅうぶんかと」


「娯楽層、」


 初めて聞く名前だった。  ウェンディ と会ったのは、機械層。シルヴァ がいるここは、書庫層。つまり、もう一つある、ということだ。


「階段は、書架の奥にございます。普段は、わたくしがお送りいたしますが、七十二時間ほど、不在にいたしますので」


「……七十二時間」


「はい」


「……長、いですね」


「そうでしょうか」


 シルヴァ は、ほんの少しだけ、首を傾けた。


「ここで過ごすうちに、お慣れになります」


 それが慰めなのか、警告なのかは、わからなかった。


「それまでの間、どうか、ご自由に」


 シルヴァ は、両手を身体の前で軽く重ねた。これが、彼女のお辞儀の前の姿勢なのだ、と、このときわたしは初めて気づいた。


 そして、ぱちん、と。


 軽い指の音を残して、彼女は、消えた。


 後に残ったのは、蛍火が漂う静かな書架と、わたしと、ティリア様、だけだった。


 ……沈黙、というものにも、種類がある。


 気まずい沈黙。  気楽な沈黙。  互いに何か言いたいのを探っている沈黙。


 今、わたしとティリア様のあいだにあるのは、分類が難しい沈黙だった。


 ティリア様は、シルヴァ が消えた位置を、まだじっと見ていた。主人に置いていかれた、子犬のような、——いや、違う、そんな単純な表現では足りない。もっと、静かな、何かを確認しているような目つきだった。


 わたしは、というと、動けなかった。


 ここで、何か言うべきだ、と頭ではわかっていた。声をかけて、緊張を解いて、ティリア様を安心させて、それから、シルヴァ の言う「助ける」ということを、実行すべきだ。


 でも、何と声をかければいい。


 前の自分は、初対面の女性と話すことが、世界で一番苦手な人間のうちの一人だった。相手が同い年であれば最悪、相手が年下の、しかも十歳近く離れた女の子。難易度で言えば、もはや振り切れている。


 加えて、今のわたしの身体は、女だ。  女から女の子に話しかけるという経験を、わたしは一秒も持っていない。前の自分が、どういう声をかけられて嬉しかったか、なんていう参照情報は、あいにく、一つもない。


 ……どうする。  どうする、わたし。


 永遠にも思える数十秒が、過ぎた。


 こういう時、前の自分なら、諦めてスマホを見始めていた。けれどここには、スマホはない。逃げ場は、ない。


 ……仕方、ない。


 わたしは、息を吸った。


「あの、」


 思っていたより、小さな声が出た。


「……喉、乾いて、ない?」


 口にしてから、自分の選択の無難さに呆れた。


 けれど、ティリア様は、その問いかけに、初めて、反応を見せた。


 長い金色の睫毛が、一度、下に伏せられ、そして、ゆっくりと上に戻った。


 続いて、小さな頷き。


 ほんの、数ミリ。けれど、確かに、頷いた。


 ……通じた。


 わたしは、内心で、小さく拳を握った。前の自分が一度も経験したことのない種類の達成感が、胸のあたりで静かに光った。


「えっと、じゃあ、」


 声が、少し、明るくなってしまった。慌てて、調子を抑える。


「お茶、淹れるね。さっき、習ったばっかりだから、上手くいくかは、わからないけど」


 シルヴァ が置いていってくれた円卓には、ティーセットが一式、そのまま残っていた。ポットはまだ温かい。温かい、ということが、妙に、嬉しかった。シルヴァ が、わたしたちのために、冷めないままにしてくれていた。


 茶葉の缶を開け、お湯を注ぎ、砂時計を置く。頭の中で、先ほど教わった手順を、一つずつなぞる。手は、まだ慣れていない。けれど、できないこと、ではなかった。


 カップに注いだ紅茶は、思っていたよりも、きれいな赤色だった。


「……どうぞ」


 わたしは、それを、ティリア様の前に差し出した。


 小さな手が、両手で、カップを受け取った。手袋越しの指先は、白くて、細くて、驚くほど小さかった。


 一口。


 ティリア様は、丁寧に、カップを傾けた。口元が、ほんのわずかに動いた。それから、カップを受け皿に戻し、


「……美味しい」


 ぽつり、と。


 彼女が、初めて、喋った。


 声、なのだ、と、一瞬、理解が遅れた。鈴を振るような、というのが、こういう声のことを言うのかもしれない、と、どうでもいいことを思った。


「……よかった」


 わたしは、言った。


「それなら、よかった」


 言葉が、他に思い浮かばなかった。


 沈黙が、また戻ってきた。


 けれど、さっきの沈黙とは、違う種類の沈黙だった。


 互いに、喋る必要が、特にない。それでいて、居心地が、悪くない。どう形容していいか、わたしには、まだ言葉がなかった。


 ティリア様は、時折、紅茶を口に運びながら、書架の間を漂う蛍火を、じっと見ていた。


「……あの、」


 わたしは、意を決して、訊いてみた。


「一つ、訊いていい?」


 ティリア様は、こくり、と頷いた。


「ティリア様は、その、」


 言葉を、選ぶ。


「……シルヴァ さんに、何か、お願いされた? 仕事とか、そういうの」


 ティリア様は、首を、横に振った。


「……ない」


 短い、けれど、はっきりした声だった。


「ない、」


 わたしは、繰り返した。


「……本当に?」


「……うん」


「わたしは、お茶、を、淹れてくれって」


「……知ってる」


 知っている、らしかった。わたしが機械層に飛ばされていた間、シルヴァ がティリア様に、ある程度の説明をしたのかもしれない。


「でも、ティリア様には、」


「ないの」


「……そっか」


 不公平、と言えば、不公平だった。けれど、そもそも、何が公平で、何が不公平なのかも、ここではまだ、よくわからなかった。


 少しの、沈黙。  それから、ティリア様は、ぽつぽつと、続けた。


「……わたしも、よく、分かってないの」


「……うん」


「でも、たぶん、」


 青い瞳が、わたしの方を、まっすぐに見ていた。


「……寂しかったから、なのかな」


「……寂しかった?」


「うん。ずっと、話し相手が、欲しかった。それから、」


 一拍、置いて。


「……お姫様みたいな、世界に、行きたかった」


 だから、と、ティリア様は、自分の格好を、小さな手で示した。


 淡い水色のドレス。幾重ものレース。金色の、小さな冠。彼女自身が、憧れていた世界の、衣装。


「……じゃあ、ここは、」


「うん」


 ティリア様は、頷いた。


「たぶん、わたしが、いちばん、望んでた場所。だと、思う」


 その言い方が、どこか、自分でも半信半疑のように聞こえたのは、気のせいではないと思った。望んでいた場所。でも、望みそのものが、今、本当に自分のものだったのか、自信が持てていない。そんな声だった。


 似ている、と、わたしは、思った。


 ……わたしも、同じようなものだ、と。


「……わたしもね、」


 気づけば、自分から、喋っていた。


「前の自分、が、あんまり、好きじゃなくて」


 言葉を、慎重に、選んだ。


「……今の自分になれたら、って、思ったことは、あった。でも、本当に、こうなりたかったのか、今の自分で、よくわからなくなってる」


 言いながら、自分でも、言葉にして初めて、形になった感情だった。


「前の自分が、嫌だったから、逃げたかっただけ、なのかも」


 ティリア様は、じっと、わたしを見ていた。否定も、肯定もせず。


 けれど、ふと、小さな声で、


「……一緒だね」


 そう、言った。


 わたしは、笑った、と思う。たぶん。笑う、という動作が、前の自分とは違う筋肉の動かし方になっていたのを、初めて、違和感なく感じられた瞬間だった。


「ねえ、ティリア様」


 わたしは、訊いてみた。


「さっき、シルヴァ さんが、下の階、行っていいって、言ってたよね」


 ティリア様は、こくり、と頷いた。


「わたし、機械層は一度見たけど、娯楽層って、行ったことなくて」


「……わたしも、ない」


「行ってみる?」


 ティリア様は、少し、考える素振りを見せた。手の中のカップを、じっと見ていた。


「……いい?」


「いいよ」


 わたしは、できるだけ、軽く、頷いた。


「……暇、だし」


 ほんの小さく、彼女の口元が、動いた。笑った、のかもしれない。わたしには、確信が持てなかった。


 けれど、彼女は、カップをそっと置き、わたしに、手を、差し出した。


「……一緒に、行って」


 それが、お願いなのだということを、わたしは、一拍遅れて、理解した。


 わたしは、その小さな手を、自分の手で、そっと握った。


 前の自分なら、たぶん、永遠にできなかった種類の接触だった。


 書架の奥に、階段は、確かにあった。


 大きな書架と書架のあいだに、まるで元からそこにあったかのように、下に続く石の階段が、口を開けていた。段数は、数えきれない。下のほうは、薄暗くて見えない。


「……深そう」


 わたしは、呟いた。


「……うん」


 ティリア様は、わたしの手を、離さなかった。


 一段ずつ、降りる。  急ぎはしなかった。急ぐ必要がなかった。七十二時間もあるのだ。


 石の階段には、壁に一定の間隔で、小さな蛍火の燈籠が、掛かっていた。書庫層で漂っていた、あの光の粒と同じ、淡い黄緑色の光。壁の石は、古く、ところどころに苔が生していた。足音は、ぺた、ぺた、と、妙に、よく響いた。


 降りていくあいだ、二人とも、ほとんど喋らなかった。  けれど、それも、悪くない沈黙だった。


 階段が、終わった。


「……わぁ」


 と、思わず声が出た。


 ティリア様の手を、しっかりと握ったまま、わたしは周囲を見回した。


 ——広い。  書庫層も広かった。けれどあそこは、書架と書架で区切られていた空間だった。ここは、視界が、開けている。


 天井は、高いドームのようになっていた。そこから、無数のシャンデリアが、吊られている。けれどよく見ると、シャンデリアに見えていたのは、ガラスではなく、色とりどりの、透明なオルゴールのような機構だった。ぱらぱらと、微かな音が、聞こえる気もする。


 床には、色とりどりのタイル。絨毯。木製の、古ぼけた台。台の上には、カードが伏せて置かれていた。カジノ、だろうか、前に映画で見たような、そういう場所の、ミニチュアのような。


 奥には、大きな舞台。舞台の上には、奇妙な形の、やぐら。そのさらに奥には、観覧車のような、大きな、円い機構が、止まったまま、佇んでいた。


「——……」


 ティリア様が、何か、小さく、声を漏らした。  わたしは、彼女の顔を見た。金色の瞳が、大きく、見開かれていた。


「……すごい」


 ぽつり。


「ね」


 わたしも、同意した。


 けれど、少し、歩き進めるうちに、気づいたことがあった。


 ——誰も、いない。


 いや、それは、書庫層も、機械層も、そうだったのだけれど。  書庫層には、シルヴァ がいた。機械層には、ウェンディ さんがいた。  でも、ここには、誰もいない。


 ただ、誰もいないのに、照明はついている。オルゴールの音は、微かに鳴り続けている。まるで、開店準備が終わったあとの、誰も来ない店のような。


 もっと正確に言えば——誰かが、ここに、いた。いた痕跡が、あちこちに、ある。  でも、今は、誰もいない。


 絨毯の上に、一枚のトランプが、落ちていた。  カードの表には、道化師の絵が、描かれていた。  絵の、道化師の顔は、笑っていた。  笑っていたのに、なぜか、寂しそうに見えた。


 ティリア様は、わたしの手を、握ったまま、動かなかった。


 怖がっているのかもしれない。  わたしは、できるだけ、落ち着いた声で、言った。


「……どこか、座れるところ、探そっか」


 この広すぎる空間を、立ったまま、見回し続けるのは、二人とも、そろそろ疲れてきていた。疲れない、とシルヴァ は言っていたけれど、精神の疲れは、別の話らしかった。少なくとも、わたしの気持ちは、明らかに、重たくなってきていた。


 娯楽層の、中央から少し離れた場所に、小さな丸テーブルと、それを囲む椅子が、いくつか並んでいた。テーブルの上には、開きかけのトランプと、使いかけの小さなコインの山が、そのまま、残されていた。


 誰かが、途中で、席を立ったようだった。  ——随分、昔に。


「ここ、座ってもいいかな」


 と、わたしはティリア様に訊いた。


 ティリア様は、こくり、と頷いた。


 二人で、並んで、椅子に腰を下ろす。ティリア様の足は、床に届かなかった。ぶらぶらと、軽く、揺れた。


「……リリアン、は、」


 と、ティリア様が、ぽつりと言った。


「……ここ、怖い?」


「……うん、」


 正直に、答えた。


「ちょっと、怖いかも」


「……わたしも」


 ティリア様は、頷いた。


「……誰も、いないのが、怖い」


「……うん」


「……童話の本の、最後のページ、みたい」


 ——童話の本の、最後のページ。


 その表現は、少し、胸のあたりに、引っかかった。物語が終わった後の、誰もいなくなった舞台。登場人物が、全員、どこかに行ってしまった後の、絵本の最終ページ。——たしかに、ここは、そんな感じがした。


 わたしたちは、しばらく、黙って、座っていた。


 話すことは、特になかった。話さないでいられる、というだけで、前の自分から見れば、もう、じゅうぶん、何か変わっていた。


 ティリア様の、小さな足が、椅子の下で、時折、揺れた。ぶらぶら、ぶらぶら。規則的ではない、なんとなしの、揺れ方だった。


 わたしは、テーブルの上の、使いかけのコインの山を、なんとなく眺めていた。銀色のコインも、銅色のコインも、混じっていた。どれも、擦り切れた模様が、浮き出ていた。たくさんの人の手に触れられてきた道具の、顔だった。


「……あ、」


 と、ティリア様が、小さく、声を上げた。


「どうしたの」


「……光が、消えた」


「え、」


 わたしは、顔を上げた。


 ——天井の、シャンデリア。  先ほどまで、微かに音を立てていた、オルゴールのような機構。  それらが、一つ、また一つ、順番に、光を落としていた。


 中央から、外側へ。波紋のように。


「……え、え、ちょっと、」


 わたしは、立ち上がった。ティリア様の手を、反射的に、握り直した。


 光が、消える。  波のように、光が、消えていく。  最後の一つが、吊り天井の隅で、ぷつ、と、消えた、その時——


 ——空気が、歪んだ。


 娯楽層の、中央の、少し開けた場所。わたしたちから、十メートルほど離れた、絨毯の上。その一角だけが、ぐにゃりと、揺れた。シルヴァ が何かを消す時の、あの清潔な感じとも違う。ウェンディ が立ち去った時の、静かな消え方とも違う。


 もっと、雑に。  まるで、無理やり突っ込まれるように。


 光が、弾けた。


「——っ、」


 ティリア様が、わたしの後ろで、小さな声を上げた。わたしは、反射的に、彼女を、自分の身体の陰に、そっと、引き寄せた。自分が庇える立場なのか、とは、一秒も考えなかった。というか、考える暇がなかった。


 光が、収まった。


 そこに、——人が、いた。


 四人。


「うっわ、なんだここ」


「いってぇ、腰うった……」


「おい、立て、立て」


 声は、男のものだった。若い。二十歳前後か、もう少し、下かもしれない。全員、どこにでもいそうな、薄汚れた外套と、安物のブーツ。腰に提げているのは、粗末な短剣、——というよりは、ほぼナイフに近い代物。前の世界で言うなら、町外れで、若いのが突っ張って歩いている、そういう連中の、そのままの姿だった。


 ひとりが、よろよろと、立ち上がった。きょろきょろと、周囲を見回す。


「ここ、どこだよ。兄貴、聞いてねえぞこんな場所」


「うるせえ、俺だって知らねえよ! さっきまで、あの路地にいたはずだ、だよな?」


「いた! 絶対いた! なんで急に——」


「……騒ぐな」


 最後の一人が、立ち上がった。  他の三人より、少しだけ、落ち着いていた。けれど、落ち着いていたからといって、怖くないということではまったくなかった。むしろ、冷静なぶん、厄介な種類の気配がした。


 彼は、周囲を、ぐるりと、見回した。  観覧車。舞台。カジノ台。シャンデリア。絨毯。——奇妙な、一度も見たことのない種類の、豪華さ。


「……兄貴、」


下っ端の一人が、声を潜めた。


「やっぱり、あのピエロの言ってた、あれ、……本当だったのか」


「——黙ってろ」


兄貴と呼ばれた男が、鋭く、それを遮った。


けれど、遮るのが、遅かった。


わたしの耳には、あのピエロの言ってた、という一言が、しっかり、届いていた。


ピエロ。


娯楽層の、どこを見ても、それらしい姿はなかった。けれど、ここは、ピエロがいてもおかしくない場所だった。むしろ、ここに似合いすぎる、とさえ、思った。


——誰かが、彼らを、ここに、送り込んだ。


その事実だけは、理解できた。それ以上のことは、考える余裕が、なかった。


「……おい」


兄貴格の男の、視線が、ぐるりと回って、——ぴたり、と、こちらに、止まった。


「先客がいるじゃねえか」


残りの三人も、こちらを、見た。


見られた瞬間、下っ端のうちの一人が、笑った。


「——お、お、お! なんだこれ、メイドちゃんと、お姫様じゃねえか!」


「うっそマジか、さっきまで裏路地でスリやってた俺らに、こんなご褒美ある?」


「兄貴、兄貴、これ、これが報酬ってやつか?」


「……黙れ、っつってんだろ」


兄貴格の男は、舌打ちをした。舌打ちをしたけれど、——否定は、しなかった。


わたしの、背中が、冷たくなった。


報酬、と、彼らは言った。 誰かが、彼らに、何かを報酬として約束した。 その何か、のうちの一つが、わたしたち、であるかもしれない、と、彼らは本気で、思っている。


「……リリアン、」


ティリア様の、声が、背後から、かすかに、聞こえた。


初めて、わたしを、名前で、呼んだ。


「……うん」


わたしは、頷いた。頷いただけで、自分の声が震えていることに、気づいた。


握っていたティリア様の手に、わたしは、できる限り、力を込めた。逃がさない、という意味で。 ティリア様も、握り返してきた。離さない、という意味で。


無聊を慰める、はずの、七十二時間。 この、夢のない世界では、接待も、娯楽も、時間を潰すためのもの。


——誰かが、言っていた。


誰が、言っていたのだっけ。


まだ、誰も、そんなこと、言っていなかった気がする。 わたしの頭の中で、誰かが、言っていただけだった。


——けれど今、わたしは、その言葉の、本当の意味を、たぶん、少しだけ、理解しかけていた。


接待も、娯楽も、時間を潰すためのもの。 ——そして、今、娯楽層は、文字通り、「娯楽」の舞台になろうとしている。


誰かにとっての。

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