72時間
——以上でございます」
シルヴァ は、三つの言葉を告げ終えてから、小さく息を吐いた。その吐息が、本当に呼吸として必要なものなのかは、わたしにはもうわからなかった。
と、その時。
彼女の視線が、ふと、宙を泳いだ。
わたしたちの誰もいない、書架のいちばん奥の方。あるいは、もっと遠い場所。何かを、聞き取ろうとするような仕草だった。耳ではなく、皮膚で、あるいは、もっと別の感覚で。
数秒、静止。
「……お客様が、お見えのようです」
彼女は、そう言った。声の調子は、変わらなかった。けれど、言葉の選び方が、微妙に変わっていたことには、わたしも気づいた。「かもしれません」でも、「かもしれない」でもなく、「お見えのようです」。確定事項として、話している。
「リリアン様、ティリア様」
シルヴァ は、わたしたち二人に、ゆっくりと向き直った。
「大変恐縮でございますが、わたくしはこれより、接待に向かいます」
「あ、」
わたしは、思わず声を上げた。
「えっと、わたしは、」
「お二人には、お残りいただいて結構です」
シルヴァ は、軽く首を振った。
「今回の来客は、リリアン様にお頼みするものではございません。いわゆる、わたくしの担当、と思っていただければ」
シルヴァ に担当がある。ということは、やはり、客は複数の種類があるらしい。以前、彼女が言いかけた、「別の作法」の話を、ふと思い出した。
「この書庫層は、自由にご覧いただいて構いません。書架も、卓も、お茶の道具も、ご自由にお使いください」
一拍、置いて。
「それから、もしご関心があれば、下の階にも、お立ち寄りいただいて結構です」
「……下の、階?」
「ええ。機械層と、それから、娯楽層。おそらく、お二人がお時間を持て余されるには、じゅうぶんかと」
「娯楽層、」
初めて聞く名前だった。 ウェンディ と会ったのは、機械層。シルヴァ がいるここは、書庫層。つまり、もう一つある、ということだ。
「階段は、書架の奥にございます。普段は、わたくしがお送りいたしますが、七十二時間ほど、不在にいたしますので」
「……七十二時間」
「はい」
「……長、いですね」
「そうでしょうか」
シルヴァ は、ほんの少しだけ、首を傾けた。
「ここで過ごすうちに、お慣れになります」
それが慰めなのか、警告なのかは、わからなかった。
「それまでの間、どうか、ご自由に」
シルヴァ は、両手を身体の前で軽く重ねた。これが、彼女のお辞儀の前の姿勢なのだ、と、このときわたしは初めて気づいた。
そして、ぱちん、と。
軽い指の音を残して、彼女は、消えた。
後に残ったのは、蛍火が漂う静かな書架と、わたしと、ティリア様、だけだった。
……沈黙、というものにも、種類がある。
気まずい沈黙。 気楽な沈黙。 互いに何か言いたいのを探っている沈黙。
今、わたしとティリア様のあいだにあるのは、分類が難しい沈黙だった。
ティリア様は、シルヴァ が消えた位置を、まだじっと見ていた。主人に置いていかれた、子犬のような、——いや、違う、そんな単純な表現では足りない。もっと、静かな、何かを確認しているような目つきだった。
わたしは、というと、動けなかった。
ここで、何か言うべきだ、と頭ではわかっていた。声をかけて、緊張を解いて、ティリア様を安心させて、それから、シルヴァ の言う「助ける」ということを、実行すべきだ。
でも、何と声をかければいい。
前の自分は、初対面の女性と話すことが、世界で一番苦手な人間のうちの一人だった。相手が同い年であれば最悪、相手が年下の、しかも十歳近く離れた女の子。難易度で言えば、もはや振り切れている。
加えて、今のわたしの身体は、女だ。 女から女の子に話しかけるという経験を、わたしは一秒も持っていない。前の自分が、どういう声をかけられて嬉しかったか、なんていう参照情報は、あいにく、一つもない。
……どうする。 どうする、わたし。
永遠にも思える数十秒が、過ぎた。
こういう時、前の自分なら、諦めてスマホを見始めていた。けれどここには、スマホはない。逃げ場は、ない。
……仕方、ない。
わたしは、息を吸った。
「あの、」
思っていたより、小さな声が出た。
「……喉、乾いて、ない?」
口にしてから、自分の選択の無難さに呆れた。
けれど、ティリア様は、その問いかけに、初めて、反応を見せた。
長い金色の睫毛が、一度、下に伏せられ、そして、ゆっくりと上に戻った。
続いて、小さな頷き。
ほんの、数ミリ。けれど、確かに、頷いた。
……通じた。
わたしは、内心で、小さく拳を握った。前の自分が一度も経験したことのない種類の達成感が、胸のあたりで静かに光った。
「えっと、じゃあ、」
声が、少し、明るくなってしまった。慌てて、調子を抑える。
「お茶、淹れるね。さっき、習ったばっかりだから、上手くいくかは、わからないけど」
シルヴァ が置いていってくれた円卓には、ティーセットが一式、そのまま残っていた。ポットはまだ温かい。温かい、ということが、妙に、嬉しかった。シルヴァ が、わたしたちのために、冷めないままにしてくれていた。
茶葉の缶を開け、お湯を注ぎ、砂時計を置く。頭の中で、先ほど教わった手順を、一つずつなぞる。手は、まだ慣れていない。けれど、できないこと、ではなかった。
カップに注いだ紅茶は、思っていたよりも、きれいな赤色だった。
「……どうぞ」
わたしは、それを、ティリア様の前に差し出した。
小さな手が、両手で、カップを受け取った。手袋越しの指先は、白くて、細くて、驚くほど小さかった。
一口。
ティリア様は、丁寧に、カップを傾けた。口元が、ほんのわずかに動いた。それから、カップを受け皿に戻し、
「……美味しい」
ぽつり、と。
彼女が、初めて、喋った。
声、なのだ、と、一瞬、理解が遅れた。鈴を振るような、というのが、こういう声のことを言うのかもしれない、と、どうでもいいことを思った。
「……よかった」
わたしは、言った。
「それなら、よかった」
言葉が、他に思い浮かばなかった。
沈黙が、また戻ってきた。
けれど、さっきの沈黙とは、違う種類の沈黙だった。
互いに、喋る必要が、特にない。それでいて、居心地が、悪くない。どう形容していいか、わたしには、まだ言葉がなかった。
ティリア様は、時折、紅茶を口に運びながら、書架の間を漂う蛍火を、じっと見ていた。
「……あの、」
わたしは、意を決して、訊いてみた。
「一つ、訊いていい?」
ティリア様は、こくり、と頷いた。
「ティリア様は、その、」
言葉を、選ぶ。
「……シルヴァ さんに、何か、お願いされた? 仕事とか、そういうの」
ティリア様は、首を、横に振った。
「……ない」
短い、けれど、はっきりした声だった。
「ない、」
わたしは、繰り返した。
「……本当に?」
「……うん」
「わたしは、お茶、を、淹れてくれって」
「……知ってる」
知っている、らしかった。わたしが機械層に飛ばされていた間、シルヴァ がティリア様に、ある程度の説明をしたのかもしれない。
「でも、ティリア様には、」
「ないの」
「……そっか」
不公平、と言えば、不公平だった。けれど、そもそも、何が公平で、何が不公平なのかも、ここではまだ、よくわからなかった。
少しの、沈黙。 それから、ティリア様は、ぽつぽつと、続けた。
「……わたしも、よく、分かってないの」
「……うん」
「でも、たぶん、」
青い瞳が、わたしの方を、まっすぐに見ていた。
「……寂しかったから、なのかな」
「……寂しかった?」
「うん。ずっと、話し相手が、欲しかった。それから、」
一拍、置いて。
「……お姫様みたいな、世界に、行きたかった」
だから、と、ティリア様は、自分の格好を、小さな手で示した。
淡い水色のドレス。幾重ものレース。金色の、小さな冠。彼女自身が、憧れていた世界の、衣装。
「……じゃあ、ここは、」
「うん」
ティリア様は、頷いた。
「たぶん、わたしが、いちばん、望んでた場所。だと、思う」
その言い方が、どこか、自分でも半信半疑のように聞こえたのは、気のせいではないと思った。望んでいた場所。でも、望みそのものが、今、本当に自分のものだったのか、自信が持てていない。そんな声だった。
似ている、と、わたしは、思った。
……わたしも、同じようなものだ、と。
「……わたしもね、」
気づけば、自分から、喋っていた。
「前の自分、が、あんまり、好きじゃなくて」
言葉を、慎重に、選んだ。
「……今の自分になれたら、って、思ったことは、あった。でも、本当に、こうなりたかったのか、今の自分で、よくわからなくなってる」
言いながら、自分でも、言葉にして初めて、形になった感情だった。
「前の自分が、嫌だったから、逃げたかっただけ、なのかも」
ティリア様は、じっと、わたしを見ていた。否定も、肯定もせず。
けれど、ふと、小さな声で、
「……一緒だね」
そう、言った。
わたしは、笑った、と思う。たぶん。笑う、という動作が、前の自分とは違う筋肉の動かし方になっていたのを、初めて、違和感なく感じられた瞬間だった。
「ねえ、ティリア様」
わたしは、訊いてみた。
「さっき、シルヴァ さんが、下の階、行っていいって、言ってたよね」
ティリア様は、こくり、と頷いた。
「わたし、機械層は一度見たけど、娯楽層って、行ったことなくて」
「……わたしも、ない」
「行ってみる?」
ティリア様は、少し、考える素振りを見せた。手の中のカップを、じっと見ていた。
「……いい?」
「いいよ」
わたしは、できるだけ、軽く、頷いた。
「……暇、だし」
ほんの小さく、彼女の口元が、動いた。笑った、のかもしれない。わたしには、確信が持てなかった。
けれど、彼女は、カップをそっと置き、わたしに、手を、差し出した。
「……一緒に、行って」
それが、お願いなのだということを、わたしは、一拍遅れて、理解した。
わたしは、その小さな手を、自分の手で、そっと握った。
前の自分なら、たぶん、永遠にできなかった種類の接触だった。
書架の奥に、階段は、確かにあった。
大きな書架と書架のあいだに、まるで元からそこにあったかのように、下に続く石の階段が、口を開けていた。段数は、数えきれない。下のほうは、薄暗くて見えない。
「……深そう」
わたしは、呟いた。
「……うん」
ティリア様は、わたしの手を、離さなかった。
一段ずつ、降りる。 急ぎはしなかった。急ぐ必要がなかった。七十二時間もあるのだ。
石の階段には、壁に一定の間隔で、小さな蛍火の燈籠が、掛かっていた。書庫層で漂っていた、あの光の粒と同じ、淡い黄緑色の光。壁の石は、古く、ところどころに苔が生していた。足音は、ぺた、ぺた、と、妙に、よく響いた。
降りていくあいだ、二人とも、ほとんど喋らなかった。 けれど、それも、悪くない沈黙だった。
階段が、終わった。
「……わぁ」
と、思わず声が出た。
ティリア様の手を、しっかりと握ったまま、わたしは周囲を見回した。
——広い。 書庫層も広かった。けれどあそこは、書架と書架で区切られていた空間だった。ここは、視界が、開けている。
天井は、高いドームのようになっていた。そこから、無数のシャンデリアが、吊られている。けれどよく見ると、シャンデリアに見えていたのは、ガラスではなく、色とりどりの、透明なオルゴールのような機構だった。ぱらぱらと、微かな音が、聞こえる気もする。
床には、色とりどりのタイル。絨毯。木製の、古ぼけた台。台の上には、カードが伏せて置かれていた。カジノ、だろうか、前に映画で見たような、そういう場所の、ミニチュアのような。
奥には、大きな舞台。舞台の上には、奇妙な形の、やぐら。そのさらに奥には、観覧車のような、大きな、円い機構が、止まったまま、佇んでいた。
「——……」
ティリア様が、何か、小さく、声を漏らした。 わたしは、彼女の顔を見た。金色の瞳が、大きく、見開かれていた。
「……すごい」
ぽつり。
「ね」
わたしも、同意した。
けれど、少し、歩き進めるうちに、気づいたことがあった。
——誰も、いない。
いや、それは、書庫層も、機械層も、そうだったのだけれど。 書庫層には、シルヴァ がいた。機械層には、ウェンディ さんがいた。 でも、ここには、誰もいない。
ただ、誰もいないのに、照明はついている。オルゴールの音は、微かに鳴り続けている。まるで、開店準備が終わったあとの、誰も来ない店のような。
もっと正確に言えば——誰かが、ここに、いた。いた痕跡が、あちこちに、ある。 でも、今は、誰もいない。
絨毯の上に、一枚のトランプが、落ちていた。 カードの表には、道化師の絵が、描かれていた。 絵の、道化師の顔は、笑っていた。 笑っていたのに、なぜか、寂しそうに見えた。
ティリア様は、わたしの手を、握ったまま、動かなかった。
怖がっているのかもしれない。 わたしは、できるだけ、落ち着いた声で、言った。
「……どこか、座れるところ、探そっか」
この広すぎる空間を、立ったまま、見回し続けるのは、二人とも、そろそろ疲れてきていた。疲れない、とシルヴァ は言っていたけれど、精神の疲れは、別の話らしかった。少なくとも、わたしの気持ちは、明らかに、重たくなってきていた。
娯楽層の、中央から少し離れた場所に、小さな丸テーブルと、それを囲む椅子が、いくつか並んでいた。テーブルの上には、開きかけのトランプと、使いかけの小さなコインの山が、そのまま、残されていた。
誰かが、途中で、席を立ったようだった。 ——随分、昔に。
「ここ、座ってもいいかな」
と、わたしはティリア様に訊いた。
ティリア様は、こくり、と頷いた。
二人で、並んで、椅子に腰を下ろす。ティリア様の足は、床に届かなかった。ぶらぶらと、軽く、揺れた。
「……リリアン、は、」
と、ティリア様が、ぽつりと言った。
「……ここ、怖い?」
「……うん、」
正直に、答えた。
「ちょっと、怖いかも」
「……わたしも」
ティリア様は、頷いた。
「……誰も、いないのが、怖い」
「……うん」
「……童話の本の、最後のページ、みたい」
——童話の本の、最後のページ。
その表現は、少し、胸のあたりに、引っかかった。物語が終わった後の、誰もいなくなった舞台。登場人物が、全員、どこかに行ってしまった後の、絵本の最終ページ。——たしかに、ここは、そんな感じがした。
わたしたちは、しばらく、黙って、座っていた。
話すことは、特になかった。話さないでいられる、というだけで、前の自分から見れば、もう、じゅうぶん、何か変わっていた。
ティリア様の、小さな足が、椅子の下で、時折、揺れた。ぶらぶら、ぶらぶら。規則的ではない、なんとなしの、揺れ方だった。
わたしは、テーブルの上の、使いかけのコインの山を、なんとなく眺めていた。銀色のコインも、銅色のコインも、混じっていた。どれも、擦り切れた模様が、浮き出ていた。たくさんの人の手に触れられてきた道具の、顔だった。
「……あ、」
と、ティリア様が、小さく、声を上げた。
「どうしたの」
「……光が、消えた」
「え、」
わたしは、顔を上げた。
——天井の、シャンデリア。 先ほどまで、微かに音を立てていた、オルゴールのような機構。 それらが、一つ、また一つ、順番に、光を落としていた。
中央から、外側へ。波紋のように。
「……え、え、ちょっと、」
わたしは、立ち上がった。ティリア様の手を、反射的に、握り直した。
光が、消える。 波のように、光が、消えていく。 最後の一つが、吊り天井の隅で、ぷつ、と、消えた、その時——
——空気が、歪んだ。
娯楽層の、中央の、少し開けた場所。わたしたちから、十メートルほど離れた、絨毯の上。その一角だけが、ぐにゃりと、揺れた。シルヴァ が何かを消す時の、あの清潔な感じとも違う。ウェンディ が立ち去った時の、静かな消え方とも違う。
もっと、雑に。 まるで、無理やり突っ込まれるように。
光が、弾けた。
「——っ、」
ティリア様が、わたしの後ろで、小さな声を上げた。わたしは、反射的に、彼女を、自分の身体の陰に、そっと、引き寄せた。自分が庇える立場なのか、とは、一秒も考えなかった。というか、考える暇がなかった。
光が、収まった。
そこに、——人が、いた。
四人。
「うっわ、なんだここ」
「いってぇ、腰うった……」
「おい、立て、立て」
声は、男のものだった。若い。二十歳前後か、もう少し、下かもしれない。全員、どこにでもいそうな、薄汚れた外套と、安物のブーツ。腰に提げているのは、粗末な短剣、——というよりは、ほぼナイフに近い代物。前の世界で言うなら、町外れで、若いのが突っ張って歩いている、そういう連中の、そのままの姿だった。
ひとりが、よろよろと、立ち上がった。きょろきょろと、周囲を見回す。
「ここ、どこだよ。兄貴、聞いてねえぞこんな場所」
「うるせえ、俺だって知らねえよ! さっきまで、あの路地にいたはずだ、だよな?」
「いた! 絶対いた! なんで急に——」
「……騒ぐな」
最後の一人が、立ち上がった。 他の三人より、少しだけ、落ち着いていた。けれど、落ち着いていたからといって、怖くないということではまったくなかった。むしろ、冷静なぶん、厄介な種類の気配がした。
彼は、周囲を、ぐるりと、見回した。 観覧車。舞台。カジノ台。シャンデリア。絨毯。——奇妙な、一度も見たことのない種類の、豪華さ。
「……兄貴、」
下っ端の一人が、声を潜めた。
「やっぱり、あのピエロの言ってた、あれ、……本当だったのか」
「——黙ってろ」
兄貴と呼ばれた男が、鋭く、それを遮った。
けれど、遮るのが、遅かった。
わたしの耳には、あのピエロの言ってた、という一言が、しっかり、届いていた。
ピエロ。
娯楽層の、どこを見ても、それらしい姿はなかった。けれど、ここは、ピエロがいてもおかしくない場所だった。むしろ、ここに似合いすぎる、とさえ、思った。
——誰かが、彼らを、ここに、送り込んだ。
その事実だけは、理解できた。それ以上のことは、考える余裕が、なかった。
「……おい」
兄貴格の男の、視線が、ぐるりと回って、——ぴたり、と、こちらに、止まった。
「先客がいるじゃねえか」
残りの三人も、こちらを、見た。
見られた瞬間、下っ端のうちの一人が、笑った。
「——お、お、お! なんだこれ、メイドちゃんと、お姫様じゃねえか!」
「うっそマジか、さっきまで裏路地でスリやってた俺らに、こんなご褒美ある?」
「兄貴、兄貴、これ、これが報酬ってやつか?」
「……黙れ、っつってんだろ」
兄貴格の男は、舌打ちをした。舌打ちをしたけれど、——否定は、しなかった。
わたしの、背中が、冷たくなった。
報酬、と、彼らは言った。 誰かが、彼らに、何かを報酬として約束した。 その何か、のうちの一つが、わたしたち、であるかもしれない、と、彼らは本気で、思っている。
「……リリアン、」
ティリア様の、声が、背後から、かすかに、聞こえた。
初めて、わたしを、名前で、呼んだ。
「……うん」
わたしは、頷いた。頷いただけで、自分の声が震えていることに、気づいた。
握っていたティリア様の手に、わたしは、できる限り、力を込めた。逃がさない、という意味で。 ティリア様も、握り返してきた。離さない、という意味で。
無聊を慰める、はずの、七十二時間。 この、夢のない世界では、接待も、娯楽も、時間を潰すためのもの。
——誰かが、言っていた。
誰が、言っていたのだっけ。
まだ、誰も、そんなこと、言っていなかった気がする。 わたしの頭の中で、誰かが、言っていただけだった。
——けれど今、わたしは、その言葉の、本当の意味を、たぶん、少しだけ、理解しかけていた。
接待も、娯楽も、時間を潰すためのもの。 ——そして、今、娯楽層は、文字通り、「娯楽」の舞台になろうとしている。
誰かにとっての。




