花の名と、最初の一杯
「まず、」
シルヴァ は、わたしの——正確には、わたしが着ているサイズの合わないブレザーを、視線でなぞった。
「服装を、どうにかいたしましょう」
言われて、自分の身体をあらためて見下ろす。肩は落ちているし、袖口は手の甲の半分を覆っている。シャツの胸元は不自然に張っていて、ズボンの裾は足首より上で止まっている。以前の自分にはぴったりだったはずの制服が、今は、他人のものを借りて着ている、ひどく不格好な何かだった。——借りているのは、自分の中身のほうだけれど。
「何か、お召しになりたいものは?」
そう訊かれて、わたしは一瞬、言葉に詰まった。
何か、と言われても。 女になってから、まだ十分も経っていない。女物の服で、何が何なのか、きちんと考えたこともない。
——ただ、
頭の中に、ぽんと、一つの単語が浮かんだ。
メイド服。
……浮かんでしまった。
なぜ、と自問する。接客だから。接客をする服と言えば、メイド服。論理としては、間違っていないはずだ。間違っていないよね? これは、合理的な職業選択であって、決して個人的な嗜好ではない——はずだ、はず——
前世で、そういう画像を、検索した回数を思い出しそうになった。思い出さないことにした。
「あの、」
自分でも、声が少し掠れているのがわかる。
「……メイド服、とか、ダメでしょうか」
言い切ってから、耳が燃えるように熱くなった。
シルヴァ は、軽く首を傾げた。
「メイド服、でございますか」
復唱したその声に、特に感情は乗っていなかった。笑いもしなければ、奇異なものを見る目もしない。赤い花がいいと言われて、では赤い花で、と確認する花屋のような、そういう平たさだった。
「承知いたしました」
そう言って、彼女は右手を軽く上げ、胸の前で——ぱちん、と指を鳴らした。
——瞬間。
ブレザーが消えた。「脱げた」のではなく、「消えた」。存在そのものが最初からなかったかのように、音もなく。代わりに、身体に別の布の感触が触れていた。
わたしは、反射的に、自分の身を見下ろした。
——黒い上衣。 ——白いエプロン。 ——短いスカート。
膝の、少し上のあたりで、裾が軽く揺れている。スカートの下は黒い長靴下で、そこに白いレースが巻かれている。靴は、バックルのついた黒い革靴。頭に手をやると——指先に、ひらひらとした何かが当たった。カチューシャ、のようなものが、ついているらしい。
……確かに、メイド服だ。 ……確かに、そうなのだが——
「……あの、」
声が一段小さくなった。
「これ、ちょっと、」
——短くないでしょうか、と言いかけて、喉のところで詰まった。
シルヴァ は、わたしをじっと見ていた。質問の意図が測りかねる、という顔だった。
「——形状に、ご不満が?」
「いや、不満というか、」
わたしは、両手でスカートの裾をそっと引っ張った。数センチだけでも伸びてくれないかな、という切実な願いを込めて。もちろん、布は従わなかった。
「……これ、動いたら、その、」
「ああ」
シルヴァ は、そこで小さく頷いた。
「見えるか、ということでございますね」
あまりにも直截な言い方に、わたしは思わず口をつぐんだ。
「ご心配には及びません」
彼女は淡々と続けた。
「そちらには、最低限の結界が織り込まれております。スカートの内側は、あなた様以外の視界からは遮蔽される仕組みです。角度の問題ではなく、『見えない』ように処理されていますので」
「……そういうの、あるんですか」
「ええ。この世界では、ごく一般的な仕様でございます」
ごく一般的。一般的なのか、これが。
世界観が早速、何かしらズレた方向に揺れた気がしたが、わたしはそれを追及しないことにした。あとで考える。きっとあとで。
「それから、お名前を」
と、シルヴァ は続けて言った。
「……名前?」
「ええ、あなた様のです」
ああ、と思った。 そう言えば、自分の名前。前の自分の名前のまま、ここで呼ばれるのは——考えるまでもなく、違和感があった。前の名前は、前の身体と、前の声と、前の顔に紐づいている。この身体で、あの名前で呼ばれるのは、たぶん、ひどく気持ちの悪いことになる。
「何か、ご希望は?」
「……特には、」
正直、何も思いつかなかった。 女性名を、自分でつけるなんて、考えたこともなかった。
「では、こちらで定めてもよろしいでしょうか」
「は、はい、お願いします」
シルヴァ は、少し目を伏せて、ほんの数秒、考えるような間を置いた。
「——リリアン」
そう、 言った。
「リリアン、といたしましょう」
「……リリアン」
口の中で、一度、転がしてみる。 響きは悪くなかった。柔らかくて、少し甘くて、——つまり、今のわたしの身体に、そこそこ合っていた。合っていることが、なんだか少し、悔しかった。
「意味は?」
つい、訊いてしまった。
「百合でございます」
シルヴァ は、ほんの少しだけ、視線を下げて続けた。
「——この場所では、あなた様のような方が訪れるたび、花の名を贈ることになっております」
「……花の、名前」
「はい。ひとつの、慣わしのようなものと、お考えくださいませ」
——花の、名前。 百合、か。
複雑な表情をしていたらしい。シルヴァ は、ほんの少しだけ、付け加えた。
「ご不快でしたら、お変えいたしますが」
「……いえ、」
わたしは、少し俯いて、答えた。
「リリアン、で、いいです」
言ってみて、自分の口でその名前を発音した違和感が、やっぱり、少しあった。けれど、嫌ではなかった。嫌ではない、という程度が、たぶん、今の自分にとってはちょうどよかった。
「では、リリアン様」
シルヴァ は、初めて、その名でわたしを呼んだ。
「——第一課を、始めさせていただきます」
わたしは、背筋を伸ばした。 何を教わるのだろう。最低限の礼節。所作。言葉遣い。お辞儀の角度。歩き方。——少なくとも、そういったものが来るものと覚悟をしていた。
シルヴァ は、わたしの前に、音もなく、小さな円卓を出現させた。指を一度動かしただけだった。円卓の上には、いつのまにか、ティーセットが一式揃っていた。湯気を立てているポット、カップ、受け皿、砂糖壺、銀の小さな匙。
「——お茶を、淹れていただきたく存じます」
……ん?
「お茶、ですか」
「はい」
「……それだけ?」
「それだけでございます」
わたしは、目を何度か瞬かせた。
お茶を淹れる。それだけ?
——それは、別に、難しくない。
前世でも、家で麦茶を沸かしたことはある。もう少し丁寧にやれば、紅茶くらいなら、淹れられなくもない。ティーバッグを使わずに、ポットから淹れる——そういう作法の話だとしても、まあ、やればなんとかなる範囲だろう。
……え、これ、本当に、それだけ?
わたしの表情が、たぶん、そのまま顔に出ていたのだと思う。シルヴァ は、いつもの平坦な声で、軽く補足するように言った。
「あなた様のお望みを叶えるにあたり、わたくしはそれほど大きな力を使っておりません」
「……はい?」
「したがって、対価も、それに見合う程度のもので、構わないのでございます」
——え。
「つまり、」
シルヴァ は、わたしの表情を、ちらりと見た。
「あなた様にお願いしているのは、大仰な労働ではございません。この場所に住まう者たち、——それから、今後、あなた様と同じようにお呼びする『ご同類』の方々に、お茶をお淹れする。それくらいのことでございます」
ひと息に、そう言った。
わたしは、すぐに返事ができなかった。
——住まう者たち? ——「ご同類」? ——今後、呼ばれてくる?
「……あの、」
わたしは、慎重に、言葉を選んだ。
「『ご同類』って、」
「あなた様のような方、ということでございます」
「……それって、」
ぞわり、と、皮膚の表面が立った。
「わたし以外にも、」
「お呼びしております」
シルヴァ は、あっさり、頷いた。
「今後も、幾人か、お招きする予定でございます」
「……どうして」
その質問は、たぶん、訊くべきではなかった。 訊いた瞬間、シルヴァ の表情が、ほんの一瞬だけ、止まった。感情が凍ったというより——答えるべきかどうかを、計算している、そういう止まり方だった。
彼女が口を開きかけたその時。
——円卓の上の、ポットが、かたり、と鳴った。
お湯の沸く音ではなかった。もっと、硬い音。金属がかち合うような、小さな、警告のような音。
シルヴァ の視線が、すっと、遠くを見た。 彼女は、ほんの一瞬、何かを確認するように、目を閉じた。 ——開けた。
「あら」
小さく、そう言った。
「予定より、お早いようですね」
「——え?」
訊き返すより早く、シルヴァ は、こちらに向かって、右手を、軽く上げた。
——指が鳴らされた。
ぱちん。
その音が耳に届いた瞬間、わたしの足元の床が抜けた。
抜けたという表現しかできなかった。沈んだのでも、消えたのでも、崩れたのでもない。ただ、床がなかったことになった。一瞬、重力が失われ、次の瞬間、別の場所の空気が皮膚を撫でた。
メイド服の短いスカートが、ふわりと浮かんで——結界、と言っていた言葉を、こんな時に、しっかり思い出した。役に立っていたらいいが。
次の瞬間、足の裏が、硬い金属の床に、着地した。
わたしは、つんのめりそうになって、慌てて姿勢を立て直した。
——そこは、先ほどまでとは、まったく違う場所だった。
空気が違う。 書架の静けさでも、苔の匂いでもない。代わりに、油の匂い。金属の匂い。どこか奥のほうで、規則的に、重いものが動いている音。ぎいい、と、低く、金属が軋んでいる。
見上げると、天井まで届く高さに、歯車があった。 大きいもの、小さいもの、錆びているもの、銀色に光っているもの。数えきれない数の歯車が、壁という壁に、幾重にも重なって、噛み合って、回っている。天井からは、鎖が何本も垂れていて、それぞれの先端が、何かしらの機構に繋がっている。
ここは、
——どこかの実験室だろうか。
見回して、呼吸を整えようとしたその時。
「——おや」
声が、した。
歯車の音に紛れるほど低いのに、確かに、わたしの耳に届いた、声。
わたしは、ゆっくりと、そちらに顔を向けた。
そこに、
——ある人物が立っていた。




