書架の奥の管理者
視界が、戻った。
最初に目に入ったのは、本だった。
見上げるほどの高さの書架が、どこまでも続いている。一番上は、暗くて見えない。床から数えて何段あるのかもわからない。並んでいる背表紙は、革張りだったり、布張りだったり、金属めいた光沢を持つものもあった。文字はあるが、どれも読めない。読めないのに、なぜか「古い」ということだけは、一目でわかる。
空気は、しんとしていた。
音のない、というよりも、音が全て本の中に吸い込まれていくような、そんな独特の静けさ。埃の匂いは、しなかった。代わりに、微かに苔の香りがした。
そして、光。
天井からは、光が差していなかった。そもそも、天井がどうなっているのかも、よく見えない。けれど書架と書架のあいだを、小さな黄緑色の光の粒が、ゆっくりと漂っていた。蛍、だろうか。いや、蛍にしては、数が多すぎる。何百、何千という小さな光が、本の谷間を、音もなく、滑るように流れている。
まるで、本棚の中に、星空があるようだった。
「——、」
私は、言葉を失った。
失った、という表現が正しいのかも、わからない。ただ、自分の口から何の音も出なかったことは確かだった。
さっきまで、俺は——いや、私は、校門の前にいたはずだ。鞄の肩紐がずれて、それを直しながら歩いていた。いつも通り、遅刻ギリギリの時間に。そして、ふと、視界の端に、斜めに白い光が差し込んで——
それから、ここに。
本当に、ここに?
もう一度、ゆっくりと、周囲を見回した。見回すほどに、信じられなくなっていく。信じられないのに、信じるしかない。だって、目の前に、ある。この、現実味のない、現実が。
——すごい。
真っ先にそう思った自分に、少し驚いた。
怖い、でも、帰りたい、でもなく、まず、すごい、と。
書架の谷間を漂う光の粒が、一つ、ゆっくりと私のほうに近づいてきた。手を伸ばしてみると、それは掌の上に、ふわりと降りた。重さは、なかった。熱も、ない。ただ、ほのかに光っている。触れているのに、触れている感触すらない。
不思議な場所だ。 少なくとも、教室よりは、ずっと。
——そう思った瞬間、自分の掌を見下ろしている視界の中で、ようやく、もう一つの異変に気づいた。
指が、細い。
自分の指、だろうか。 確かに、自分の意思で動いている。動かそうと思ったら、動く。けれど、形が、違う。節が目立たない。爪が、小さく、綺麗に丸まっている。皮膚が、白い。
私は、息を呑んだ。
ゆっくりと、両手を自分の顔に持っていく。頬に触れた指先が、柔らかな感触を捉える。顎の輪郭。尖っていない。鼻筋。低くはないが、ずっと細い。唇——薄くない。
——髪が、視界に落ちてきた。
灰白色の、短い髪だった。 肩までは届かない。耳の下、首筋のあたりで揃えられている。色は、淡い、ほとんど白に近い灰。月のようだ、と思ったが、その喩えが自分の口から出てきたことにも、少し驚いた。前の自分なら、絶対にそんな表現はしなかった。
身長は、たぶん、変わっていない。視界の高さが、いつもとほとんど同じだ。——元々、同年代の男子の中では、低いほうだった。だから、「低くなった」という感覚はない。代わりに、身体の輪郭が、変わっていた。肩幅が、狭い。腰の位置が、違う。そして、胸元には——
見下ろした自分の身体は、着ていたはずの制服のブレザーだけを、そのまま纏っていた。肩幅が合わず、袖口が手の甲の半分を覆っている。ワイシャツの胸元は——膨らんでいた。それも、自分のものとして。
——女の、身体だ。
理解した瞬間、心臓が跳ねた。 恐怖ではなかった。 むしろ、それに近いのは——
——嬉しさ、だった。
自分でも、戸惑うくらいに、はっきりと、嬉しかった。
この身体は、綺麗だ。 掌だけでも、わかる。指の曲線が、皮膚の白さが、今まで鏡に映してきた自分のどの部分とも違っていた。顔は——まだ見ていないけれど、たぶん、鏡を見たら、見たことのない顔がそこにあるのだろう。前の顔じゃない、ということだけで、もう、胸の奥が、妙に温かくなる。
前の顔。 脂ぎった、丸い、目の小さい、どうしても好きになれなかった、あの顔。毎朝、鏡の前で、できるだけ早く視線を外していた、あの顔。それが——もう、無い。
本当に?
もう一度、自分の手を見た。自分の身体を見た。 本当だった。
——いい、のか。
こんなに、あっさり、こんな形で、前の自分を置いてきてしまっても、いいのか。
頭のどこかで、小さな警鐘が鳴っている気もしたが、それよりも、胸の奥に広がる、微かな、くすぐったいような嬉しさのほうが、ずっと強かった。もういい。元の身体なんて、もう、いい。あれに戻らなくて済むなら、それだけで——
「ご気分は、いかがですか」
——声。
書架の奥から、それは聞こえた。
私は、弾かれたように顔を上げた。
本棚と本棚のあいだの通路の、少し奥。 ——いつからそこに立っていたのだろう。一人の女性が、こちらを見ていた。
淡い青色の、長い髪だった。腰のあたりまで、一筋の乱れもなく、まっすぐに垂れている。瞳は、それよりも少し濃い、深い青。肌は、月光を溶かしたように白い。背筋はまっすぐ伸び、両手は身体の前で軽く重ねられていた。
立ち姿だけで、何か特別な職業の人だ、と、直感的に理解できる種類の佇まいだった。例えるなら、図書館の司書の、もっと格式の高いバージョン。あるいは、博物館の案内係の、もっと厳しい姉。——いや、そのどれとも違う。もっと、機能的な。
私は、彼女を「職員」のようなものだと、ほとんど無意識に分類していた。
感情が薄い。敵意も、好意も、特にない。淡々と、その場に立っている。
「あ、」
何か言おうとして、自分の喉から漏れた声に、一瞬、身体が硬くなった。 ——高い。 甲高いわけではない。ただ、柔らかくて、細い、女性の声。 自分の声だと、理解するのに、数秒かかった。
「……あの、」
もう一度、試しに発してみる。やはり、違う。違うのに、自分から出ている。不思議だった。不思議で——悪くない、と、思ってしまった。
女性は、その様子を、特に咎めるでもなく、急かすでもなく、ただ静かに見ていた。
「わたくしは、シルヴァと申します」
彼女は、そう名乗った。
「この——」と言いかけて、少し考えるように一拍置いた。「——場所の、管理を任されている者です」
場所、という単語の選び方に、微かな逡巡が感じられた。別の、正確な呼び方があるのを、言わないことにした、という感触だった。
「シルヴァ、さん」
私は、ぎこちなく、その名を繰り返した。 シルヴァは、小さく頷いた。
「あなたのことは、存じております」
——え。
「正確には、あなたの、『望み』を、でしょうか。それを受け取ったので、この場所まで、お招きしました」
望み。
その単語で、私は、思わず自分の身体を、もう一度見下ろした。 ——この姿に、ということか。
「あ、あの、」 「はい」 「これ、って、」
言葉が、まとまらない。頭の中で、訊きたいことが順番を争って、喉元で渋滞していた。ここはどこですか。私はどうなっているんですか。帰れるんですか。——いや。
……帰る? 一番後ろに並んだその単語を、自分で、意外に思った。
帰りたい、と、即座に思わなかった自分に。
帰る、と言っても、どこに。 あの校門の前に? あの、前髪で顔を隠していた、あの身体に?
「少々、混乱されていますね」
シルヴァが、落ち着いた声でそう言った。
「順を追って、お話しします」
彼女は、軽く片手を上げた。それだけで、書架の谷間を漂っていた光の粒が、数匹、私たちの周囲に集まってきた。まるで、話を聞く準備ができた、とでも言うように。
「あなたは、召喚されました。ある方の意向によって」
「……ある方、って、」
「それは、後ほど」
シルヴァは、それ以上は踏み込まず、続けた。
「その方は、あなたの望みを汲み取り、それに応じた姿を、あなたに与えました。——お気に召しましたか?」
お気に召しましたか、という表現は、あまりにも事務的だった。まるで、注文した料理の感想を聞かれているようだった。
私は、自分の掌を、もう一度、開いては閉じた。
「……はい」
小さな声で、そう答えた。 認めることが、少し、恥ずかしかった。
シルヴァは、わずかに目を細めた。——たぶん、微笑んだのだと思う。微笑んだのだと、判定するのが難しいくらいの、小さな変化だった。
「それは、なによりです」
声色に、機械的な丁寧さの奥で、ほんのわずかな——温度のようなものが、混じった気がした。気のせいかもしれない。
「ただし、」
シルヴァは、続けた。
「無償、というわけには、いきません」
——来た。
頭の片隅で、そんな単語が浮かんだ。どんな物語でも、こういう展開には、必ず「代価」があるものだ。そういう話を、前の私は、暇なときに山ほど読んでいた。
「代価、ですか」
「そのように、お呼びしても構いません」
シルヴァは、少し考えるような間を置いて、言い換えた。
「——労働、と言ったほうが、正確かもしれません」
労働。
その、ひどく現実的な単語に、私は思わず目を瞬かせた。世界観に、ちょっと合っていない気がした。
「あなたに望まれているのは、この場所——世界樹への、奉仕です」
「……世界、樹」
私は、その単語を、口の中で転がした。北欧神話で聞いたような気もする。ゲームの中で、ラスボスの背景に立っているような、そういうイメージのある単語だった。
周囲の書架を、もう一度見渡した。 ——本の谷間を流れる、無数の光。 ——苔の匂い。 ——天井のない、どこまでも続く、高い空間。
ひょっとすると、ここは、その「世界樹」の中、なのだろうか。
そう思った瞬間、皮膚の表面が、ほんの少し、ぞくっとした。
「——具体的には、何を、すれば」
「まずは、」
シルヴァは、少しだけ、言葉を選んだ。
「——接客、です」
「……せっ、きゃく」
思わず、繰り返してしまった。口の中で、その単語は、ひどく間の抜けた響きを持っていた。
「はい」
シルヴァは、平然と頷いた。
「世界樹のもとには、稀に、客人が訪れます。その応対をしていただきたいのです」
「……あの、」
私は、思わず、自分の身体を見下ろした。 ——合っていないブレザー。 ——丈の足りないズボン。 ——裸足の足。 ——そして、今の自分。
接客。 今まで、人生で、コンビニのレジの店員と、必要最低限の言葉を交わすのがやっとだった自分が? 女子と目を合わせるのも苦手で、話しかけられるたびに心拍数が倍になっていた自分が? これから、見知らぬ誰かを、丁重に、出迎える?
無理だ、と、即座に思った。
けれど、それを口に出すより早く、別の考えが、頭の中で追い越した。
——でも、ここなら。
ここに立っているのは、もう、前の私ではない。 この、指の細い、髪の白い、声の柔らかい、誰でもない誰かだ。 だったら、あるいは——
試しに、やってみても、いいのかもしれない。
前の自分にはできなかったことを。
「……できるか、わからないです」
結局、私の口から出たのは、そういう、歯切れの悪い言葉だった。
「存じております」
シルヴァは、迷いなく、そう答えた。
「ですので、まずは、お教えします」
彼女は、こちらに向かって、軽く小首を傾げた。その仕草は、どこまでも丁寧で、どこか、人形めいていた。
「本日の、第一課。——礼の、取り方から」




