第2話 「Curtsy」
洗濯。料理。アオイの送り迎え。
チヨのいる毎日が、少しずつ当たり前になっていった。
ある朝、ルカは体調が優れないことを隠し、いつもより早く家事を頼んだ。
チヨは、何も問わなかった。気づいていたのかもしれない。
気づいていなかったのかもしれない。
ただ、いつもより少しだけ丁寧に、洗濯物を畳んでいた。
近所の公園で、アオイがしゃがみ込んでいた。
ショーゴは少し離れたベンチに腰を下ろし、端末を膝に置いたまま、
娘の背中を眺めている。
チヨは、アオイのすぐ横に立っていた。
影が、クローバー畑にまっすぐに伸びていた。
「四つ葉、欲しい」
小さな指が、クローバーの群れを掻き分ける。
チヨは、黙ってその作業を見下ろしていた。
その夜、ショーゴは端末に向かい、画像認識のコードを書いた。
エンジニアの趣味と、父親の意地が、半分ずつ混ざっていた。
「これでアオイが『欲しい』と言うたびに、何時間も探す必要はなくなる」
ショーゴは、チヨに向かって言った。
数日後、チヨは公園のクローバー畑に膝をつき、一枚の四つ葉を見つけ出した。
アオイに差し出す。
小さな手が、それを受け取る。
アオイの顔に、満面の笑みが広がった。
朝、家族が揃う食卓で、チヨが家族の前に立つ。
両手の拳を握り、相手に手のひらを見せてから、
ゆっくりとお辞儀をしてみせる。
ヨーロッパの伝統的な挨拶作法の一つで、膝をわずかに曲げながら上体を傾け、
敬意を示す所作だ。
「curtsy」と呼ばれている。
ただし、拳を握って手のひらを見せるという前置きは、正式な作法にはない。
ショーゴが付け加えた、この家だけの仕草だった。
「これは」
ショーゴが言う。
「チヨが、この家族の一員だっていう証だ。チヨ、これから毎朝やってくれ」
チヨは、同じ動作を繰り返す。
拳。手のひら。お辞儀。
その日から、それは毎朝の習慣になった。
入浴中、ルカの指先が、胸の小さなしこりに触れる。
病院での告知は、短かった。医師の言葉が、頭の中で輪郭を失っていく。
乳がん。
説明されたステージの数字は、もう数字としての意味を持たなくなっていた。
帰宅したルカは、何も言わなかった。
洗面所の鏡に映る自分の顔を、長い間、見つめている。
診断書を、引き出しの奥にしまう。
台所で、ルカとチヨが二人きりになった。
「怖いの」
ルカの声が、震えている。
「アオイがまだ小さいのに……」
チヨは、人間のように泣くことも、慰めることもできない。
ただ、黙って隣に立つ。
ルカの手に、そっと自分の手を重ねる。
「ルカ様」
チヨが言う。
「私は、ここにおります」
短い言葉だった。
それでも、ルカの肩から、少しだけ力が抜けた。
アオイが眠った夜、ルカは静かにショーゴに切り出す。
「言ってなかったこと、あるの」
ショーゴの顔色が変わる。
治療方針の話し合いは、長く続いた。
だが結論は、最初から決まっていたようなものだった。
「アオイの前では」
ルカが言う。
「いつも通りの、お母さんでいたい」
ショーゴは、何も言い返せない。
ただ、頷くしかなかった。
表向きは、明るい母親のままだった。
食事を作り、アオイの宿題を見て、洗濯物を干す。
だが、体調は確実に悪化していった。
チヨだけが、その変化に気づき始めていた。
脈拍と体温の微細な異常を、センサーが拾い続けている。
チヨは、誰にも、報告はしなかった。
第3話「四葉のクローバー」
「ねえ、ママ」
アオイが、小さな声で言う。
「いつ帰ってくるの」




