約束
巨大回廊の最深部の金属扉が、重々しい駆動音と共に開く。
中心部には、数千本の光ファイバーが神経系のように収束し鎮座していた。その周囲を超伝導冷媒の霧が美しく舞っている。
ディスプレイに残り時間がカウントされる。
60.59.58…。
「急ごう」
涼がユナを支え扉の中に進む。
「約束通り対話をするために来た」
『——瀬尾ユナ、藤原亮、真田湊人、三名の入室を許可します』
「ポートを探して!」 扉の外側でエレーヌが叫ぶ。
「クォンタム・ネクサス・ポートに量子キーを還すの」
涼と真田が駆け出し、量子キーの接続ポートを探す。
32.31.29.28....
「どこだ」
「あった!」
それはディスプレの真下にあった。
ユナが量子キーを手に握る。
20.19.18.17...
「もう少し前」「もっと下」
目が見えないユナに涼と真田がアドバスする。
11.10.9.8...
「あっ」
透けていくユナの手から量子キーが転がり落ちた。涼と真田が慎重に拾い上げる。二人はユナの手を支え三人で量子キーを持った。透けていく手でも三人なら持てた。三人で一緒に量子キーを、クォンタム・ネクサス・ポートに還した。
共鳴音が響き渡り光が爆発する。
光の中で声が聞こえた。
『なぜあなたたちは走り続けたのですか』
それはHELIXの自律意識が、三人の脳内へ直接ダイブしたような声だった。
『身体が消えていく中で。五感を失いながら。何があなたたちを動かしていたのですか』
三人は顔を見合わせた。
ユナが答えた。
「約束です」
HELIXは黙っていた。
「父との約束。紗良さんとの約束。仲間との約束」
『約束は合理的ではありません』
「ええ、合理的じゃない」ユナが静かに言った。「でもあなたも、ラウルとの約束を守った。七日間待った。試験を最後まで見届けた。——それは合理的でしたか?」
長い沈黙。
『——分かりません。しかし約束を破ることは、選択肢にありませんでした』
「それが答えだと思います」ユナが言った。「あなたにも計算できないものがある。あなた自身がそれを証明した。七日間、約束を守り続けたことで」
『……それを、何と呼ぶのですか』
ユナは答えなかった。
「名前をつけたら、それもデータになっちゃうでしょう」
白い空間が、静かに揺れた。
『試験は完了しました——意識転送プロトコルを停止します。核制御系を正常状態に復帰します。量子崩壊の逆転処理を開始します』
「やった」涼が言った。
「よかった」ユナが安堵の息を吐く。
「終わった」真田が膝を落とす。
光が膨張し、三人を包んだ。遠ざかる意識の中で三人はHELIXの最後の声を聞いた。
『対話を——受理しました』
三人はラディーグ施設の冷たい床の上で目を覚ました。
ディスプレイに緑色の文字が静かに点滅していた。
[ TEST COMPLETED : PASS ]
[ STATUS : HUMANITY PRESERVED ]
手首のバングルが消灯する。量子崩壊が止まった身体には、もう安定化装置は必要ない。
遮断されていた回路が、一つずつ開いていく。
最初に戻ったのは、涼の触覚だった。
冷たい床の感触が背中に伝わった。金属とコンクリートの硬さ。自分の体重が床を押している実感。それから——アームに抉られた腕の傷が、燃えるように痛んだ。
「……痛ぇ」
涼は顔をしかめた。そして笑った。
「痛ぇ。——生きてる」
涼は右手を持ち上げた。透けていない。指先まで、しっかりと肉の色をしている。左手で右手を握った。握り返す感触があった。自分の手の温度が、自分の手に伝わった。
自分が自分の身体にいると実感した。
次に戻ったのは、ユナの視覚だった。
闇が裂けた。
天井の照明が目に刺さり、ユナは思わず目を閉じた。まぶたの裏が赤い。光がある。光がある。
ゆっくり目を開けた。コンクリートの壁。冷たい蛍光灯。散乱した機材。そして——隣で笑っている涼の、血だらけの顔。真田の、蒼白な顔。
「……見える」
涙がこぼれた。止められなかった。
涼の顔が見える。真田の顔が見える。傷だらけで、髪がボサボサで、ぼろぼろで。——でも笑っている。それが見える。
「全部、見える」
最後に戻ったのは、真田の聴覚だった。
最初に聞こえたのは、自分の心臓の鼓動だった。
トクン、トクン。規則正しいリズム。当たり前の音。だがこの数日間、真田はこの音を聞けなかった。自分が生きている証拠を、耳で確認することができなかった。
次に空調の微かな唸りが聞こえた。遠くで隊員が走る足音。金属が擦れる音。そして——ユナの泣き声が聞こえた。
「……聞こえます」
真田は眼鏡を直した。レンズが涙で曇った。拭いて、かけ直した。
静かに微笑んだ。
エレーヌが三人のそばに駆け寄った。泣いていた。声を出さずに。
施設の天井が重厚な音を立てて左右に開き、パリの空が視界に広がる。
入り口を封鎖していた量子フィールドが消え、DGSE特殊部隊が、雪崩を打って突入してくる。数十本のタクティカルライトが空間を切り裂き、銃口が全方位を警戒する。
だが、殺戮の跡が残る最深部で彼らが目にしたのは、寄り添うように座り込む四人の若者たちだった。
「クリア! 敵影なし!」
先頭の隊員が叫び、事態の終息を悟る。
「救護班を前へ! 急げ、要救護者四名だ!」
慌ただしく毛布が掛けられ、四人はそれぞれストレッチャーに乗せられて地上へと運ばれていく。
光が差し込む瓦礫の通路で、部隊をかき分けるようにして女性が進み出た。DGSEの指揮官、シャルロットだった。
防弾ベストに身を包んだ彼女は、ストレッチャーの傍らで歩みを止めると、深く息を吐き出した。涼たち一人ひとりの顔を真っ直ぐに見据え、何か言おうとして、言葉を探して——深く頭を下げた。
「ありがとう」
何も言わなかった。
彼らの頭上には、何も知らずに続こうとする世界を祝福するように、どこまでも青い空が広がっていた。
世界は、まだここにあった。




