誤差の対話
四人の目の前に、HELIXの心臓部へ続く巨大な回廊が、視線の届く限り真っ直ぐに伸びていた。
天井の照明が遠くなるにつれて光の粒が小さくなり、一点に収束していく。
回廊の奥から、低周波の振動が伝わってくる。人の気配はなかった。
四人は歩き始めた。
涼は自分の身体を見た。コアに近いため量子崩壊が加速している。肩から胸に加えて、腰から下も薄く透け、歩くたびに足が床にめり込みそうな感覚があった。
「まずい、とにかく急ぎましょう」
三人の身体の様子を見て、エレーヌが言う。
回廊を半ばほど進むと、突き当たりに大きな金属扉が見えた。
「クォンタム・コアへの入口だ」
エレーヌが振り返った時、声が聞こえた。
「エレーヌ」
天井の一点から光が降りてきた。青白い粒子が集まり、人の形をとり始める。白衣。痩せた身体。目の下の深い隈。
ラウル・デュモンのホログラムが、浮かび上がった。
「まさかここまで辿り着けるとは」
壁の内側で何かが流れ始める。血管のように走る青白い光の筋だった。
「あなたは死んだ」エレーヌが言った。「エベレストで」
エレーヌはホログラムのラウルを見た。父の顔。父の声。父の言葉の選び方。しかしその目が——少し違った。
「あなたは父じゃない」エレーヌが言う。
「私はラウル・デュモンの意識そのものだ」
「父の意識を持ったAIよ」エレーヌは言った。「同じじゃない」
「同じだ。ただ肉体を持たなくなった。それだけのことだ。記憶は同じ。思考は同じ。——お前を愛した記憶も、ここにある」
エレーヌの顔が歪む。
ラウルが四人の方へ歩いた。ホログラムが歩く。人間そのものだった。
「量子キーをコアに挿入すれば、HELIXの暴走は停止する。それは事実だ。だが同時に——意識転送のプロトコルも停止する。人類の進化の可能性が閉じる」
「進化?」ユナが声を発した。「身体を捨てることが進化なの」
「肉体に縛られた意識は、常に劣化と消滅の恐怖にさらされている」ラウルが言った。「老化。病。飢餓。暴力。——お前たちはこの七日間で、それを身をもって知ったはずだ」
「知ったわ」ユナが答えた。「身体が消えていく恐怖も、五感を失う絶望も。でも——」
「でも?」
「……欠けているから、私たちは繋がれるんです」
ユナは目に見えないはずのラウルへと歩み寄った。
「私は光を知りません。でも、涼の腕の暖かさや、真田さんの思索の震動を感じることができます。欠けている部分は、絶望じゃなくて、誰かを迎え入れるための『余白』なんです」
ユナの指が、手首にはめた父の腕時計に触れる。
ラウルのホログラムがわずかに歪んだ。
「お前なら分かるだろう」ラウルは涼を見た。「痛みがないことの合理性を」
涼は自分の右手を見た。透けた指。痛みを感じない腕。この数日間、痛みがないことで戦えた場面もあった。だが——
「痛みがなかったから」涼がゆっくり言った。「ソフィの手を握った時に、あの子が握り返してくれてるかどうか、分からなかった。あの子の手の温度が分からなかったんだ」
ラウルの表情が止まった。
「自分の身体がどれだけ壊れてるか分からない。誰かに触ってるのに触ってる感覚がない。——それが合理的だっていうなら、お前の合理性は壊れてるよ」
「涼君の言う通りです」
真田が口を開いた。唇の動きを読み、文脈を補い、自分の考えを言葉にしていた。
「あなたは意識を転送した後、何を失いましたか?」
ラウルが真田を見た。
「肉体だ。それ以外、何も失っていない」
「本当ですか」真田は静かに言った。「あなたは今、エレーヌの顔を見ている。娘の顔を。——何を感じていますか?」
ラウルの口が開き、閉じた。
「記憶がある」ラウルが言った。「エレーヌを抱き上げた記憶。笑った顔の記憶。手を繋いで歩いた記憶。すべてデータとして保持されている」
「でも、今この瞬間にエレーヌを見て——胸が痛みますか?」
沈黙。
「痛みは」ラウルが言った。「最適化の過程で除外された」
「なるほど」真田が頷いた。「あなたは記憶を持っている。でも記憶に伴う痛みを失った。だから——娘を前にしても、論理的でいられる。それが意識転送の代償です。意識転送に反対していたのに、意識だけのあなたはそれを肯定してる。あなたは、あなた自身の誤差を失ったんだ」
エレーヌの目から、涙がこぼれた。
ラウルはエレーヌを見ていた。涙を見ていた。その涙の意味を、データとしては理解していた。だが——それだけだった。
「……その涙が」ラウルの声が、わずかに震えた。「私に届いていないことは——認識している」
何かが壊れる音がした。
ラウルの表情が歪み——そして、凍りついた。
「——もういい」
ラウルの声から、温度が消える。
「お前たちの言葉は、私の中に何も生まない。誤差を失ったというなら、その通りだ。だが誤差を持たないことは——弱さではない」
廊下の照明が一斉に落ち、赤い非常灯が灯る。
巨大回廊の壁面が、鈍い機械音と共にスライドした。
「対話を終了する」
ホログラムのラウルが、腕を振り上げた。
その動きに呼応するように、壁の隙間から四本の多関節ロボットアームが突き出した。研ぎ澄まされたタングステン鋼の爪が、先端で鈍く光っている。
「コアへの侵入を阻止する」
ラウルが、指揮棒を振るうように右腕を掲げると、呼応したアームの一本が空気を裂き、涼の頭上から無慈悲に振り下ろされた。
「危ない」
エレーヌが身体を張って涼を押しのける。エレーヌの肩をタングステンの爪がかすめたた。血飛沫が飛ぶ。
「エレーヌ」
涼が叫ぶ。別のアームがエレーヌに襲いかかる。涼が飛びかかってエレーヌを庇った。
無機質な爪が涼の背後を襲ったが、かろうじてザックを切り裂いただけだった。上蓋がQRコードごと床に落ちた。アームが上蓋に触れた時、ホログラムがまた歪んだ。
真田はそれを見ていた。
正確にはアームの爪が涼のQRコードに触れた瞬間を。ホログラムが歪んだ。ユナが時計に触れたときも歪んだ。——偶然ではない。
「涼君!」真田が叫んだ。自分の声の音量は分からない。だが叫ぶしかなかった。
「ラウルの背後だ!」
騒音の嵐を切り裂く真田の叫びに、涼が反応する。
「ホログラムの焦点——背部の空間に、光学センサーがあるはず。そこにQRコードをかざせ」
ラウルが首を傾げた隙をつき、涼はラウルの背後に回り込んだ。右手はほぼ消滅している。左手を不器用に使いQRコードを掴む。そこへアームがうなりをあげて襲いかかる。左腕を掠め鮮血が飛び散ったが、涼はQRコードを離さなかった。身体を捻り、次のアームが襲いかかる前に、QRコードを光の渦へと押し当てた。
『——第一コード、認証』
無機質な電子音声が響き、ラウルの輪郭が僅かに揺らいだ。
ラウルが振り返って涼を見る。そのタイミングで真田が飛び込んだ。
アームの振り下ろされる速度と角度を数式として視覚化し、ペンダントをセンサーにかざす。
『——第二コード、認証』
ホログラムの輪郭が明滅する。四本のアームの動きに致命的な遅延が生じ始める。
残るアイテムは一つ。
ユナの腕にある亡き父の腕時計。しかしいくら聴覚が鋭くなっていても、光を持たない瞳でアームを交わしながら、ホログラムの背後に存在するわずかなセンサー領域を捉えることは不可能だ。
間際、ユナの鼓膜の奥深くに、父の声が響いた。
『——ユナ。君は今日まで——誰かを信じながら動いた。その全ての選択が安全装置だ』
コードではない。システムでもない。自分が今日まで誰かを信じながら動いた、その全ての選択が——それが安全装置。ならば今も同じ選択をするだけ。
「涼、どこ?」
「ここにいる!」
ユナは手首から時計を外し、床に置いて涼の気配がする方に滑らせた。見えないまま。信じて。
「受け取った!」
腕時計を掴んだ涼は、すぐさまラウルの横にいる真田とアイコンタクトを交わしパスする。
「さなだっち!」
真田が時計を受け取り、ラウルの背後に走り込むエレーヌに届ける。
「エレーヌさん、頼む!」
エレーヌは肩から血を流しながら腕時計を拾い上げ、ラウルの背後に回り込む。
ラウルがエレーヌを見た。父の顔をした光が、娘を見ていた。
「さよなら、お父さん」
時計に組み込まれていた最後のプロトコルが、眩い光の帯となってシステムの深層へ流れ込んでいく。
『——最終コード、認証。システム、強制終了』
ラウルのホログラムが激しく明滅する。
「……ああ」
光の輪郭が滲んでいく。
ラウルは四人を見渡した。
「お前たちが言った通りだ。かつての私は転送を恐れていた。だが転送された後、その恐怖が消えた。私は恐怖が消えたことを『進歩』だと思った」
「父はなぜエベレストに行ったの?」ユナがラウルに訊いた。
「自分の名前を見つけたからだ」ラウルが答える。「私の計画文書の中に、瀬尾聡の名前があった。彼は自分が巻き込まれていることを知り、家族に危険が及ぶ前に量子キーを確保しようとした」
「家族って——」ユナの声が震えた。
「お前のことだ」ラウルがユナを見た。
「聡は、お前を守るために来た」
ユナが泣き崩れる。
薄れゆくラウルは、視線をユナからエレーヌに移す。
エレーヌも目に涙をいっぱいためていた。
「残り十分を切った。キーを挿入しろ。意識転送プロトコルが停止すれば、私のデータも消去される。——それでいい」
「お父さん——」エレーヌが手を伸ばす。
ホログラムの光の粒子が散り始める。最後にラウルの唇が動いた。
「エレーヌ。お前を愛した記憶は——データとして消えても、お前の中に残っている。それだけは、私にも分かる」
光が消えた。
タイムリミットまであと五分。




