量子の門
リヨン駅の北側、ルイ・アルマン広場に面した通りに、黒いSUVが二台待機していた。
前席にDGSE監視員のラクロワとデュボワが乗り込む。四人はその後席に並んで座った。
車が発進し、セーヌ川沿いにベルシー通りを南下する。石畳の路地にカフェの椅子が並び、バゲットを片手に持ったランナーが川沿いのマロニエ並木を走る。。
世界の終わりまであと一時間半という事実を誰も知らないまま、この街は何も変わらず動いていた。
涼は車内で自分の右腕を見た。透け方が肩を超えて胸の右側まで広がっている。ラディーグに近づくにつれ、崩壊が加速していた。
ラディーグ施設を囲むコンクリート壁の前に、SUVが停車した。
車を降りた四人の目に飛び込んできたのは、重武装したDGSE特殊突入部隊の姿だった。 極度の緊張が支配する最前線に、ラクロワとデュボワに連れられた涼たちが歩み出る。
隊員たちの視線が、場違いな私服姿の若者たちへ向けられた。
「ラクロワ、冗談だろう? 遠足の引率なら他所でやれ」
部隊長らしき大柄な男が鼻で笑った。
「ここは戦場だ。邪魔にならないよう、装甲車の後ろで震えていろ」
部隊長は突入命令を下した。精鋭たちが一糸乱れぬ統率でゲートへ殺到する。
彼らがエントランスに踏み入ると、大気が異様な唸りを上げた。
HELIXが、クォンタム・コアを包む超伝導電磁石の出力をリミッター解除したのだ。
致死的なレベルにまで増幅された磁場が、見えない津波となってエントランスを飲み込む。
隊員たちが構えていたライフルが宙へ跳ね上がり、壁や天井へ激突する。チタン合金の装甲板や弾薬帯、重い軍靴を身につけた彼ら自身も、目に見えない掌に押し潰されるように床へ叩きつけられ、あるいは鉄柱に張り付けられた。
銃弾を一発も消費することなく、最強の突入部隊が鉄屑の重りに縛られた囚人へと成り果てる。唸り声と、金属が軋む音だけが響き渡った。
突入部隊の惨状を見て、部隊長もラクロワ、デュボワも青ざめた顔で立ち尽くす。
「行くぞ」
その横で涼が短く告げた。
彼らには装甲も重火器もない。ネックレス、腕時計、QRコード、の三つのアイテムと量子キーを取り出し透けている手で掲げた。
微かな共鳴音が干渉し、それぞれが青白い光を発する。その光に守られるように涼たちは何事もなくエントランスへ足を踏み入れた。
エントランスから内部へ通じる大扉の前には、青白く揺らめく光の壁——量子フィールドが行く手を阻んでいる。
「大丈夫です」
真田がユナと涼を見る。
三人は青白い光の壁へと歩み入る。
輪郭を失い、半ば幻影のように激しく明滅する彼らの身体は、量子フィールドにとってもう「固定された異物」ではなかった。光の壁は彼らを拒絶することなく、波紋のように滑らかにその半透明の肉体を受け入れた。
床に這いつくばった隊員たちが、信じられないものを見る目でその様子を目撃していた。
「馬鹿な……」
カミーユが掠れた声でうめくように言った。
フィールドの向こう側で、涼が振り返った。
「エレーヌは——」
エレーヌは壁を見ていた。彼女には量子崩壊がない。物理的な壁を、物理的な身体では通れない。
エレーヌが下を向いていると、壁の一部が動いた。
コンクリートの壁面に、扉の輪郭が浮かぶ。内側から押し開けられるように、わずかに開く。
誰が開けたのかは、すぐに分かった。
父が設計した施設。父と約束を交わしたAI。それが自分のために、扉を開けた。慈悲なのか、計算なのか。だが扉は、開いていた。
エレーヌは扉を押し開け、三人に続いて中へ入った。
タイムリミットまで——あと六十分。




