ジュネーブ・コルナヴァン駅
コルナヴァン広場でボルボが止まった。
「ここまでです」
ミシェルがエンジンを切り、ハンドルに両手を置いたまま言う。
涼は助手席のヘッドレストを拳の甲で軽く叩いた。言葉の代わりに。
「あなたたちがどこから来てどこへ向かうのか、私は知りません」ミシェルはフロントガラスの向こうを見つめていた。「ただ、何かとてつもないことを成し遂げようとしていることはわかります。幸運をお祈りしてます」
ボルボのテールランプが赤い尾を引き、石畳の上を遠ざかっていった。
深夜のジュネーブ・コルナヴァン駅は静まり返っていた。
石造りのアーチとレトロな照明。四人は駆け足で構内を通り抜け、線路側のプラットフォームに出る。
どのホームにも、列車はいない。
「始発のパリ行きは——」
エレーヌがタブレットを確認しかけた時だった。
四方の暗闇から人影が現れた。
タクティカルギアに身を包み、サプレッサー付きの銃を構えている。ハミングバードの残党だ。四人、五人、六人——ホームの出口を静かに塞ぎ、背後の階段を封じ、退路を断っていく。
先頭の男が低い声で言った。
「量子キーを置いて、ゆっくり離れろ」
涼が前に出た。しかし真田がその腕を掴んで静止した。
ユナは耳を澄ませた。六人分の心拍。六丁の銃。出口はない。
(終わった——)
その考えが頭をよぎった時——。
ホームの灯りが、一本残らず落ちた。
コンコースの明かりも、案内板の光も、非常灯さえも。暗闇が駅全体を飲み込む。
混乱する男たちの声。銃のセーフティを外す金属音。
ユナの耳は、その闇の中で別の異変を捉えていた。
何かが動いている。人ではない。動物でもない。駅の構造そのもの——電力網が、配線が、地下を走る無数の回路が、意思を持った生き物のように動いている。
最初の男が倒れたのは、涼の右肩の方向だった。
銃声はなかった。悲鳴もなかった。ただ、重いものが床に落ちる音だけがした。次に、ホームの左端で同じ音がした。それからほぼ同時に、階段側の二人。最後の二人は、何が起きているのかを理解しようとして——理解できないまま、倒れた。
六人全員が倒れるまで、三十秒もかからなかった。
照明が、戻る。
倒れた男たちの通信機が焼き切れていた。スマートフォンが黒く溶け、身につけていた電子機器が全て死んでいる。電力網を操り、標的だけに過電流を流し込んだ痕跡。男たちは死んでいない。だが動けなかった。
駅の構内スピーカーが、低く鳴る。
合成音声でも人間の声でもない。意味として空間に直接刻まれるような音だ。
「——七日間、見ていた」
四人は凍りついた。
七日間。エベレストの吹雪の中から。ボスポラス海峡の夜の水面から。オリエント急行のレールの振動から。アルプスの氷河の底から。——何かが、ずっとそこにいた。
コンコースの冷気の中に沈黙が降り積もる。
空気の圧力が変わり、ホームの端から、それは現れた。
車体には色がない。磨き上げられた鏡面が、駅の石壁とレールと照明をそのまま映し込見ながら近づいてくる。
静かに停車した。
四人の姿が車体の表面に浮かぶ。
透けかけた手。光のない目。
側面に光る文字が灯る。
——HELIX : PROCEED
エレーヌが息を呑む。真田が眼鏡のブリッジに触れ、顔を上げた。
ユナはただならぬ空気の異変に首を縮め、涼は列車を睨みつけた。
核のボタンを押す敵が、列車を用意してる。
これは罠なのか——。
行き先表示が点灯する。
——PARIS GARE DE LION(パリ・リヨン駅)。
光る文字が、夜のホームに揺れる。
「パリまで連れてってくれるっていうの?」
エレーヌが懐疑的な声音で言う。
「罠かもしれない。でも——」真田が列車を見た。「今、パリに行く手段が他にない」
沈黙が落ちる。
「みんな」
ユナが静かな声で呼びかけた。
全員が振り返る。ユナは光のない目を伏せたまま、三人の方へ顔を向けて言った。
「エベレストで、老いた僧侶に言われたこと覚えてる?」
ユナの声は静かだったが、夜のホームによく通った。
「『世界は、見えぬ秩序の上にあります。意味が追いつくのは、いつもあとです』——って。お墓の峠で。私に量子キーを渡す時言った言葉」
ユナは続けた。
「『今、動き始めたものを信じなさい』」
夜のホームを風が吹き抜ける。
「HELIXが何を考えているかなんて、分からない。でもここまで来た。エベレストから、カトマンズから、イスタンブールから。私たちは何度も死にかけて、何度も走って、五感を失って——それでもここにいる。この列車が罠でも何でも、私は乗る」
涼は頷いた。透けた右手を見た。感触のない手を、それでも握った。そして一歩、踏み出した。
真田が続いた。
エレーヌは一瞬だけ振り返った。CERNのある北西の方角を見て——それから列車に乗った。
ユナが最後にプラットフォームの縁に立った。
光のない目を夜空に向ける。アルプスの雪の匂い。石畳の冷たさ。かすかに届く湖の風。父がかつて立ったこの街に、自分も今立っている。父が書きかけたものを、自分が完成させる——その言葉の重さを、ユナは今夜初めて、恐怖ではなく覚悟として受け取った。
ユナは一歩踏み出し、列車に乗った。
扉が音もなく閉まる。
列車は最終目的地パリに向けて動き出した。
タイムリミットまであと、八時間。




