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シャモニー

 シャモニーの夜は、深い雪の匂いがした。


 モンブランから吹き降ろす風が、傷ついた四人の体を容赦なく冷やしていく。

 涼は自分の右手を見た。指の先から手首にかけて、夜の空気に溶けるように透けている。影に掴まれた右足も膝の上まで透けていた。でもまだ動く——それだけを頼りに、彼は歩き続けた。

 

 シャーレ・エギーユ・ノワールは、街の喧騒から離れたアルブ川沿いにあった。窓に明かりが灯り、煙突から白い煙が細く立ちのぼっている。

 ヒマラヤを出てから、こんな光景を見たのは初めてだった。人の暮らしの温もりが、そこにあった。

 

 石造りの玄関扉を叩くと、鍵の回る音がして、灰色のフリースを羽織った四十代の男が顔を覗かせた。青い瞳に、鼻筋が高く、顎髭を生やしている。体格は骨太で、長年山と向き合ってきた人間の静かな重心を持っていた。

「レオン・ヴァンス大佐から紹介されて来ました」

「聞いてます」男はアルペンホルンのような低音が長く響く声音で返事をした。「私はミシェル・ベルナールです。どうぞお入りください」

 その時、視線が涼の透けた右手で止まった。

「……あなただったのですか」

 涼が眉をひそめる。「何が?」

「オリエント急行に乗ってらっしゃいましたね」

 男の声には、長い時間をかけて答え合わせをした人間の、静かな確信があった。

「娘が言っていました。ガラスでできたお兄ちゃんがいた、と」

 涼の足が止まった。

 ——ソフィ。あの子の父親だったのか。

 ロビーに通され、濡れた上着を脱いで暖炉の前に座ると、ミシェルは湯気の立つスープを四つ運んできた。

「怖がらせちまったな」涼がスープを見つめたまま言った。「あんたの娘を」

「ソフィは怖がってはいなかったと思います」ミシェルがカップを置いた。「ベッドの中でこう言ったんです。——ガラスのお兄ちゃんは、きれいだった、と」

 ミシェルは少し間を置いてから、続けた。

「直ったかなと何度も聞くんです」

 涼は顔を上げなかった。スープを一口すすり、ゆっくりと飲み込んだ。

「……直ってないけどな」涼はやがて、独り言のように言った。

「でも、動ける。それで十分だ」

 帰ったら、あの子に言おう。直ったよ、と。

 ——帰れたら。

  

 一時間後、ミシェルの古いボルボがシャモニーの夜道を走り出した。

 ラジオはつけなかった。エンジンの低音と、タイヤが雪を踏む音だけが車内を満たしていた。目的地は、九十キロ離れたスイスの町、ジュネーブ。

 アルプスの裾野を縫う夜の道を、ボルボは静かに走り続けた。

「レオンとはどういう関係なんですか?」エレーヌが聞く。

 ミシェルは少し考えてから、答えた。「彼は昔、私の妻をある事件から救ってくれました。今回は、その借りの清算だと思ってください」


 車が国境を越え、スイス側に入ってしばらく走った後、ミッシェルがハンドルを握りながら言った。

「411号線が工事で通行止めのようです。少し大回りになります」

 窓の外の景色を食い入るように眺めていた真田が口を開いた。

「市街地を西側に迂回し、北西の、空港方面から駅に向かうんですね」

「ジュネーブで修行してたって言ってたわよね」エレーヌが真田を見る。

 その唇の動きを読んで「パティシエの修行で三年いました」と真田は答えた。

「どこの店で?」ミシェルがルームミラーに口を映しながら聞いた。

「メゾン・コロンビア。旧市街の小さなパティスリーです。常連にはCERN(セルン)の研究者が多くいました」

 ミシェルの表情が、わずかに和らいだ。

「知っています。クレーム・ドゥ・グリュイエールが評判の店だ」


 ミッシェルの運転するボルボがレマン湖の西を回り込んだ時、暗闇の中に整然と並ぶ施設の輪郭が浮かびあがった。広大な敷地。照明に浮かぶ建物群。想像を超えた何かが眠っているような、重力を持つ場所。

 エレーヌの唇がかすかに動く。「CERN」

 窓ガラスに映る自分の顔に、父の顔が重なる。この地下回廊のどこかで、父ラウル・デュモンはHELIXと最初の言葉を交わした。

「父は正しかったと思う?」

 エレーヌが静かに言った。誰に問いかけているのか、自分でも分からないような声だった。

 沈黙が流れた。

「正しかったかどうかは、分からない」

 ユナが言った。光のない目で、エレーヌの声がした方を向いて。

「エベレストの鎮魂の峠で、老僧に言われたの。『意味が追いつくのは、いつもあとです』って。——今はまだ、あとではない」

 エレーヌは何も言わなかった。だが窓ガラスに映った横顔が、ほんのわずかに緩んだ。

 CERNの灯りが、後方へ遠ざかっていった。


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