音波の彫刻
オリエント急行は、深い雪に閉ざされたハンガリー平原を抜け、アルプスの前衛たる険峻な山岳地帯へとその身を滑り込ませていた。
車窓の闇を、時おり農家の微かな灯火がよぎり、瞬時に消える。
十三号車の個室で、ユナが暗闘の中ホットココアを啜っていた。真田が厨房から持ち出してきたものだ。湯気が、光のない瞳の前で白くたなびく。
「この列車、ジュネーブを通るのかな」
「ジュネーブへ向かうわ」エレーヌが答えた。「あなたの父、そして私の父が関わった、CERNがある街」
真田の耳にその会話は届かない。だがエレーヌの唇が「CERN」と動くのを見逃さなかった。
「CERN、と言いましたか?」真田は遠くを見るような目で言った。「ずっと焦がれてた聖域です。僕はそのジュネーブで、パティシエとして粉にまみれていました」
「その、せるん、ってのはそんなに凄いのか」
涼が退屈そうに首を振る。
「素粒子物理学の揺り籠。人類が世界の秘密に最も近づける場所よ」エレーヌが答えた。
その時、ユナが異変を示した。不意に虚空を仰ぎ、耳を塞ぐように身を縮める。
「ユナ、どうした」
車両を包む空気が変質する。
地底から響く遠雷のような低音が、次第に鼓膜をヤスリで削るような不快な高周波へと変わる。聴覚が研ぎ澄まされたユナにはそれは拷問だった。
「……何だ、この音」
涼が叫ぶ。
ユナは悲鳴を上げるように首を振った。
「虫がいる……! 数千、いや、もっと!」
音の洪水に溺れ、必要な情報を選別する余裕がなかった。
涼と真田が窓の外を見た。
何万もの銀色の球体が、窓ガラスに張りつき蠢いている。
指ほどの大きさのドローンだった。数千機の群れが十三号車を繭のように包み込んでいく。
「エコー・マッピングだわ」エレーヌが端末を叩いた。「量子迷彩は光を曲げるけど、物理的な振動は誤魔化せない。超音波を浴びせて、その反響で私たちの形を炙り出している」
ドローン群が一斉に赤く明滅した。ターゲット・ロックの承認信号。
「バレたのか」涼が立ち上がる。
同時に、世界が横にスライドした。
涼と真田の身体が壁に叩きつけられる。真田は振動で異変を感じ取った。遠心力のベクトルが直進を示していない。列車が、あり得ない角度で曲がっている。
窓に張りつき外を見ると、並走するレールが蛇のようにうねり、ポイントが切り替わっていた。前方を進むオリエント急行の本隊はそのまま直進し、十二号車と十三号車だけが本線から引き剥がされていく。
「嘘だろ……線路が動いてる」涼が唾を飲み込む。
連結器が強制解除された。
煌々と灯りを灯した本隊が、無情な速度で遠ざかっていく。サロンでワインを傾ける乗客たちのシルエットが、走馬灯のように流れ去る。
「待ってくれ! 置いていかないでくれ!」
涼が窓を叩いた。触覚のない拳が硬いガラスを打つ。痛みも衝撃も返ってこない。自分がどれだけの力で叩いているかさえ分からない。
本体から切り離された車両は、慣性だけで廃棄支線へと滑り込んだ。
朽ちた枕木。雪に沈黙する針葉樹の森。
ドローンが再び群がってくる。超音波がユナの聴覚を殴打し続ける。ユナは座席にうずくまり、両耳を押さえていた。
「ユナ!」涼がユナの肩を掴んだ。力加減が分からず、強すぎた。「すまん——」
「大丈夫。それより——屋根に」
ユナが歯を食いしばりながら言った。超音波の嵐の中から、一つの音を拾い上げていた。
「屋根に人が乗った」
涼が天井を見上げる。
「三人いる」
鋼鉄の天板が、円を描くように赤熱し始めた。レーザーカッターだ。
「十二号車へ走って! ここを破られたら、一秒も持たないわ!」
エレーヌが叫ぶ。
一斉に連結部へとなだれ込む。切断された鉄板が、天井から床へと叩きつけらた。
「急いで!」
エレーヌが電子ロックに掌をかざす。
NEXUS-9の解錠コードが走る。
コンマ数秒の遅延が、永遠のように感じられた。
「まだか!」
涼が焦った声で怒鳴る。背後で車内に飛び降りる軍用ブーツの衝撃音が床を揺らす。
「開いた!」
四人が連結部の外へ飛び出し、扉を閉ざした刹那、自動小銃の掃射がその扉を震わせた。
「間一髪だった」真田が震える声で呟く。
「ここもすぐ破られる。急げ!」亮が叫ぶ。
だが前に立ちはだかる十二号車の扉も、冷徹な電子ロックに閉ざされていた。
赤く点滅するインジケーター。
背後の扉がこじ開けられる金属音が迫る。
カチリ、と電子音が鳴り、インジケーターが緑に反転した。
「今よ!」
四人は互いを押し込むようにして、十二号車へと滑り込んだ。
最後尾の涼が、転がり込みながら閉鎖レバーを蹴り上げる。
施錠の電子音が響く。
そこは十二号車の厨房だった。
オリエント急行が誇る美食を生み出す場所。営業を終えた無人の厨房は、非常灯の赤い光に照らされ、解剖室のような静謐さを湛えていた。
「……ここで、迎え撃つしかない」
真田の目が、厨房の中を素早く走査する。
ステンレスの調理台、吊り下げられた銅鍋、壁一面のスパイスラック。強力粉の袋。オリーブオイルの瓶。業務用の高圧洗浄機。冷凍庫から漏れる冷気。
それらが真田の頭の中で、化学反応式に変換されていく。
メモ帳に走り書きし、エレーヌに渡した。
「わかった」
エレーヌが読み、頷いた。大急ぎで四人で準備する。
科学と狂気を混ぜ合わせた「調理」が、始まろうとしていた。




