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The Everest Protocol (ジ・エベレスト・プロトコル)  作者: mayvision
第四章 五感のレクイエム
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国境の幻影


 オリエント急行が、獣の断末魔のようなブレーキ音を上げて停車した。

 

 ケレビア駅。セルビアとハンガリーの国境だ。  

 窓の外では、粉雪が舞い始めていた。オレンジ色のナトリウム灯が、雪化粧したプラットホームを寒々しく照らしている。


 十三号車の車内は、死んだように静まり返っていた。

「……来たわ」エレーヌが囁く。

  真田にはその声は聞こえない。だが、床から伝わる重い振動——軍用ブーツが砂利を踏みしめるリズム——が危機の接近を告げていた。  

 真田は向かいの席に座るユナの手の甲を、トン、トンと二回叩いた。あらかじめ決めておいた「警戒」の合図だ。  視力を失っているユナは、虚空を見つめたまま小さく頷く。

「……三人いる」

 ユナが小声で実況する。

 ユナは視覚を失ったことで過大に聴覚に頼っていた。すべての音が——列車のきしみ、風の唸り、遠くの犬の声、自分の心臓の鼓動まで——押し寄せてくる。頭の中が常にうるさい。

 しかしユナは、必要な音だけを効率的に選び取る作業に、少しずつ慣れ始めていた。

「右腰に金属の擦れる音。銃?心拍が速い……何かを警戒してる」

 真田が窓のブラインドの隙間から外を覗いた。

 国境警備隊だ。迷彩服の男たちが懐中電灯を持って、車両の下を覗き込んでいる。

 そして——その傍らにレオン・ヴァンスが立っていた。


 レオンは警備隊の隊長にタバコを差し出し、薄笑いを浮かべ最後尾の連結部を指差した。口元を手で隠しながら何かを言っている。

(……何を言っている?)  

 真田は目を細め、レオンの唇の動きを読もうとした。レオンはわざと口元を手で隠し、真田の読唇術を封じていた。

 だが、真田の目が読めなかった情報を、ユナが補った。

「聞こえる」ユナが囁く。「『最後尾からうめき声が聞こえた。密入国者が隠れているかもしれない』——って」 

「あの野郎」  

 涼が扉の脇に張りついた。


 十三号車のデッキが激しく叩かれた。NEXUS-9の量子迷彩フィルターは、通常なら人間にこの車両を認識させない。だがレオンという強力な「観測者」が「そこに何かがある」と指摘したことで、警備隊の認知が揺らぎ始めていた。

「開けろ! 国境警察だ!」

 怒号と共にドアノブがガチャガチャと回される。

「物理的に干渉されたらフィルターが解ける」エレーヌが蒼白な顔で言った。

 涼が拳を握って身構える。

 真田がそれを手で制した。暴力は駄目だ。騒ぎになればレオンの思う壺だ。

 真田はエレーヌの方を向き、タブレットを指差した。

 エレーヌは真田の意図を読み取った。

「何をすれば?」

 真田がポケットからメモ帳を出し、走り書きする。


『警備隊の携帯端末に偽の防疫アラートを流せますか。バイオハザード検体輸送車両として警告』


 エレーヌがメモを読み、目を見開いた。それからタブレットを操作し始めた。NEXUS-9のシステムを通じて、警備隊の端末の周波数に接続する。

 音のない世界で、真田は秒数を数える。

 三、二、一——。

 ドアがバールでこじ開けられそうになった、その瞬間——。

 警備隊長の無線機と隊員たちの端末が一斉に警告音を発した。


 『警告。警告。対象車両ハ、外交特権ニヨリ保護サレタ「バイオハザード検体」輸送車両ナリ。直チニ退避セヨ』


 隊長の手が止まった。「バイオハザード」という単語が持つ恐怖が、レオンの言葉より強く本能を刺激した。 

「下がれ! 汚染されるぞ!」  

 隊長は青ざめて後ずさりし、部下たちを怒鳴りつける。彼らは慌てて十三号車から離れていった。 


 遠くでその様子を見ていたレオン・ヴァンス大佐だけが、愉快そうに口角を上げていた。 彼は真田が覗いているであろうブラインドに向けて、音もなく口を動かした。

 

 ——Bien joué(ビアン ジュエ)(上手い手だ)。


 警笛が鳴り、列車が動き出す。  

「誤魔化せた?」  

 ユナが息を吐く。  

「一時的にはな」涼はまだドアの隙間からホームを睨んでいた。「だがあのレオンって男、最初から俺たちがどう出るか試してやがった」

 

 国境を越え、列車は深い闇に飲み込まれた。雪を被った針葉樹林が黒い壁のように窓の外を流れていく。

 ユナが口を開いた。

「……さっき、レオンの言葉を聞き取れた。さなだっちが読めなかった口元を、私の耳が拾った」

「うん」真田がメモ帳に書いた。ユナに向けて書いているが、ユナには見えない。涼がそれを読み上げる。

「『僕の目とユナさんの耳が噛み合った。初めてです』——だってさ」

「初めてかもしれないけど」ユナが少し笑った。「悪くなかった」

 涼は二人を見た。

「俺は? 俺の役は?」

「あなたはドアの前に立ってただけでしょ」ユナが言った。

「……否定できねえ」

「でも、涼君がドアの前に立ってたから、僕たちは考える時間があった」真田のメモを涼が読み上げた。「さなだっちはそう言ってる」

 涼は鼻を鳴らした。


 レールの継ぎ目が刻むリズムが、等間隔に、車内に響いていた。

 真田にはそのリズムが聞こえない。だが振動は感じる。

 ユナにはリズムが聞こえる。だがこの車両の姿は見えない。

 涼にはリズムも聞こえ、車両も見える。だがシートの振動を身体で感じることはできない。

 三人はそれぞれ違う世界にいた。

 でも同じ列車に乗り、同じ方向に進んでいた。


 タイミリミットまで、あと二日 


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