ファントム列車(存在しない十三両目)
オリエント急行は闇を切り裂く一本の槍となって、バルカン半島の夜を疾走していた。
イスタンブールを出発して二日目。
国境を越えるたびにレールの継ぎ目が奏でるリズムが変わる。ブルガリアの乾いた平原から、セルビアの険しい渓谷へ。
豪奢なアール・デコ様式の食堂車では、クリスタルのグラスが触れ合う軽やかな音と、紳士淑女たちの穏やかな談笑が満ちている。
だが、その最後尾。
乗客名簿にも、車掌の認識にも存在しない「十三両目」の扉の向こうには、冷たい静寂だけが横たわっていた。
午後十時。
異変は、小さな侵入者によって引き起こされた。
「ミミ、どこへ行ったの?」
六歳の少女ソフィは、飼い猫を追って十二号車のさらに奥へと迷い込んだ。
重厚なマホガニーの扉。NEXUS-9の認知フィルターは、大人の脳には「ただの壁」として処理される。だが少女の無垢な脳は、その境界を素通りした。
ソフィは小さな手で、重いハンドルを回した。圧縮空気が抜け、禁断の車両への道が開く。
そこは、奇妙な空間だった。
装飾は前の車両と同じなのに、何かが歪んでいる。主人のいない古城のように空気が停滞している。
ソフィは、一番手前のコンパートメントの扉が開いているのに気づいた。
一人の若い男がソファで眠っていた。
藤原涼だった。バングルを外し、脳への負荷をリセットしている最中だった。
ソフィの目が、涼の右腕に釘付けになった。
「……え?」
ソファの肘掛けに投げ出されたその腕は、半透明に透けていた。
皮膚の下の赤い筋繊維、白い骨、そして脈打つ血管がガラス細工のように透けて見える。腕を通して、ソファの柄まではっきりと見えていた。
「……お兄ちゃん」
ソフィの声に、涼が目を覚ました。
バングルを外した肉体は、現実に留まる力を失いかけている。
涼は自分の右腕を見た。
「……見られちまったか」
ソフィは悲鳴を上げなかった。ただ、理解を超えた恐怖に瞳を揺らし、後ずさりながら言った。
「お兄ちゃん……壊れてるの?」
その言葉は、どんな銃弾よりも深く涼の胸を穿った。
「……ああ。ちょっと、ポンコツでさ」
涼はバングルを嵌め直した。腕が実体を取り戻す。透明感が消え、ただの腕に戻る。
ソフィの目が丸くなった。
「……治ったの?」
「まあ、応急処置みたいなもんだ」
涼はソファから身を起こし、ソフィと目線の高さを合わせた。
「なあ、お嬢ちゃん。ここで見たこと、誰にも言わないでくれるか。お兄ちゃん、ちょっと秘密の仕事をしてるんだ」
「秘密?」
「そう。すごく大事な仕事。でも、みんなに知られたらダメなやつ」
ソフィは涼の顔をじっと見つめた。
「……お兄ちゃん、死んじゃうの?」
涼は一瞬、言葉を失った。子供の直感は、どんな観測装置より正確だ。
「……死なないよ。約束する」
言ってから、涼は気づいた。紗良と同じだ。「約束する」という言葉の重さは、果たせるかどうか分からない時にこそ最も重い。
「猫、探してたんだろ。一緒に見つけてやるよ」
涼はソフィの手を引いて廊下を歩いた。自分の手に感覚はない。ソフィの小さな手の温度を感じることができない。だが手の大きさの違いだけは目で見えた。こんなに小さい手だ。この手が握り返していることは、指の圧力としてではなく、ソフィの指がわずかに白くなっていることで分かった。
十二号車との境界で猫を見つけた。ソフィは猫を抱き上げ、涼を振り返った。
「お兄ちゃん、約束だよ」
「ああ、約束だ」
ソフィが去った後、涼は扉を閉め、壁にもたれた。
——壊れてるの?
少女の言葉が消えなかった。
同時刻。食堂車。
真田湊人は、バーカウンターの隅でコーヒーを求めていた。
聴覚を失った彼にとって、この車両は無声映画の世界だ。
ウェイターが口を動かしている。ピアノを弾く男の指が踊っている。だが音はない。
代わりに、真田は別の情報を読み取ることを覚え始めていた。床から伝わる振動で、列車の速度とレールの状態が分かる。枕木の間隔が不均等であること。振動のパターンが微妙に変化する周期。情報は、耳からではなく身体全体から入ってくる。
それは「超人的な感覚」ではない。ただ、これまで聴覚に頼って無視していた情報を、意識的に拾い上げているだけの不便な代替手段。だが、ないよりはましだった。
「君、いい靴を履いているね」
背後から声をかけられた気配がした。
真鍮の手すりに映り込んだ男の唇の動きを、真田は読み取った。
ゆっくりと振り返る。
金髪の紳士が立っていた。仕立ての良いスーツ。手には琥珀色のブランデー。そして、獲物を狙う猛禽類のような鋭い眼光。
微笑んでいたが、目は笑っていない。
「……安物ですよ」
真田は自分の声の大きさが適切かどうか分からないまま、慎重に発声した。イスタンブールでの経験から、小さめに話すことを覚えていた。
「嘘だ」男はブランデーを揺らした。「その靴底の減り方。ただの観光客じゃない」
男はポケットからライターを取り出し、わざと落とした。
金属がテーブルに当たる音——は真田には聞こえない。だがテーブルのグラスの水面にわずかな波紋が広がるのを、真田の目は逃さなかった。
「……落としましたよ」
男は眉をわずかに上げ、真田が拾い上げたライターを受け取った。
「ありがとう。私はレオン・ヴァンス。しがない公務員だ」
違う、と真田の直感が警鐘を鳴らす。この男の指には、銃のトリガーを引く際にできる特有の硬い皮がある。
「僕に何かご用ですか?」
「いや、ただの世間話だ」
レオンが身を乗り出した。口の動きが読み取れる距離。
「実は、妙なことが気になっていてね。この列車、出発した時より車輪の音が多い気がする」
真田の心臓が跳ねた。
「タタン、タタン……。これは十二両編成のリズムじゃない。もう一両、重い幽霊を引きずっているような音だ」
レオンの視線が真田の瞳孔の奥底を覗き込む。
「君の靴音もそうだ。地面を踏む音がしない。まるでこの世界に実在していないかのような」
真田は表情を崩さずコーヒーを一口飲んだ。喉を通る熱さだけが、自分がまだここにいる証拠だった。
「列車が古いせいでしょう。ガタが来てるんですよ。僕たちと同じで」
「ふむ。そういうことにしておこうか」
レオンは不敵に笑い、グラスを掲げた。
「だが気をつけたまえ。フランスの国境警備隊は、幽霊の入国には厳しいぞ」
レオンが去った後、真田の掌は汗で濡れていた。
——気づかれている。
この男は、フランス対外治安総局(DGSE)の猟犬だ。
音のない世界で、真田はもう一度コーヒーの水面を見つめた。
タイミリミットまで、あと二日




