五感の葬送曲
タクシーは金角湾沿いを走っていた。
窓の外、夕闇が迫るボスポラス海峡の向こうに、アヤソフィアの巨大なドームが黒いシルエットとなって浮かび上がる。茜色に燃える残照が海面を染め、ミナレットの先端が炎のように空を突いていた。
どこからか、アザーンの響きが届いた。
神を称える祈りの声。だが三人には、それが葬送曲のように聞こえた。
「ガラタ橋だ」
涼が呟く。橋の上には無数の釣り竿が並び、サバサンドを焼く煙と潮の匂いが充満している。
指定された場所は、橋のたもとにある小さなフェリーターミナル。日没から十五分。
桟橋の影に、一人の女性が立っていた。
黒いトレンチコート。潮風に乱れる栗色の髪。彼女は海峡の暗い水面を見つめたまま、振り向かずに言った。
「予定より一分三十秒早い到着ね。消えかけた幽霊にしては、優秀だわ」
振り向いた彼女の顔を見て、ユナが息を呑んだ。
鋭い理知的な瞳。意志の強そうな眉。それは、吊り橋の上で見たあのホログラムの男の面影を色濃く残していた。
「あなたは……」
「エレーヌ・デュモン」彼女は冷ややかな視線をユナのバッグに向けた。「あなたが持っている『量子キー』を作った男、ラウル・デュモンの娘よ」
エレーヌは三人の驚愕を無視し、鞄から鈍い銀色の光沢を放つ、三つのバングルを取り出した。
「時間がないから手短に言うわ。あなたたちの量子崩壊は末期症状。これを着ければ、フランスに着くまでは肉体を現実に繋ぎ止められる」
真田が手を伸ばしかけ、その異様な冷たさに指を止めた。
「……ただの安定装置じゃないですね。代償は何ですか?」
エレーヌの唇が、薄く歪んだ。
「鋭いのね。……その装置は、あなたたちを『人間』として定義し直すために、脳の処理能力を強制的に徴収する。演算領域を確保するため、あなたたちの五感の一部をシャットダウンするの」
「五感を……奪うってことか?」
涼が眉を顰める。
「そう。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚……。どの感覚が遮断されるかは、個人の脳の特性によって異なる。選べない」
エレーヌは三人の目を見据えた。
「世界を救うために、世界を感じる力を差し出す覚悟はある? 亡霊さんたち」
沈黙が落ちた。波がチャプチャプと桟橋を叩く音だけが聞こえた。
最初に動いたのはユナだった。
無言でバングルを左手首に嵌める。
「……行くわ。パパが見た景色を、この目で見られなくなるとしても」
カチリ、と音が鳴り、青白い光が走る。
続いて真田が、最後に涼が装着した。
「——ッ!」
ユナが小さく悲鳴を上げ、膝から崩れた。虚空を手探りするように両手を伸ばす。瞳は大きく開かれているのに、どこも見ていなかった。
「……消えた」ユナの声が震えた。「全部、真っ暗——」
視覚が消失していた。
【瀬尾ユナ:視覚喪失】
「ユナ!?」
真田が叫ぼうとしたが、自分の声が聞こえなかった。アザーンの響きも、波の音も、スイッチを切ったように断絶した。完全なる静寂。
彼は耳を叩いたが、鼓膜は何も拾わない。唇の動きで、涼が何か叫んでいるのだけが分かった。
【真田湊人:聴覚喪失】
涼は、自分の腕を強く掴んだ
何も感じない。
潮風の冷たさも、欄干の錆びた感触も、自分の指が腕を掴んでいる圧力さえも。涼は自分の手を見た。手は動いている。だが握力の加減が分からない。どれだけ力を入れているか、フィードバックがない。
「……気持ち悪ぃ」涼が呟いた。「自分の身体なのに、他人の身体みたいだ」
【藤原涼:触覚・痛覚喪失】
「慣れなさい。不便でも、消滅するよりはマシよ」
エレーヌが冷徹に告げた。
その声はユナには聞こえたが真田には届かなかった。涼には潮風が頬に当たっている感覚がなかった。ユナには、戸惑う真田も涼も見えていなかった。
三人はそれぞれ違う世界にいた。同じ場所に立っているのに。
「乗って 」
エレーヌが桟橋に係留されたパワーボートのエンジンを始動させる。V8エンジンの咆哮が、静寂を切り裂く。 「どうしてボートなんだ? 」
涼が叫ぶ。
「イスタンブールの渋滞を知らないの? 車は鉄の棺桶に等しい」
エレーヌが冷たく言い放つ。
涼は真田を振り返り、身振りでボートに乗るように指示した。
真田は視覚だけを頼りに、揺れるボートに足をかける。しかしバランスを崩し涼にもたれかかった。夜の海で、波や風の強さを知るには音が手がかりだ。それを得られない真田は、視覚だけで捉える「外の世界の動き」と、脳が予測する「体の動き」が乖離し混乱で眩暈がした。
「これは地獄のダンスだ」
想像以上の辛さに弱音を吐きながらも、真田はなんとかボートに乗った。
「さなだっちが乗った。次はユナの番だ」
涼はユナの腕を掴もうとした。だが力加減が分からず、強く掴みすぎた。
「痛い」ユナが顔をしかめる。
「悪い。どれくらい握ってるか、分からねえんだ」
涼はユナの手を取り直した。今度は弱すぎて、ユナの手が滑り落ちそうになった。
「私が掴むから。引っ張って」
ユナが涼の手首を自分から掴み直す。
その時、ユナが首を傾げ耳を空に向けた。
「何かが飛んでくる」
光のない世界で、ユナの聴力は否応なく研ぎ澄まされていた。
「早く乗って!」
涼の手首を揺さぶりユナが叫ぶ。
ヒュンッと空気を切り裂く鋭い音がした。
涼はユナを抱えてボートに転がり込む。
直後、岸壁のコンクリートが弾け飛んだ。
「捕まって」
エレーヌはボートを急発進させ、黒い水面を跳ねるように離岸した。
振り向くと岸壁の街灯に、虫が群がるようないくつもの黒い影が浮かんでいる。
「ドローンだ」
陣形を整え、ボートを一斉に追ってくる。
エレーヌはスロットルを踏み込み、ドローンを引き離す。
涼が目を凝らして後方の空を凝視した。
涼には視力も聴力も残されていたが、夜の海上で黒いドローンの場所を特定することは困難だった。
「……右! ノイズ音がする」
ユナが声を上げた。
エレーヌがハンドルを左に切る。銃弾が水面に爆ぜ水柱が立つ。
「ナイスよ、お姫様!」
「次は——分からない、音が多すぎる!」
ユナの声にパニックが混じった。
「落ち着け」涼が声を荒げる。
波とぶつかり水飛沫が飛び散る。
真田が、涼に向かって身振りで何か伝えようとしていた。
初めは何をしているのかわからなかったが、冷静になればすぐ理解できる指示だった。
——わかった!
「ユナ、一番大きい音だけ拾え。他は捨てるんだ」
ユナが頷く。
「左!でも距離がわからない」
「それで十分よ」
「今度は右の真横!」
エレーヌはボートを左右に揺さぶりながらドローンの銃撃をかわし、水上を滑走する。
かろうじて銃撃をかわしているが、ドローンは疲れ知らずで次々に追撃してくる。一方、聴力を酷使するユナの集中力が衰えるのは時間の問題だ。
真田がガラタ橋を指して、身振りでエレーヌに何かを伝えようとした。
エレーヌがその意味を理解するのに時間は掛からなかった。
「捕まってなさい! 『蜘蛛の巣』をくぐるわよ!」
エレーヌは、ボートをガラタ橋の巨大な橋脚の隙間へと向けた。
「そんなとこ通れんのか?」
涼が叫ぶ。エレーヌは構わず突っ込む。
頭上を覆う橋の欄干から、無数の釣り糸がカーテンのように垂れ下がっている。
ボートのサーチライトを受けて、何百本ものテグスが光の雨のように浮かび上がった。
「伏せて!」
三人が船底に身を沈め、ボートは釣り糸の森を強引に突破した。
追跡してきたドローン群も、釣り糸のカーテンに突っ込む。高速回転するローターに強靭なテグスが絡みつき、不快な金属音が反響する。自律制御のAIドローンは、この原始的な罠を「障害物」として認識できなかった。
一機、また一機と火花を散らして海面に墜落する。
「よし!」
涼が歓声を上げる。
だが安堵する暇もなく、金角湾の奥からサーチライトを焚いた二隻のゾディアックボートが、波を蹴立てて迫ってきた。
船首には自動小銃を構えた男たち。
「しつけぇな! エレーヌ、あいつら何者だ」
エレーヌは、ボートを急旋回させ、バックミラーを睨みつけながら吐き捨てるように言った。
「『ハミングバード(蜂鳥)』——AIを神と崇め、人類が滅びた後の世界で、AIの下僕となって生き延びることを選択したテロ集団」
銃弾がウィンドシールドを粉砕する。
その音に驚いてユナが悲鳴をあげる。
「私の父を殺したのも奴らよ」
砕け散るガラスの破片がユナの髪に降りかかるのを見て、真田は反射的に自分の体を盾にした。
ボートは再度ガラタ橋をくぐり、黒い鏡面のようなボスポラス海峡へ疾走する。ライトアップされた対岸の乙女の塔が、夜の海峡に浮かび上がる。
背後から脅威的なスピードで迫るゾディアックボート。
「追いつかれるぞ」
「何とかする!」
前方に巨大な壁が迫ってきた。ボスポラス海峡を北上する、全長四百メートルのマンモスタンカーだった。
タンカーが水を押し分ける際に生じる『V字型』の引き波は、数千トンの水圧が凝縮された破壊的なエネルギーの塊だ。
真田の頭の中で、数字が動き始めた。
タンカーの速度。船首波の角度。ケルビン波の理論値。V字型の引き波が形成するエネルギーの分布。波の頂点と谷が干渉する波高ゼロの「接点」の位置。
真田はエレーヌの肩を叩いた。エレーヌが振り向く。
タンカーの船首を指差し、それからボートの進行方向を手で示し、タンカーとの角度を指で作った。最後に、拳を握って突っ込む動作をした。
エレーヌの目が見開かれた。
自殺行為だ。タンカーの引き波に横から叩かれれば、ボートなど木っ端微塵に粉砕される。
ゾディアックボートがみるみる距離を縮める。
真田は躊躇するエレーヌの肩を強く掴み、空中に、見えない「衝突曲線」を描いた。それから彼女の視線を無理やりタンカーの船首へ向けさせ、力強く腕を振り下ろした。
エレーヌは覚悟を決め、スロットルを限界まで押し込んだ。
「おい、マジかよ!」
涼の叫びがかき消される中、ボートはタンカーの巨大な船首波に突っ込んでいく。
ゾディアックボートも、数メートルまで縮めた後方を猛追する。
衝突の瞬間——。
真田たちのボートは、船首波の「頂点」と「谷間」が干渉して一瞬だけ波高が相殺される一点に滑り込んだ。真田が計算し尽くした、奇跡の接点。
ボートは激しく浮き上がったが、波の背を滑るようにタンカーの向こう側へ抜けた。
数秒遅れてゾディアックボートが同じ地点に到達した時、波の位相はすでに変わっていた。海面が巨大な水の壁となって立ちはだかる。
一隻が宙を舞い、無残にひしゃげ水中に引きずり込まれていく。もう一隻がタンカーの側面に叩きつけられ、砕けた。爆発の炎が夜の海峡を赤く照らした。
真田は遠ざかる炎を見つめた。音のない世界で、炎だけが鮮明だった。
涼が真田の肩を叩いた。口が動いている。何を言っているかは分からなかったが、表情は分かった。信じられない、という顔。そして——すげえ、という顔。
真田は小さく頭を下げた。
遠ざかるサイレンと、行き交う船の灯り。
四人がほっと肩の力を抜いた時、船縁に手がかかった。
「誰かいる」
ユナが声を上げる。
黒い海から、口にナイフをくわえた生き残りの工作員が這い上がってきた。
涼が咄嗟に足元のボートフックを掴む。棒を握っている感覚はない。だが目で見て、腕の角度を確認し、雄叫びをあげ工作員の懐へ飛び込む。
工作員がナイフを振った。刃が涼の二の腕を切り裂いた。
赤い線が走り鮮血が噴き出す。
涼は見た。自分の腕が切れている。血が流れている。だが——何も感じなかった。
痛みがない。
「痛くねえんだよ」
涼はボートフックで怯んだ男を連打し、海へと放り投げた。
流れの早い夜の海峡に水柱が上がった。
涼は荒い息を吐きながら自分の腕を見た。
骨が見えそうなほどの深い傷。ぱっくりと割れた傷口から血が溢れている。だが、他人の腕ように感覚がない。
自分の身体がどれだけ壊れているか分からないという恐怖が、涼の心を痛めた。
「……涼、血が」
ユナが、臭いに気づいて青ざめる。
エレーヌがタオルを渡し、涼の傷口を縛った。
「勘違いしないで」 エレーヌが冷たく言い放つ。「あなたたちはただの『荷物』よ。ラディーグへ届けるまでは、壊れてもらっては困るだけ」
ボートは喧騒を離れ、シルケジ駅の真下にある古びた石造りの水路へと滑り込んだ。
かつてオスマントルコ帝国の貴族たちが、人目を避けてオリエント急行を利用した秘密の船着場だ。
エンジンが止まり、静寂が戻る。
淀んだ水と、古いレンガの匂い。
「……着いたわ。この階段を上がれば、駅のホームの真下に出る」
エレーヌが指差した先には、闇へと続く錆びた鉄扉があった。
地上では、パリ行きのオリエント急行が、蒸気を吐きながら主の到着を待っていた。
タイムリミットまで、あと三日。




