それはお前の力だ
翌朝、フィレーネが離宮の一室へ入ると、昨日まで客間として使われていたはずの部屋が、一晩で見慣れない研究室へ変わっていた。
中央の絨毯は端へ寄せられ、その代わりに床いっぱいへ複雑な魔法陣が描かれている。机の上には王城から借りてきたらしい魔導具が所狭しと並び、壁際には属性適性や魔力量を測るための結晶まで運び込まれていた。昨日初めて会ったばかりの家庭教師が、いつの間にこれだけのものを集めたのか、フィレーネには見当もつかない。
「……先生、これは全部、今日の検査に使うものですか?」
「ああ。普通なら何日かに分ける検査だけど、王城にある器具を借りられたから一度に済ませる。魔力量、属性適性、身体の魔力経路、それから呪躯周辺の魔力変化まで見たい」
メフィストは床へ座り込み、魔法陣の一部を書き直しながら答えた。
「いつから準備されていたんです?」
「朝からだ。日の出より少し前には起きてたから、それなりに時間はあった」
「メフィスト様」
横で聞いていたアメリアの声音が、僅かに低くなる。
「昨晩は、何時頃お休みになられましたか?」
「寝たことは寝た。2時間くらいは横になったから、今日は問題ない」
「問題しかございません。フィレーネ様の家庭教師をなさるのであれば、まずご自身の健康管理から覚えていただく必要がありそうですね」
「研究が途中だったんだから仕方ないだろ。それに、睡眠不足で術式を間違えるほど弱ってはいない」
「そういう問題ではございません」
アメリアが静かに言い切ると、メフィストは納得していない顔のまま、それ以上は反論しなかった。
フィレーネは思わず笑いながら、床に描かれた魔法陣へ目を向ける。
「では、今日はこれで私の呪躯を調べるんですね」
「ああ。ただし昨日も言った通り、目的は治療じゃない。お前の身体がどういう構造で、魔力がどこを通り、何に向いているのかを確認する。治すかどうかを考えるのは、その後でいい」
その言葉を聞くと、フィレーネの胸に小さな緊張が戻ってきた。
自分の身体を医師や神官に診てもらった経験は何度もある。生まれつき男女双方に由来する生殖上の身体的特徴を併せ持っていることも、そのため王族として通常の継承や婚姻政策から外されていることも、もう十分に理解していた。
けれど、これまでの診察はいつも「どこが普通と違うのか」を確かめるものだった。
メフィストだけは違う。
昨日からずっと、彼女はフィレーネの身体を前にして「何ができるのか」と問い続けている。
「怖いか?」
唐突に聞かれ、フィレーネは少し驚いたものの、正直に頷いた。
「……少しだけ。今までとは違うことを調べるので」
「なら、嫌になったら途中で止めればいい。検査結果は欲しいが、そのために本人が嫌がることを続ける必要はないし、無理をさせて魔力の流れが乱れたら結果としても役に立たない」
「……止めてもいいんですか?」
「お前の身体を調べるんだから、決めるのはお前だろ。私は知りたいことを説明するし、その上でやるかどうかを選べばいい」
メフィストの言い方はぶっきらぼうだったが、そこに迷いはなかった。
研究には強い興味を持っている。それでも、フィレーネ本人の意思を押し退けてまで知ろうとはしないらしい。
「分かりました。お願いします」
「じゃあ中央に立ってくれ。最初は何も意識しなくていい」
フィレーネが魔法陣の中央へ立つと、メフィストは床へ片手を触れた。淡い青色の光が足元から広がり、ぬるい水へ浸かったような微かな感覚が全身を通り抜けていく。
「力を抜いて、そのまま立ってろ。自分で魔力を動かそうとすると普段の流れが分からなくなるから、今は何もしない方がいい」
「はい」
言われた通りに呼吸を整えていると、周囲へ置かれた小さな結晶が1つずつ光り始めた。
青、緑、赤、黄色。
いくつもの色が浮かんでは消え、そのたびにメフィストは手元の紙へ猛烈な勢いで数字や線を書き込んでいる。何を見ているのかフィレーネにはまったく理解できなかったが、彼女だけは明らかに楽しそうだった。
「先生、もう何か分かったんですか?」
「いくつかはな。まず魔力量がかなり多い。少なくとも、ほとんど魔術教育を受けていない人間としては明らかに平均以上だ」
その答えに、フィレーネの胸が少しだけ高鳴る。
「それは、魔法の才能があるということでしょうか」
「魔力量だけで才能を決めるのは早い。水がたくさんあっても、上手く流せなければ溢れるだけだからな。ただ、お前の場合は制御の方も少し変わってる」
「変わっている?」
「ああ。普通の人間なら、身体の中心部から枝分かれするように魔力が四肢へ流れる。でもフィレーネの魔力は、一度別の場所を経由してから全身へ分配されてる。しかも、その経路を通した後の方が流れが安定してる」
メフィストは魔法陣の一部を指し示しながら説明する。
「つまり、ただ魔力が多いだけじゃない。途中に制御装置みたいなものがある」
フィレーネは自分の身体へ視線を落とした。
「それが……私の呪躯なんですか?」
「今のところ、その可能性が一番高い。先天性呪躯として形成された身体的特徴が、外見だけじゃなく魔力回路の一部として最初から組み込まれてる」
「私の、この身体が……?」
「ああ。少なくとも、何の意味もなく存在してるわけじゃなさそうだ」
フィレーネはすぐには言葉を返せなかった。
ずっと、自分の身体は普通ではないから問題なのだと思っていた。
王族としての役割を奪い、進むはずだった道から自分を外したもの。
それが突然、魔術にとって有用な器官かもしれないと言われても、感情が簡単に追いつくはずがない。
「先生。もし……そこを使わずに魔法を覚えたいと言ったら、できますか?」
「できると思う。ただ、かなり非効率になる」
メフィストは手元の測定値を見ながら少し計算し、それから続けた。
「今の流れを見る限り、呪躯を経由しない場合は同じ魔術を使うのに3倍から4倍くらい魔力を消費する可能性がある。それに、無理に迂回させることになるから制御も難しくなる。とはいえ不可能ではない。そっちを選びたいなら、その前提で教える」
「先生は、この呪躯を使った方がいいと思っているんですよね?」
「思ってる。魔術師としてだけ考えれば、使わない理由はあまりない」
「それなのに、使わなくてもいいんですか?」
メフィストは少しだけ首を傾げた。
「私が便利だと思うことと、フィレーネが自分の身体をどう扱いたいかは別の話だろ。嫌なものを無理に使わせたところで、魔術を使うたびに嫌な思いをするなら長続きしない。それなら効率が落ちても、納得できる方法を探した方がいい」
そこまで説明してから、メフィストは少し考えるように自分の胸元へ視線を落とした。
「まあ、私なら使うけどな」
「先生なら?」
「ああ。そもそも私も呪躯持ちだ」
その言葉に、フィレーネは思わずメフィストの身体へ視線を向けた。
昨日から気にはなっていた。
小柄な身体に対して、明らかに不自然なほど発達した胸部。けれど容姿について尋ねるのは失礼だと思い、口には出さずにいた。
「これは後天性呪躯だ。生まれた時からあったわけじゃなくて、成長の途中で身体が変わった」
「どうして、そんなことが?」
「私は昔から魔力が欲しかった。もっと大きな術式を試したい、研究したい、魔力が足りなくて諦めるのが嫌だと考え続けてた。そうしたら身体がその願いに引っ張られて、魔力を蓄積するための器官を勝手に作ったらしい」
メフィストは自分自身のことなのに、まるで珍しい症例を解説するような調子だった。
「まだ完全に仕組みが分かったわけじゃないが、強い願望と魔力が長期間結びつくことで、身体そのものが変化する場合がある。私はそれを後天性呪躯として分類した。それが論文を書いた理由の1つだ」
「では、先生はその身体を……嫌ではないんですか?」
「重いし、邪魔だし、服も選ぶ。その辺は普通に不便だ」
あまりにも率直な答えに、フィレーネは少しだけ目を丸くした。
「ただ、魔力炉としてはかなり優秀だから、魔術を使う時には助かってる。便利な部分まで嫌う必要はないだろ」
メフィストはそう言って、フィレーネへ視線を戻した。
「だからといって、同じ考え方をしろとは言わない。フィレーネが自分の呪躯をどう思うかはフィレーネの自由だ。ただ、普通と違うという理由だけで、使える可能性まで捨てるのは惜しいと私は思ってる」
フィレーネはしばらく、自分の手を見つめていた。
自分も、いつかそんなふうに思えるのだろうか。
今すぐに好きになれるとは思えない。
それでも、昨日までとは少しだけ違っていた。
同じように呪躯を持つ少女が、それを隠すでも恥じるでもなく、自分の力として当然のように扱っている。その姿を見ていると、自分にも別の見方があるのかもしれないと思える。
「検査を続けてもいいか?」
「はい。お願いします」
メフィストが再び魔法陣へ魔力を流すと、今度は周囲の結晶が属性ごとに反応を始めた。
火属性は弱く、水は平均程度。風と土にも多少の適性があり、どれか1つしか扱えないということはなさそうだった。
「色々使えそうだな。どれも突出してはいないが、基礎を覚えるにはむしろ都合がいい」
「先生ほどではありませんけど」
「私と比べる必要はない。あれは比較対象として適切じゃない」
「ご自分でおっしゃるんですね……」
「事実だからな」
フィレーネが苦笑したところで、最後の結晶が光った。
白い光だった。
しかも、それまで反応したどの結晶よりも強い。
「光属性……?」
「ああ。これはかなり高いな。治癒や浄化系統を覚えるなら、相性は良さそうだ」
フィレーネも少し嬉しくなり、結晶へ目を向けた。
ところがメフィストは、すぐに眉間の皺を深くする。
「いや、待て。これ、光だけじゃない」
「違うんですか?」
「中心に別の性質が混じってる。もう1度、今度は自分で魔力を流してみろ」
「どうやってでしょう?」
「昨日言ってたことを思い出せ。強くなりたいんだろ?」
「はい」
「なら、その気持ちを意識しながら手に魔力を集めてみろ。押し出そうとしなくていい。身体の中にあるものを、ただ流す感じで」
フィレーネは右手を前へ出した。
本格的な魔術訓練を受けた経験はほとんどない。それでも、自分の内側に何かがあることは何となく分かる。
強くなりたい。
昨日だけではない。
7歳で剣を握った時から、ずっと願ってきた。
強ければ、境界の亀裂を調べに行ける。
強ければ、魔物から人を守れる。
強ければ、自分で働き、自分で生きていける。
強ければ、誰かから役割を与えられなくても、自分で居場所を作れる。
その願いを思い出しながら呼吸を整えると、身体の奥から温かなものが流れ始めた。
一度どこかを通り、そこで整えられてから腕へ向かってくる。
昨日まで意識したこともなかった、自分だけの魔力の流れだった。
「そう。それでいい。力んで押し出すな。お前の場合、その経路を通した方が勝手に整ってくれる」
メフィストの声に従い、フィレーネは流れを止めないよう意識する。
やがて手のひらから、白金色の光が溢れた。
「……!」
傍らで見守っていたアメリアが、僅かに目を見開く。
メフィストは完全に研究者の顔になっていた。
「やっぱりそうか。これは普通の光属性じゃない」
「先生、これは何なんです?」
「聖属性だ」
「聖属性……?」
「光から派生する希少属性の1つだ。浄化、守護、それから魔性への干渉が強い。神殿の高位神官でも持ってない者の方が多いくらいには珍しい」
フィレーネは自分の掌から溢れる光を見つめた。
「そんなものが、私に?」
「ああ。ただ、それだけじゃない」
メフィストは床へしゃがみ込み、先ほどまでに記録した魔力経路を指差した。
「ここを見ろ。先天性呪躯として元からある経路とは別に、後から追加されたような新しい魔力回路がある。形成時期を完全には特定できないが、成長の具合を見る限り、たぶん7歳前後から少しずつ伸びてる」
フィレーネの胸が大きく跳ねた。
「……私が剣を始めた頃です」
「だろうな。お前が強くなりたいと願い始めた時期と一致してる」
メフィストは紙へ新しい線を書き込みながら、興奮を隠そうともせず説明を続ける。
「おそらく元々あった先天性呪躯が魔力制御の核になって、そこへフィレーネ自身の願いが長期間作用した。その結果、聖属性を扱うための新しい経路が形成され始めたんだと思う。私の後天性呪躯と完全に同じではないが、原理としてはかなり近い」
「私の……願いが、身体を変えたんですか?」
「少なくとも私はそう考える。もっと症例を集めないと断定はできないけど、今の結果はかなり綺麗だ」
フィレーネは自分の身体を見下ろした。
ずっと嫌いだった。
普通の王女になれなかった原因だった。
できるなら消えてほしいと思ったこともある。
けれど、その身体が今、自分の願いを受け止め、強くなるための力へ変えようとしている。
「先生」
「なんだ?」
「私、この力を使ってみたいです」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
つい先ほどまで、呪躯を使わずに魔術を学べるか尋ねていたのに、今は自分から使いたいと思っている。
メフィストはそんなフィレーネをしばらく見てから、小さく頷いた。
「分かった。なら、お前が納得して使えるように教える」
その答えが、不思議なくらい嬉しかった。
「まずは形を決めた方がいいな。フィレーネは7年間剣を振ってきたんだろ?」
「はい」
「だったら、その積み重ねを捨てて別の武器を覚える意味はない。聖属性を外へ出して、剣の形に固定する。呪躯を魔力制御の中核にして、そのまま今までの剣術へ繋げるのが一番効率がいい」
「魔法で、剣を作るんですか?」
「ああ。普通の鉄剣より調整は難しいが、魔力そのものを刀身にするなら、お前専用の武器にできる」
フィレーネの目が輝く。
メフィストは紙の上へ新しい術式を書き始めた。
「最初から完成した長剣を作ると形が崩れやすい。一度魔力を手元へ収束させて、そこから柄、鍔、刀身の順に安定させる。聖属性は外へ散りやすいから、形成途中だけ少し密度を上げて……」
途中からフィレーネには何を言っているのかほとんど分からなくなったが、メフィストが楽しそうなのだけはよく分かった。
「先生」
「なんだ?」
「すごく楽しそうですね」
「面白いからな。本人専用の魔力経路と希少属性を組み合わせて、これまで使ってきた剣術に接続する。こんな条件、そう何度も研究できるものじゃない」
「私の魔法なんですけど……」
「だから面白いんだ。フィレーネにしか作れないものになる」
その一言に、フィレーネは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
自分の身体を見て、誰かがこんなに楽しそうにしている。
これまでとは、まるで違う。
しばらくして術式を書き終えると、メフィストは紙を床へ置いた。
「理論上はこれで動く。やってみよう」
「……理論上、ですか?」
「最初から完璧に動く保証はない。でも失敗したら原因を見て直せばいい。今の魔力制御なら危険な暴走は起きにくいし、私も横にいる」
先ほどより随分安心できる説明だった。
アメリアも静かに頷く。
「わたくしもおります。どうぞお試しくださいませ、フィレーネ様」
「はい」
フィレーネは右手を前へ出した。
先ほど感じた、自分だけの魔力の流れを思い出す。
これまで知らなかっただけで、ずっとそこにあったもの。
自分が嫌ってきた身体の中に、それでも確かに育ち続けていた力。
そこへ魔力を流すと、驚くほど自然に白金の光が手元へ集まってきた。
「そのまま外へ出して、形を意識しろ。いつも握ってる剣を思い浮かべればいい」
「はい」
光は最初、小さな塊だった。
そこから細長く伸び、徐々に形を整えていく。柄ができ、鍔が形作られ、その先へ白金の刀身が伸びていった。
光が安定した時、フィレーネの右手には1本の剣が握られていた。
「……できた」
思わず声が震えた。
重さは鉄剣よりも遥かに軽い。それなのに握った感覚は確かで、7年間使い続けてきた木剣や長剣とまるで別物のはずなのに、不思議なほど手に馴染む。
「先生、振ってみても?」
「ああ。ただし最初はゆっくりな。形成したばかりだから、急に魔力を動かすと刀身が崩れるかもしれない」
フィレーネは頷き、ゆっくりと剣を構えた。
横薙ぎに1度。
踏み込みながら振り下ろして2度。
少し速度を上げて3度目を振る頃には、もう笑っていた。
「先生、ちゃんと剣です! これなら今までの剣術がそのまま使えます!」
「ああ。予想していたより安定してる。魔力消費も今のところ大きくないし、慣れれば実戦でも使えると思う」
その言葉を聞きながら、フィレーネは白金の刀身を見つめた。
誰かから与えられた剣ではない。
自分の身体から生まれたものだ。
ずっと嫌っていた呪躯も、7年間振り続けてきた剣も、強くなりたいと願い続けた時間も、そのすべてが1本の剣として形になっているように思えた。
「先生」
「なんだ?」
「この魔法、名前はあるんですか?」
メフィストの手が止まった。
「名前か。術式として識別できれば何でもいいと思ってたから、まだ決めてない」
「私だけの魔法なら、ちゃんと名前が欲しいです」
「そういうものか?」
「そういうものです」
フィレーネが即答すると、メフィストは改めて術式の紙を眺めた。
「形成途中で魔力を一度収束させただろ。その時の形が、上が膨らんで下が細くなるから、ちょっとキノコに似てる」
「……嫌な予感がします」
「それで聖属性の剣だから、聖剣ではある」
「先生?」
メフィストは数秒だけ真面目に考え、それから本人なりに筋の通った結論を出した。
「なら《おキノコカリバー》でいいんじゃないか。形成過程と用途の両方が名前に入ってるし、他と被る可能性も低い」
部屋が静まり返った。
フィレーネは、自分が聞き間違えた可能性を考えた。
「……先生。もう1度、お願いします」
「《おキノコカリバー》。覚えやすいし、識別名としては悪くないと思う」
「変えてください」
「どうしてだ? 由来も明確だし、術式名として必要な条件は満たしてるだろ」
「そういう問題ではありません!」
フィレーネの叫びが、離宮いっぱいに響いた。
こうして彼女は、自分がずっと捨てたかったものから、初めて自分だけの力を手に入れた。
その力につけられた名前だけは、どうしてもすぐには受け入れられそうになかった。




