治す必要がない
フィレーネは、自分には王女としての役割がないことを、幼い頃からよく知っていた。
剣を振り下ろすたび、乾いた音が離宮の中庭へ響く。朝露の残る石畳を踏み込み、木剣を返してもう1度。7歳から何千、何万と繰り返してきた動きだけあって、今では考えなくとも身体が正しい軌道を選んでくれる。
「98、99……100」
最後の1振りを終えて息を吐くと、少し離れた場所で見守っていたアメリアが静かに拍手した。
「お見事です、フィレーネ様。昨日よりも踏み込みが安定しております」
「本当ですか?」
「ええ。特に剣を返す際の肩の力が抜けました。無理に速く振ろうとなさらなくなったのが良いのでしょう」
褒められたことが嬉しくて、フィレーネは自然と頬を緩ませる。
アメリアはフィレーネが物心つくより前から仕えてくれている侍女だった。見た目だけなら20歳ほどの若い女性にしか見えないが、エルフである彼女は父である国王よりも遥かに年上で、剣を握らせれば王城の騎士にも引けを取らない。
フィレーネに剣を教えたのも彼女だった。
「もう1度お願いします」
「休憩を挟まれてはいかがですか?」
「まだ大丈夫です。今日の分は、あと100回残っていますから」
「数をこなすことだけが鍛錬ではありませんよ」
「分かっています。でも、やれることはやっておきたいんです」
そう答えると、アメリアは少し困ったように微笑んだ。
フィレーネには、やれることがあまり多くない。
彼女は国王の娘として生まれた。
金色の髪に青い瞳を持ち、健康にも大きな問題はない。礼儀作法も読み書きも身につけ、王族として必要になるはずだった教育も幼い頃から受けてきた。
それでも、フィレーネには王女として与えられる仕事がなかった。
理由は、生まれながらに持つ《呪躯》にある。
呪躯とは、通常とは異なる身体的特徴を持って生まれたり、成長の途中で肉体が変質したりした者を指す古い呼び名だった。片腕だけが異常に発達する者、巨大な眼球や耳を持つ者など、その現れ方は人によってまったく異なる。
フィレーネの場合は、出生時から男女双方に由来する生殖上の身体的特徴を併せ持っていた。
日常生活に大きな支障はない。
フィレーネ自身も女性として育ち、自分を王女だと認識している。
だが王家にとって、その身体は扱いの難しいものだった。
王族の呪躯持ちは、原則として王位継承から外される。
政略結婚にも組み込まれない。
他国との婚姻外交にも、王家の血統を繋ぐ役割にも、最初から数えられない。
昔なら、それだけでは済まなかったという。
呪躯は魔族の呪いだと信じられていた時代には、王家に生まれた者ほど存在そのものを隠されたり、生まれた直後に命を奪われたりした記録も残っている。
今は違う。
少なくともフィレーネは生かされているどころか、家族から愛されていた。
父は会えば必ず気遣ってくれるし、兄姉たちも普通に接してくれる。離宮での暮らしにも不自由はなく、アメリアをはじめとした使用人たちは十分すぎるほど良くしてくれている。
それでも、制度の上では最初から決まっていた。
フィレーネ王女に、王族として期待される役割はない。
兄たちは王位継承を見据えて政務を学んでいる。
姉たちは外交行事へ顔を出し、近隣諸国や有力貴族との関係を築いている。同年代の令嬢にも、すでに婚約相手が決まり、将来どの家へ嫁ぎ、どんな立場になるのか定まっている者が少なくない。
フィレーネだけが、そのどこにも組み込まれていなかった。
誰にも責められていない。
誰にも嫌われていない。
それでも、自分だけ行き先がない。
だから剣を振っていた。
「……フィレーネ様?」
アメリアの声で、フィレーネは我に返った。
気付けば、もう一度木剣を構えていた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ。ただ、やっぱりもっと強くならなくてはと思って」
フィレーネは剣先を見つめる。
王女として役割がないのなら、別の役割を作ればいい。
幼い頃から、そう考えてきた。
強ければ、次元の境界に生じた亀裂を調査する者になれるかもしれない。
この国では時折、世界と世界の間に亀裂が発生する。そこから魔物が現れれば、騎士や冒険者が内部へ入り、原因を探り、可能なら境界そのものを閉じる。
王女でなくても、強ければそこへ行ける。
強ければ、街や村を魔物から守れる。
強ければ、誰かに守られるだけではなく、自分が誰かを守る側に回れる。
強ければ、冒険者として自分の食い扶持くらいは自分で稼げる。
強ければ、王家に養われなくても生きていける。
強ければ。
もっと強ければ。
さらに強くなれば、自分にも何かできる。
だから剣を振る。
王女として与えられなかった役割を、強さで作るために。
「私は、一人でも生きていけるくらい強くなりたいんです」
フィレーネは何度も口にしてきた言葉を、今日も繰り返した。
アメリアはその理由を知っている。
「フィレーネ様が誰かのご迷惑になったことなど、1度もございません」
「ありがとうございます。でも、それとこれとは別なんです」
アメリアの言葉が慰めではなく、本心なのも分かっていた。
父も同じようなことを言う。
王女として何かを果たさなくても、お前は私の娘なのだから気にする必要はないと。
嬉しかった。
けれど、フィレーネが欲しいのは「何もしなくていい」という許しではなかった。
何かがしたかった。
自分にもできることがあると、自分自身で思いたかった。
先日も離宮の窓から、王城へ入っていく馬車を見た。
乗っていたのはフィレーネとほとんど年の変わらない伯爵令嬢で、来年には隣国の王族との婚約が正式に決まるらしい。
羨ましいとは思わなかった。
政略結婚をしたいわけでもない。
ただ、あの少女には進むべき道があるのだと思った。
自分にはない。
なら、自分で作るしかない。
「もう100回、お願いします」
フィレーネは再び木剣を構えた。
「承知いたしました。ただし、それで本日は終わりになさいませ」
「はい」
木剣を振り上げた、その時だった。
離宮へ続く回廊の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
侍女の1人がこちらへ駆けてくる。
「フィレーネ様、アメリア様。王城よりお客様がお見えになりました」
「お客様?」
フィレーネは木剣を下ろした。
離宮を訪れる者は多くない。
「はい。陛下より、本日からフィレーネ様の家庭教師を務められる方だと伺っております」
「家庭教師……?」
思わずアメリアを見る。
彼女も初耳だったらしく、小さく首を傾げていた。
「私に、ですか?」
「はい。それから……」
侍女が少し言い淀んだ。
「その方は、先日正式に賢者の称号を授けられた方だそうです」
フィレーネはますます分からなくなった。
賢者。
王国でも数えるほどしか存在しない、魔術研究の最高位に近い称号である。
そんな人物が、なぜ自分の家庭教師になるのだろう。
「お父様が手配されたのでしょうか」
「おそらくは」
アメリアの声音が少しだけ硬くなる。
フィレーネにも、その理由には心当たりがあった。
家庭教師という名目ではあるが、賢者ほどの人物をわざわざ自分のもとへ送り込む理由など1つしかない。
呪躯だ。
父は今でも、フィレーネの身体を治す方法を探してくれている。
「……分かりました。着替えてきます」
フィレーネは木剣を片付け、室内へ戻った。
汗を流し、髪を整え、王女として人前へ出ても問題のない服へ着替える。それほど豪華ではないが、淡い青を基調としたお気に入りのドレスだった。
鏡の前で自分を見る。
金色の髪。
青い瞳。
顔立ちは悪くないと思う。
昔、兄からは「黙って立っていれば絵本のお姫様みたいだ」と笑われたこともあった。
それでも、普通の王女にはなれなかった。
もし治るのなら。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。
治れば、何か変わるのだろうか。
制度上すでに外された王位継承権が戻るわけではないだろう。今さら政略結婚へ組み込まれるとも思えない。
それでも、自分の身体が普通になるのなら。
期待しないようにしていたはずなのに、胸の奥が少しだけ騒いだ。
「フィレーネ様」
「大丈夫です、アメリア」
フィレーネは笑った。
「治らなくても、今までと同じですから」
客間へ向かう。
扉の前まで来ると、アメリアが先に1歩出た。
「フィレーネ王女殿下がお見えになりました」
扉が開く。
フィレーネは王女として身につけた礼儀通りに室内へ入り、そして足を止めた。
中央の長椅子に、1人の少女が座っていた。
小さい。
まず最初に思ったのはそれだった。
フィレーネ自身よりも明らかに幼い。背丈だけなら10歳を少し超えた程度にも見える。
長い旅をしてきたのか、髪は少し乱れている。豪華な装飾品も身につけておらず、服装も動きやすさを優先した簡素なものだった。
ただし身体つきにはかなり特徴があり、小柄な体格とは釣り合わないほど胸部だけが大きく発達している。
何より印象的なのは顔だった。
ずっと眉間に皺が寄っている。
怒っているようにも、何か難しい計算を続けているようにも見えた。
「……あの」
フィレーネは思わずアメリアを見る。
間違えて別の子供を通したのではないだろうか。
そんな疑問が顔に出ていたのか、少女がこちらを見た。
「フィレーネか?」
「は、はい」
「メフィストだ」
それだけ言って、少女は立ち上がる。
フィレーネよりずっと小さい。
「今日からお前の家庭教師をやることになった」
「……失礼ですが、おいくつですか?」
「12だ……」
「12歳……!?」
「ああ」
フィレーネはもう1度アメリアを見た。
今度はアメリアもわずかに困惑していた。
「12歳で、賢者様なのですか?」
「この前そうなった」
メフィストはさほど興味もなさそうに答える。
「論文を書いたら勝手に付いた」
「論文……」
「《先天性呪躯および後天性呪躯における形成機序の比較考察》」
その単語を聞いた瞬間、フィレーネの身体が僅かに強張った。
やはり、自分の呪躯を診るために呼ばれたのだ。
メフィストはそれにも気付いたらしい。
「父親から話は聞いてる」
「……お父様から」
「治せるか調べてほしい、だそうだ」
やはりそうだった。
フィレーネは膝の上で指を組んだ。
「賢者様は、呪躯についてお詳しいのですよね?」
「少なくとも、この国にいる研究者の中では詳しい方だと思う」
「でしたら……」
少しだけ喉が乾く。
期待してはいけない。
そう思いながら、それでも聞かずにはいられなかった。
「私の身体も、治せるのでしょうか?」
メフィストはすぐに答えなかった。
フィレーネを上から下まで眺める。
嫌悪も同情もなかった。
ただ、研究対象を見る目だった。
「詳しく調べないと断定はできない」
「……はい」
「ただ」
メフィストは眉間に皺を寄せたまま続ける。
「今聞いている範囲なら、たぶん治せない」
フィレーネの胸に、少しだけ重いものが落ちた。
分かっていた。
今までだって、多くの医師や神官が同じ結論を出している。
「そう、ですか」
「というより」
メフィストは首を傾げた。
「治す必要がない」
フィレーネは顔を上げた。
「……え?」
「呪躯は病気じゃない。少なくとも、私はそう考えてる」
メフィストは平然と言う。
「身体の構造が普通と違う。それだけだ」
「ですが、私はそのせいで王族としての役目を……」
「継承権もない。政略結婚にも使われない。王家の政策から外されている。それも聞いた」
フィレーネは黙った。
「でしたら――」
「それは王家の都合だろ」
あまりにもあっさりと言われて、フィレーネは言葉を失った。
メフィストは続ける。
「王女として便利かどうかと、お前の身体が壊れてるかどうかは別の話だ」
そんなことを言われたのは初めてだった。
慰められたことなら何度もある。
気にする必要はないと言われたこともある。
大切な娘だと父に抱きしめてもらったこともある。
それでも誰もが、フィレーネの身体を「治せるなら治した方がいいもの」として扱っていた。
フィレーネ自身もそう思っていた。
普通ではないから。
王女として役に立たないから。
だから、これは欠点なのだと。
「それに」
メフィストが立ち上がった。
そのままフィレーネのすぐ近くまで来る。
「呪躯には、普通の身体にはない機能があることが多い」
「機能……?」
「ああ。腕が異常に発達した奴は怪力を持つ。眼球が変異した奴は魔力が見える場合がある。見た目だけ見て異常だと決めつけるのは簡単だが、魔力回路まで調べると理由があることが多い」
そこで初めて、メフィストの声に僅かな熱が混じった。
魔術研究について語る時だけは、この少女も年相応に楽しそうな顔をするらしい。
「だから調べる」
「私を……ですか?」
「そうだ」
メフィストは頷く。
「お前の身体が何のためにそうなったのか。魔力がどう流れてるのか。何ができるのか」
フィレーネは戸惑ったまま、自分の身体へ視線を落とした。
これまでずっと、知られたくないと思っていた。
隠すもの。
恥じるもの。
できれば普通になって消えてほしいもの。
それを「何ができるのか」と問われたことなど、1度もない。
「もし……何もなかったら?」
「その時は何もないと分かる」
「もし、本当にただの異常だったら?」
「その時は別の方法を考える」
メフィストは何でもないことのように答えた。
「でも、まだ調べてもいないのに欠陥だと決めるのは早い」
そしてフィレーネを真っ直ぐ見る。
「お前、それを使って何かしたことあるか?」
「使う……?」
「呪躯を」
フィレーネは首を横へ振った。
そんな発想自体がなかった。
「なら、なおさらだな」
メフィストはそう言うと、ほんの少しだけ口元を上げた。
「治すかどうか考えるのは、使えるかどうか調べてからでも遅くない」
フィレーネは目を瞬いた。
この小さな賢者が何を言っているのか、まだ全部は理解できない。
けれど、自分がずっと欠点だと思っていたものを見て、この少女は1度も可哀想だと言わなかった。
異常だとも、気味が悪いとも言わなかった。
ただ興味深そうに、何ができるのか調べようと言った。
「……賢者様」
「先生でいい」
「先生」
口にすると、不思議な響きだった。
「私、強くなりたいんです」
メフィストが眉を上げる。
「どれくらい?」
「一人でも生きていけるくらい……いえ」
フィレーネは途中で言い直した。
それだけではない。
「境界の亀裂が開いたら、そこへ行けるくらい。魔物が村を襲ったら守れるくらい。王家に養われなくても、自分で働いて生きられるくらい」
言葉にするほど、胸の中に溜めていたものが溢れてくる。
「私には王女としての役目がありません。だから、強くなれば別の役割を持てると思ったんです」
メフィストは黙って聞いていた。
「強ければ、誰かに守ってもらうだけではなくなります。強ければ、必要としてもらえる場所があるかもしれません。もっと強ければ、自分の居場所くらい自分で作れるかもしれない」
フィレーネは膝の上で握っていた手に力を込める。
「だから私は、強くなりたいんです」
メフィストはしばらくフィレーネを見ていた。
慰めることも、否定することもしなかった。
やがて視線を、中庭に置かれた木剣へ向ける。
「剣は?」
「7歳から続けています」
「魔法は?」
「生活魔法を少しだけ。適性についても、詳しくは調べたことがありません」
「そうか」
メフィストは何かを考えるように顎へ手を当てた。
そして、あっさりと告げた。
「なら調べる」
「え?」
「剣も、魔力も、呪躯も全部だ」
先ほどまで治療の話をしていたはずなのに、いつの間にか話がまったく別の方向へ進んでいる。
「強くなりたいんだろ?」
「……はい」
「なら、使えるものは全部使えるようにする」
メフィストはフィレーネの身体を指差した。
「その呪躯も含めてな」
フィレーネは言葉を失った。
自分の人生には、進む道がないと思っていた。
王女として用意されていた道から外れた時点で、せめて一人で立てるようになるしかないのだと思っていた。
けれど、その日初めて。
12歳の小さな賢者は、フィレーネがずっと捨てたかったものを指して言った。
それを捨てる必要はない、と。
「明日から検査するぞ、フィレーネ」
「は、はい!」
「面白いものが見つかるといいな」
「そこは私のためと言ってくださらないんですね……」
「結果的にお前のためにもなる」
即答だった。
フィレーネは思わず笑ってしまった。
この人はきっと、変な人だ。
けれど、悪い人ではない。
そしてこの出会いが、自分の身体も、人生も、剣も、すべてを変えることになるとは、この時のフィレーネはまだ知らなかった。




