涙の向こう側へ
このページでは、陽菜の病状がさらに悪化し、悠斗と陽菜に残された時間が少しずつ短くなっていきます。
第7ページで交わした「消えない約束」。
その約束を胸に、悠斗は涙をこらえながら、陽菜のそばに居続けます。
けれど、別れの足音は、確かに近づいていました。
病室の窓に、雨粒が細く流れていた。
朝から空は重く曇っていて、太陽は一度も顔を見せなかった。窓ガラスを叩く雨音は静かなはずなのに、悠斗にはそれが胸の奥を何度も叩く音のように聞こえていた。
陽菜は眠っていた。
白い布団の中で、ひどく小さく見えた。
昨日までよりも、さらに頬の色が薄い。唇も乾いていて、呼吸は浅かった。手を握ると、まだ温かい。けれど、その温かささえ、指の間から少しずつ零れていくようで、悠斗は怖くなった。
ベッドの横には、あの水色のノートが置かれている。
表紙には、陽菜の震える字で書かれた言葉。
『消えない約束』
悠斗はその文字を何度も見た。
何度見ても、胸が苦しくなった。
明日も、誰かにおはようと言いたい。
泣いても、最後は少しだけ笑う。
もし私が全部忘れても、私を嫌いにならないでください。
明日、君が笑うなら、私は幸せです。
昨日、陽菜が残した言葉たち。
その一つ一つが、悠斗の胸に刺さっていた。
優しい言葉なのに、痛かった。
陽菜は最後まで、自分ではなく悠斗の明日を願っていた。
自分の記憶が消えることを怖がりながら。
自分の命が短くなっていくことを感じながら。
それでも陽菜は、悠斗がいつか笑えることを願った。
「……そんなの、ずるいよ」
悠斗は小さく呟いた。
眠っている陽菜には届かないくらいの声だった。
「陽菜がいない明日なんて、どうやって笑えばいいんだよ」
返事はない。
聞こえるのは、雨音と、陽菜のかすかな寝息だけだった。
昼前、医師に呼ばれた。
病室を出る時、悠斗は陽菜の手を離すのに時間がかかった。ほんの数分でも離れたくなかった。自分がいない間に何かが変わってしまうのではないかと、怖くてたまらなかった。
廊下の先の小さな説明室には、陽菜の母・彩花が先に座っていた。
彩花の顔は疲れていた。
それでも背筋を伸ばし、両手を膝の上で握りしめていた。
医師は静かな声で話した。
言葉を選んでいた。
できるだけ傷つけないように。
できるだけ希望を残すように。
でも、どんなに柔らかく包んでも、その言葉の中身は変わらなかった。
陽菜の状態は悪化している。
体力がかなり落ちている。
意識がはっきりしている時間は、これからさらに短くなる可能性がある。
記憶の混乱も進むだろう。
突然、強い苦痛が出ることもあるかもしれない。
そして。
「ご家族で過ごせる時間を、大切にしてください」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の耳から音が消えた。
大切にしてください。
それは、もう長くないという意味だった。
覚悟してくださいという意味だった。
別れが近いという意味だった。
悠斗は息を吸うことを忘れた。
胸の真ん中を、冷たい手で握り潰されたようだった。
彩花が小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
その声は震えていた。
でも、泣かなかった。
悠斗は自分だけが子どものように崩れそうで、唇を強く噛んだ。
説明室を出たあと、彩花は廊下の窓の前で立ち止まった。
雨に濡れた中庭が見えた。
花壇の花はうつむいていた。
「悠斗くん」
彩花が静かに呼んだ。
「はい」
「ごめんね」
悠斗は首を横に振った。
「謝らないでください」
「でも、あなたはまだ若いのに」
「俺が陽菜のそばにいたいんです」
「うん」
彩花は頷いた。
「分かってる。分かってるけど……母親として、あなたの人生まで巻き込んでしまっているようで、苦しくなるの」
悠斗はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言った。
「巻き込まれたんじゃありません」
彩花が悠斗を見る。
「俺が、陽菜を好きになったんです。俺が、陽菜の隣にいるって決めたんです」
声が震えた。
でも、悠斗は言い切った。
「だから、これは俺の人生です」
彩花の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう」
その言葉は、母親としての感謝であり、痛みでもあった。
病室に戻ると、陽菜は目を覚ましていた。
ぼんやりと天井を見ている。
悠斗が近づくと、陽菜はゆっくり顔を向けた。
「……誰?」
その一言で、悠斗の心はまた崩れた。
でも、もう驚かなかった。
何度も何度も、その朝を迎えてきた。
悠斗は椅子に座り、できるだけ優しく笑った。
「神崎悠斗だよ」
「ゆうと……」
「うん」
「私の、何?」
悠斗は少しだけ考えた。
今日の陽菜は、かなり混乱しているようだった。
目が不安げに揺れている。
知らない病室。
知らない時間。
知らない男。
知らない自分。
陽菜の怖さを思うと、悠斗は胸が痛んだ。
「陽菜のことを、大切に思ってる人」
前と同じ言葉を言った。
陽菜は眉を寄せた。
「大切……」
「うん」
「私、あなたに何かした?」
「たくさん」
「覚えてない」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないよ」
陽菜の声が少し荒くなった。
「みんな大丈夫って言う。大丈夫、大丈夫って。でも何が大丈夫なの? 私、何も分からない。ここがどこかも、今がいつかも、自分が何を忘れたのかも分からない」
悠斗は黙って聞いていた。
「怖いよ」
陽菜の目から涙がこぼれた。
「目が覚めるたびに、世界が知らない場所になってる。みんな私のことを知ってる顔で見るのに、私はみんなを知らない。私だけ、空っぽみたい」
「陽菜」
「私、本当に白石陽菜なの?」
その問いに、悠斗は胸を裂かれたような気がした。
陽菜は自分自身さえ疑い始めている。
記憶が消えるということは、過去を失うだけではない。
自分が自分である確かさを奪われるということなのだ。
悠斗はそっと、水色のノートを取った。
「これ、陽菜が書いたんだよ」
「私が?」
「うん」
陽菜は震える手でノートを受け取った。
表紙の文字を見つめる。
『消えない約束』
「……私の字?」
「そう」
陽菜は一ページ目を開いた。
そこには、陽菜と悠斗の約束が並んでいた。
陽菜は一つ一つをゆっくり読んだ。
『明日も、誰かにおはようと言いたい。』
『明日も、陽菜におはようと言う。』
『泣いても、最後は少しだけ笑う。』
『陽菜が泣いたら、隣で待つ。笑えるまで、急かさない。』
『もし私が全部忘れても、私を嫌いにならないでください。』
『何を忘れても、陽菜を嫌いにならない。絶対に。』
読み終えた陽菜の手が震えた。
「これ……本当に私が?」
「うん」
「私、こんなこと書いたの?」
「書いたよ」
「全部忘れても、嫌いにならないでって……」
陽菜は泣いた。
声を出さずに、ただ涙を落とした。
「私、そんなに怖かったんだ」
悠斗は首を横に振った。
「怖かったけど、それでも約束を残そうとした」
「強いね、その人」
「陽菜だよ」
「今の私じゃないみたい」
「今の陽菜も、同じ陽菜だよ」
陽菜はノートを抱きしめた。
「悠斗くん」
初めてではないはずなのに、その呼び方に悠斗の胸は震えた。
「うん」
「私、また忘れると思う」
「うん」
「きっと、この約束も忘れる」
「それでもいいよ」
「よくない」
「じゃあ、何度でも読む」
悠斗は静かに言った。
「陽菜が忘れるたびに、俺がこのノートを開く。陽菜が怖くなったら、一緒に読む。陽菜が自分を分からなくなったら、ここに陽菜がいるって伝える」
陽菜は顔を上げた。
「疲れない?」
「疲れるよ」
陽菜は驚いたように瞬きした。
悠斗は苦笑した。
「正直に言うと、疲れる。怖いし、苦しいし、泣きたくなる。逃げたい日もある」
「……」
「でも、それでも陽菜のそばにいたい」
悠斗は陽菜の手を握った。
「疲れるから嫌いになるんじゃない。苦しいから離れたいんじゃない。大切だから苦しいんだよ」
陽菜の涙がまた落ちた。
「そんなふうに思ってくれる人がいたんだね、私には」
「いるよ。ここに」
陽菜は少しだけ笑った。
雨はまだ降り続いていた。
午後になると、陽菜の体調が急に悪くなった。
息が苦しそうになり、看護師が慌ただしく病室に入ってきた。悠斗は一度外へ出るように言われたが、足が動かなかった。
彩花が悠斗の肩に手を置いた。
「悠斗くん、少しだけ」
「でも」
「大丈夫。私もいるから」
大丈夫。
その言葉を、さっき陽菜は嫌がった。
でも今、悠斗はその言葉にすがるしかなかった。
廊下に出ると、病室の扉が閉まった。
中の音はほとんど聞こえない。
ただ、時々看護師の声がする。
悠斗は壁にもたれ、拳を握りしめた。
何もできない。
ただ待つことしかできない。
陽菜が苦しんでいるのに。
陽菜が怖がっているかもしれないのに。
悠斗には、祈ることしかできなかった。
「頼む……」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
神様なのか。
運命なのか。
病気なのか。
それとも、自分自身なのか。
「まだ連れていかないでくれ」
涙がこぼれた。
廊下なのに。
人が通るのに。
悠斗はもう抑えられなかった。
「まだ、陽菜と話したいんだよ」
昨日、約束したばかりだった。
明日もおはようと言う約束。
泣いても最後は笑う約束。
陽菜を嫌いにならない約束。
いつか陽菜を思い出して笑う約束。
でも、まだ早い。
まだ、笑えない。
まだ、手を離せない。
まだ、さよならなんて言えない。
どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
扉が開いた。
看護師が出てきて、静かに言った。
「落ち着きました」
その瞬間、悠斗は膝から崩れそうになった。
彩花が支えてくれた。
病室に戻ると、陽菜は疲れ切った顔で眠っていた。
呼吸は浅いが、さっきよりは落ち着いている。
悠斗はそっと近づき、椅子に座った。
手を握る。
陽菜の手は少し冷たかった。
「陽菜」
呼びかけても返事はない。
悠斗はその手を両手で包み込んだ。
「怖かったよな」
陽菜の代わりに、悠斗が泣いた。
「ごめん。何もできなくて」
何度謝っても、足りなかった。
守りたいのに守れない。
連れて帰りたいのに帰れない。
代わってあげたいのに代われない。
愛しているのに、病気一つ止められない。
その無力さが、悠斗を押し潰していた。
夕方、陽菜は少しだけ目を覚ました。
ぼんやりとした目で、悠斗を見た。
「……泣いた?」
声はとても小さかった。
悠斗は慌てて目元を拭った。
「泣いてない」
「嘘」
「……少しだけ」
陽菜はかすかに笑った。
「泣き虫」
「陽菜に言われたくない」
そのやりとりに、二人は少しだけ笑った。
笑い声は小さかった。
でも、確かにそこにあった。
陽菜は弱々しく手を動かし、ノートを指差した。
「約束……」
悠斗は水色のノートを開いた。
「読む?」
陽菜は小さく頷いた。
悠斗はゆっくり読み上げた。
明日も、誰かにおはようと言いたい。
明日も、陽菜におはようと言う。
泣いても、最後は少しだけ笑う。
陽菜が泣いたら、隣で待つ。
笑えるまで、急かさない。
もし私が全部忘れても、私を嫌いにならないでください。
何を忘れても、陽菜を嫌いにならない。
絶対に。
読み終えると、陽菜は目を閉じたまま言った。
「最後のも」
悠斗は息をのんだ。
最後の約束。
明日、君が笑うなら、私は幸せです。
いつか、陽菜を思い出して笑う。
明日を捨てない。
悠斗の声は途中で震えた。
でも、最後まで読んだ。
陽菜はゆっくり目を開けた。
「悠斗くん」
「うん」
「笑って」
悠斗は言葉を失った。
こんな時に、笑えるはずがなかった。
陽菜はこんなにも苦しそうで。
こんなにも弱っていて。
別れがすぐそこまで来ているのに。
「無理だよ」
悠斗は正直に言った。
陽菜は小さく首を横に振った。
「今じゃなくていい」
「え?」
「今は泣いていい」
陽菜は苦しそうに息をしながら、それでも言葉を続けた。
「でも、最後は……少しだけ笑って」
悠斗の涙がまた溢れた。
陽菜は指先で、悠斗の手をほんの少し握り返した。
その力は弱かった。
でも、確かにあった。
「私、悠斗くんの泣き顔も好きだけど」
陽菜はかすかに笑った。
「笑った顔の方が、もっと好き」
悠斗は泣きながら笑おうとした。
うまく笑えなかった。
顔が歪んで、涙が落ちて、きっとひどい顔だった。
それでも陽菜は、満足そうに目を細めた。
「うん」
「これでいい?」
悠斗が聞くと、陽菜は小さく頷いた。
「いい」
雨は夜になっても止まなかった。
病室の照明は落とされ、薄暗い中で陽菜は眠っていた。
彩花は一度家に戻ることになった。必要なものを取りに行くためだった。
悠斗は一人、陽菜の横に残った。
手を握り続ける。
眠っている陽菜の顔を見つめる。
この時間が永遠に続けばいいと思った。
苦しくてもいい。
怖くてもいい。
病室でもいい。
雨でもいい。
ただ、陽菜がここにいてくれるなら。
それだけでよかった。
悠斗はノートを開き、今日の記録を書いた。
『六月十三日。陽菜の体調が悪くなった。とても苦しそうだった。俺は何もできなかった。怖くて、廊下で泣いた。陽菜は目を覚まして、俺に笑ってと言った。今じゃなくていい、最後は少しだけ笑ってと言った。俺はうまく笑えなかったけど、陽菜はそれでいいと言ってくれた。』
ペンを持つ手が震えた。
悠斗は少し迷ってから、最後にこう書いた。
『別れが近づいている。認めたくない。でも、近づいている。涙の向こう側に何があるのか、今はまだ分からない。陽菜がいない明日なんて怖い。でも、陽菜がくれた約束を捨てたくない。』
書き終えると、悠斗はノートを閉じた。
そして、陽菜の手を握ったまま、窓の外を見た。
雨粒がガラスを伝って落ちていく。
まるで、空が泣いているみたいだった。
「陽菜」
悠斗は小さく呼んだ。
「俺、まだ泣くよ」
眠る陽菜に向かって、正直に言った。
「たぶん、これから何度も泣く。陽菜の前でも、陽菜がいない場所でも、どうしようもないくらい泣くと思う」
声が震えた。
「でも、約束したから」
悠斗は唇を噛み、涙を拭った。
「泣いても、最後は少しだけ笑う」
陽菜の寝息が静かに響く。
悠斗はその音を胸に刻んだ。
涙の向こう側に、何があるのかは分からない。
希望なのか。
絶望なのか。
空っぽの明日なのか。
それとも、陽菜が願った小さな笑顔なのか。
今の悠斗には、まだ見えなかった。
でも、陽菜と交わした約束だけが、暗い夜の中で小さく光っていた。
水色のノート。
握った手の温もり。
雨音。
弱くても確かに残る寝息。
その全部を抱きしめるように、悠斗は目を閉じた。
明日が来るのが怖かった。
けれど、明日も言いたかった。
おはよう、陽菜。
今日も、君に会いに来たよ。
たとえ涙の先に別れが待っているとしても。
その向こう側に、陽菜の願った笑顔があるのなら。
悠斗はもう一度、朝を迎えようと思った。
第8ページを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、陽菜の病状が悪化し、悠斗が「別れが近づいている」という現実と向き合い始めました。
それでも二人は、約束ノートに残された言葉を支えに、涙の中で小さな笑顔を探そうとします。
次の第9ページ「君が笑った日」では、陽菜に最後の奇跡が訪れます。




