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明日、君が笑うなら  作者: あーちゃん


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8/10

涙の向こう側へ

このページでは、陽菜の病状がさらに悪化し、悠斗と陽菜に残された時間が少しずつ短くなっていきます。


第7ページで交わした「消えない約束」。


その約束を胸に、悠斗は涙をこらえながら、陽菜のそばに居続けます。


けれど、別れの足音は、確かに近づいていました。

病室の窓に、雨粒が細く流れていた。


朝から空は重く曇っていて、太陽は一度も顔を見せなかった。窓ガラスを叩く雨音は静かなはずなのに、悠斗にはそれが胸の奥を何度も叩く音のように聞こえていた。


陽菜は眠っていた。


白い布団の中で、ひどく小さく見えた。


昨日までよりも、さらに頬の色が薄い。唇も乾いていて、呼吸は浅かった。手を握ると、まだ温かい。けれど、その温かささえ、指の間から少しずつ零れていくようで、悠斗は怖くなった。


ベッドの横には、あの水色のノートが置かれている。


表紙には、陽菜の震える字で書かれた言葉。


『消えない約束』


悠斗はその文字を何度も見た。


何度見ても、胸が苦しくなった。


明日も、誰かにおはようと言いたい。


泣いても、最後は少しだけ笑う。


もし私が全部忘れても、私を嫌いにならないでください。


明日、君が笑うなら、私は幸せです。


昨日、陽菜が残した言葉たち。


その一つ一つが、悠斗の胸に刺さっていた。


優しい言葉なのに、痛かった。


陽菜は最後まで、自分ではなく悠斗の明日を願っていた。


自分の記憶が消えることを怖がりながら。


自分の命が短くなっていくことを感じながら。


それでも陽菜は、悠斗がいつか笑えることを願った。


「……そんなの、ずるいよ」


悠斗は小さく呟いた。


眠っている陽菜には届かないくらいの声だった。


「陽菜がいない明日なんて、どうやって笑えばいいんだよ」


返事はない。


聞こえるのは、雨音と、陽菜のかすかな寝息だけだった。


昼前、医師に呼ばれた。


病室を出る時、悠斗は陽菜の手を離すのに時間がかかった。ほんの数分でも離れたくなかった。自分がいない間に何かが変わってしまうのではないかと、怖くてたまらなかった。


廊下の先の小さな説明室には、陽菜の母・彩花が先に座っていた。


彩花の顔は疲れていた。


それでも背筋を伸ばし、両手を膝の上で握りしめていた。


医師は静かな声で話した。


言葉を選んでいた。


できるだけ傷つけないように。


できるだけ希望を残すように。


でも、どんなに柔らかく包んでも、その言葉の中身は変わらなかった。


陽菜の状態は悪化している。


体力がかなり落ちている。


意識がはっきりしている時間は、これからさらに短くなる可能性がある。


記憶の混乱も進むだろう。


突然、強い苦痛が出ることもあるかもしれない。


そして。


「ご家族で過ごせる時間を、大切にしてください」


その言葉を聞いた瞬間、悠斗の耳から音が消えた。


大切にしてください。


それは、もう長くないという意味だった。


覚悟してくださいという意味だった。


別れが近いという意味だった。


悠斗は息を吸うことを忘れた。


胸の真ん中を、冷たい手で握り潰されたようだった。


彩花が小さく頭を下げる。


「ありがとうございます」


その声は震えていた。


でも、泣かなかった。


悠斗は自分だけが子どものように崩れそうで、唇を強く噛んだ。


説明室を出たあと、彩花は廊下の窓の前で立ち止まった。


雨に濡れた中庭が見えた。


花壇の花はうつむいていた。


「悠斗くん」


彩花が静かに呼んだ。


「はい」


「ごめんね」


悠斗は首を横に振った。


「謝らないでください」


「でも、あなたはまだ若いのに」


「俺が陽菜のそばにいたいんです」


「うん」


彩花は頷いた。


「分かってる。分かってるけど……母親として、あなたの人生まで巻き込んでしまっているようで、苦しくなるの」


悠斗はしばらく黙っていた。


そして、ゆっくり言った。


「巻き込まれたんじゃありません」


彩花が悠斗を見る。


「俺が、陽菜を好きになったんです。俺が、陽菜の隣にいるって決めたんです」


声が震えた。


でも、悠斗は言い切った。


「だから、これは俺の人生です」


彩花の目に涙が浮かんだ。


「ありがとう」


その言葉は、母親としての感謝であり、痛みでもあった。


病室に戻ると、陽菜は目を覚ましていた。


ぼんやりと天井を見ている。


悠斗が近づくと、陽菜はゆっくり顔を向けた。


「……誰?」


その一言で、悠斗の心はまた崩れた。


でも、もう驚かなかった。


何度も何度も、その朝を迎えてきた。


悠斗は椅子に座り、できるだけ優しく笑った。


「神崎悠斗だよ」


「ゆうと……」


「うん」


「私の、何?」


悠斗は少しだけ考えた。


今日の陽菜は、かなり混乱しているようだった。


目が不安げに揺れている。


知らない病室。


知らない時間。


知らない男。


知らない自分。


陽菜の怖さを思うと、悠斗は胸が痛んだ。


「陽菜のことを、大切に思ってる人」


前と同じ言葉を言った。


陽菜は眉を寄せた。


「大切……」


「うん」


「私、あなたに何かした?」


「たくさん」


「覚えてない」


「大丈夫」


「大丈夫じゃないよ」


陽菜の声が少し荒くなった。


「みんな大丈夫って言う。大丈夫、大丈夫って。でも何が大丈夫なの? 私、何も分からない。ここがどこかも、今がいつかも、自分が何を忘れたのかも分からない」


悠斗は黙って聞いていた。


「怖いよ」


陽菜の目から涙がこぼれた。


「目が覚めるたびに、世界が知らない場所になってる。みんな私のことを知ってる顔で見るのに、私はみんなを知らない。私だけ、空っぽみたい」


「陽菜」


「私、本当に白石陽菜なの?」


その問いに、悠斗は胸を裂かれたような気がした。


陽菜は自分自身さえ疑い始めている。


記憶が消えるということは、過去を失うだけではない。


自分が自分である確かさを奪われるということなのだ。


悠斗はそっと、水色のノートを取った。


「これ、陽菜が書いたんだよ」


「私が?」


「うん」


陽菜は震える手でノートを受け取った。


表紙の文字を見つめる。


『消えない約束』


「……私の字?」


「そう」


陽菜は一ページ目を開いた。


そこには、陽菜と悠斗の約束が並んでいた。


陽菜は一つ一つをゆっくり読んだ。


『明日も、誰かにおはようと言いたい。』


『明日も、陽菜におはようと言う。』


『泣いても、最後は少しだけ笑う。』


『陽菜が泣いたら、隣で待つ。笑えるまで、急かさない。』


『もし私が全部忘れても、私を嫌いにならないでください。』


『何を忘れても、陽菜を嫌いにならない。絶対に。』


読み終えた陽菜の手が震えた。


「これ……本当に私が?」


「うん」


「私、こんなこと書いたの?」


「書いたよ」


「全部忘れても、嫌いにならないでって……」


陽菜は泣いた。


声を出さずに、ただ涙を落とした。


「私、そんなに怖かったんだ」


悠斗は首を横に振った。


「怖かったけど、それでも約束を残そうとした」


「強いね、その人」


「陽菜だよ」


「今の私じゃないみたい」


「今の陽菜も、同じ陽菜だよ」


陽菜はノートを抱きしめた。


「悠斗くん」


初めてではないはずなのに、その呼び方に悠斗の胸は震えた。


「うん」


「私、また忘れると思う」


「うん」


「きっと、この約束も忘れる」


「それでもいいよ」


「よくない」


「じゃあ、何度でも読む」


悠斗は静かに言った。


「陽菜が忘れるたびに、俺がこのノートを開く。陽菜が怖くなったら、一緒に読む。陽菜が自分を分からなくなったら、ここに陽菜がいるって伝える」


陽菜は顔を上げた。


「疲れない?」


「疲れるよ」


陽菜は驚いたように瞬きした。


悠斗は苦笑した。


「正直に言うと、疲れる。怖いし、苦しいし、泣きたくなる。逃げたい日もある」


「……」


「でも、それでも陽菜のそばにいたい」


悠斗は陽菜の手を握った。


「疲れるから嫌いになるんじゃない。苦しいから離れたいんじゃない。大切だから苦しいんだよ」


陽菜の涙がまた落ちた。


「そんなふうに思ってくれる人がいたんだね、私には」


「いるよ。ここに」


陽菜は少しだけ笑った。


雨はまだ降り続いていた。


午後になると、陽菜の体調が急に悪くなった。


息が苦しそうになり、看護師が慌ただしく病室に入ってきた。悠斗は一度外へ出るように言われたが、足が動かなかった。


彩花が悠斗の肩に手を置いた。


「悠斗くん、少しだけ」


「でも」


「大丈夫。私もいるから」


大丈夫。


その言葉を、さっき陽菜は嫌がった。


でも今、悠斗はその言葉にすがるしかなかった。


廊下に出ると、病室の扉が閉まった。


中の音はほとんど聞こえない。


ただ、時々看護師の声がする。


悠斗は壁にもたれ、拳を握りしめた。


何もできない。


ただ待つことしかできない。


陽菜が苦しんでいるのに。


陽菜が怖がっているかもしれないのに。


悠斗には、祈ることしかできなかった。


「頼む……」


誰に向けた言葉なのか分からなかった。


神様なのか。


運命なのか。


病気なのか。


それとも、自分自身なのか。


「まだ連れていかないでくれ」


涙がこぼれた。


廊下なのに。


人が通るのに。


悠斗はもう抑えられなかった。


「まだ、陽菜と話したいんだよ」


昨日、約束したばかりだった。


明日もおはようと言う約束。


泣いても最後は笑う約束。


陽菜を嫌いにならない約束。


いつか陽菜を思い出して笑う約束。


でも、まだ早い。


まだ、笑えない。


まだ、手を離せない。


まだ、さよならなんて言えない。


どれくらい時間が経ったのか分からなかった。


扉が開いた。


看護師が出てきて、静かに言った。


「落ち着きました」


その瞬間、悠斗は膝から崩れそうになった。


彩花が支えてくれた。


病室に戻ると、陽菜は疲れ切った顔で眠っていた。


呼吸は浅いが、さっきよりは落ち着いている。


悠斗はそっと近づき、椅子に座った。


手を握る。


陽菜の手は少し冷たかった。


「陽菜」


呼びかけても返事はない。


悠斗はその手を両手で包み込んだ。


「怖かったよな」


陽菜の代わりに、悠斗が泣いた。


「ごめん。何もできなくて」


何度謝っても、足りなかった。


守りたいのに守れない。


連れて帰りたいのに帰れない。


代わってあげたいのに代われない。


愛しているのに、病気一つ止められない。


その無力さが、悠斗を押し潰していた。


夕方、陽菜は少しだけ目を覚ました。


ぼんやりとした目で、悠斗を見た。


「……泣いた?」


声はとても小さかった。


悠斗は慌てて目元を拭った。


「泣いてない」


「嘘」


「……少しだけ」


陽菜はかすかに笑った。


「泣き虫」


「陽菜に言われたくない」


そのやりとりに、二人は少しだけ笑った。


笑い声は小さかった。


でも、確かにそこにあった。


陽菜は弱々しく手を動かし、ノートを指差した。


「約束……」


悠斗は水色のノートを開いた。


「読む?」


陽菜は小さく頷いた。


悠斗はゆっくり読み上げた。


明日も、誰かにおはようと言いたい。


明日も、陽菜におはようと言う。


泣いても、最後は少しだけ笑う。


陽菜が泣いたら、隣で待つ。


笑えるまで、急かさない。


もし私が全部忘れても、私を嫌いにならないでください。


何を忘れても、陽菜を嫌いにならない。


絶対に。


読み終えると、陽菜は目を閉じたまま言った。


「最後のも」


悠斗は息をのんだ。


最後の約束。


明日、君が笑うなら、私は幸せです。


いつか、陽菜を思い出して笑う。


明日を捨てない。


悠斗の声は途中で震えた。


でも、最後まで読んだ。


陽菜はゆっくり目を開けた。


「悠斗くん」


「うん」


「笑って」


悠斗は言葉を失った。


こんな時に、笑えるはずがなかった。


陽菜はこんなにも苦しそうで。


こんなにも弱っていて。


別れがすぐそこまで来ているのに。


「無理だよ」


悠斗は正直に言った。


陽菜は小さく首を横に振った。


「今じゃなくていい」


「え?」


「今は泣いていい」


陽菜は苦しそうに息をしながら、それでも言葉を続けた。


「でも、最後は……少しだけ笑って」


悠斗の涙がまた溢れた。


陽菜は指先で、悠斗の手をほんの少し握り返した。


その力は弱かった。


でも、確かにあった。


「私、悠斗くんの泣き顔も好きだけど」


陽菜はかすかに笑った。


「笑った顔の方が、もっと好き」


悠斗は泣きながら笑おうとした。


うまく笑えなかった。


顔が歪んで、涙が落ちて、きっとひどい顔だった。


それでも陽菜は、満足そうに目を細めた。


「うん」


「これでいい?」


悠斗が聞くと、陽菜は小さく頷いた。


「いい」


雨は夜になっても止まなかった。


病室の照明は落とされ、薄暗い中で陽菜は眠っていた。


彩花は一度家に戻ることになった。必要なものを取りに行くためだった。


悠斗は一人、陽菜の横に残った。


手を握り続ける。


眠っている陽菜の顔を見つめる。


この時間が永遠に続けばいいと思った。


苦しくてもいい。


怖くてもいい。


病室でもいい。


雨でもいい。


ただ、陽菜がここにいてくれるなら。


それだけでよかった。


悠斗はノートを開き、今日の記録を書いた。


『六月十三日。陽菜の体調が悪くなった。とても苦しそうだった。俺は何もできなかった。怖くて、廊下で泣いた。陽菜は目を覚まして、俺に笑ってと言った。今じゃなくていい、最後は少しだけ笑ってと言った。俺はうまく笑えなかったけど、陽菜はそれでいいと言ってくれた。』


ペンを持つ手が震えた。


悠斗は少し迷ってから、最後にこう書いた。


『別れが近づいている。認めたくない。でも、近づいている。涙の向こう側に何があるのか、今はまだ分からない。陽菜がいない明日なんて怖い。でも、陽菜がくれた約束を捨てたくない。』


書き終えると、悠斗はノートを閉じた。


そして、陽菜の手を握ったまま、窓の外を見た。


雨粒がガラスを伝って落ちていく。


まるで、空が泣いているみたいだった。


「陽菜」


悠斗は小さく呼んだ。


「俺、まだ泣くよ」


眠る陽菜に向かって、正直に言った。


「たぶん、これから何度も泣く。陽菜の前でも、陽菜がいない場所でも、どうしようもないくらい泣くと思う」


声が震えた。


「でも、約束したから」


悠斗は唇を噛み、涙を拭った。


「泣いても、最後は少しだけ笑う」


陽菜の寝息が静かに響く。


悠斗はその音を胸に刻んだ。


涙の向こう側に、何があるのかは分からない。


希望なのか。


絶望なのか。


空っぽの明日なのか。


それとも、陽菜が願った小さな笑顔なのか。


今の悠斗には、まだ見えなかった。


でも、陽菜と交わした約束だけが、暗い夜の中で小さく光っていた。


水色のノート。


握った手の温もり。


雨音。


弱くても確かに残る寝息。


その全部を抱きしめるように、悠斗は目を閉じた。


明日が来るのが怖かった。


けれど、明日も言いたかった。


おはよう、陽菜。


今日も、君に会いに来たよ。


たとえ涙の先に別れが待っているとしても。


その向こう側に、陽菜の願った笑顔があるのなら。


悠斗はもう一度、朝を迎えようと思った。

第8ページを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


このページでは、陽菜の病状が悪化し、悠斗が「別れが近づいている」という現実と向き合い始めました。


それでも二人は、約束ノートに残された言葉を支えに、涙の中で小さな笑顔を探そうとします。


次の第9ページ「君が笑った日」では、陽菜に最後の奇跡が訪れます。

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