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明日、君が笑うなら  作者: あーちゃん


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7/10

消えない約束

このページでは、記憶が薄れていく陽菜と、それでも隣にいようとする悠斗が、最後の約束を交わします。


覚えていられない約束。


それでも、心の奥に残ってほしい約束。


二人は「忘れないこと」ではなく、「笑って明日を迎えること」を選ぼうとします。

朝が来るたび、悠斗は少しだけ怖くなった。


病室のドアの前に立つ。


白い扉の向こうには、今日の陽菜がいる。


昨日の陽菜が残っているかもしれない。


昨日の陽菜は、もういないかもしれない。


それでも悠斗は、毎朝必ず深呼吸をしてから扉を開けた。


「おはよう、陽菜」


その言葉だけは、どんな日も変えなかった。


病室の中には、やわらかい朝の光が差し込んでいた。窓際の花瓶には、新しいガーベラが揺れている。淡い黄色の花びらが、眠っている陽菜の横顔を優しく照らしていた。


陽菜はまだ目を閉じていた。


昨日、彼女は言った。


「明日も悠斗くんに恋するね」


その言葉を、悠斗は一晩中何度も思い出した。


嬉しくて、苦しくて、涙が出そうで、眠ることができなかった。


もし今日、陽菜がその言葉を忘れていたら。


そう思うたびに胸が痛んだ。


けれど、悠斗はもう分かっていた。


陽菜が忘れても、あの言葉が消えるわけではない。


確かに昨日、陽菜はそう言った。


確かに昨日、陽菜は悠斗の手を握った。


確かに昨日、二人は泣きながら笑った。


それは、誰にも奪えない。


病気にも、時間にも、記憶の空白にも、奪わせない。


悠斗は椅子に腰かけ、陽菜の手にそっと触れた。


「陽菜、朝だよ」


陽菜のまつ毛が震えた。


ゆっくりと瞼が開く。


陽菜は天井を見つめ、それから悠斗を見た。


その瞳に浮かんだ色を見た瞬間、悠斗は息を止めた。


戸惑い。


警戒。


そして、少しの不安。


今日の陽菜は、昨日を覚えていなかった。


「……あなたは」


小さな声。


悠斗は笑った。


心の中で、昨日の自分が崩れていく音を聞きながら、それでも笑った。


「俺は神崎悠斗」


「かんざき……ゆうと」


「うん」


「私の、知ってる人?」


悠斗は一瞬だけ迷った。


友達と言えば、陽菜は安心するかもしれない。


恋人と言えば、怖がらせてしまうかもしれない。


でも今日、悠斗は少しだけ真実に近い言葉を選びたかった。


「陽菜のことを、大切に思ってる人」


陽菜は瞬きをした。


「大切に?」


「うん」


「どうして?」


「陽菜が、俺にとって大切な人だから」


陽菜は困ったように視線を落とした。


「ごめんなさい。私、分からない」


「謝らなくていいよ」


「でも、あなたは覚えてるんでしょ?」


「覚えてる」


「私だけ、置いていかれてるみたい」


その言葉に、悠斗の胸が締めつけられた。


忘れてしまう陽菜は、何も感じていないわけではない。


分からないことが怖い。


知らないはずの人に大切だと言われることが苦しい。


自分だけが何かを失っているようで、置いていかれているようで、寂しい。


悠斗はその痛みに、ようやく少しだけ気づいた。


「置いていかないよ」


悠斗は静かに言った。


「俺は陽菜の前を歩かない。後ろから押したりもしない。隣にいる」


「隣に?」


「うん。陽菜が今日初めて俺に会ったなら、俺も今日、陽菜に初めて会うつもりで話す」


「……変なの」


「そうかも」


「普通は、覚えててほしいって思うんじゃないの?」


「思うよ」


悠斗は正直に答えた。


「本当は、思う。陽菜に覚えててほしい。俺の名前も、二人で行った場所も、約束も、全部」


陽菜は黙って悠斗を見た。


「でも、それより大事なことがある」


「何?」


「陽菜が今日、怖くないこと」


陽菜の瞳が揺れた。


「陽菜が今日、少しでも笑えること。その方が大事」


しばらく、病室には沈黙が落ちた。


廊下の向こうから、看護師の足音が聞こえた。


陽菜は布団をぎゅっと握りしめていた。


「私、そんなに忘れるの?」


悠斗はすぐには答えられなかった。


嘘をつけば、少しだけ安心させられるかもしれない。


でも、陽菜はもう何度も自分の記憶の穴に気づいている。


ごまかすことは、優しさではない。


「忘れることが増えてる」


悠斗は静かに言った。


陽菜は目を伏せた。


「そっか」


「でも、忘れても全部なくなるわけじゃない」


「どうして分かるの?」


「陽菜は、何度忘れても優しいから」


陽菜は顔を上げた。


「昨日のことを覚えてなくても、俺が悲しそうにしてると気づく。自分のことで精一杯のはずなのに、俺の心配をする。そういう陽菜は、ちゃんと残ってる」


悠斗は陽菜の手に視線を落とした。


「記憶じゃなくても、残るものがあるんだと思う」


陽菜はその言葉を聞いて、何かを考えるように黙った。


やがて、小さく聞いた。


「私、昨日もあなたに会った?」


「会ったよ」


「笑ってた?」


「笑ってた」


「泣いてた?」


「少し泣いてた」


「あなたも?」


悠斗は苦笑した。


「少しだけ」


「泣き虫なんだ」


「陽菜にだけは言われたくない」


「私も泣き虫?」


「かなり」


陽菜は少しだけ笑った。


その笑顔を見て、悠斗は胸を撫で下ろした。


今日も笑った。


今日も、陽菜は笑えた。


それだけで、今日という一日は意味を持った。


昼前、医師から検査の説明があった。


陽菜の体調は少しずつ悪くなっていた。


記憶だけではない。


体力も落ちている。


手足に力が入りにくい日が増え、長く起きていることも難しくなっていた。


医師は言葉を選びながら話した。


けれど、その優しい言い方の奥にある現実を、悠斗も彩花も分かっていた。


時間は、思っているより残されていない。


病室に戻った陽菜は、しばらく窓の外を見ていた。


空は青かった。


雲がゆっくり流れていた。


「悠斗くん」


検査の後、陽菜は自然に名前を呼んだ。


朝には知らなかった名前。


それをもう一度呼んでもらえるだけで、悠斗は泣きそうになる。


「何?」


「私、どれくらい忘れるのかな」


悠斗は答えられなかった。


「いつか、お母さんのことも分からなくなるのかな」


「……」


「悠斗くんのことも、私の名前も、好きだったものも、全部」


陽菜の声は震えていた。


「もし、全部忘れたら、私は私じゃなくなるのかな」


悠斗はすぐに首を横に振った。


「陽菜は陽菜だよ」


「でも、思い出がなくなったら?」


「それでも陽菜だよ」


「どうして?」


悠斗は陽菜の隣に座った。


「俺が知ってるから」


「悠斗くんが?」


「うん。お母さんも、美緒さんも、みんな知ってる。陽菜がどんなふうに笑って、どんなふうに泣いて、どんなふうに人を大切にしてきたか。陽菜が忘れても、俺たちが覚えてる」


陽菜は唇を噛んだ。


「でも、それはみんなの中の私でしょ? 私の中には残らない」


その言葉は、鋭かった。


悠斗は胸を突かれたように感じた。


何も言えない悠斗を見て、陽菜は困ったように笑った。


「ごめんね。意地悪なこと言った」


「意地悪じゃない」


「怖いの」


陽菜は正直に言った。


「私、自分が消えていくみたいで怖い。昨日の私が今日の私に繋がらない。みんなが私のことを知ってるのに、私だけ知らない。まるで、私の人生を他の人から聞かされてるみたい」


涙が陽菜の頬を伝った。


「私、本当に生きてたのかなって思う時がある」


悠斗はその言葉に耐えられなかった。


静かに手を伸ばし、陽菜の手を握った。


「生きてたよ」


悠斗の声も震えていた。


「陽菜は生きてた。俺と出会って、笑って、怒って、泣いて、約束して、ちゃんと生きてた」


「覚えてないのに?」


「覚えてなくても」


「私には分からないのに?」


「それでも」


悠斗は陽菜を見つめた。


「陽菜が生きてたことは、絶対に消えない」


陽菜は声を殺して泣いた。


悠斗はその手を握り続けた。


泣き止ませることはできなかった。


怖さを全部取り除くこともできなかった。


それでも、手を離さないことだけはできた。


夕方、陽菜が少し落ち着いた頃、悠斗は鞄から一冊のノートを取り出した。


いつもの記録用のノートではない。


淡い水色の表紙の、小さなノートだった。


「これ、何?」


陽菜が尋ねた。


「約束ノート」


「約束ノート?」


「うん。陽菜と俺の、これからの約束を書くノート」


陽菜は少し驚いたように目を丸くした。


「これからの約束って……私、覚えてられないかもしれないよ」


「だから書く」


悠斗はペンを差し出した。


「覚えていられるかどうかじゃなくて、今日の陽菜が何を願ったかを残したい」


陽菜はノートを見つめた。


「願い……」


「小さなことでいい。明日したいことでも、食べたいものでも、言いたい言葉でもいい」


陽菜はしばらく考えたあと、ペンを受け取った。


手は少し震えていた。


悠斗は支えようとしたが、陽菜は小さく首を振った。


「自分で書きたい」


「うん」


陽菜はゆっくりノートを開いた。


一ページ目に、震える字で書いた。


『明日も、誰かにおはようと言いたい。』


それを見た瞬間、悠斗の胸が熱くなった。


陽菜らしい願いだった。


自分が覚えていることではなく。


自分が助かることでもなく。


誰かに朝の挨拶をしたい。


そんな小さくて、優しい願い。


「次、悠斗くんも書いて」


陽菜が言った。


「俺?」


「うん。約束ノートでしょ? 二人の」


悠斗はペンを受け取った。


そして、陽菜の文字の下に書いた。


『明日も、陽菜におはようと言う。』


陽菜はそれを読んで、ふっと笑った。


「同じじゃん」


「同じがいい」


「どうして?」


「陽菜が誰かにおはようって言いたいなら、俺がその誰かになりたい」


陽菜は照れたように目を伏せた。


「じゃあ、次」


「まだ書くの?」


「うん。忘れるかもしれないから、たくさん残したい」


陽菜は二つ目の約束を書いた。


『泣いても、最後は少しだけ笑う。』


悠斗はその文字を見つめた。


「無理しなくていいよ」


「無理じゃない」


陽菜は静かに言った。


「泣くのは止められないと思う。でも、泣いたまま終わりたくない。私、たぶん昔からそうだったんでしょ?」


悠斗は頷いた。


「そうだった」


「じゃあ、これも私らしい約束」


悠斗はその下に書いた。


『陽菜が泣いたら、隣で待つ。笑えるまで、急かさない。』


陽菜はその文章を見て、少し泣きそうに笑った。


「悠斗くん、優しすぎる」


「そうでもないよ」


「優しいよ」


「陽菜にだけ」


「それ、ずるい」


二人は少しだけ笑った。


そして三つ目。


陽菜はペンを持ったまま、長く迷った。


何度も書こうとして、止まった。


やがて、彼女は小さな声で言った。


「これ、書いたら本当になっちゃう気がして怖い」


「書かなくてもいいよ」


「でも、書きたい」


陽菜はゆっくり息を吸った。


震える指で、文字を書いた。


『もし私が全部忘れても、私を嫌いにならないでください。』


悠斗は、その文字を見た瞬間、胸が痛くてたまらなくなった。


陽菜は笑おうとしていた。


でも、笑えていなかった。


怖くて、悲しくて、それでも悠斗にお願いしようとしていた。


悠斗はペンを取った。


迷わず、その下に書いた。


『何を忘れても、陽菜を嫌いにならない。絶対に。』


陽菜はその文字を指でなぞった。


「絶対?」


「絶対」


「私が悠斗くんのことを怖がっても?」


「うん」


「ひどいことを言っても?」


「うん」


「名前を呼べなくなっても?」


「うん」


「それでも?」


悠斗は陽菜の目を見て、はっきり言った。


「それでも、陽菜が好きだよ」


陽菜の瞳から涙がこぼれた。


でも、今度は悲しいだけの涙ではなかった。


胸の奥からあふれてしまったような、静かな涙だった。


「じゃあ、最後の約束」


陽菜はそう言った。


「最後?」


「うん。今の私が、ちゃんと言えるうちに」


悠斗は胸騒ぎを覚えた。


陽菜はノートを見つめたまま、少し微笑んだ。


「悠斗くん」


「うん」


「もし、私がいなくなっても」


「陽菜」


思わず名前を呼んだ。


言わせたくなかった。


その先を聞きたくなかった。


けれど陽菜は、首を横に振った。


「聞いて」


その声は弱かった。


でも、まっすぐだった。


「私、怖いよ。いなくなることも、忘れることも、悠斗くんを悲しませることも、全部怖い」


悠斗は何も言えなかった。


「でもね、もっと怖いことがある」


「もっと怖いこと?」


「私のせいで、悠斗くんの明日が止まること」


悠斗は息をのんだ。


陽菜は涙を浮かべながら、優しく笑った。


「私が忘れても、悠斗くんは覚えてくれるって言ったでしょ」


「うん」


「それは嬉しい。でも、覚えてることが、悠斗くんを苦しめるだけになったら嫌なの」


「そんなことない」


「分かってる。でも、約束してほしい」


陽菜はノートに最後の文字を書いた。


『明日、君が笑うなら、私は幸せです。』


悠斗はその一文を見て、動けなくなった。


この物語の中で、陽菜が何度も言ってきた言葉。


明日、君が笑うなら。


それは陽菜の口癖だった。


願いだった。


祈りだった。


そして今、約束になろうとしている。


「悠斗くん」


陽菜はペンを差し出した。


「悠斗くんも書いて」


悠斗はペンを受け取った。


けれど、すぐには書けなかった。


笑う約束。


陽菜がいなくなっても、明日を生きる約束。


そんなこと、できる気がしなかった。


陽菜がいない明日なんて、想像したくなかった。


陽菜の声が聞こえない朝。


陽菜の手を握れない夜。


陽菜の笑顔を待つこともできない未来。


そんな世界で笑うなんて、裏切りのように思えた。


「悠斗くん」


陽菜が静かに呼んだ。


「私、悠斗くんに泣かないでって言いたいわけじゃないよ」


悠斗は顔を上げた。


「泣いていい。苦しくてもいい。私のこと、忘れないでほしい。でも……私のことを思い出すたびに、自分を傷つけないで」


陽菜は震える手で、悠斗の手に触れた。


「私が好きになった悠斗くんは、優しい人だった。少し不器用で、泣き虫で、でも誰かのためにちゃんと笑おうとする人だった」


「陽菜……」


「だから、私の最後のわがまま」


陽菜は涙をこぼしながら笑った。


「いつかでいい。すぐじゃなくていい。何年かかってもいい。だけど、いつか私を思い出して、少しだけ笑って」


悠斗の視界が滲んだ。


「そんなの……簡単に約束できない」


「うん」


「陽菜がいないのに、笑えるか分からない」


「うん」


「俺は、そんなに強くない」


「知ってる」


陽菜は優しく言った。


「だから、約束にするの。強くない悠斗くんが、迷子にならないように」


悠斗は泣いた。


今度は隠さなかった。


陽菜の前で、声を殺して泣いた。


陽菜はその涙を見て、自分も泣きながら、それでも笑っていた。


「悠斗くん」


「……うん」


「約束して」


悠斗は震える手で、ノートに文字を書いた。


『いつか、陽菜を思い出して笑う。明日を捨てない。』


書き終えた瞬間、陽菜はその文字を見つめ、ゆっくり頷いた。


「ありがとう」


「ありがとうは、俺の方だよ」


「どうして?」


「陽菜が、俺の明日まで心配してくれるから」


「だって、好きだから」


その言葉は、とても自然だった。


陽菜自身も驚いたように目を瞬かせた。


「今、私……」


悠斗は涙を拭いながら笑った。


「言ったね」


「覚えてないのに」


「うん」


「でも、言えた」


「うん」


陽菜は胸に手を当てた。


「やっぱり、ここが覚えてるのかな」


悠斗は頷いた。


「きっとね」


その夜、陽菜は約束ノートを枕元に置いて眠った。


悠斗はベッドの横で、そのノートを見つめていた。


表紙には、陽菜の字で小さく書かれていた。


『消えない約束』


記憶は消えるかもしれない。


名前も、声も、日付も、場所も。


けれど、今日交わした約束だけは、消したくなかった。


たとえ陽菜が忘れても。


たとえ悠斗が泣き崩れる日が来ても。


このノートを開けば、今日の陽菜がいる。


怖がりながら、それでも悠斗の未来を願った陽菜がいる。


悠斗は眠る陽菜にそっと囁いた。


「陽菜」


返事はなかった。


「俺、約束するよ」


窓の外には、夜の街が静かに光っていた。


「明日、君が笑うなら。俺は何度でも、明日を迎える」


陽菜の寝息が、かすかに揺れた。


悠斗はその手を握った。


細くて、温かい手だった。


この温もりを忘れたくない。


この夜を忘れたくない。


この約束を、絶対に消したくない。


悠斗はノートを閉じ、胸に抱いた。


そして、泣きながら笑った。


陽菜が望んだように。


泣いても、最後は少しだけ笑う。


それが、二人の消えない約束だった。

第7ページを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


このページでは、悠斗と陽菜が「忘れない約束」ではなく、「忘れても残る約束」を交わしました。


陽菜は自分の未来よりも、悠斗の明日を心配しています。


次の第8ページ「涙の向こう側へ」では、陽菜の病状がさらに悪化し、二人に別れの時間が近づいていきます。

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