消えない約束
このページでは、記憶が薄れていく陽菜と、それでも隣にいようとする悠斗が、最後の約束を交わします。
覚えていられない約束。
それでも、心の奥に残ってほしい約束。
二人は「忘れないこと」ではなく、「笑って明日を迎えること」を選ぼうとします。
朝が来るたび、悠斗は少しだけ怖くなった。
病室のドアの前に立つ。
白い扉の向こうには、今日の陽菜がいる。
昨日の陽菜が残っているかもしれない。
昨日の陽菜は、もういないかもしれない。
それでも悠斗は、毎朝必ず深呼吸をしてから扉を開けた。
「おはよう、陽菜」
その言葉だけは、どんな日も変えなかった。
病室の中には、やわらかい朝の光が差し込んでいた。窓際の花瓶には、新しいガーベラが揺れている。淡い黄色の花びらが、眠っている陽菜の横顔を優しく照らしていた。
陽菜はまだ目を閉じていた。
昨日、彼女は言った。
「明日も悠斗くんに恋するね」
その言葉を、悠斗は一晩中何度も思い出した。
嬉しくて、苦しくて、涙が出そうで、眠ることができなかった。
もし今日、陽菜がその言葉を忘れていたら。
そう思うたびに胸が痛んだ。
けれど、悠斗はもう分かっていた。
陽菜が忘れても、あの言葉が消えるわけではない。
確かに昨日、陽菜はそう言った。
確かに昨日、陽菜は悠斗の手を握った。
確かに昨日、二人は泣きながら笑った。
それは、誰にも奪えない。
病気にも、時間にも、記憶の空白にも、奪わせない。
悠斗は椅子に腰かけ、陽菜の手にそっと触れた。
「陽菜、朝だよ」
陽菜のまつ毛が震えた。
ゆっくりと瞼が開く。
陽菜は天井を見つめ、それから悠斗を見た。
その瞳に浮かんだ色を見た瞬間、悠斗は息を止めた。
戸惑い。
警戒。
そして、少しの不安。
今日の陽菜は、昨日を覚えていなかった。
「……あなたは」
小さな声。
悠斗は笑った。
心の中で、昨日の自分が崩れていく音を聞きながら、それでも笑った。
「俺は神崎悠斗」
「かんざき……ゆうと」
「うん」
「私の、知ってる人?」
悠斗は一瞬だけ迷った。
友達と言えば、陽菜は安心するかもしれない。
恋人と言えば、怖がらせてしまうかもしれない。
でも今日、悠斗は少しだけ真実に近い言葉を選びたかった。
「陽菜のことを、大切に思ってる人」
陽菜は瞬きをした。
「大切に?」
「うん」
「どうして?」
「陽菜が、俺にとって大切な人だから」
陽菜は困ったように視線を落とした。
「ごめんなさい。私、分からない」
「謝らなくていいよ」
「でも、あなたは覚えてるんでしょ?」
「覚えてる」
「私だけ、置いていかれてるみたい」
その言葉に、悠斗の胸が締めつけられた。
忘れてしまう陽菜は、何も感じていないわけではない。
分からないことが怖い。
知らないはずの人に大切だと言われることが苦しい。
自分だけが何かを失っているようで、置いていかれているようで、寂しい。
悠斗はその痛みに、ようやく少しだけ気づいた。
「置いていかないよ」
悠斗は静かに言った。
「俺は陽菜の前を歩かない。後ろから押したりもしない。隣にいる」
「隣に?」
「うん。陽菜が今日初めて俺に会ったなら、俺も今日、陽菜に初めて会うつもりで話す」
「……変なの」
「そうかも」
「普通は、覚えててほしいって思うんじゃないの?」
「思うよ」
悠斗は正直に答えた。
「本当は、思う。陽菜に覚えててほしい。俺の名前も、二人で行った場所も、約束も、全部」
陽菜は黙って悠斗を見た。
「でも、それより大事なことがある」
「何?」
「陽菜が今日、怖くないこと」
陽菜の瞳が揺れた。
「陽菜が今日、少しでも笑えること。その方が大事」
しばらく、病室には沈黙が落ちた。
廊下の向こうから、看護師の足音が聞こえた。
陽菜は布団をぎゅっと握りしめていた。
「私、そんなに忘れるの?」
悠斗はすぐには答えられなかった。
嘘をつけば、少しだけ安心させられるかもしれない。
でも、陽菜はもう何度も自分の記憶の穴に気づいている。
ごまかすことは、優しさではない。
「忘れることが増えてる」
悠斗は静かに言った。
陽菜は目を伏せた。
「そっか」
「でも、忘れても全部なくなるわけじゃない」
「どうして分かるの?」
「陽菜は、何度忘れても優しいから」
陽菜は顔を上げた。
「昨日のことを覚えてなくても、俺が悲しそうにしてると気づく。自分のことで精一杯のはずなのに、俺の心配をする。そういう陽菜は、ちゃんと残ってる」
悠斗は陽菜の手に視線を落とした。
「記憶じゃなくても、残るものがあるんだと思う」
陽菜はその言葉を聞いて、何かを考えるように黙った。
やがて、小さく聞いた。
「私、昨日もあなたに会った?」
「会ったよ」
「笑ってた?」
「笑ってた」
「泣いてた?」
「少し泣いてた」
「あなたも?」
悠斗は苦笑した。
「少しだけ」
「泣き虫なんだ」
「陽菜にだけは言われたくない」
「私も泣き虫?」
「かなり」
陽菜は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、悠斗は胸を撫で下ろした。
今日も笑った。
今日も、陽菜は笑えた。
それだけで、今日という一日は意味を持った。
昼前、医師から検査の説明があった。
陽菜の体調は少しずつ悪くなっていた。
記憶だけではない。
体力も落ちている。
手足に力が入りにくい日が増え、長く起きていることも難しくなっていた。
医師は言葉を選びながら話した。
けれど、その優しい言い方の奥にある現実を、悠斗も彩花も分かっていた。
時間は、思っているより残されていない。
病室に戻った陽菜は、しばらく窓の外を見ていた。
空は青かった。
雲がゆっくり流れていた。
「悠斗くん」
検査の後、陽菜は自然に名前を呼んだ。
朝には知らなかった名前。
それをもう一度呼んでもらえるだけで、悠斗は泣きそうになる。
「何?」
「私、どれくらい忘れるのかな」
悠斗は答えられなかった。
「いつか、お母さんのことも分からなくなるのかな」
「……」
「悠斗くんのことも、私の名前も、好きだったものも、全部」
陽菜の声は震えていた。
「もし、全部忘れたら、私は私じゃなくなるのかな」
悠斗はすぐに首を横に振った。
「陽菜は陽菜だよ」
「でも、思い出がなくなったら?」
「それでも陽菜だよ」
「どうして?」
悠斗は陽菜の隣に座った。
「俺が知ってるから」
「悠斗くんが?」
「うん。お母さんも、美緒さんも、みんな知ってる。陽菜がどんなふうに笑って、どんなふうに泣いて、どんなふうに人を大切にしてきたか。陽菜が忘れても、俺たちが覚えてる」
陽菜は唇を噛んだ。
「でも、それはみんなの中の私でしょ? 私の中には残らない」
その言葉は、鋭かった。
悠斗は胸を突かれたように感じた。
何も言えない悠斗を見て、陽菜は困ったように笑った。
「ごめんね。意地悪なこと言った」
「意地悪じゃない」
「怖いの」
陽菜は正直に言った。
「私、自分が消えていくみたいで怖い。昨日の私が今日の私に繋がらない。みんなが私のことを知ってるのに、私だけ知らない。まるで、私の人生を他の人から聞かされてるみたい」
涙が陽菜の頬を伝った。
「私、本当に生きてたのかなって思う時がある」
悠斗はその言葉に耐えられなかった。
静かに手を伸ばし、陽菜の手を握った。
「生きてたよ」
悠斗の声も震えていた。
「陽菜は生きてた。俺と出会って、笑って、怒って、泣いて、約束して、ちゃんと生きてた」
「覚えてないのに?」
「覚えてなくても」
「私には分からないのに?」
「それでも」
悠斗は陽菜を見つめた。
「陽菜が生きてたことは、絶対に消えない」
陽菜は声を殺して泣いた。
悠斗はその手を握り続けた。
泣き止ませることはできなかった。
怖さを全部取り除くこともできなかった。
それでも、手を離さないことだけはできた。
夕方、陽菜が少し落ち着いた頃、悠斗は鞄から一冊のノートを取り出した。
いつもの記録用のノートではない。
淡い水色の表紙の、小さなノートだった。
「これ、何?」
陽菜が尋ねた。
「約束ノート」
「約束ノート?」
「うん。陽菜と俺の、これからの約束を書くノート」
陽菜は少し驚いたように目を丸くした。
「これからの約束って……私、覚えてられないかもしれないよ」
「だから書く」
悠斗はペンを差し出した。
「覚えていられるかどうかじゃなくて、今日の陽菜が何を願ったかを残したい」
陽菜はノートを見つめた。
「願い……」
「小さなことでいい。明日したいことでも、食べたいものでも、言いたい言葉でもいい」
陽菜はしばらく考えたあと、ペンを受け取った。
手は少し震えていた。
悠斗は支えようとしたが、陽菜は小さく首を振った。
「自分で書きたい」
「うん」
陽菜はゆっくりノートを開いた。
一ページ目に、震える字で書いた。
『明日も、誰かにおはようと言いたい。』
それを見た瞬間、悠斗の胸が熱くなった。
陽菜らしい願いだった。
自分が覚えていることではなく。
自分が助かることでもなく。
誰かに朝の挨拶をしたい。
そんな小さくて、優しい願い。
「次、悠斗くんも書いて」
陽菜が言った。
「俺?」
「うん。約束ノートでしょ? 二人の」
悠斗はペンを受け取った。
そして、陽菜の文字の下に書いた。
『明日も、陽菜におはようと言う。』
陽菜はそれを読んで、ふっと笑った。
「同じじゃん」
「同じがいい」
「どうして?」
「陽菜が誰かにおはようって言いたいなら、俺がその誰かになりたい」
陽菜は照れたように目を伏せた。
「じゃあ、次」
「まだ書くの?」
「うん。忘れるかもしれないから、たくさん残したい」
陽菜は二つ目の約束を書いた。
『泣いても、最後は少しだけ笑う。』
悠斗はその文字を見つめた。
「無理しなくていいよ」
「無理じゃない」
陽菜は静かに言った。
「泣くのは止められないと思う。でも、泣いたまま終わりたくない。私、たぶん昔からそうだったんでしょ?」
悠斗は頷いた。
「そうだった」
「じゃあ、これも私らしい約束」
悠斗はその下に書いた。
『陽菜が泣いたら、隣で待つ。笑えるまで、急かさない。』
陽菜はその文章を見て、少し泣きそうに笑った。
「悠斗くん、優しすぎる」
「そうでもないよ」
「優しいよ」
「陽菜にだけ」
「それ、ずるい」
二人は少しだけ笑った。
そして三つ目。
陽菜はペンを持ったまま、長く迷った。
何度も書こうとして、止まった。
やがて、彼女は小さな声で言った。
「これ、書いたら本当になっちゃう気がして怖い」
「書かなくてもいいよ」
「でも、書きたい」
陽菜はゆっくり息を吸った。
震える指で、文字を書いた。
『もし私が全部忘れても、私を嫌いにならないでください。』
悠斗は、その文字を見た瞬間、胸が痛くてたまらなくなった。
陽菜は笑おうとしていた。
でも、笑えていなかった。
怖くて、悲しくて、それでも悠斗にお願いしようとしていた。
悠斗はペンを取った。
迷わず、その下に書いた。
『何を忘れても、陽菜を嫌いにならない。絶対に。』
陽菜はその文字を指でなぞった。
「絶対?」
「絶対」
「私が悠斗くんのことを怖がっても?」
「うん」
「ひどいことを言っても?」
「うん」
「名前を呼べなくなっても?」
「うん」
「それでも?」
悠斗は陽菜の目を見て、はっきり言った。
「それでも、陽菜が好きだよ」
陽菜の瞳から涙がこぼれた。
でも、今度は悲しいだけの涙ではなかった。
胸の奥からあふれてしまったような、静かな涙だった。
「じゃあ、最後の約束」
陽菜はそう言った。
「最後?」
「うん。今の私が、ちゃんと言えるうちに」
悠斗は胸騒ぎを覚えた。
陽菜はノートを見つめたまま、少し微笑んだ。
「悠斗くん」
「うん」
「もし、私がいなくなっても」
「陽菜」
思わず名前を呼んだ。
言わせたくなかった。
その先を聞きたくなかった。
けれど陽菜は、首を横に振った。
「聞いて」
その声は弱かった。
でも、まっすぐだった。
「私、怖いよ。いなくなることも、忘れることも、悠斗くんを悲しませることも、全部怖い」
悠斗は何も言えなかった。
「でもね、もっと怖いことがある」
「もっと怖いこと?」
「私のせいで、悠斗くんの明日が止まること」
悠斗は息をのんだ。
陽菜は涙を浮かべながら、優しく笑った。
「私が忘れても、悠斗くんは覚えてくれるって言ったでしょ」
「うん」
「それは嬉しい。でも、覚えてることが、悠斗くんを苦しめるだけになったら嫌なの」
「そんなことない」
「分かってる。でも、約束してほしい」
陽菜はノートに最後の文字を書いた。
『明日、君が笑うなら、私は幸せです。』
悠斗はその一文を見て、動けなくなった。
この物語の中で、陽菜が何度も言ってきた言葉。
明日、君が笑うなら。
それは陽菜の口癖だった。
願いだった。
祈りだった。
そして今、約束になろうとしている。
「悠斗くん」
陽菜はペンを差し出した。
「悠斗くんも書いて」
悠斗はペンを受け取った。
けれど、すぐには書けなかった。
笑う約束。
陽菜がいなくなっても、明日を生きる約束。
そんなこと、できる気がしなかった。
陽菜がいない明日なんて、想像したくなかった。
陽菜の声が聞こえない朝。
陽菜の手を握れない夜。
陽菜の笑顔を待つこともできない未来。
そんな世界で笑うなんて、裏切りのように思えた。
「悠斗くん」
陽菜が静かに呼んだ。
「私、悠斗くんに泣かないでって言いたいわけじゃないよ」
悠斗は顔を上げた。
「泣いていい。苦しくてもいい。私のこと、忘れないでほしい。でも……私のことを思い出すたびに、自分を傷つけないで」
陽菜は震える手で、悠斗の手に触れた。
「私が好きになった悠斗くんは、優しい人だった。少し不器用で、泣き虫で、でも誰かのためにちゃんと笑おうとする人だった」
「陽菜……」
「だから、私の最後のわがまま」
陽菜は涙をこぼしながら笑った。
「いつかでいい。すぐじゃなくていい。何年かかってもいい。だけど、いつか私を思い出して、少しだけ笑って」
悠斗の視界が滲んだ。
「そんなの……簡単に約束できない」
「うん」
「陽菜がいないのに、笑えるか分からない」
「うん」
「俺は、そんなに強くない」
「知ってる」
陽菜は優しく言った。
「だから、約束にするの。強くない悠斗くんが、迷子にならないように」
悠斗は泣いた。
今度は隠さなかった。
陽菜の前で、声を殺して泣いた。
陽菜はその涙を見て、自分も泣きながら、それでも笑っていた。
「悠斗くん」
「……うん」
「約束して」
悠斗は震える手で、ノートに文字を書いた。
『いつか、陽菜を思い出して笑う。明日を捨てない。』
書き終えた瞬間、陽菜はその文字を見つめ、ゆっくり頷いた。
「ありがとう」
「ありがとうは、俺の方だよ」
「どうして?」
「陽菜が、俺の明日まで心配してくれるから」
「だって、好きだから」
その言葉は、とても自然だった。
陽菜自身も驚いたように目を瞬かせた。
「今、私……」
悠斗は涙を拭いながら笑った。
「言ったね」
「覚えてないのに」
「うん」
「でも、言えた」
「うん」
陽菜は胸に手を当てた。
「やっぱり、ここが覚えてるのかな」
悠斗は頷いた。
「きっとね」
その夜、陽菜は約束ノートを枕元に置いて眠った。
悠斗はベッドの横で、そのノートを見つめていた。
表紙には、陽菜の字で小さく書かれていた。
『消えない約束』
記憶は消えるかもしれない。
名前も、声も、日付も、場所も。
けれど、今日交わした約束だけは、消したくなかった。
たとえ陽菜が忘れても。
たとえ悠斗が泣き崩れる日が来ても。
このノートを開けば、今日の陽菜がいる。
怖がりながら、それでも悠斗の未来を願った陽菜がいる。
悠斗は眠る陽菜にそっと囁いた。
「陽菜」
返事はなかった。
「俺、約束するよ」
窓の外には、夜の街が静かに光っていた。
「明日、君が笑うなら。俺は何度でも、明日を迎える」
陽菜の寝息が、かすかに揺れた。
悠斗はその手を握った。
細くて、温かい手だった。
この温もりを忘れたくない。
この夜を忘れたくない。
この約束を、絶対に消したくない。
悠斗はノートを閉じ、胸に抱いた。
そして、泣きながら笑った。
陽菜が望んだように。
泣いても、最後は少しだけ笑う。
それが、二人の消えない約束だった。
第7ページを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、悠斗と陽菜が「忘れない約束」ではなく、「忘れても残る約束」を交わしました。
陽菜は自分の未来よりも、悠斗の明日を心配しています。
次の第8ページ「涙の向こう側へ」では、陽菜の病状がさらに悪化し、二人に別れの時間が近づいていきます。




