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明日、君が笑うなら  作者: あーちゃん


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6/10

もう一度、恋をする

このページでは、陽菜の記憶が毎日のように揺らいでいく中で、悠斗が何度でも想いを伝え直していく姿を描きます。


昨日の恋人が、今日の他人になる。


それでも悠斗は諦めません。


忘れられるたびに傷つきながら、それでも陽菜にもう一度恋をしてもらうために、同じ朝を、同じ笑顔を、同じ言葉を、何度でも差し出していきます。

朝、病室の白いカーテンが揺れていた。


窓の向こうでは、まだ薄い春の光が雲の隙間からこぼれていて、街全体をやわらかく照らしていた。病院の中にいると季節の匂いは少し遠くなる。消毒液の匂い、廊下を歩く看護師の足音、どこかで小さく鳴る機械音。そういうものに囲まれていると、世界は病室の中だけで完結してしまうように思える。


けれど、悠斗は毎朝、病室の窓を少しだけ開けるようにしていた。


「おはよう、陽菜」


そう言って、彼はいつものように花瓶の水を替えた。


花瓶には淡い黄色のガーベラが三本挿してある。陽菜が昔、好きだと言った花だった。理由を聞いたことがある。すると彼女は少し得意げに笑って、


「だって、見てるだけで元気出るじゃん。太陽の小さいやつみたいで」


と言った。


その言葉を、悠斗は忘れていない。


忘れたくても、忘れられない。


陽菜が眠るベッドの横には、小さなノートが置かれていた。表紙には悠斗の字でこう書いてある。


『陽菜へ。今日の君が、昨日の君を少しでも思い出せますように。』


そのノートは、もう何冊目になるのか分からない。


最初は一冊だけだった。二人で行った場所、食べたもの、交わした約束、笑った理由、泣いた夜。忘れてしまう陽菜のために、悠斗が一つずつ書き残した記憶のかけらだった。


けれど、記憶の抜け落ちる速度は、悠斗が思っていたよりずっと速かった。


昨日覚えていたことを、今日忘れる。


朝には笑っていた言葉を、夜には思い出せない。


名前を呼べた日がある。


呼べなかった日もある。


「悠斗くん」と呼んでくれた朝もあれば、警戒した目で「あなたは誰ですか」と尋ねられた朝もあった。


最初にそう言われた時、悠斗は胸の奥が引き裂かれるような痛みを感じた。


けれど今は、泣かない。


泣くのは陽菜が眠ったあとでいい。


陽菜の前では笑う。


それが、悠斗が自分に決めた約束だった。


「陽菜、朝だよ」


悠斗はベッドのそばに椅子を寄せ、眠っている陽菜の手にそっと触れた。


細くなった指先は、まだ温かかった。


その温かさだけで、悠斗は今日を始めることができた。


陽菜のまつ毛がかすかに震える。


ゆっくりと瞼が開いた。


「……」


陽菜は天井を見つめ、少しだけ眉を寄せた。知らない場所に迷い込んだ子どものような顔だった。


そして、次に悠斗を見た。


その瞬間、悠斗は息を止めた。


陽菜の目に浮かんでいたのは、戸惑いだった。


昨日の夕方、彼女は悠斗の手を握って「明日も来てね」と言った。少しだけ笑って、「忘れてたら、ごめんね」と泣きそうな顔で言った。


だから悠斗は答えた。


「忘れててもいいよ。俺が覚えてるから」


その約束通り、悠斗は来た。


けれど、今日の陽菜の中に、昨日の約束は残っていなかった。


「……あなた、誰?」


小さな声だった。


怖がっているわけではない。


けれど、距離があった。


悠斗は一瞬だけ目を伏せた。胸の奥で何かが音もなく崩れた。それでも、すぐに顔を上げて笑った。


「俺は神崎悠斗。陽菜の……友達」


恋人、と言いたかった。


婚約者、と言いたかった。


ずっと隣にいる人、と言いたかった。


でも、急にそんなことを言えば陽菜を混乱させてしまう。怖がらせてしまう。だから悠斗は、毎朝その日の陽菜に合わせて、自分の位置を少しずつ近づけていく。


初対面の人。


知り合い。


友達。


大切な人。


恋人。


その階段を、何度でも最初から上る。


「友達……?」


陽菜はゆっくり瞬きをした。


「うん。友達」


「私の?」


「そう。陽菜の友達」


「……私、あなたのこと知らない」


「大丈夫。これから知ってくれたらいい」


悠斗がそう言うと、陽菜は不思議そうに彼を見た。


「変な人」


「よく言われる」


「本当に?」


「いや、あんまり言われない」


陽菜は少しだけ口元を緩めた。


その小さな笑みを見ただけで、悠斗の胸はいっぱいになった。


たったそれだけ。


たったそれだけなのに、朝から何度も崩れそうになっていた心が、少しだけ持ち直した。


「名前、もう一回教えて」


「神崎悠斗」


「かんざき……ゆうと」


「うん」


「私は?」


「白石陽菜」


「しらいし、ひな」


「そう」


「陽菜って、どんな人?」


悠斗は少し考えた。


本当なら、言いたいことはいくらでもあった。


陽菜は明るい。


陽菜は優しい。


陽菜は泣き虫なのに強がりで、怖いくせに誰かを安心させるために笑う。


陽菜は雨の日に傘を忘れる。


陽菜は甘い卵焼きが好きで、苦いコーヒーは飲めない。


陽菜は映画の予告だけで泣く。


陽菜は花火が好きで、終わる瞬間だけ少し寂しそうな顔をする。


陽菜は、悠斗の人生を変えた人。


けれど、それを全部言うには朝の陽菜には重すぎる気がした。


だから悠斗は、いちばん優しい言葉を選んだ。


「陽菜はね、笑うのが上手な人だよ」


「笑うのが?」


「うん。陽菜が笑うと、周りの人も少し元気になる」


「……私、そんなすごい人なの?」


「すごいよ」


「ふふ。なんか、照れる」


陽菜は照れたように布団を指先でつまんだ。


その仕草は昔と変わらなかった。


記憶が消えても、陽菜の中に残っているものがある。


悠斗はそれに救われていた。


名前を忘れても。


約束を忘れても。


笑い方や、照れ方や、人の言葉を受け止める時の優しい目は、完全には消えない。


それはきっと、記憶よりも深い場所にある陽菜自身なのだと思った。


「ねえ、神崎さん」


「悠斗でいいよ」


「じゃあ……悠斗さん」


「さん、いらない」


「いきなり呼び捨ては難しいです」


「じゃあ、悠斗くん」


「悠斗くん」


陽菜はゆっくりその名前を呼んだ。


悠斗は胸の奥が熱くなった。


何度も呼ばれた名前だった。


けれど、今日初めて呼ばれた名前でもあった。


「何?」


「私たち、どうして友達になったの?」


悠斗は椅子に座り直した。


この質問も、何度目か分からない。


でも、悠斗は毎回少しだけ話し方を変える。今日の陽菜が退屈しないように。今日の陽菜が怖くならないように。今日の陽菜が、少しでも笑ってくれるように。


「最初はね、駅前のパン屋だった」


「パン屋?」


「うん。陽菜が最後のメロンパンを取って、俺も同じのを取ろうとして」


「私、譲らなかったの?」


「譲らなかった」


「最低じゃん、私」


「でも半分くれた」


「いい人じゃん、私」


悠斗が笑うと、陽菜もつられて笑った。


本当は、出会いはパン屋ではない。


二人が初めて言葉を交わしたのは学校の廊下だった。


落としたプリントを拾っただけの、本当に小さな出来事だった。


でも、陽菜はパン屋の話が好きだった。


何度聞いても笑ってくれる。


だから悠斗は、少しだけ嘘をつく。


陽菜が笑うための、優しい嘘だった。


「それでね、陽菜が言ったんだ。『半分こしたら、幸せも半分じゃなくて二倍になるんだよ』って」


「私、そんなこと言いそう」


「言いそうでしょ」


「うん。すごく言いそう」


陽菜はくすくす笑った。


悠斗はその笑い声を聞きながら、心の中で今日の日付を刻んだ。


今日の陽菜は、笑った。


今日の陽菜は、悠斗の名前を呼んだ。


今日の陽菜は、少しだけ自分のことを好きになってくれた。


それだけで十分だった。


昼になると、陽菜の母・彩花が病室に来た。


彩花はドアの前で一度立ち止まり、二人の様子を見て、少しだけ目を細めた。


「陽菜、体調どう?」


「お母さん?」


「うん、お母さん」


陽菜は母の顔を見て、ほっとしたように笑った。


彩花はその笑顔に答えながらも、悠斗を見た。その目には感謝と痛みが混じっていた。


「悠斗くん、今日もありがとう」


「いえ」


「朝から?」


「はい」


「無理しないでね」


悠斗は首を横に振った。


「無理じゃないです」


本当は、無理をしていないわけではなかった。


夜眠れない日もある。


家に帰っても、陽菜の声が耳から離れない。


「あなたは誰ですか」


「私たち、どういう関係ですか」


「ごめんなさい、思い出せなくて」


そんな言葉が何度も頭の中で繰り返される。


胸が苦しくなって、何も食べられない日もあった。


それでも、病室のドアを開ける瞬間だけは、笑顔でいたかった。


陽菜が不安にならないように。


陽菜が自分を責めないように。


そして何より、陽菜が今日を嫌いにならないように。


彩花が持ってきた昼食のあと、陽菜は少し眠った。


その間、悠斗はノートを開いた。


今日の記録を書く。


『六月十二日。朝、陽菜は俺のことを忘れていた。最初は少し警戒していたけど、名前を呼んでくれた。パン屋の話で笑った。自分のことを「いい人じゃん」と言って笑った。昼にはお母さんのことを覚えていた。体調は昨日より少し良さそう。手の震えが少しあった。午後、起きたらまた話す。』


書いている途中で、涙が一滴、ノートの端に落ちた。


悠斗は慌てて袖で拭いた。


滲んだ文字を見て、情けないと思った。


でも、泣くことを完全にやめることはできなかった。


陽菜の前では泣かない。


それだけを守るので精一杯だった。


「悠斗くん」


声がして顔を上げると、彩花が静かに立っていた。


「少し、外の空気吸ってきたら?」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない顔してる」


悠斗は言葉に詰まった。


彩花は椅子に座り、眠っている陽菜を見た。


「陽菜ね、昔から忘れ物が多い子だったの」


唐突な話だった。


「小学生の頃、ランドセルを背負わずに学校へ行こうとしたこともあるのよ。玄関で靴を履いて、元気よく『行ってきます』って言って。私が『陽菜、ランドセル』って言ったら、あの子、自分の背中を触って本気でびっくりしてた」


彩花は懐かしそうに笑った。


「でもね、不思議と大事なものは忘れない子だった。友達の誕生日とか、誰かが泣いていたこととか、私が疲れている日に言った何気ない一言とか。そういうものは、ちゃんと覚えてる子だった」


悠斗は黙って聞いていた。


「だから、今の陽菜を見ていると、悔しい。どうしてあの子から、こんなに大事なものばかり奪うのって思う」


彩花の声が少し震えた。


「でも、悠斗くんが来ると、陽菜は笑うの」


「俺のこと、忘れててもですか」


「忘れてても」


彩花は頷いた。


「あの子の心が、あなたを怖がってない。むしろ、安心してる。記憶が追いつかなくても、心のどこかで分かってるんだと思う」


悠斗は眠る陽菜を見た。


陽菜の寝顔は穏やかだった。


「俺、たまに思うんです」


「うん」


「毎日初めましてに戻るなら、俺は陽菜の何なんだろうって」


彩花は何も言わなかった。


悠斗は続けた。


「恋人だったって言っても、陽菜が覚えてなかったら、それは俺だけの記憶でしかなくて。俺だけが勝手に過去にしがみついてるんじゃないかって」


声が震えた。


「陽菜は、今の陽菜として生きてるのに。俺は昔の陽菜を探してばかりで。これって、陽菜のためなのかなって」


彩花はしばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「悠斗くん」


「はい」


「あなたが陽菜にしていることは、過去にしがみつくことじゃないと思う」


悠斗は顔を上げた。


「あなたは毎日、今の陽菜に会いに来てくれてる。昨日の陽菜じゃなくて、今日の陽菜に。記憶があってもなくても、その日の陽菜を見て、その日の陽菜に言葉を選んでくれてる」


彩花は涙をこらえるように微笑んだ。


「それは、ちゃんと恋だよ」


悠斗は唇を噛んだ。


胸の奥で、ずっと固まっていた痛みが少しだけほどけた気がした。


恋。


そう呼んでいいのだろうか。


忘れられても。


何度も初対面に戻っても。


同じ気持ちを差し出し続けることを、恋と呼んでいいのだろうか。


午後、陽菜が目を覚ました。


少しぼんやりしていたが、悠斗を見ると小さく笑った。


「……悠斗くん」


名前を呼ばれた瞬間、悠斗は思わず息をのんだ。


覚えていた。


朝に教えた名前を、まだ覚えていた。


たった数時間。


それでも、奇跡みたいだった。


「うん。ここにいるよ」


「私、寝てた?」


「寝てた」


「変な夢見た」


「どんな?」


「メロンパンを半分こする夢」


悠斗は笑った。


「それ、いい夢だね」


「うん。なんか、幸せだった」


陽菜は窓の方を見た。


「ねえ、悠斗くん」


「何?」


「私たち、本当に友達?」


その問いに、悠斗は少しだけ黙った。


陽菜は彼を見ていた。


朝よりも、少し深い目をしていた。


ただ確認しているだけではない。


きっと陽菜の中のどこかが、何かに気づいている。


悠斗は嘘をつくこともできた。


友達だよ、と。


それで陽菜を混乱させずに済む。


けれど、陽菜の目は、真実を待っているように見えた。


だから悠斗は、ゆっくり答えた。


「友達から、始まった」


「始まった?」


「うん。それで、たくさん話して、たくさん笑って、たまに喧嘩して」


「喧嘩もしたの?」


「したよ」


「私、強そう」


「強かった」


「悠斗くん、負けた?」


「だいたい負けた」


陽菜はふふっと笑った。


「それで?」


悠斗は陽菜の手を見た。


触れていいか迷った。


すると陽菜の方から、布団の上に手を出した。


まるで、続きを促すように。


悠斗はその手にそっと自分の手を重ねた。


「それで、俺は陽菜を好きになった」


陽菜の瞳が揺れた。


「……好き?」


「うん」


「私を?」


「陽菜を」


「いつから?」


「気づいた時には、もう好きだった」


「ずるい言い方」


「でも本当」


陽菜は困ったように笑った。


「私、覚えてない」


「うん」


「ごめんね」


「謝らなくていい」


「でも、悠斗くんは覚えてるんでしょ?」


「覚えてる」


「私が忘れたら、悠斗くんだけが寂しいじゃん」


悠斗は何も言えなかった。


陽菜は、忘れているのに、ちゃんと悠斗の痛みに気づく。


そういうところが陽菜だった。


記憶が消えても、優しさは消えていない。


「寂しくないって言ったら嘘になる」


悠斗は正直に言った。


「でも、それでも俺は陽菜に会いたい」


「どうして?」


「今日の陽菜に、もう一度恋をしたいから」


陽菜は目を見開いた。


悠斗は続けた。


「昨日の陽菜を取り戻したいだけじゃない。昔の思い出を押しつけたいわけでもない。今日目を覚ました陽菜が、俺のことを知らなくてもいい。怖がってもいい。名前を忘れててもいい」


彼は陽菜の手を優しく握った。


「それでも俺は、今日の陽菜に会って、今日の陽菜を知って、今日の陽菜を好きになる。何度でも」


陽菜の目に涙が浮かんだ。


「そんなの……つらいよ」


「うん」


「悠斗くんが、かわいそうだよ」


「かわいそうじゃない」


「どうして?」


「陽菜に会えるから」


その言葉に、陽菜は泣いた。


静かに、涙をこぼした。


悠斗は慌てず、ただそばにいた。


涙を止める言葉を探さなかった。


泣いていいと思った。


陽菜が自分のためではなく、悠斗の痛みを想って泣いてくれることが、悲しくて、愛しかった。


「私、また忘れるかもしれない」


「うん」


「明日には、悠斗くんのこと、分からなくなるかもしれない」


「うん」


「今日のことも、忘れるかもしれない」


「それでもいい」


「よくないよ」


「じゃあ、俺が覚えてる」


陽菜は涙で濡れた顔を上げた。


「悠斗くんは、忘れないの?」


「忘れない」


「絶対?」


「絶対」


「約束?」


悠斗は微笑んだ。


「約束」


陽菜は小さく息を吸った。


「じゃあ、私も約束したい」


「何を?」


「覚えていられる間だけでも、悠斗くんのこと、好きになりたい」


悠斗の胸が震えた。


陽菜は泣きながら笑った。


「今日の私は、まだ全部は分からない。でも、悠斗くんと話してると安心する。名前を呼ぶと、胸があったかくなる。手を握っても、怖くない」


彼女は自分の胸に手を当てた。


「だから、たぶんここが覚えてるんだと思う」


悠斗は言葉を失った。


陽菜は恥ずかしそうに目を伏せた。


「変かな?」


「変じゃない」


「本当?」


「本当」


「じゃあ、もう一回教えて」


「何を?」


「私たちが、どうやって恋をしたのか」


その午後、悠斗は話した。


本当の出会いのこと。


学校の廊下で落ちたプリントを拾ったこと。


陽菜が「ありがとう」を言ったあと、なぜかもう一度振り返って笑ったこと。


雨の日に傘を忘れた陽菜を、悠斗が駅まで送ったこと。


その帰り道、陽菜が水たまりを避けながら歩いて、最後には思いきり踏んで靴を濡らしたこと。


初めて二人で見た映画のこと。


陽菜が泣きすぎて、悠斗のハンカチがぐしゃぐしゃになったこと。


夏祭りで食べたりんご飴のこと。


花火が上がった瞬間、陽菜が小さく「綺麗」と言ったこと。


そして、その横顔を見て、悠斗が「好きだ」と思ったこと。


陽菜は時々笑い、時々驚き、時々泣きそうな顔をした。


まるで、自分の知らない物語を読んでいるみたいだった。


でも、その物語の主人公が自分だと知るたびに、不思議そうに胸を押さえた。


「私、そんなに幸せだったんだね」


「うん」


「忘れたくなかったな」


悠斗は首を横に振った。


「忘れても、幸せだったことは消えないよ」


「消えない?」


「うん。陽菜が忘れても、俺が覚えてる。ノートにも残ってる。それに、陽菜の中にも、きっと残ってる」


「心に?」


「心に」


陽菜は窓の外を見た。


夕方の光が病室を橙色に染めていた。


「悠斗くん」


「うん」


「明日、私がまた忘れてたら」


「うん」


「また、今日みたいに教えてくれる?」


「もちろん」


「面倒じゃない?」


「面倒じゃない」


「泣きたくならない?」


悠斗は少し笑った。


「なるかも」


「なるんだ」


「なる。でも、それ以上に、また陽菜に会えるのが嬉しい」


陽菜は涙を拭いて、ゆっくり笑った。


その笑顔は、弱々しかった。


けれど、確かに陽菜の笑顔だった。


「じゃあ私、明日も悠斗くんに恋するね」


その言葉を聞いた瞬間、悠斗はもう我慢できなかった。


目の奥が熱くなり、視界が滲んだ。


陽菜の前では泣かないと決めていた。


でも、その約束は少しだけ破れてしまった。


涙が一粒、頬を伝った。


陽菜は驚いた顔をしたあと、困ったように笑った。


「悠斗くん、泣いてる」


「泣いてない」


「泣いてるよ」


「これは……目に夕日が入っただけ」


「嘘下手」


「知ってる」


二人は笑った。


泣きながら、笑った。


その夜、陽菜が眠ったあと、悠斗はノートに今日の続きを書いた。


『六月十二日。午後、陽菜は俺の名前を覚えていた。俺が好きだと伝えた。陽菜は泣いた。俺も少し泣いた。陽菜は「明日も悠斗くんに恋するね」と言ってくれた。忘れてしまうかもしれないけど、この言葉は俺が絶対に覚えておく。』


書き終えたあと、悠斗はペンを置いた。


病室は静かだった。


陽菜の寝息だけが聞こえていた。


明日になれば、またすべてが最初からかもしれない。


「あなたは誰ですか」と言われるかもしれない。


今日の涙も、今日の約束も、陽菜の中から消えてしまうかもしれない。


けれど、悠斗はもう迷わなかった。


忘れられることは、終わりではない。


もう一度始められるということでもある。


何度でも出会えばいい。


何度でも名前を伝えればいい。


何度でも好きだと言えばいい。


陽菜が明日、初めて悠斗に出会うのなら。


悠斗も明日、もう一度陽菜に恋をすればいい。


彼は眠る陽菜の手をそっと握った。


「おやすみ、陽菜」


返事はない。


けれど、陽菜の指先がほんの少しだけ動いた気がした。


悠斗は微笑んだ。


そして、明日の朝いちばんに言う言葉を、心の中で何度も練習した。


おはよう、陽菜。


俺は神崎悠斗。


君のことが好きです。


今日も、君に会いに来ました。


たとえ君が忘れていても。


たとえ俺だけが覚えていても。


明日、君が笑うなら。


俺は何度でも、君に恋をする。

第6ページを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


忘れられることは、とても悲しいことです。


けれど悠斗は、陽菜の記憶が消えていくことを「終わり」ではなく、「もう一度始める朝」だと受け止めようとします。


次の第7ページ「消えない約束」では、二人が記憶よりも深い場所に残る約束を交わしていきます。

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