もう一度、恋をする
このページでは、陽菜の記憶が毎日のように揺らいでいく中で、悠斗が何度でも想いを伝え直していく姿を描きます。
昨日の恋人が、今日の他人になる。
それでも悠斗は諦めません。
忘れられるたびに傷つきながら、それでも陽菜にもう一度恋をしてもらうために、同じ朝を、同じ笑顔を、同じ言葉を、何度でも差し出していきます。
朝、病室の白いカーテンが揺れていた。
窓の向こうでは、まだ薄い春の光が雲の隙間からこぼれていて、街全体をやわらかく照らしていた。病院の中にいると季節の匂いは少し遠くなる。消毒液の匂い、廊下を歩く看護師の足音、どこかで小さく鳴る機械音。そういうものに囲まれていると、世界は病室の中だけで完結してしまうように思える。
けれど、悠斗は毎朝、病室の窓を少しだけ開けるようにしていた。
「おはよう、陽菜」
そう言って、彼はいつものように花瓶の水を替えた。
花瓶には淡い黄色のガーベラが三本挿してある。陽菜が昔、好きだと言った花だった。理由を聞いたことがある。すると彼女は少し得意げに笑って、
「だって、見てるだけで元気出るじゃん。太陽の小さいやつみたいで」
と言った。
その言葉を、悠斗は忘れていない。
忘れたくても、忘れられない。
陽菜が眠るベッドの横には、小さなノートが置かれていた。表紙には悠斗の字でこう書いてある。
『陽菜へ。今日の君が、昨日の君を少しでも思い出せますように。』
そのノートは、もう何冊目になるのか分からない。
最初は一冊だけだった。二人で行った場所、食べたもの、交わした約束、笑った理由、泣いた夜。忘れてしまう陽菜のために、悠斗が一つずつ書き残した記憶のかけらだった。
けれど、記憶の抜け落ちる速度は、悠斗が思っていたよりずっと速かった。
昨日覚えていたことを、今日忘れる。
朝には笑っていた言葉を、夜には思い出せない。
名前を呼べた日がある。
呼べなかった日もある。
「悠斗くん」と呼んでくれた朝もあれば、警戒した目で「あなたは誰ですか」と尋ねられた朝もあった。
最初にそう言われた時、悠斗は胸の奥が引き裂かれるような痛みを感じた。
けれど今は、泣かない。
泣くのは陽菜が眠ったあとでいい。
陽菜の前では笑う。
それが、悠斗が自分に決めた約束だった。
「陽菜、朝だよ」
悠斗はベッドのそばに椅子を寄せ、眠っている陽菜の手にそっと触れた。
細くなった指先は、まだ温かかった。
その温かさだけで、悠斗は今日を始めることができた。
陽菜のまつ毛がかすかに震える。
ゆっくりと瞼が開いた。
「……」
陽菜は天井を見つめ、少しだけ眉を寄せた。知らない場所に迷い込んだ子どものような顔だった。
そして、次に悠斗を見た。
その瞬間、悠斗は息を止めた。
陽菜の目に浮かんでいたのは、戸惑いだった。
昨日の夕方、彼女は悠斗の手を握って「明日も来てね」と言った。少しだけ笑って、「忘れてたら、ごめんね」と泣きそうな顔で言った。
だから悠斗は答えた。
「忘れててもいいよ。俺が覚えてるから」
その約束通り、悠斗は来た。
けれど、今日の陽菜の中に、昨日の約束は残っていなかった。
「……あなた、誰?」
小さな声だった。
怖がっているわけではない。
けれど、距離があった。
悠斗は一瞬だけ目を伏せた。胸の奥で何かが音もなく崩れた。それでも、すぐに顔を上げて笑った。
「俺は神崎悠斗。陽菜の……友達」
恋人、と言いたかった。
婚約者、と言いたかった。
ずっと隣にいる人、と言いたかった。
でも、急にそんなことを言えば陽菜を混乱させてしまう。怖がらせてしまう。だから悠斗は、毎朝その日の陽菜に合わせて、自分の位置を少しずつ近づけていく。
初対面の人。
知り合い。
友達。
大切な人。
恋人。
その階段を、何度でも最初から上る。
「友達……?」
陽菜はゆっくり瞬きをした。
「うん。友達」
「私の?」
「そう。陽菜の友達」
「……私、あなたのこと知らない」
「大丈夫。これから知ってくれたらいい」
悠斗がそう言うと、陽菜は不思議そうに彼を見た。
「変な人」
「よく言われる」
「本当に?」
「いや、あんまり言われない」
陽菜は少しだけ口元を緩めた。
その小さな笑みを見ただけで、悠斗の胸はいっぱいになった。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、朝から何度も崩れそうになっていた心が、少しだけ持ち直した。
「名前、もう一回教えて」
「神崎悠斗」
「かんざき……ゆうと」
「うん」
「私は?」
「白石陽菜」
「しらいし、ひな」
「そう」
「陽菜って、どんな人?」
悠斗は少し考えた。
本当なら、言いたいことはいくらでもあった。
陽菜は明るい。
陽菜は優しい。
陽菜は泣き虫なのに強がりで、怖いくせに誰かを安心させるために笑う。
陽菜は雨の日に傘を忘れる。
陽菜は甘い卵焼きが好きで、苦いコーヒーは飲めない。
陽菜は映画の予告だけで泣く。
陽菜は花火が好きで、終わる瞬間だけ少し寂しそうな顔をする。
陽菜は、悠斗の人生を変えた人。
けれど、それを全部言うには朝の陽菜には重すぎる気がした。
だから悠斗は、いちばん優しい言葉を選んだ。
「陽菜はね、笑うのが上手な人だよ」
「笑うのが?」
「うん。陽菜が笑うと、周りの人も少し元気になる」
「……私、そんなすごい人なの?」
「すごいよ」
「ふふ。なんか、照れる」
陽菜は照れたように布団を指先でつまんだ。
その仕草は昔と変わらなかった。
記憶が消えても、陽菜の中に残っているものがある。
悠斗はそれに救われていた。
名前を忘れても。
約束を忘れても。
笑い方や、照れ方や、人の言葉を受け止める時の優しい目は、完全には消えない。
それはきっと、記憶よりも深い場所にある陽菜自身なのだと思った。
「ねえ、神崎さん」
「悠斗でいいよ」
「じゃあ……悠斗さん」
「さん、いらない」
「いきなり呼び捨ては難しいです」
「じゃあ、悠斗くん」
「悠斗くん」
陽菜はゆっくりその名前を呼んだ。
悠斗は胸の奥が熱くなった。
何度も呼ばれた名前だった。
けれど、今日初めて呼ばれた名前でもあった。
「何?」
「私たち、どうして友達になったの?」
悠斗は椅子に座り直した。
この質問も、何度目か分からない。
でも、悠斗は毎回少しだけ話し方を変える。今日の陽菜が退屈しないように。今日の陽菜が怖くならないように。今日の陽菜が、少しでも笑ってくれるように。
「最初はね、駅前のパン屋だった」
「パン屋?」
「うん。陽菜が最後のメロンパンを取って、俺も同じのを取ろうとして」
「私、譲らなかったの?」
「譲らなかった」
「最低じゃん、私」
「でも半分くれた」
「いい人じゃん、私」
悠斗が笑うと、陽菜もつられて笑った。
本当は、出会いはパン屋ではない。
二人が初めて言葉を交わしたのは学校の廊下だった。
落としたプリントを拾っただけの、本当に小さな出来事だった。
でも、陽菜はパン屋の話が好きだった。
何度聞いても笑ってくれる。
だから悠斗は、少しだけ嘘をつく。
陽菜が笑うための、優しい嘘だった。
「それでね、陽菜が言ったんだ。『半分こしたら、幸せも半分じゃなくて二倍になるんだよ』って」
「私、そんなこと言いそう」
「言いそうでしょ」
「うん。すごく言いそう」
陽菜はくすくす笑った。
悠斗はその笑い声を聞きながら、心の中で今日の日付を刻んだ。
今日の陽菜は、笑った。
今日の陽菜は、悠斗の名前を呼んだ。
今日の陽菜は、少しだけ自分のことを好きになってくれた。
それだけで十分だった。
昼になると、陽菜の母・彩花が病室に来た。
彩花はドアの前で一度立ち止まり、二人の様子を見て、少しだけ目を細めた。
「陽菜、体調どう?」
「お母さん?」
「うん、お母さん」
陽菜は母の顔を見て、ほっとしたように笑った。
彩花はその笑顔に答えながらも、悠斗を見た。その目には感謝と痛みが混じっていた。
「悠斗くん、今日もありがとう」
「いえ」
「朝から?」
「はい」
「無理しないでね」
悠斗は首を横に振った。
「無理じゃないです」
本当は、無理をしていないわけではなかった。
夜眠れない日もある。
家に帰っても、陽菜の声が耳から離れない。
「あなたは誰ですか」
「私たち、どういう関係ですか」
「ごめんなさい、思い出せなくて」
そんな言葉が何度も頭の中で繰り返される。
胸が苦しくなって、何も食べられない日もあった。
それでも、病室のドアを開ける瞬間だけは、笑顔でいたかった。
陽菜が不安にならないように。
陽菜が自分を責めないように。
そして何より、陽菜が今日を嫌いにならないように。
彩花が持ってきた昼食のあと、陽菜は少し眠った。
その間、悠斗はノートを開いた。
今日の記録を書く。
『六月十二日。朝、陽菜は俺のことを忘れていた。最初は少し警戒していたけど、名前を呼んでくれた。パン屋の話で笑った。自分のことを「いい人じゃん」と言って笑った。昼にはお母さんのことを覚えていた。体調は昨日より少し良さそう。手の震えが少しあった。午後、起きたらまた話す。』
書いている途中で、涙が一滴、ノートの端に落ちた。
悠斗は慌てて袖で拭いた。
滲んだ文字を見て、情けないと思った。
でも、泣くことを完全にやめることはできなかった。
陽菜の前では泣かない。
それだけを守るので精一杯だった。
「悠斗くん」
声がして顔を上げると、彩花が静かに立っていた。
「少し、外の空気吸ってきたら?」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる」
悠斗は言葉に詰まった。
彩花は椅子に座り、眠っている陽菜を見た。
「陽菜ね、昔から忘れ物が多い子だったの」
唐突な話だった。
「小学生の頃、ランドセルを背負わずに学校へ行こうとしたこともあるのよ。玄関で靴を履いて、元気よく『行ってきます』って言って。私が『陽菜、ランドセル』って言ったら、あの子、自分の背中を触って本気でびっくりしてた」
彩花は懐かしそうに笑った。
「でもね、不思議と大事なものは忘れない子だった。友達の誕生日とか、誰かが泣いていたこととか、私が疲れている日に言った何気ない一言とか。そういうものは、ちゃんと覚えてる子だった」
悠斗は黙って聞いていた。
「だから、今の陽菜を見ていると、悔しい。どうしてあの子から、こんなに大事なものばかり奪うのって思う」
彩花の声が少し震えた。
「でも、悠斗くんが来ると、陽菜は笑うの」
「俺のこと、忘れててもですか」
「忘れてても」
彩花は頷いた。
「あの子の心が、あなたを怖がってない。むしろ、安心してる。記憶が追いつかなくても、心のどこかで分かってるんだと思う」
悠斗は眠る陽菜を見た。
陽菜の寝顔は穏やかだった。
「俺、たまに思うんです」
「うん」
「毎日初めましてに戻るなら、俺は陽菜の何なんだろうって」
彩花は何も言わなかった。
悠斗は続けた。
「恋人だったって言っても、陽菜が覚えてなかったら、それは俺だけの記憶でしかなくて。俺だけが勝手に過去にしがみついてるんじゃないかって」
声が震えた。
「陽菜は、今の陽菜として生きてるのに。俺は昔の陽菜を探してばかりで。これって、陽菜のためなのかなって」
彩花はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「悠斗くん」
「はい」
「あなたが陽菜にしていることは、過去にしがみつくことじゃないと思う」
悠斗は顔を上げた。
「あなたは毎日、今の陽菜に会いに来てくれてる。昨日の陽菜じゃなくて、今日の陽菜に。記憶があってもなくても、その日の陽菜を見て、その日の陽菜に言葉を選んでくれてる」
彩花は涙をこらえるように微笑んだ。
「それは、ちゃんと恋だよ」
悠斗は唇を噛んだ。
胸の奥で、ずっと固まっていた痛みが少しだけほどけた気がした。
恋。
そう呼んでいいのだろうか。
忘れられても。
何度も初対面に戻っても。
同じ気持ちを差し出し続けることを、恋と呼んでいいのだろうか。
午後、陽菜が目を覚ました。
少しぼんやりしていたが、悠斗を見ると小さく笑った。
「……悠斗くん」
名前を呼ばれた瞬間、悠斗は思わず息をのんだ。
覚えていた。
朝に教えた名前を、まだ覚えていた。
たった数時間。
それでも、奇跡みたいだった。
「うん。ここにいるよ」
「私、寝てた?」
「寝てた」
「変な夢見た」
「どんな?」
「メロンパンを半分こする夢」
悠斗は笑った。
「それ、いい夢だね」
「うん。なんか、幸せだった」
陽菜は窓の方を見た。
「ねえ、悠斗くん」
「何?」
「私たち、本当に友達?」
その問いに、悠斗は少しだけ黙った。
陽菜は彼を見ていた。
朝よりも、少し深い目をしていた。
ただ確認しているだけではない。
きっと陽菜の中のどこかが、何かに気づいている。
悠斗は嘘をつくこともできた。
友達だよ、と。
それで陽菜を混乱させずに済む。
けれど、陽菜の目は、真実を待っているように見えた。
だから悠斗は、ゆっくり答えた。
「友達から、始まった」
「始まった?」
「うん。それで、たくさん話して、たくさん笑って、たまに喧嘩して」
「喧嘩もしたの?」
「したよ」
「私、強そう」
「強かった」
「悠斗くん、負けた?」
「だいたい負けた」
陽菜はふふっと笑った。
「それで?」
悠斗は陽菜の手を見た。
触れていいか迷った。
すると陽菜の方から、布団の上に手を出した。
まるで、続きを促すように。
悠斗はその手にそっと自分の手を重ねた。
「それで、俺は陽菜を好きになった」
陽菜の瞳が揺れた。
「……好き?」
「うん」
「私を?」
「陽菜を」
「いつから?」
「気づいた時には、もう好きだった」
「ずるい言い方」
「でも本当」
陽菜は困ったように笑った。
「私、覚えてない」
「うん」
「ごめんね」
「謝らなくていい」
「でも、悠斗くんは覚えてるんでしょ?」
「覚えてる」
「私が忘れたら、悠斗くんだけが寂しいじゃん」
悠斗は何も言えなかった。
陽菜は、忘れているのに、ちゃんと悠斗の痛みに気づく。
そういうところが陽菜だった。
記憶が消えても、優しさは消えていない。
「寂しくないって言ったら嘘になる」
悠斗は正直に言った。
「でも、それでも俺は陽菜に会いたい」
「どうして?」
「今日の陽菜に、もう一度恋をしたいから」
陽菜は目を見開いた。
悠斗は続けた。
「昨日の陽菜を取り戻したいだけじゃない。昔の思い出を押しつけたいわけでもない。今日目を覚ました陽菜が、俺のことを知らなくてもいい。怖がってもいい。名前を忘れててもいい」
彼は陽菜の手を優しく握った。
「それでも俺は、今日の陽菜に会って、今日の陽菜を知って、今日の陽菜を好きになる。何度でも」
陽菜の目に涙が浮かんだ。
「そんなの……つらいよ」
「うん」
「悠斗くんが、かわいそうだよ」
「かわいそうじゃない」
「どうして?」
「陽菜に会えるから」
その言葉に、陽菜は泣いた。
静かに、涙をこぼした。
悠斗は慌てず、ただそばにいた。
涙を止める言葉を探さなかった。
泣いていいと思った。
陽菜が自分のためではなく、悠斗の痛みを想って泣いてくれることが、悲しくて、愛しかった。
「私、また忘れるかもしれない」
「うん」
「明日には、悠斗くんのこと、分からなくなるかもしれない」
「うん」
「今日のことも、忘れるかもしれない」
「それでもいい」
「よくないよ」
「じゃあ、俺が覚えてる」
陽菜は涙で濡れた顔を上げた。
「悠斗くんは、忘れないの?」
「忘れない」
「絶対?」
「絶対」
「約束?」
悠斗は微笑んだ。
「約束」
陽菜は小さく息を吸った。
「じゃあ、私も約束したい」
「何を?」
「覚えていられる間だけでも、悠斗くんのこと、好きになりたい」
悠斗の胸が震えた。
陽菜は泣きながら笑った。
「今日の私は、まだ全部は分からない。でも、悠斗くんと話してると安心する。名前を呼ぶと、胸があったかくなる。手を握っても、怖くない」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「だから、たぶんここが覚えてるんだと思う」
悠斗は言葉を失った。
陽菜は恥ずかしそうに目を伏せた。
「変かな?」
「変じゃない」
「本当?」
「本当」
「じゃあ、もう一回教えて」
「何を?」
「私たちが、どうやって恋をしたのか」
その午後、悠斗は話した。
本当の出会いのこと。
学校の廊下で落ちたプリントを拾ったこと。
陽菜が「ありがとう」を言ったあと、なぜかもう一度振り返って笑ったこと。
雨の日に傘を忘れた陽菜を、悠斗が駅まで送ったこと。
その帰り道、陽菜が水たまりを避けながら歩いて、最後には思いきり踏んで靴を濡らしたこと。
初めて二人で見た映画のこと。
陽菜が泣きすぎて、悠斗のハンカチがぐしゃぐしゃになったこと。
夏祭りで食べたりんご飴のこと。
花火が上がった瞬間、陽菜が小さく「綺麗」と言ったこと。
そして、その横顔を見て、悠斗が「好きだ」と思ったこと。
陽菜は時々笑い、時々驚き、時々泣きそうな顔をした。
まるで、自分の知らない物語を読んでいるみたいだった。
でも、その物語の主人公が自分だと知るたびに、不思議そうに胸を押さえた。
「私、そんなに幸せだったんだね」
「うん」
「忘れたくなかったな」
悠斗は首を横に振った。
「忘れても、幸せだったことは消えないよ」
「消えない?」
「うん。陽菜が忘れても、俺が覚えてる。ノートにも残ってる。それに、陽菜の中にも、きっと残ってる」
「心に?」
「心に」
陽菜は窓の外を見た。
夕方の光が病室を橙色に染めていた。
「悠斗くん」
「うん」
「明日、私がまた忘れてたら」
「うん」
「また、今日みたいに教えてくれる?」
「もちろん」
「面倒じゃない?」
「面倒じゃない」
「泣きたくならない?」
悠斗は少し笑った。
「なるかも」
「なるんだ」
「なる。でも、それ以上に、また陽菜に会えるのが嬉しい」
陽菜は涙を拭いて、ゆっくり笑った。
その笑顔は、弱々しかった。
けれど、確かに陽菜の笑顔だった。
「じゃあ私、明日も悠斗くんに恋するね」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗はもう我慢できなかった。
目の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
陽菜の前では泣かないと決めていた。
でも、その約束は少しだけ破れてしまった。
涙が一粒、頬を伝った。
陽菜は驚いた顔をしたあと、困ったように笑った。
「悠斗くん、泣いてる」
「泣いてない」
「泣いてるよ」
「これは……目に夕日が入っただけ」
「嘘下手」
「知ってる」
二人は笑った。
泣きながら、笑った。
その夜、陽菜が眠ったあと、悠斗はノートに今日の続きを書いた。
『六月十二日。午後、陽菜は俺の名前を覚えていた。俺が好きだと伝えた。陽菜は泣いた。俺も少し泣いた。陽菜は「明日も悠斗くんに恋するね」と言ってくれた。忘れてしまうかもしれないけど、この言葉は俺が絶対に覚えておく。』
書き終えたあと、悠斗はペンを置いた。
病室は静かだった。
陽菜の寝息だけが聞こえていた。
明日になれば、またすべてが最初からかもしれない。
「あなたは誰ですか」と言われるかもしれない。
今日の涙も、今日の約束も、陽菜の中から消えてしまうかもしれない。
けれど、悠斗はもう迷わなかった。
忘れられることは、終わりではない。
もう一度始められるということでもある。
何度でも出会えばいい。
何度でも名前を伝えればいい。
何度でも好きだと言えばいい。
陽菜が明日、初めて悠斗に出会うのなら。
悠斗も明日、もう一度陽菜に恋をすればいい。
彼は眠る陽菜の手をそっと握った。
「おやすみ、陽菜」
返事はない。
けれど、陽菜の指先がほんの少しだけ動いた気がした。
悠斗は微笑んだ。
そして、明日の朝いちばんに言う言葉を、心の中で何度も練習した。
おはよう、陽菜。
俺は神崎悠斗。
君のことが好きです。
今日も、君に会いに来ました。
たとえ君が忘れていても。
たとえ俺だけが覚えていても。
明日、君が笑うなら。
俺は何度でも、君に恋をする。
第6ページを最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
忘れられることは、とても悲しいことです。
けれど悠斗は、陽菜の記憶が消えていくことを「終わり」ではなく、「もう一度始める朝」だと受け止めようとします。
次の第7ページ「消えない約束」では、二人が記憶よりも深い場所に残る約束を交わしていきます。




