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明日、君が笑うなら  作者: あーちゃん


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5/10

思い出せない笑顔

記憶を失った人にとって、昨日までの思い出は存在しません。


けれど、その人を想い続けた時間は、残された人の中で今も生き続けています。


忘れられた悲しみと、それでも諦めない優しさ。


悠斗はもう一度、陽菜と出会い直すことを決めます。

陽菜が目を覚ましてから、一週間が過ぎた。


病院の廊下には、夏の訪れを知らせる強い日差しが差し込んでいた。


梅雨は終わりに近づき、窓の外では蝉が鳴き始めている。


けれど悠斗の時間だけは、あの日から止まったままだった。


仕事を終えると、今日も病院へ向かう。


手には小さな紙袋。


中には陽菜が好きだったプリンが二つ入っていた。


以前なら、病室へ入ると陽菜は必ず笑顔で言っていた。


「今日も来てくれたの?」


その笑顔を見るだけで疲れは吹き飛んだ。


今は違う。


病室のドアを開けると、陽菜は少し緊張したように姿勢を正す。


「朝倉さん。」


その呼び方にも少し慣れてしまった自分が悲しい。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


会話はどこかぎこちない。


三年間付き合った恋人同士ではなく、初対面に近い距離感だった。


「これ。」


紙袋を差し出す。


「プリン。」


陽菜は目を丸くした。


「ありがとうございます。」


「でも、私の好きな物だったんですか?」


悠斗は少しだけ笑う。


「うん。」


「よく買ってた。」


陽菜は首を傾げた。


「そうなんですね。」


嬉しそうに受け取る。


その笑顔は昔と同じだった。


なのに、その笑顔には悠斗との思い出が何一つ宿っていない。


「食べてもいいですか?」


「もちろん。」


スプーンですくい、一口食べる。


「美味しい。」


陽菜は子どものように目を細めた。


「私、プリン好きなんですね。」


その言葉に悠斗の胸が締めつけられる。


好きだったことさえ忘れている。


そんな現実があまりにも残酷だった。


「朝倉さん。」


「ん?」


「私たち、本当に仲が良かったんですか?」


突然の質問だった。


悠斗は少し考える。


「仲は……。」


「すごく良かった。」


「喧嘩も?」


「した。」


「でも、その日のうちに仲直りしてた。」


陽菜は少し笑った。


「私、そんな性格なんですね。」


「うん。」


「すぐ笑う人だった。」


「今も笑ってますよ。」


「でも。」


悠斗は言葉を飲み込んだ。


今の笑顔は違う。


昔のように心から安心して笑う笑顔ではない。


どこか遠慮している。


どこか不安そうだ。


病室へ来るたび、陽菜はノートを開いていた。


医師から勧められた記憶日記だ。


今日会った人。


話した内容。


食べた物。


忘れないように毎日書き続けている。


ページをめくる。


『朝倉悠斗さん』


その名前が何度も書かれていた。


『毎日来てくれる。』


『優しい人。』


『婚約者らしい。』


『でも思い出せない。』


最後の一文を見た瞬間、悠斗は目を伏せた。


陽菜は気づかなかった。


「先生がね。」


「焦らなくていいって。」


「無理に思い出そうとすると苦しくなるからって。」


「そうだね。」


悠斗は笑顔を作る。


「思い出せなくてもいい。」


陽菜は驚いたように見つめた。


「いいんですか?」


「うん。」


「無理して苦しむくらいなら。」


「新しく思い出を作ればいい。」


その言葉は、自分自身へ言い聞かせるためでもあった。


夜。


病院を出ると、親友の工藤真司から電話がかかってきた。


「悠斗。」


「飲みに行こう。」


「今日はいい。」


「たまには息抜きしろ。」


「無理だ。」


真司は少し黙った。


「お前さ。」


「全部一人で抱えるな。」


悠斗は笑う。


「抱えるしかないだろ。」


「婚約者なんだから。」


「婚約者だからって。」


真司は静かに言う。


「泣いちゃいけない理由にはならない。」


その言葉で、悠斗は初めて声を詰まらせた。


「俺……。」


「怖い。」


「また忘れられるのが。」


「思い出してもらえないのが。」


「もう俺を好きにならなかったら。」


電話の向こうで真司は言った。


「それでも。」


「お前は好きなんだろ。」


「……うん。」


「じゃあ答えは決まってる。」


悠斗は空を見上げた。


答えなんて最初から決まっていた。


翌日。


病院へ行くと陽菜が窓の外を見ていた。


「今日はいい天気ですね。」


「散歩したい。」


医師へ相談すると、病院の庭なら短時間だけ許可が出た。


陽菜は久しぶりの外だった。


風が頬を撫でる。


木漏れ日が優しい。


花壇には色とりどりの花が咲いていた。


「気持ちいい。」


陽菜は嬉しそうだった。


ベンチへ座る。


しばらく無言で空を見上げる。


「朝倉さん。」


「ん?」


「私。」


「昔の私に会いたい。」


悠斗は静かに聞く。


「みんなが知ってる私。」


「私だけ知らない。」


涙が一粒落ちた。


「怖い。」


「思い出せない。」


「みんなに申し訳ない。」


悠斗はゆっくり首を振る。


「謝らなくていい。」


「でも。」


「陽菜は悪くない。」


「病気が悪いだけ。」


陽菜は涙を拭いた。


「私。」


「婚約してたんですよね。」


「うん。」


「幸せだった?」


悠斗は迷わず答えた。


「すごく。」


「毎日笑ってた。」


「世界一幸せだった。」


陽菜は静かに目を閉じた。


「そんな私に戻りたい。」


その言葉が嬉しかった。


思い出せなくても。


思い出したいと思ってくれている。


それだけで十分だった。


帰り際。


陽菜が突然呼び止める。


「朝倉さん。」


「また。」


「明日も来てくれますか?」


悠斗は笑う。


「もちろん。」


「毎日来る。」


「嫌じゃなければ。」


陽菜も少し笑った。


「嫌じゃないです。」


「むしろ。」


少し照れながら続ける。


「安心します。」


その一言だけで救われた。


恋人ではない。


婚約者でもない。


それでも。


安心できる存在にはなれた。


病院を出た悠斗は、夕焼け空を見上げた。


オレンジ色に染まる空。


陽菜と初めて手を繋いだ日も、こんな空だった。


「あの日には戻れない。」


小さく呟く。


「でも。」


ポケットから婚約指輪の箱を取り出す。


まだ渡せていない指輪。


「また最初から。」


「好きになってもらう。」


箱を握りしめる。


それは決意だった。


病気には勝てないかもしれない。


記憶は戻らないかもしれない。


それでも。


恋は何度でも始められる。


悠斗はそう信じることにした。


病室では陽菜が今日の日記を書いていた。


『朝倉さんと散歩した。』


『安心する。』


『どうして安心するのか分からない。』


少し考えて、最後に一行だけ書き足す。


『昔も、きっと優しかった人なんだと思う。』


その文字を見て、陽菜は少しだけ微笑んだ。


理由は分からない。


それでも胸の奥が少しだけ温かかった。


失われた記憶の向こうで、小さな何かが静かに動き始めていた。


それは恋ではない。


まだ恋ではない。


けれど、新しい未来へ続く、小さな一歩だった。

第5話を読んでいただき、ありがとうございました。


思い出は戻らなくても、人を信じる気持ちは新しく育てることができます。


悠斗は「思い出してもらう」のではなく、「もう一度好きになってもらう」ことを選びました。


次回、第6話「もう一度、恋をする」では、少しずつ距離を縮めていく二人と、新しい恋の始まりが描かれます。


最後まで温かく見守っていただけたら嬉しいです。

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