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明日、君が笑うなら  作者: あーちゃん


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4/10

あなたは誰ですか

眠り続けた時間が終われば、きっと元の毎日が戻ってくる。


悠斗は、そう信じ続けていました。


けれど、目を覚ました陽菜が最初に口にした言葉は、二人の未来を大きく変えてしまいます。


「生きていてくれた。」


その喜びは、一瞬で新たな悲しみに姿を変えるのでした。

陽菜が倒れてから、三週間が過ぎた。


病院の窓から見える景色は、少しずつ梅雨の色を濃くしていた。


毎日降り続いていた雨は、まるで時間の流れを忘れてしまったように静かだった。


悠斗は、その三週間、一日も欠かさず病院へ通っていた。


朝は仕事へ向かい、定時になると真っすぐ病院へ向かう。


ベッドの横に置かれた椅子に座り、陽菜の手を握る。


返事はない。


それでも話しかけ続けた。


「今日は市役所で、小さい男の子が『ありがとう』って言ってくれたんだ。」


「昨日、陽菜が好きだったパン屋さんの前を通ったよ。」


「結婚式場から連絡が来た。」


「まだ待っていてくれるって。」


返事はない。


心電図の音だけが静かに響く。


それでも悠斗は信じていた。


きっと聞こえている。


きっと帰ってきてくれる。


そう信じなければ、自分まで壊れてしまいそうだった。


ある日の夕方。


仕事を終えて病室へ向かう途中だった。


集中治療室の前が、いつもより慌ただしい。


看護師が何人も走っている。


医師の声が聞こえる。


悠斗の胸が締めつけられた。


「何かあったんですか!」


思わず近くの看護師へ声を掛ける。


「白石さんが……。」


その続きを聞く前に、医師が病室から出てきた。


「ご家族の方!」


陽菜の両親と悠斗は、ほとんど同時に立ち上がる。


医師は息を整えながら言った。


「意識が戻りました。」


その瞬間だった。


母は泣き崩れた。


父は何度も「ありがとうございます」と頭を下げた。


悠斗は、その場で立ち尽くした。


涙が止まらなかった。


助かった。


陽菜が、生きている。


その事実だけで十分だった。


医師は続ける。


「ただし……。」


その言葉に全員が表情を引き締める。


「まだ意識ははっきりしていません。混乱もあります。焦らず見守ってください。」


それでもよかった。


話せなくてもいい。


歩けなくてもいい。


生きていてくれれば。


それだけでよかった。


病室へ入る。


ベッドの上で陽菜がゆっくり目を開けていた。


焦点の合わない瞳が天井を見つめている。


母がそっと近づく。


「陽菜……。」


陽菜はゆっくり顔を動かした。


「……お母さん?」


母は泣きながら頷いた。


「そうよ、お母さんよ。」


「……よかった。」


小さく笑う。


その笑顔を見た瞬間、病室にいた全員が涙を流した。


「陽菜。」


父も手を握る。


陽菜はゆっくり頷いた。


「……お父さん。」


医師は小さく安心したように微笑んだ。


家族は認識できている。


悠斗は胸をなで下ろした。


「陽菜。」


少しだけ前へ出る。


三週間ぶりに名前を呼ぶ。


何度夢に見ただろう。


この瞬間を。


陽菜はゆっくり悠斗へ顔を向けた。


目が合う。


悠斗は笑顔を作った。


「おかえり。」


震える声だった。


陽菜は悠斗をじっと見つめる。


一秒。


二秒。


三秒。


その視線は、まるで初めて見る人を見るようだった。


「……。」


悠斗は少し不安になる。


「陽菜?」


陽菜は小さく首をかしげた。


「……あの。」


悠斗は笑顔のまま待った。


きっとまだ混乱しているだけだ。


そう思った。


陽菜は申し訳なさそうに口を開いた。


「あなたは……。」


その一言で、病室の空気が止まる。


「……誰ですか?」


世界から音が消えた。


悠斗は何も言えなかった。


笑顔のまま固まる。


耳鳴りがする。


「誰……?」


陽菜は本当に困った顔をしていた。


演技ではない。


冗談でもない。


本当に分からないのだ。


「陽菜……。」


やっと名前を呼ぶ。


「俺だよ。」


陽菜は何度も首を振った。


「ごめんなさい。」


「思い出せない。」


その言葉が胸へ突き刺さる。


医師が静かに悠斗の肩へ手を置いた。


「一度、外でお話ししましょう。」


悠斗は何も言えないまま病室を出た。


廊下を歩く。


足元がふらつく。


医師は静かに説明を始めた。


「脳炎の影響で、記憶障害が起きています。」


「記憶障害……。」


「ご両親のことは覚えていました。しかし、最近数年間の記憶が抜け落ちている可能性があります。」


「最近……。」


「婚約されたことも。」


「結婚式のことも。」


「あなたと出会ったことも。」


一つずつ言葉が落ちるたび、悠斗の心も崩れていく。


「治るんですか。」


医師は少し考えた。


「戻る方もいます。」


「でも。」


「戻らない方もいます。」


その一言が残酷だった。


希望はある。


でも保証はない。


悠斗は壁にもたれた。


呼吸が苦しい。


三週間。


毎日祈った。


命だけは助かってほしい。


そう願い続けた。


神様は命を返してくれた。


その代わりに。


陽菜の記憶を奪っていった。


病室では母が泣いていた。


父は必死に笑顔を作っている。


陽菜は何が起きているのか分からず、不安そうに周囲を見渡していた。


「私……。」


「何で泣いてるの?」


誰も答えられない。


悠斗はもう一度病室へ入った。


陽菜は少し申し訳なさそうに笑う。


「ごめんなさい。」


「失礼なこと言っちゃいましたよね。」


「本当に思い出せなくて。」


悠斗は精一杯笑った。


「いいんだ。」


「謝らなくて。」


陽菜は安心したように笑う。


その笑顔は昔と同じだった。


でも。


その笑顔は悠斗を知らない。


悠斗だけを忘れているわけではない。


二人で過ごした三年間。


初めて手を繋いだ日。


海へ行った夏。


プロポーズした夜。


婚約指輪を選びに行った休日。


全部。


全部。


陽菜の中から消えてしまった。


「名前だけ教えてもらえますか?」


陽菜が尋ねる。


悠斗は少しだけ黙った。


涙をこらえる。


「朝倉。」


「朝倉悠斗。」


陽菜はその名前をゆっくり繰り返した。


「朝倉……さん。」


“悠斗くん”ではなかった。


敬語だった。


その距離があまりにも遠かった。


「よろしくお願いします。」


陽菜は小さく頭を下げた。


悠斗は笑顔を崩さなかった。


崩せなかった。


「よろしく。」


そう返すしかなかった。


病室を出ると、もう夜だった。


窓の外では雨が止み、雲の切れ間から細い月が見えている。


悠斗は病院の屋上へ上がった。


誰もいない。


風だけが吹いていた。


ポケットからスマートフォンを取り出す。


待ち受け画面には海で笑う陽菜。


「思い出せなくても。」


悠斗は空を見上げた。


「また好きになってもらえばいい。」


涙が頬を伝う。


「もう一度。」


静かな夜空へ向かって呟く。


「最初から恋をすればいい。」


その決意だけが、折れそうな心を支えていた。


結婚式まで、あと三十八日。


止まった時間は、別の形でゆっくりと動き始めていた。

第4話を読んでいただき、ありがとうございました。


命は助かりました。しかし、悠斗が待ち続けた再会は、あまりにも切ないものとなりました。


「あなたは誰ですか。」


その一言から、二人はもう一度、ゼロから関係を築いていかなければなりません。


次回、第5話「思い出せない笑顔」では、記憶を失った陽菜の日々と、悠斗の「もう一度恋をしてもらう」という新たな決意が描かれます。


最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

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