突然止まった時間
どれほど幸せな毎日でも、その時間が永遠に続くとは限りません。
何気ない朝が、人生で最後の「いつも通り」になることもあります。
昨日まで笑っていた二人に訪れる、あまりにも突然の出来事。
ここから、悠斗と陽菜の運命は大きく変わり始めます。
六月の朝。
窓ガラスを打ちつける雨音で、白石陽菜は目を覚ました。
昨日から続く頭痛は、眠れば治ると思っていた。
しかし、目を開けた瞬間、こめかみの奥が鋭く痛んだ。
「……いたい。」
額に手を当てる。
熱はない。
それでも身体が重い。
立ち上がろうとすると、床がゆらりと揺れたような感覚に襲われた。
「疲れてるだけ……。」
自分にそう言い聞かせながら洗面所へ向かう。
鏡に映った自分の顔は、いつもより少し青白かった。
「今日は子どもたちと七夕飾り作る日なのに。」
そう呟き、無理やり笑顔を作る。
保育士は笑顔が仕事だ。
子どもたちは先生の表情をよく見ている。
だから体調が悪くても、なるべく笑っていたかった。
朝食を口に運ぶ。
いつもなら美味しいはずのトーストが、今日はほとんど喉を通らない。
母が心配そうに尋ねた。
「陽菜、本当に大丈夫?」
「うん。ちょっと寝不足かも。」
「休んだら?」
「今日は休めないよ。」
そう言って笑った。
その笑顔は、どこか無理をしていた。
玄関を出る。
雨は昨日より強かった。
傘を開き、駅へ向かって歩き始める。
途中でスマートフォンが震えた。
悠斗からだった。
『雨すごいね。滑らないようにね。』
陽菜は微笑みながら返信を打つ。
『大丈夫!今日は帰ったら電話しようね。』
送信ボタンを押し、スマートフォンをバッグへしまう。
それが、陽菜が悠斗へ送った最後の”いつも通り”のメッセージだった。
*****
その頃、市役所。
朝倉悠斗は窓口で高齢の男性に書類の説明をしていた。
「こちらにご住所をお願いします。」
「ここでいいの?」
「はい、大丈夫ですよ。」
普段と変わらない仕事。
普段と変わらない朝。
昼休みに陽菜へ電話をして、夜は式場の席順を考える。
そんな一日になるはずだった。
午前十時四十分。
一本の電話が鳴る。
職場の内線ではない。
知らない携帯番号だった。
「朝倉です。」
電話口から聞こえたのは、慌てた女性の声だった。
「白石陽菜さんのご家族ですか!?」
悠斗は一瞬意味が分からなかった。
「いえ……婚約者ですが。」
「陽菜さんが職場で倒れました!今、救急車で〇〇総合病院へ搬送しています!」
耳鳴りがした。
言葉が理解できない。
「……倒れた?」
「意識がありません!」
その一言で、世界から音が消えた。
悠斗の手からペンが落ちる。
床に転がる音だけが妙に大きく響いた。
「朝倉君?」
同僚が声を掛ける。
しかし悠斗には何も聞こえない。
「病院……どこですか?」
震える声で聞き返す。
病院名を聞くと、悠斗は上司に事情を説明することも忘れ、職場を飛び出していた。
外は土砂降りだった。
スーツは一瞬で濡れる。
傘を差している余裕などない。
駅まで全力で走った。
信号が赤でも構わなかった。
何度も転びそうになりながら走る。
頭の中では同じ言葉だけが繰り返されていた。
『意識がありません』
嘘だ。
陽菜は今朝メッセージを送ってきた。
帰ったら電話しようって。
笑顔のスタンプも送ってきた。
そんな人が突然倒れるはずがない。
「頼む……!」
誰に祈ればいいのかも分からず、悠斗は走り続けた。
*****
病院へ着くと、救急外来の前には陽菜の両親が立っていた。
母は泣いている。
父は青ざめた顔で一点を見つめていた。
「お父さん!」
悠斗が駆け寄る。
父はゆっくり振り返った。
「悠斗君……。」
その声は震えていた。
「陽菜は?」
「まだ検査中だ。」
「何があったんですか!」
「保育園で突然倒れたらしい。」
それ以上、言葉が続かなかった。
救急外来の扉は固く閉ざされたままだった。
時間だけが過ぎていく。
時計を見る。
十一時二十分。
十一時四十五分。
十二時十分。
一分が一時間にも感じた。
ようやく医師が姿を現した。
「ご家族の方。」
三人は同時に立ち上がる。
診察室へ案内された。
医師は重い表情だった。
「脳に炎症が起きています。」
誰も言葉を発しない。
「現在、意識はありません。」
悠斗は思わず椅子を掴んだ。
「原因は?」
「現時点では断定できませんが、自己免疫性脳炎の可能性があります。」
聞き慣れない病名だった。
「命は……。」
父が震える声で尋ねる。
医師は少し間を置いて答えた。
「非常に危険な状態です。」
その瞬間。
母は声を上げて泣き崩れた。
悠斗の頭は真っ白だった。
命が危ない。
そんな言葉を、昨日まで元気だった人に向けて聞く日が来るなんて思ってもいなかった。
「会えますか?」
悠斗はやっとそれだけ言えた。
「短時間だけ。」
集中治療室。
機械音だけが響く静かな部屋。
陽菜はベッドに横たわっていた。
酸素マスク。
点滴。
心電図。
腕には何本もの管。
昨日まで笑っていた人とは思えなかった。
悠斗は足が動かなかった。
「陽菜……。」
返事はない。
手を握る。
冷たかった。
「起きて。」
声が震える。
「帰ったら電話するって約束したじゃん。」
涙が止まらない。
「まだドレス決めてないじゃん。」
静かな機械音だけが返ってくる。
「結婚式まで六十日なんだよ。」
陽菜は眠ったままだった。
悠斗は初めて知った。
人は本当に絶望すると、大声では泣けない。
ただ静かに涙だけが流れる。
「お願いだから。」
陽菜の手を両手で包む。
「戻ってきて。」
それしか言えなかった。
*****
夜になっても意識は戻らない。
医師から説明があった。
「今夜が山かもしれません。」
その言葉に、悠斗の身体から力が抜けた。
昨日まで普通だった。
笑っていた。
未来の話をしていた。
スーパーで買い物をする話をしていた。
子どもの名前まで考えていた。
それなのに。
たった一日で。
人生はこんなにも変わってしまうのか。
悠斗は病室の前の椅子に座り込んだ。
スマートフォンが震える。
画面には、昨夜のメッセージが残っていた。
『夢でも会えたらいいね。』
悠斗は画面を見つめたまま、涙を落とした。
「夢じゃなくていい。」
声にならない声で呟く。
「お願いだから、生きて。」
その願いだけが、静かな病院の夜に消えていった。
結婚式まで、あと五十九日。
二人の時間は、この日、突然止まった。
第3話を読んでいただき、ありがとうございました。
昨日まで笑い合っていた二人を襲った突然の出来事。幸せだった日常は、一瞬で非日常へと変わってしまいました。
次回、第4話「あなたは誰ですか」では、長い眠りから目を覚ました陽菜と悠斗が再会します。しかし、その再会は、悠斗にとって最も残酷な言葉から始まります。
引き続き、二人の物語を見届けていただけたら幸いです。




