結婚式まで、あと六十日
未来は、約束したからといって必ず訪れるものではありません。
けれど人は、その未来を信じるからこそ、今日という一日を大切に生きることができます。
結婚式まで、あと六十日。
幸せに満ちたカウントダウンは、少しずつ二人の運命を動かし始めます。
結婚式まで、あと六十日。
その数字は、悠斗のスマートフォンの待ち受け画面に表示されていた。
陽菜が作ったカウントダウンアプリだ。
背景には、去年の夏に海で撮った二人の写真が使われている。
潮風に髪を揺らしながら笑う陽菜。
その隣で照れくさそうに笑う悠斗。
写真を見るたびに、「この人と結婚するんだ」という実感が少しずつ湧いてきた。
「あと六十日か……」
悠斗は画面を見つめ、小さく呟いた。
長いようで短い。
そんな時間だった。
仕事へ向かう途中、陽菜から一通のメッセージが届く。
『今日、お休みだから式場のアルバム見に行ってくるね!』
その後に送られてきたのは、笑顔のクマのスタンプだった。
悠斗はすぐに返信する。
『無理しないで。いっぱい歩くだろうから』
『大丈夫!帰ったら電話しよ!』
その何気ないやり取りが嬉しかった。
特別な言葉ではない。
「愛してる」でも、「会いたい」でもない。
ただ、「帰ったら電話しよう」。
そんな一言が、これから同じ人生を歩く相手なのだと感じさせてくれた。
市役所では朝から忙しかった。
引っ越しシーズンが近づき、窓口は多くの人で賑わっている。
書類を確認し、住民票を発行し、高齢者の相談に耳を傾け、小さな子どもを連れた母親に優しく説明する。
気づけば昼になっていた。
昼休み。
悠斗は職場近くの公園で弁当を広げた。
ベンチに座り、木漏れ日の中で食べる昼食は、不思議と家で食べるより美味しく感じる。
スマートフォンを見ると、陽菜から写真が届いていた。
白いウェディングドレス。
シンプルなデザインだったが、胸元には小さなレースが施され、裾には繊細な刺繍が入っている。
『これどうかな?』
悠斗は写真を見た瞬間、思わず息をのんだ。
画面越しでも十分伝わる。
きっと実際に着たら、もっと綺麗だ。
『すごく似合うと思う』
返信すると、すぐ電話がかかってきた。
「もしもし!」
陽菜の弾んだ声が聞こえる。
「仕事中じゃなかった?」
「昼休み」
「よかった!」
背景からは式場スタッフらしき人の声が聞こえる。
「ねぇ、本当にこのドレスでいいかな?」
「写真だけでも綺麗だったよ」
「でもね、もう一着可愛いのがあるの」
「陽菜は?」
「迷ってる!」
「それなら迷うよね」
「悠斗くんが見て決めてほしかったなぁ」
その言葉に、悠斗は少し申し訳なくなった。
本当なら今日は休みを合わせて、一緒に来る予定だった。
しかし急な会議が入り、どうしても仕事を休めなかった。
「ごめんな」
「謝らないで。」
陽菜は優しく笑った。
「一人でも決められるよ。」
そう言いながらも、その声は少しだけ寂しそうだった。
「今度、写真いっぱい見せて。」
「うん!」
「それと……」
陽菜が少し声を落とした。
「早く名字変わらないかな。」
悠斗は思わず笑った。
「そんなに?」
「だって、『朝倉陽菜』って響き、好きなんだもん。」
その一言だけで、胸が熱くなった。
結婚とは、名字が変わることではない。
それでも、相手の名字を名乗りたいと思ってくれることが、悠斗には何より嬉しかった。
午後の仕事を終える頃には、空が少し曇っていた。
夕方から雨になるらしい。
退勤後、悠斗はスーパーへ立ち寄った。
一人暮らしとは思えないほど真剣に野菜売り場を見ていると、ふと陽菜の言葉を思い出した。
「結婚したら節約しようね。」
「でも、たまには贅沢もしよう。」
「記念日は絶対ケーキ!」
そんな未来の話ばかりしていた。
カゴにトマトを入れながら、悠斗は笑った。
二人で暮らすようになれば、このスーパーにも一緒に来るのだろう。
「今日何食べたい?」
「カレー!」
「昨日もカレーだったよ。」
「じゃあオムライス!」
そんな他愛ない会話を想像するだけで幸せだった。
帰宅すると、夜九時。
約束通り、陽菜からビデオ通話がかかってきた。
画面いっぱいに陽菜の笑顔が映る。
「お疲れさま!」
「お疲れ。」
「見て!」
陽菜は次々と写真を見せてくる。
式場。
ブーケ。
テーブル装花。
キャンドル。
チャペル。
「全部可愛いでしょ!」
「うん。」
「でも一番可愛いのは?」
「陽菜。」
一瞬、画面の向こうで陽菜が固まった。
「……そういうこと急に言う。」
頬を真っ赤にして笑う。
悠斗も照れた。
「本心。」
「ずるい。」
二人はしばらく笑い合った。
その後も結婚式の話は尽きなかった。
どんな音楽を流すか。
新婚旅行はどこへ行くか。
子どもができたら名前はどうするか。
犬を飼うか猫を飼うか。
未来の話ばかりだった。
「悠斗くん。」
「ん?」
「十年後も笑ってるかな。」
「笑ってるよ。」
「二十年後は?」
「もっと笑ってる。」
「おじいちゃんになっても?」
「もちろん。」
陽菜は安心したように笑った。
「約束ね。」
「約束。」
その約束が、どれほど重く、どれほど大切なものになるのか。
まだ二人は知らない。
通話を切った後、悠斗は机の引き出しを開けた。
そこには小さな箱が入っている。
婚約指輪。
式の日まで秘密にしておこうと思っていた。
陽菜は「指輪なんていらない」と言っていた。
「そのお金で旅行したい。」
そう笑っていた。
それでも悠斗は買った。
形に残るものを贈りたかった。
箱を開ける。
小さなダイヤが部屋の明かりを受けて静かに輝いた。
「喜んでくれるかな。」
そう呟いて箱を閉じる。
その夜。
陽菜は実家に帰っていた。
母の作った夕飯を食べながら、結婚式のアルバムを見せている。
「お母さん、このドレスどう?」
「陽菜らしいね。」
父は少し寂しそうだった。
「もう嫁に行くのか。」
「お父さん、泣かないでよ。」
「泣かない。」
そう言いながら、少し目が赤かった。
食後。
陽菜は自室でアルバムを整理していた。
幼い頃の写真。
小学校の運動会。
中学の卒業式。
高校の文化祭。
保育士になった日。
そして悠斗と出会ってからの写真。
一枚一枚に思い出が詰まっていた。
その時だった。
手から写真が落ちた。
「あれ?」
拾おうとした瞬間。
ふらり、と視界が揺れた。
「……疲れてるのかな。」
頭が少し重い。
それでも陽菜は気にしなかった。
最近、結婚式の準備で忙しかった。
仕事も休みなく続いている。
疲れが溜まっているだけだろう。
そう思った。
その頃。
悠斗もベッドへ入っていた。
スマートフォンを見ると、陽菜から最後のメッセージが届いていた。
『今日はありがとう。おやすみ。夢でも会えたらいいね。』
悠斗は笑って返信する。
『おやすみ。また明日。』
送信ボタンを押す。
既読がついた。
それが、この日最後のやり取りになった。
翌朝。
窓の外では激しい雨が降っていた。
陽菜は頭痛で目を覚ます。
ズキズキと痛む。
立ち上がろうとすると、少しだけ足元がふらついた。
「変だな……。」
そう呟きながらも、保育園へ行く準備を始める。
鏡の中の自分は少し顔色が悪かった。
「大丈夫、大丈夫。」
笑顔を作る。
子どもたちを不安にさせないためにも。
そう言い聞かせながら玄関を出た。
雨は昨日より強く降っていた。
誰も、この日の始まりが、二人の人生を大きく変える一日になるとは思っていなかった。
結婚式まで、あと六十日。
未来はまだ、誰にも見えていなかった。
第2話を読んでいただき、ありがとうございました。
幸せな未来を信じて準備を進める悠斗と陽菜。しかし、小さな体調の異変が静かに物語を動かし始めます。
次回、第3話「突然止まった時間」では、二人の運命を大きく変える出来事が訪れます。
引き続き、見届けていただけたら嬉しいです。




