幸せは、すぐ隣にあった
当たり前に続くと思っていた毎日。
隣で笑ってくれる人がいること。
名前を呼べば振り返ってくれること。
明日の約束を、疑いもなく交わせること。
それがどれほど幸せなことだったのか、悠斗はまだ知らなかった。
これは、幸せの中にいた二人が、未来へ向かって歩き出す物語です。
朝倉悠斗は、目覚まし時計が鳴る三分前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の床に細長く伸びている。六月の朝はもう十分に明るく、窓の外ではどこかの家の洗濯機が回る音と、遠くを走る車の音が混ざっていた。
悠斗はしばらく天井を見つめたまま、まだ眠気の残る頭で今日の予定を思い出す。
市役所の窓口業務。
昼休みに結婚式場へ電話。
仕事終わりに陽菜と待ち合わせ。
それから、招待状の宛名確認。
そう考えた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。
結婚式まで、あと二か月。
その言葉だけで、平凡な朝が少し特別に思えた。
悠斗は布団から起き上がり、スマートフォンを手に取った。画面には、昨夜の陽菜からのメッセージが残っている。
『明日、起きられたら褒めてね』
その下に、眠そうなウサギのスタンプ。
悠斗は小さく笑った。
陽菜は昔から朝が弱い。保育士として毎朝早く出勤しているのに、休みの日や待ち合わせの日になると、決まって「あと五分」と言って布団に潜り込む。本人はしっかり者のつもりでいるけれど、悠斗から見れば少し抜けていて、そこがどうしようもなく愛おしかった。
悠斗は返信を打った。
『起きられたら、全力で褒めます』
送信してすぐ、既読はつかなかった。
きっとまだ寝ている。
そう思うだけで、自然と口元が緩む。
悠斗は顔を洗い、簡単に朝食を済ませ、スーツに着替えた。鏡の前でネクタイを結びながら、ふと自分の顔を見る。
平凡な顔だと思う。
特別かっこいいわけでもない。
話がうまいわけでもない。
大きな夢を語れる男でもない。
それなのに、陽菜はいつも言う。
「悠斗くんの隣にいると、安心する」
その言葉に、何度救われただろう。
悠斗は鞄を持ち、玄関で靴を履いた。ドアを開ける前に、もう一度スマートフォンを見る。既読はまだついていない。
「寝坊するぞ、陽菜」
誰もいない部屋でそう呟いて、悠斗は家を出た。
外の空気は少し湿っていた。梅雨入り前の街は、晴れていてもどこか雨の匂いを含んでいる。駅へ向かう道には、学生や会社員が同じ方向へ歩いていた。誰もがそれぞれの一日へ向かっている。
悠斗もその中の一人だった。
ただ、彼の胸の中には、誰にも見えない小さな幸せがあった。
白石陽菜と出会ったのは、三年前の春だった。
市役所の子育て支援課に勤務していた悠斗は、保育園の手続きに関する説明会で陽菜と初めて顔を合わせた。彼女は近くの保育園から来ていた若い保育士で、少し緊張した様子で資料を抱えていた。
説明会が終わった後、陽菜は廊下で書類を落とした。
紙が床に散らばり、陽菜は慌ててしゃがみ込んだ。
悠斗も反射的に手を伸ばした。
「あ、すみません!」
「いえ、大丈夫です」
二人で同じ紙を拾おうとして、指先が触れた。
陽菜はぱっと手を引っ込めた後、恥ずかしそうに笑った。
「こういう時、ドラマなら恋が始まるんですけどね」
突然そんなことを言われて、悠斗は言葉に詰まった。
「えっと……始まりますか?」
真面目に返してしまった自分に、悠斗はすぐ後悔した。
けれど陽菜は、声を出して笑った。
「朝倉さんって、面白いですね」
それが始まりだった。
最初は仕事の連絡。
次に雑談。
そのうち、帰り道に偶然会えば一緒に駅まで歩くようになった。
陽菜はよく笑う人だった。
子どもの話をする時、季節の花を見つけた時、コンビニの新作スイーツを見つけた時。小さなことで嬉しそうに笑う。その笑顔を見ていると、悠斗は自分の中の固くなっていた場所が少しずつほどけていく気がした。
付き合うことになったのは、出会って半年後。
告白したのは悠斗だった。
夜の公園で、桜の葉が風に揺れていた。春は終わりかけていて、街灯の下に立つ陽菜の髪が柔らかく光っていた。
「白石さんのことが好きです」
緊張しすぎて、用意していた言葉は全部飛んだ。
陽菜は一瞬驚いた顔をして、それから目を細めた。
「私も、悠斗くんのこと好きです」
その日から、彼女は悠斗を下の名前で呼ぶようになった。
そして今、二人は結婚式を控えている。
人生とは不思議だ。
知らない他人だった人が、ある日突然、誰よりも大切な存在になる。
悠斗は電車の窓に映る自分を見ながら、そんなことを思った。
市役所に着くと、いつも通りの忙しさが待っていた。
窓口には朝から人が並び、書類の確認、住民票の発行、問い合わせ対応に追われた。悠斗は決して器用な方ではなかったが、一つ一つ丁寧に対応することだけは心がけていた。
昼休み、休憩室で弁当を食べながらスマートフォンを見ると、陽菜から返信が届いていた。
『起きた!褒めて!』
続けて、眠そうな猫のスタンプ。
悠斗は笑いをこらえながら返信した。
『えらい。世界一えらい』
すぐに既読がついた。
『雑!でも嬉しい』
陽菜らしい返事だった。
その後、悠斗は式場に電話をかけた。招待状の発送日、料理の最終確認、席次表の締め切り。聞くことは多かったが、不思議と面倒だとは思わなかった。
結婚式の準備は大変だと周りから散々言われていた。
実際、決めることは山ほどある。
会場の花。
ドレス。
料理。
引き出物。
誰を呼ぶか。
誰をどの席に座らせるか。
時には陽菜と意見が食い違うこともあった。
けれど、喧嘩になりそうになるたび、陽菜は必ず言った。
「私たちの式なんだから、ちゃんと二人で決めようね」
その言葉が、悠斗は好きだった。
二人で決める。
二人で悩む。
二人で迷う。
それすら、未来へ向かう幸せの一部なのだと思えた。
夕方、仕事を終えた悠斗は急いで駅前のカフェへ向かった。
陽菜はもう来ていた。
窓際の席で、両手でカップを包むようにして座っている。白いブラウスに淡い水色のスカート。髪は後ろでゆるく結ばれていた。
悠斗に気づいた陽菜は、大きく手を振った。
「悠斗くん、こっち!」
その声を聞いた瞬間、仕事の疲れがすっと消えた。
「ごめん、待った?」
「待った。五分くらい」
「それは申し訳ない」
「許します。ケーキを半分くれたら」
「最初からそれ狙いでしょ」
「ばれた?」
陽菜は悪びれもせず笑った。
悠斗は向かいに座り、鞄から式場の資料を取り出した。テーブルの上には、すでに陽菜が持ってきたノートが広げられている。表紙には小さな文字で「結婚式やることリスト」と書かれていた。
「今日決めるのは?」
「招待状の最終確認と、プロフィールムービーに使う写真」
「写真か……」
悠斗は少し顔をしかめた。
陽菜がすかさず言う。
「変な顔の写真も使うからね」
「やめて」
「やだ。悠斗くんの高校時代の写真、絶対面白いもん」
「普通だよ」
「普通って言う人ほど怪しい」
陽菜は楽しそうにノートに何かを書き込んだ。
その姿を見ていると、悠斗の胸がまた温かくなる。
結婚するのだ。
この人と。
一緒に朝を迎え、一緒にご飯を食べ、一緒に年を取っていく。
特別なことばかりではないだろう。
疲れる日もある。
喧嘩する日もある。
思い通りにいかない日もある。
それでも、陽菜が隣にいるなら大丈夫だと思えた。
「ねえ、悠斗くん」
「ん?」
陽菜はノートから顔を上げた。
「結婚したらさ、朝ごはんはちゃんと食べようね」
「急にどうしたの」
「大事でしょ。朝ごはん」
「陽菜、朝起きられる?」
「そこは悠斗くんが起こして」
「俺が毎日?」
「うん。優しくね」
「五回起こしても起きなかったら?」
「六回目で愛を込めて起こして」
悠斗は呆れたように笑った。
「大変だな」
「でも、幸せでしょ?」
陽菜は少し首をかしげて、当たり前のように言った。
悠斗はその言葉に、すぐ答えられなかった。
幸せ。
その二文字が、あまりにも自然にそこにあったから。
朝起こすこと。
朝ごはんを食べること。
洗濯物を干すこと。
スーパーで安い野菜を探すこと。
休みの日に少し遠くまで散歩すること。
そんな未来を想像するだけで、胸がいっぱいになる。
「うん」
悠斗は静かに頷いた。
「幸せだと思う」
陽菜は満足そうに笑った。
その笑顔を、悠斗はずっと見ていたいと思った。
カフェを出る頃には、外は薄暗くなっていた。
駅前の街灯が灯り、帰宅する人々が足早に歩いている。湿った風が吹き、陽菜が少し寒そうに肩をすくめた。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと風が冷たいだけ」
悠斗は自分の上着を脱いで、陽菜の肩にかけた。
「風邪ひくなよ」
「悠斗くんって、たまに王子様みたいなことするよね」
「たまに?」
「普段は市役所の真面目な人」
「それ、褒めてる?」
「すごく褒めてる」
陽菜は上着の襟をぎゅっと握って笑った。
その時、悠斗のスマートフォンが震えた。母からのメッセージだった。
『今度の日曜、陽菜ちゃんも連れてご飯食べに来なさい。お父さんが張り切ってるよ』
悠斗がそれを見せると、陽菜は嬉しそうに目を輝かせた。
「行きたい!」
「父さん、たぶんすごい量作るよ」
「食べる!」
「陽菜、遠慮しないもんね」
「お義母さんの唐揚げ、おいしいんだもん」
「もうお義母さんって呼ぶ練習してるの?」
陽菜は一瞬固まって、それから頬を赤くした。
「だ、だって……もうすぐだし」
その照れた顔があまりに可愛くて、悠斗は思わず笑った。
「いいと思う」
「笑わないでよ」
「ごめん」
「悠斗くんも、うちのお父さんのこと練習してよ」
「お義父さん?」
「うん」
「まだ緊張する」
「お父さん、悠斗くんのこと好きだよ」
「本当に?」
「うん。真面目すぎて心配って言ってた」
「それ好きなのかな」
「たぶん褒めてる」
二人はそんな会話をしながら駅まで歩いた。
何でもない会話だった。
今日食べたもの。
職場であった小さな出来事。
週末の予定。
結婚式の準備。
世界を変えるような言葉は一つもない。
けれど悠斗にとっては、そのすべてが宝物だった。
改札の前で、陽菜が足を止めた。
「悠斗くん」
「ん?」
「私ね、最近よく思うの」
「何を?」
陽菜は少しだけ視線を落とし、それから悠斗を見上げた。
「幸せって、もっと大きなものだと思ってた」
悠斗は黙って聞いた。
「特別な場所に行くとか、すごいことを叶えるとか、誰かに羨ましがられるとか。そういうものが幸せなんだと思ってたの」
「うん」
「でも違った」
陽菜は優しく笑った。
「悠斗くんと一緒に帰る道とか、何食べるか迷う時間とか、朝ちゃんと起きられなくて怒られることとか。そういう小さいことの中に、ちゃんと幸せってあるんだね」
悠斗の胸が、きゅっと締めつけられた。
どうして陽菜は、こんなにも簡単に大切なことを言葉にできるのだろう。
悠斗は陽菜の手を取った。
少し冷たい指先だった。
「俺も、そう思う」
陽菜は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、結婚してからも忘れないでね」
「何を?」
「幸せは、すぐ隣にあるってこと」
その言葉を、悠斗は深く胸に刻んだ。
忘れるはずがないと思った。
こんなにも大切な人が隣にいて、こんなにも穏やかな時間が流れている。
忘れるはずがない。
そう信じていた。
その夜、悠斗は陽菜を改札まで見送った。
陽菜は振り返って手を振った。
「また明日ね」
「また明日」
当たり前の約束。
いつもの言葉。
陽菜は人混みの中へ歩いていった。水色のスカートが揺れ、やがて見えなくなる。
悠斗はしばらくその場に立っていた。
胸の中には、静かな幸福感が満ちていた。
明日も会える。
明日も笑える。
明日も、隣にいられる。
そう思っていた。
家に帰る途中、空から小さな雨粒が落ちてきた。
悠斗は傘を持っていなかったが、走るほどの雨ではなかった。街灯に照らされた雨は、細い糸のようにきらきら光っている。
スマートフォンが震えた。
陽菜からだった。
『今日はありがとう。悠斗くんといると、やっぱり安心する』
続けて、もう一通。
『明日も笑って会おうね』
悠斗は立ち止まり、画面を見つめた。
それから、ゆっくり返信を打った。
『うん。明日も笑って会おう』
送信した後、悠斗はスマートフォンを胸ポケットにしまった。
雨は少しずつ強くなっていた。
けれど悠斗の心は、不思議なくらい穏やかだった。
幸せは、すぐ隣にあった。
手を伸ばせば触れられる距離に。
名前を呼べば振り返る場所に。
「また明日」と言える日常の中に。
悠斗はまだ知らない。
その幸せが、どれほど脆く、どれほど尊いものなのかを。
そして、明日という日が必ず来るとは限らないことを。
それでもこの夜の悠斗は、確かに幸せだった。
陽菜の笑顔を思い出しながら、雨の中を歩いた。
明日も、君が笑うなら。
それだけで、自分はきっと生きていける。
悠斗はそう思っていた。
第1話を読んでいただき、ありがとうございました。
何気ない会話や、当たり前の約束。
そんな日常の中にある幸せを、悠斗と陽菜の姿を通して描きました。
次回、第2話「結婚式まで、あと六十日」では、二人の結婚準備が進み、未来への期待がさらに膨らんでいきます。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




