第9話 門前に馬を繋ぐ
天文二十二年(1553年)、春。
美濃国、厚見郡、稲葉山城。
この朝わしが掛け替えた軸の下で、釜の湯が鳴り始めた。稲葉右京亮良通は差し出された茶碗を両手で受けた。
良通は一口含み、しばらく茶碗の縁を眺めてから言った。
「先日の茶より、湯が柔らかいように思われますが」
「水を替えた。城の井戸ではなく、麓の寺から汲ませたものだ。お主に分かるなら、運ばせた甲斐もある」
この座敷で湯の具合を確かめている間だけは、誰の訴えも待たずに済む。だが、良通が二服目を所望しかけた時、光秀が廊下に膝をつき、尾張からの使いを告げた。良通は心得たように茶碗を置き、席を退いた。
信秀の死後も帰蝶からの文は途切れず、わしは届くたびに返事を書いて、娘の文を白い石の隣に重ねてきた。その一方で、城下に伝わる婿の評判は、うつけというものばかりだった。
使いの口上が済むと、控えていた家臣の一人が、鼻で笑うように口を開いた。
「尾張のうつけ殿も、使いだけはまともに寄越されますな」
「お主は、三郎に会うたことがあるのか」
「いえ、尾張から戻った者が、そう申しておりましたので」
「その者が何を見てうつけと申したのか、聞いてこい。出所を確かめもせず、ただ笑う者の言葉では、わしも判断できぬ」
政秀は、婿は人の言葉より自分の目で確かめたものを信じる男だと言っていたが、その政秀も、もうこの世にはいない。娘を嫁がせた時には、わしは婿の顔さえ知らなかった。今度はこちらから出向き、自分の目で確かめよう。わしは尾張へ書状を送り、富田の聖徳寺で会いたいと伝えた。
* * *
四月下旬、わしは聖徳寺に近い町外れの小家を借り、格子窓の陰から街道を見下ろしていた。寺では、肩衣袴を着けた年長の家臣たちを縁に並ばせ、婿を迎えさせる。大勢の前へ通された時、どう振る舞うかも見ておきたかった。
近づいてくる行列の先頭に、若者が馬に乗っていた。髪は茶筅に結い、湯帷子の片袖を外して、腰には瓢箪をいくつもぶら下げている。
供の者は袖で口元を覆い、笑いをこらえて囁いた。
「あのお方が姫様の婿殿でございますか。腰の瓢箪がいくつあるのか、数えてみたくなりますな」
わしは答えず、窓越しに行列を見続けた。若者の後ろを長い朱槍を担いだ者たちが通り過ぎても、弓と鉄砲の列はまだ続いている。
油桶を担いで武家の門をくぐっていた頃から、わしは家々の備えを見てきた。あの長い槍で突き合えば、美濃の槍が届く前にこちらが叩かれるだろう。弓と鉄砲も揃っているが、それを携えた行列だけでは、戦でどれほど強いかまでは見定められぬ。
行列を見送って窓を離れると、わしは供の者に命じた。
「着物はもう見た。後ろに続く者どもが何を担いでいたかも、覚えておけ」
* * *
婿が寺の座敷に現れた時には、髪を折り曲げに結い直し、褐色の長袴に小刀を差していた。先ほど街道で見た若者とは見違える姿だ。だが、わしが屏風の陰から出ても、婿は縁の柱にもたれたまま動こうとしなかった。
堀田佐渡守道空は見かねて婿の前へ進み、膝をついた。
「こちらが山城守にございます」
「であるか」
短く応じた婿は、ようやく座敷へ入って作法どおりに礼をしたが、わしを前にしても縮こまる様子はなかった。湯漬けを食べ、盃を交わす間も、天下や軍学の話は出なかった。
わしは娘のことを口にした。
「帰蝶からは、変わらず文が届いておる」
「父上の返書が来るたびに、わしも見せられております。返事が遅れた時は、催促まで聞かされますので」
「娘に急かされるまで筆を取らぬのでは、父の面目も立たぬのでな」
婿は遠慮がちに笑うでもなく、そのまま盃を干した。帰蝶は、わしの文を夫にも見せている。それだけで夫婦仲までは分からぬが、わしの文は娘の文箱の奥にしまい込まれずに済んでいる。
わしが境の砦のことを話すと、婿は最後まで聞いてから、渡しはいくつあるか、道の幅はどれほどかと尋ねた。その問いは、城下で聞いたうつけの評判とは結びつかなかった。
婿が普段の姿で街道を来たのは、わしを驚かせるためか、ただ着替えが面倒だったのか。本人は語らず、訳は分からない。だが、あれだけの兵を率いて来たうえ、礼装に着替えて必要な礼も済ませた。作法を知らずに礼を欠いたとは思えなかった。
散会を告げたわしは、婿に付き添って途中まで送った。肩衣袴の家臣たちが居並ぶ間を通る時も、婿の足取りは来た時と変わらなかった。
* * *
帰り道、猪子兵助高就がわしの馬に並び、笑い交じりに言った。
「三郎殿は、やはりたわけにございましたな」
街道で見た朱槍の列が目の奥に残り、わしはすぐには答えられなかった。
「口惜しいが、いずれわしの子らが、あのたわけの門前に馬を繋ぐ日も来るやもしれぬ」
高就はそれきり口をつぐんだ。美濃を手に入れたばかりのわしには、倅たちがこの先どれほど働けるか、まだ分からない。婿が尾張の争いを越えてきた時、倅たちはどう向き合うのか。その不安が、口をついて出たのだった。
稲葉山へ戻ったわしに、小見の方が婿の様子を尋ねた。一通り話すと、文机へ目をやって言った。
「帰蝶には、何とお書きになりますか」
「会いに行ったわしの方が驚かされたと書けば、またあの子に笑われような」
そう言って筆を取り、自分の目で見てきた婿の様子を娘へ書き伝えた。かつては娘の文を返事もせずに残したわしが、今は伝える言葉を自分で選んでいる。書き終えた文を畳み、白い石の脇へ置いた。
* * *
翌天文二十三年正月、婿の使いが、今川方の村木の砦を攻める間、那古野の留守を守ってほしいと伝えてきた。清洲との争いはまだ続いている。婿は城を空ける危うさを承知で、その守りをわしに託そうとしていた。
婿が倒れ、尾張との和睦が崩れれば、美濃もその影響を免れぬ。娘婿を助ける以上の理由があった。わしは安藤日向守守就を呼び、千ほどの兵を預けた。
わしは守就に役目を言い渡した。
「日向守、那古野の留守を守れ。砦攻めには加わらず、向こうで見聞きしたことを日ごとに知らせよ」
* * *
正月末に美濃へ戻った守就は、広間に入ると、那古野で自ら見たことを報告した。
「三郎殿は、我らが着いたその日のうちに陣所へお越しになり、留守の配りを確かめてから出陣されました。お戻りの後も、直に留守を守った礼を述べていかれました」
守就は一度言葉を切り、口調を改めた。
「砦攻めについては、聞いた話にございます。三郎殿は船で荒れた海を渡り、二十四日に砦へ取り付かれたとのこと。鉄砲を絶え間なく撃たせて攻め、砦を降したそうですが、尾張方にも少なからぬ死傷が出たと聞いております」
わしは勝敗だけでなく、どの口から攻め、何を失ったのかも問い重ねた。聖徳寺へ向かう街道では、鉄砲が担がれていくのを見ただけだった。今は、その鉄砲が戦でどう働いたかを聞いている。
話を聞き終えたわしは、息をついて漏らした。
「凄まじい男だ。あれが隣におるとは、いやなものよ」
守就をねぎらって下がらせ、わしは帰蝶へ筆を執った。婿の様子を探るのではなく、まず娘が無事でいるかを尋ねた。そこまで書くと、茶を運んできた者にもう一服頼み、再び筆を取った。




