第3話 受け継いだ名
大永四年(1524年)、秋。
美濃国、厚見郡、長井屋敷。
油桶を担がずにくぐる門は、思っていたより広く見えた。夜が明けたばかりの庭で、五左衛門は使者らしい男に旅支度をさせていたが、私の顔を見るなり手招きした。
五左衛門は使者の背を顎で示し、私に向き直った。
「最初は、この者を護衛して、左京大夫様の御館まで送り届けよ。書状は使者が持つので、お前は道中を守ればよい」
「左京大夫様は、守護の修理大夫様の弟君と伺っております。殿は弟君の側に付いておられるのでしょうか」
「殿は左京大夫様に味方するだけでなく、守護の座に据えるおつもりだ。道中では、出会う侍が修理大夫様の配下かどうか、よく見て歩け」
道すがら、私は油を届けていた家々の門を幾つも横目に見ながら通り過ぎた。台所で世間話をしていても、その主が守護の土岐修理大夫頼武と、弟の左京大夫頼芸のどちらに付いているのか、一度も尋ねたことはない。客だった家が、今日からは敵になり得る。槍の重さより、そのことの方が肩に残った。
* * *
翌年の夏、長弘は頼芸を立てて頼武方へ兵を向け、私も槍を担いで隊の後ろに付いた。初めは頼武方の館が次々に門を閉ざしていたが、秋になって越前の朝倉と近江の六角が頼武方に加勢すると、こちらは持ちこたえられず、兵を引くことになった。
退く途中、五左衛門は戸板に載せた手負いの者と、その担ぎ手たち、それに槍を持つ数人を私に預けた。
「本隊は先に下るから、お前は手負いの者を山の向こうまで連れて行け。追手が来ても、戸板を置いて逃げるな」
五左衛門が本隊へ戻ると、私たちは別の道を下った。後ろから近づく追手の声を聞きながら、私は谷へ向かう道の細くなるところで足を止めた。
「戸板は先へ。ここは二人並べば塞がります。残る者は、槍を前へ」
護衛の中で一番年嵩の家人が、槍を構えたまま私の横へ並んだ。
「若いの、お前も残るのか」
「皆を預かったのは私です。全員が抜けるまで、ここで見ております」
追手は狭い道で詰まり、穂先を揃えた私たちの前で足を止めた。突き合いはごく短く、戸板を担ぐ者たちの足音が遠のいて聞こえなくなると、私たちも一人ずつ下がった。最後の一人が谷を抜けたのを見届けてから、私もようやく背を向けた。
長弘の前に出て報告する時も、手はまだ震えていた。
「手負いの者は皆、山を越えました。預かった者は一人も欠けず、ここにおります」
長弘は短く頷いただけだった。戸板に載った手負いの者と、槍を持つ数人は守れたが、戦には負けた。役目を果たしても、勝ったことにはならない。
冬の初めに長弘から呼ばれると、座敷の隅には、あの谷で私の隣に並んだ年嵩の家人が控えていた。長弘はその家人に一度目をやってから、私に告げた。
「西村の名跡が空いた。継ぐはずだった若いのが、本隊の殿で討たれてな。この者は西村の家人だが、お前に助けられて戻ったと申しておる」
年嵩の家人は畳に手をつき、私ではなく長弘に向かって頭を下げた。
「若殿はお戻りになりませなんだが、この年寄りは帰ってまいりました。西村の名跡まで、このまま絶やしたくはございませぬ」
長弘は私に向き直って続けた。
「西村の名跡を継げ。その家の扶持も屋敷も預けるから、家の者を抱えて引き続きわしのために働け」
その日から、私は西村勘九郎正利を名乗った。
山崎からお里を呼び寄せた日、お里は屋敷の台所を一回りし、竈の灰を掻いてから、いつものように飯をよそった。
「これからは、勘九郎様とお呼びすればよろしいのでしょうか」
「家ではこれまでどおりでよい。私もまだ呼ばれ慣れておらぬ」
* * *
長弘に連れられて頼芸の御前へ出たのは、それからしばらく後だった。退き口の話は伝わっていたが、頼芸は私の顔を一度見ただけで、すぐに長弘との話へ戻った。その後、護衛や使いの役を重ねるうちに、ようやく名で呼ばれるようになった。
大永七年の夏、かつて油を届けていた馴染みの家の主が、私を訪ねて屋敷へやって来た。用向きを聞くと、川手城の門を預かる侍が、酒の席で主家への不満を漏らしているという話だった。
噂だけを長弘に報告するわけにはいかず、私は得意先の座敷でその侍と会った。相手は盃に手を付けず、初めから私の顔を見つめている。
「門を開けた後、わしの家と知行はどうなる。それが分からねば、家の者も安心せぬ」
「私一人の言葉で約しても、あなたの家は守れませぬ。ですから、主の書付をお持ちします」
私は長弘へ報告した後、頼芸の花押を据えた安堵の書付を携えて、もう一度同じ座敷へ入った。書付を渡すと、侍は二度目を通し、花押に指を置いた。
侍はようやく盃を取り、口を開いた。
「長井様の名まで添えられては、わしも引けぬな。刻限はそちらで決めてくだされ」
* * *
八月、長弘は頼芸方の兵を動かした。私は少人数の兵を預けられ、先へ進んで門の内応を確かめ、入口を押さえる役目を任された。
夜更け、約した刻限に門が軋んで開いた。先に入った味方に守兵が気づき、声を上げた。内応だけでは済まず、門口で槍がぶつかり合った。
私は守兵の脇腹へ穂先を突き入れ、倒れた体を越えて味方を通した。引き戻す柄が重い。握り直した掌の皮が裂け、血が柄を濡らしていく。後ろから押し寄せる足音で、味方が詰まりかけているのが分かった。
私は後ろの味方に声を掛けた。
「門口で止まるな。中へ進め」
後続が入ると、戦は城の奥へ広がっていった。私は頼武を探しには行かず、入口を奪い返されぬよう門の内に残った。手柄を立てたい者は奥へ走ればいい。だが、門を失えば、奥へ入った者が戻れなくなる。
夜が明けると、長弘の使者が門まで来た。頼武は城を退き、越前へ向かったという。その報せで、私はようやくこの戦がどう転んだのかを知った。
その足で長弘の前へ出て、内応した侍との約束を記した書付を示した。長弘は目を通すと、懐に収めた。
「約したとおりに扱う。お前がそこまで言うのなら、守らねばわしの名も汚れる」
勝った途端に交渉した相手を切り捨てれば、次に門を開ける者はいなくなる。私が長弘に確かめたかったのは、それだけだった。
* * *
城の広間で、頼芸は長弘をねぎらってから、末席の私に目を向けた。
「勘九郎、門を開かせた働きは聞いておる。これからもわしのために働け」
頼芸の前に座る長弘は、私の方を振り返らず、黙って頭を下げていた。
屋敷へ戻ると、お里は私の手を見るなり、黙って湯と布を用意した。湯に沈めた掌は、まだ槍の柄を握っているように強張っている。私の名を呼んだ主君の声が耳に残り、掌には穂先を突き入れて引き抜いた時の重さが残っていた。
手を拭き終えると、私は竈の前のお里に声を掛けた。
「飯はもうできておるか」
「できています。食べる前に着物を替えてくださいな。血の匂いが台所まで来ます」




