第2話 油売りの門
永正十七年(1520年)、春。
山城国、乙訓郡、大山崎、奈良屋の店先。
家の戸を開け、私はそのまま物売りの声を追うように大山崎まで歩いた。通りには油の匂いが満ち、店先では一人の男が積み上げた桶の前で人足の頭数を数えていた。それが奈良屋の主、又兵衛だった。
雇ってほしいと頭を下げると、又兵衛は顎で桶を一つ示した。私はすぐには担がず、縄に手を掛けて重さを確かめ、肩に当てる位置を決めてから持ち上げた。桶の口に結ばれた荷札の字も読み取れた。
又兵衛は眉を上げて、私の手元の札を覗き込んだ。
「字が読めるのか。なら、その札に書かれた家へ届けてこい。空の器を持ち帰るまでが仕事だ」
日暮れまでに何軒か回って戻ると、又兵衛は銭を数えて渡してくれた。掌に載った銭は、一日分の飯がやっと買えるほどだった。家へ帰って膳の脇に置くと、父は銭に目をやっただけで、黙って箸を取った。
季節が幾つか過ぎるうちに、荷運びだけでなく油の量り売りも任されるようになった。戻ってきた器を一つずつ確かめ、受け取った銭を数えるのは、又兵衛の娘のお里の役目だった。
ある夕方、私は空になった桶を店先に下ろして、帳場のお里に声を掛けた。
「今日はよう売れました。持っていった分は一滴も残っておりませぬ」
「売り切れたのは結構ですけど、注ぐ時にこぼした分も勘定に入れてくださいな。それを差し引いて、ようやく今日の儲けです」
二人で器を並べ、こぼれた跡を拭いながら勘定し直すと、見込んでいた儲けはずいぶん減っていた。柄杓を持つ手が震えて油をこぼせば、それだけ銭を失う。
その年の暮れ、店を閉めると、又兵衛が火鉢の向こうから私を呼んだ。
「庄五郎、里をもらう気はあるか。店を継げとは言わんが、仕入れの縁と道具くらいは貸してやる」
返事をする前にお里の顔を見た。お里は帳面から目を上げずに口を開いた。
「私は、器の数を間違えない人なら構いません」
婚礼はささやかに済ませた。借りた油道具を使って二人で商いを始め、店を構えた土地の名を取って山崎屋と名乗った。
* * *
翌年からは、常在寺の南陽房を頼り、荷を担いで美濃へ通うようになった。久しぶりに会った南陽房は、私の髷と油桶を見比べてから、寺へ出入りする家の名を幾つか書き付けてくれた。
南陽房は私に言った。
「法蓮房殿……いえ、もう庄五郎殿でしたね。顔を繋ぐところまでは私がいたしますが、買うかどうかは向こうが決めることですよ」
その言葉どおり、最初の家では馴染みの油売りがいると戸口で断られた。私はすぐには帰らず、水を汲みに出てきた女中に、その油売りのことを尋ねてみた。来る日がまちまちで、油を注ぐ時には器の縁を汚していくらしい。
山崎へ戻るたび、私は夜の土間で柄杓から細く油を落とす稽古を重ねた。器も手も幾度となく汚し、帳場のお里の溜息が何度も背中に届いた。
「その油は売り物ですからね。こぼした分は、あなたの飯から引いておきます」
次に美濃へ入った時、私は前に断られた家の門前で、客の器の口に一文銭を置いて柄杓を構えた。
「この穴を通して注ぎます。外へこぼしましたら、代は頂きませぬ」
細い油の流れが銭の穴へ吸い込まれ、器の内側で小さく鳴る。売る量は先に枡で量ってあるので、芸を見せるために減らした分はない。気づけば門前に人が集まり、さっきの女中が別の器を抱えて出てきた。それからは、約束した日に必ず届けることだけを守り続けた。やがて山崎屋の名は、武家の屋敷の台所にまで届いた。
その頃、長井家に仕える矢野五左衛門の屋敷から声が掛かった。庭先で油を注いで見せると、五左衛門は器の口に置いた銭を拾い上げ、穴の縁を指でなぞった。
五左衛門は私に問い掛けた。
「油の一滴も縁に付いておらんな。ここまで手を鍛えて、油売りで終えるつもりか。その根気を、槍に使ってみる気はないか」
「私は商人でございます。槍など握ったこともございませぬ」
「握ったことがなかったのは、柄杓も同じであろう」
帰り道、私はその言葉を何度も口の中で転がした。暮らしは成り立っている。それでも、屋敷の門を出入りする侍たちの背中を見るたび、門の内側で自分がどこまで行けるのかを試したくなった。
山崎へ戻ると、お里は私の顔を見るなり、帳場の引き出しから届け先を記した控えを取り出した。
「何か言いたいのでしょう。言うのは構いませんけど、先にこの家々へ届ける分を済ませてからにしてください」
「武家に仕えてみたい。槍を習って、どこまで行けるか試したいのだ」
「なら、なおさらです。約束を残したまま来る人を、お武家様も使いたいとは思わないでしょう」
控えにある注文を一つずつ届け終え、仕入れの借りを又兵衛に返した。看板を下ろす日は私が決め、その後の暮らしは又兵衛を交えて三人で決めた。油道具を返す時、柄杓の重さを感じながら、自分で始めた商いを自分の欲のために手放すのだと実感した。
* * *
南陽房の取次で長井家へ願いを届け、矢野の口添えで稽古に加えてもらった。槍は柄杓とはまるで勝手が違う。長い柄の先は揺れ、相手に払われると穂先だけでなく足元まで崩れた。
初めは短い稽古用の柄で構えと足運びを覚え、慣れてから長柄へ移った。手の皮は幾度も剥けて厚くなり、足元の土も踏み固まっていった。その間の飯代は、山崎屋で貯めた銭から出した。
幾つ目かの秋、再び五左衛門と打ち合った時には、穂先を払われても踏み直して構えを保てるようになっていた。五左衛門は槍を引き、汗を拭いながら頷いた。
「倒れぬようになったな。これなら、門の内へ連れていける」
私は五左衛門に連れられて、長井藤左衛門尉長弘の前に座った。長弘は槍の話を手短に済ませ、すぐに別のことを尋ねてきた。
「油はどこの家へ届けていた。それと、字は読めるか」
「常在寺の門前の家々や、このお屋敷の台所にも、決まった日に届けておりました。荷札と帳面なら読めます」
「ならば明日からこちらへ来い。任せる仕事は、働きを見てから決める」
門を出ると、油桶を担いでいない肩が妙に軽かった。明日からは、この門を武士としてくぐる。私は肩に手をやり、宿へ向かって歩き出した。




