第九話 谷のふたつの岸
キルデナンの朝は、霜で白かった。
窪地の市場はまだ眠っていて、店台には薄い氷が張り、ゆうべ祝宴を焚いた酒樽が栓を抜かれたまま空になって転がっている。ニーヴは母の店の毛織りを二重に巻き、アネモネの背の荷を締め直した。荷驢馬が白い息を長く吐く。霜を踏む蹄の音が、いつもより硬く鳴った。
「発つのか」
天幕の下からしゃがれ声がした。タヴィシュである。こんな刻限から床几に腰かけて、片耳の後ろを揉んでいた。眠っていないのか、早く起きすぎたのか。この男の耳には寝るという刻限がないのかもしれなかった。
「発ちます。初雪の前に、峠を越えないと」
「越えて、戻ってくるまでが峠じゃ」タヴィシュは北の灰色の山を顎でしゃくった。「登りは道なりに行け。迷う道はない。一本きりじゃからな。……いかんのは、下りじゃ。峠の北側へ下りると、道が割れる。谷の川のまんなかへ下りる道を選べ。中洲じゃ。そこから西岸へ、橋が一本まだ架かっとる」
「まだ、というのは」
「東岸への橋は落ちとる」タヴィシュは声を落とした。「西の若い衆が落とした。……この秋の話じゃ」
ニーヴは頷いた。落ちた橋のことは、この男から昨日聞いている。西の若い衆が東の橋を落とし、東の若い衆が西の羊小屋を焼いた。長らく血を見なかった谷が、この秋、いっぺんに火を噴いた。
「アネモネは、連れていいですか。峠を」ニーヴは相棒の首を撫でた。
「峠までは、いい。谷へは入れるな」タヴィシュは、ぴしゃりと言った。「四つ足を血讐の谷へ引き入れりゃ、真っ先に石が飛ぶ。……峠のふもとに牧夫の小屋がある。そこへ預けて、身一つで下りろ。谷は、四つ足の入る場所じゃない」
人の入る場所でも、ないのだろう。だが、それは口にしなかった。
タヴィシュは床几の上で座り直した。それから片耳から手を離して、めずらしくまっすぐにニーヴを見た。
「嬢ちゃん。谷で、耳をな……」
「呑まれるな、でしょう」ニーヴは笑った。「昨日、聞きました」
「……ふん。覚えのいい小娘じゃ」タヴィシュは鼻を鳴らして、また耳を揉みはじめた。「もう一つ、覚えとけ。谷の者は余所者に石を投げる。じゃが、その負い籠を担いだ者にだけは、昔は投げなんだ。……昔は、な」
昔は。その一言を、ニーヴは毛織りの襟の内へしまい込んで、峠道へ足を向けた。
*
峠は、二日がかりだった。
登るほどに木立が痩せ、やがて石と苔ばかりになった。空が近い。風が薄く、鋭く、耳の奥をきりきりと刺した。道は一本きりで、タヴィシュの言うとおり迷いはしなかった。だが迷わない道ほど、長く感じるものだった。ニーヴは足を選び、息を選び、アネモネの歩幅に合わせてゆっくり登った。急ぐな、と自分に言い聞かせた。ここで足を挫いても、引き返しはしない。谷へ着くのが遅れ、峠を戻るのが遅れる。初雪に追いつかれれば、春まで出られない。
一日目の晩は、岩陰に火を焚いた。焚いても背中は凍えた。毛織りにくるまって膝を抱え、アネモネの腹の温みを借りて、ニーヴは浅く眠った。夜の峠は、風ばかりが喋った。低い、口笛のような音。それが夜どおし山の肩を撫でていった。師匠の声が耳の奥で鳴った。風の音が変わったら、峠を戻れ。――まだ変わってはいない。まだ、ただの風だ。
二日目の昼過ぎ、峠の頂に立った。
北へ、視界がひらけた。
灰色の山が幾重にも重なり、その懐に細長い谷が一つ、深く切れ込んでいた。谷の底を、川が銀の糸のように貫いている。川の両側の斜面に、石の家々が段々に張りついていた。東の岸に一群れ。西の岸に一群れ。同じ谷の同じ川を挟んで、まるで背を向け合う双子のようだった。
グレン・ファーラだった。
ニーヴは目を細めて谷を見下ろした。西岸の斜面に、黒く焦げた一画がある。石囲いだけを残して、屋根が崩れ落ちている。焼けた羊小屋だった。川に目を移すと、谷のなかほど、川の細くなるあたりに、橋が一本、途中でぷつりと切れていた。落とされた橋である。半ばまで架かって、残りが川へ崩れ落ち、水に洗われていた。
そして、その落ちた橋の下手。川が二手に分かれて抱く、小さな中洲があった。
中洲には、石を積んだ小さな建物が一つ。屋根は苔むし、傾いで、ずいぶん長く人の手が入っていないと知れた。それでも、両岸のどちらの家よりも古い顔をしていた。
ニーヴの耳の奥が、ふと鳴った気がした。
ざわ、と。
風のいたずらだろうと思った。峠の風は、いろんな音を運んでくる。ニーヴは襟を掻き合わせ、峠を下りはじめた。
*
峠のふもとの牧夫の小屋で、アネモネを預けた。
牧夫は無口な老爺で、銅貨を確かめると、藁を一抱え、黙って驢馬の前へ積んでやった。アネモネはさして名残も惜しまず、藁へ鼻づらを突っ込んだ。相変わらず薄情な相棒である。
「あんた、留守番のたびに太って帰るね」
驢馬の耳が、ぴくりと動いた。歌の気配を警戒したのだろう。ニーヴは歌わなかった。歌う気には、なれなかった。
身一つで、谷へ下りた。
道はタヴィシュの言うとおり、川のまんなかへ向かって下りていた。斜面の草は霜げて枯れ、家畜の姿はどこにもない。羊の一頭も、鶏の一羽もいない谷というのは、ひどく静かだった。静かすぎて、耳が勝手にあの音を探しはじめる。
中洲へ渡る飛び石に足をかけた、そのときだった。
石が、飛んできた。
ニーヴの頬のすぐ横を、握りこぶしほどの石が唸って過ぎ、川面で跳ねた。二つ目が負い籠の縁を叩いた。ニーヴは反射で身をかがめ、負い籠を胸にかばった。
「余所者だ!」
東岸の斜面から、若い男の声が降ってきた。三人、四人。手に石を握って、川べりまで駆け下りてくる。
「西の、回し者か! この谷に、何しに来た」
「違います!」ニーヴは身を起こして負い籠を高く掲げた。「声継ぎです! クロスケリーの組合の――」
三つ目の石が、掲げた腕をかすめた。声継ぎのしるしは、興奮した若い衆の目には届かなかった。昔は投げなんだ、とタヴィシュは言った。昔は。いまは、負い籠が何を意味するかさえ、この谷では忘れられかけているのかもしれなかった。
ニーヴは頭のなかで算盤を弾いた。逃げれば、追われる。逃げ場は峠しかなく、峠を登り返す背中は、格好の的だ。かがんでいても、いずれ当たる。――なら、進むしかない。的は、動かないより、まっすぐ近づくほうが狙いにくい。
ニーヴは負い籠を胸に抱え、中洲へ、飛び石を渡りだした。
「来るな!」
「止まれ!」
止まらなかった。四つ目の石が肩に当たった。痛かった。だが止まらなかった。中洲の草を踏んで、あの傾いだ古い建物のそばまで来たとき――
「やめよ」
声が、若い衆を止めた。
張り上げた声ではなかった。低い、けれど、谷の斜面をまっすぐ伝って若い衆の手を止めるだけの、重みのある声だった。
東岸の飛び石を、一人、渡ってくる。
若い女だった。歳のころはニーヴと、そう変わらない。二十を二つ三つ越えたくらいか。革の胴着に、腰へ短い刃物を差し、髪を後ろできつく結わえている。背は高くない。だが、背筋の伸びかたと飛び石を渡る足の運びに、若い衆の誰よりも据わったものがあった。
女は中洲へ上がると、石を握ったままの若い衆を、目だけで斜面へ退かせた。それからニーヴの前に立った。
「余所者」女は言った。「名を、名乗れ」
「ニーヴ・オケリガン。クロスケリーの、組合の声継ぎです」
「声継ぎ」女の眉が、わずかに動いた。「……その負い籠がまことに声継ぎのものであるなら、なぜ西から下りてきた。西岸は、我らの敵である」
「西から来たんじゃありません。峠から来ました。峠を下りる道が、この中洲へ出るだけです」ニーヴは肩をさすった。石の当たったところが、じんと熱い。「……で、いきなり、これですか。声継ぎに石を投げる谷なんて、初めてです」
女は、若い衆をもう一度、目で叱った。それからニーヴへ向き直った。
「わたしはエイフェ。エイフェ・ニ・ファーラ。東岸の当主カハルに代わって、谷のこちら岸を預かる者である」当主に代わって、とエイフェは言った。「声継ぎ殿。あなたは、この谷に何の用で来た」
ニーヴはまっすぐにエイフェを見返した。
用を言えば、この気の張った女がどんな顔をするか。だいたいの見当はついた。ついたが、隠せる用でもなかった。
「西岸のロアグさまという氏族長から、依頼を受けました」ニーヴは言った。「声を一つ封じて、届けてほしいと。……宛て先は、東岸の当主カハルさま。あなたが預かっている岸の、当主です」
*
エイフェの顔から、表情がすっと引いた。
石を握った若い衆が、斜面でざわめいた。西の長が、うちの当主に、声を――その意味を、若い衆もたちどころに嗅ぎ取った。谷に石を投げ合う敵の長が、いまわの際に、こちらの長へ言い残す。それが呪いか、詫びか、罠か。この谷では、どれもありうる話なのだった。
「……西の長ロアグが」エイフェは低く言った。「我らの当主に、声を。何のためだ」
「あたしは、聞いていません」ニーヴは首を振った。「掟でね、届ける前に器は開けないんです。だから中身は知らない。……まだ封じてもいないんですけど」
「封じても、いない」
「これから西岸へ行って、ロアグさまに会って、封じます。……あなたに止められなければ」
エイフェは、長いことニーヴを見た。品定めするというより、量りかねているという目だった。中洲に、川音だけが低く流れた。谷の風が、傾いだ古い建物の苔を撫でて、乾いた音を立てた。
その音に紛れて、ニーヴの耳の奥が、また鳴った。
ざわ、と。
こんどは、風のいたずらではなかった。
ニーヴは、傾いだ石の建物を見た。近い。すぐそこにある。あの、遠い、大勢の、ひそやかなざわめきが、その建物の奥からしみ出すように聞こえていた。
――無窓の間の、棚と、同じだ。
背筋が冷たくなった。クロスケリーの組合本部の、北の壁の、窓のない部屋。届けられなかった声の眠る棚。あの棚の奥で聞くのと寸分たがわぬざわめきが、この、幾日もの道を隔てた高地の谷の、川のまんなかの、苔むした古い建物から聞こえていた。
「……これは」ニーヴは思わず口にした。「これ、なんですか?」
エイフェが、ニーヴの視線の先を追った。追って、少し意外そうな顔をした。
「祠である」エイフェは言った。「声の祠、と、我らは呼ぶ。……そなた、なぜそちらを見た」
「音が」ニーヴは正直に言った。「……する、ような気がして」
エイフェの目が、ほんの一瞬、揺れた。
「聞こえるのか。そなたにも」
そなたにも。その一言に、ニーヴは顔を上げた。
「……あなたにも、聞こえるんですか?」
エイフェは、答えなかった。かわりに、傾いだ祠のほうへ二歩、歩み寄った。それから荒れた谷の風のなかで、ぽつり、と言った。
「幼いころ、古老が言うた。この祠には、谷の誓いの器が祀られておる、と」
「谷の、誓い」
「東と西の、和平の誓いよ」エイフェは東岸と西岸の斜面を、順に見やった。「この谷の和平は、声で結ばれておった。祖父の祖父の、そのまた前の代に。……古老は、そう伝えた。氏族の長どうしが、たがいを聞き手と定めて和平を誓うた。その誓いの声を器に封じて、この祠へ納めた。声のある限り、谷に血は流れぬ、と」
声で結ばれた和平。ニーヴは、その言葉を耳のなかで二度、繰り返した。声を封じて、器に納めて、それで谷の血が止まる。妙な話だった。妙な話だが――なぜだか、まるきり作り話とも思えなかった。声継ぎの稼業には、訳の分からぬまま守られている決まりが、いくつもある。継ぎ聞き。器を替えても座る封じ。捨てられぬ棚。この谷の話も、その一つのように、ニーヴの胸に落ちてきた。
「その誓いが、いまもあるんですか。祠に」ニーヴは訊いた。
「あるはずである」エイフェの声が、そこで初めて、少しだけ揺らいだ。「あるはずなのに……切れた、と、古い者は言う。何かが切れたのだ、と。……何が切れたのかは、誰も知らぬ」
切れた。
中洲の草の上に、沈黙が落ちた。どちらも、それを拾わなかった。
「わたしは、まだ二十二である」エイフェは祠を見つめたまま言った。「祖父の代の恨みも、そのまた祖父の代の誓いも、書物で読んだわけではない。この谷には、文字がない。文字は、南の道具だ。……我らの持つものは、古老の口から口へ伝わった、切れ切れの言い伝えだけだ。その言い伝えが、この秋、突然に血を噴いた。羊小屋が焼け、橋が落ちた。……なぜ、いまさら、と、谷じゅうが問うている。誰も、答えを持たぬ」
ニーヴは、祠を見た。ざわめきは、まだしみ出していた。
届けられなかった声の棚と、切れた誓いの祠が、同じ音で鳴いている。棚には、宛先に届かなかった声がある。ならば、この祠にも――聞かれずに待っている声が、あるのだろうか。切れた、というのは、その声が……。
考えかけて、ニーヴは止めた。答えは出ない。棚の奥の器が、開けもせぬのに軽くなっていた、あの夜のことがふとよぎった。あれと、これと、何かが遠くで繋がっている気がした。気がしただけで、その糸の先は、いつものように掴めなかった。
「エイフェさん。一つ、訊いていいですか。……このごろ谷で、絶えた家はありますか。人の、いなくなった家系が」
なぜそんなことを訊いたのか、ニーヴ自身、うまく言えなかった。切れた誓い、という言葉が、絶えた、という響きと、頭のどこかで重なっただけだった。帳場育ちの算盤は、時々こういう見当違いの目を弾く。たいていは外れる。だが、たまに当たる。
エイフェの、祠を見る目が止まった。
「……なぜ、それを訊く」
「なんとなく、です」
エイフェは、少しのあいだ黙った。それから遠くを見る目で言った。
「モルナ、という家が、あった」
中洲の川音が、その名を一度、洗った。
「西岸の、分家筋の家だ」エイフェは言った。「もう、ない。二十年前に絶えた。跡取りの生まれぬまま、最後の一人が死んだ」エイフェの声が、そこでわずかに沈んだ。「……その家は、婚姻でわたしの家と結ばれるはずであった。東と西を繋ぐ縁として。だが、その縁が結ばれる前に、モルナは絶えた。……ちょうど、谷が荒れはじめた頃だ」
ちょうど、そのころ。
エイフェは、それ以上言わなかった。二十年前に絶えた家と、荒れはじめた谷とを、並べて置いただけだった。因果は口にしなかった。たぶん、口にできなかったのだ。二つのあいだに橋を架ける言葉を、この谷の誰も、まだ持っていない。落ちた橋のように。
ニーヴも、並べられた二つを、そのまま胸に置いた。届けで聞いた声とおなじに、いまは置くよりほかに、しようがなかった。
*
日が西の山の肩に傾くころ、エイフェはニーヴを西岸へ通すと決めた。
「西橋は、まだ架かっておる」エイフェは、中洲から西岸へ渡る古い石橋を顎でしゃくった。「そこを渡れ。西岸の見張りには、わたしから、声継ぎが渡ると伝える。……声継ぎ殿。これは、貸しではない」
「じゃあ、なんですか?」
「見届けたいのだ」エイフェはまっすぐに言った。「西の長が、我らの当主に何を言い残すのか。……それを聞くのは、たぶん我らの谷にとって、石を投げ合うよりも恐ろしいことだ。だが、聞かねばならぬ気がする」
誇り高い声だった。だが、その誇りの底に、ニーヴは別のものを聞いた。ノーラの啖呵の底に案じる糸が縫い取られていたように。エイフェの断定の底には、細い、細い、心細さの糸が、一本通っていた。谷を背負う二十二の背中の、その重みを、この女は誰にも見せずに立っている。
橋のたもとまで来たとき、エイフェが足を止めた。
宵闇が、谷を満たしはじめていた。東岸の斜面に、ぽつ、ぽつと見張りの火が入る。西岸の斜面にも、同じように。同じ谷の同じ闇に、背を向け合う二群れの火。
「声継ぎ殿」エイフェは、その火を見ながら低く言った。「……わたしは、正しいのだろうか」
ニーヴは、エイフェを見た。
「谷じゅうが、わたしの決める一言で動く。若い衆に石を持たせるのも、退かせるのも、わたしだ。……重い、とは言えぬ。言えば、若さを侮られる。当主代行が弱音を吐けば、東岸が崩れる。だから、言わぬ。誰にも」
言わぬ、と言いながら、この女はいま言った。声継ぎに。明日には峠を越えて去っていく、行きずりの余所者に。掟の三条を守ると知っている相手にだけ、人は時々、蓋を開ける。届けで聞いた声を、声継ぎは他言しない。それは、器のなかの声だけの話ではないのだと、ニーヴはこのごろ、少しずつ知りはじめていた。
「エイフェさん。あたし、正しいかどうかは分かりません。あたしは、届けるだけの人だから」
「……そうか」
「でも、一つだけ」ニーヴは、宵闇の中洲の、傾いだ祠のほうを振り返った。「あなた、さっき、聞こえるって言いかけた。祠の音が。……あの音が聞こえる耳は、あたしの知る限り、なんでも聞き流せる耳じゃないんです。よく聞こえる耳は、しんどい。でも、たぶんいる。この谷には、いま、よく聞こえる人が」
エイフェは、答えなかった。ただ、暗くなりゆく祠のほうを、長いこと見ていた。
ニーヴは、西橋を渡った。橋の下で、川が暗く、低く鳴っていた。
*
西岸のロアグの館は、斜面のいちばん上、焼けた羊小屋の見下ろせる石造りの家だった。
西岸の見張りは、エイフェの言伝てが先に届いていたらしく、ニーヴを咎めなかった。咎めなかったが、余所者を見る目は、東岸のそれと寸分たがわなかった。同じ谷の、同じ疑り深さだった。背を向け合っていても、この二群れはよく似た双子なのだった。
奥の間の炉端に、老人が寝かされていた。
ロアグだった。西岸の氏族長。骨に薄い皮を張ったような人で、それでも負い籠を見た目だけは、まだ強かった。フィンタンを、ニーヴは思い出した。ダンロッホの谷奥の、あの寝床を。死の床の目というのは、土地が変わっても、どこか似ている。
「……来てくれたか。声継ぎさん」ロアグの喉が、ひゅう、と鳴った。「クロスケリーから、峠を越えて。……遠かったろう」
「遠かったです」ニーヴは正直に言った。「石も、飛んできました」
「……そうか。すまんな」老人は天井を見た。「昔は投げなんだ。声継ぎには。……昔は」
また、昔は、だった。この谷では、その一言が、風の音のように、あちこちで鳴っていた。
ロアグは、しばらく荒い息をしていた。それから、痩せた手を炉の火のほうへ、わずかに動かした。
「声を、封じてほしい」老人は言った。「宛て名は、カハル。東の長じゃ。……わしの、いくさ相手よ」
「東の当主の」
「若い時分は、友じゃった」ロアグは目を閉じた。「谷いちばんの、友じゃった。……いつから、こうなったか。もう覚えとらん。羊のことか、女子のことか、境の石か。……たいしたことでは、なかったはずじゃ。たいしたことでは。じゃが、こじれた縄は、どこがこじれの初めか、ほどく段になると、もう分からん」
二十年黙った兄弟の話を、ニーヴは思い出した。歯車が二十年ぶりに噛み合う音を。だが、その中身は口にしなかった。この老人の、こじれの初めも、ほどきかたも、器のなかの声がカハルの耳へ告げるのだ。あたしが量ることではない。
「わしは、もう峠を越えられん」ロアグは言った。「谷から、出られん。あの男に、会いに行くこともできん。じゃが、声なら届く。……声継ぎさん。あんたが届けてくれるか。あの、落ちた橋の、向こう岸まで」
「届けます」ニーヴは頷いた。「それが、あたしの仕事です」
ロアグの、閉じた目尻が、かすかに緩んだ。
ニーヴは座を設えにかかった。炉端に敷物を広げ、負い籠から空の器を取り出した。組合の窯で焼いた、掌ほどの素焼きの器である。ロアグはそれを、痩せた両手でそっと捧げ持とうとした。
だが、手が震えた。器の重みも支えられぬほど、その手は細かった。
「……ロアグさま」ニーヴは静かに言った。「今夜は、休んでください」
「いや……いま封じる。いま語らねば、わしは……」
「いま語ったら、いい声にはなりません」ニーヴは、老人の震える手を両手でそっと支えた。「あたし、これまで、死の床の声を幾つか運びました。……力の尽きかけた声は、届いても、聞く人が辛い。あなたは、いい声をあの人に届けたいでしょう。若いころの、友だった人に」
ロアグは、ニーヴを見た。
「今夜、休んで。力を、少しでも蓄えて。……明日の朝、いちばん元気なときに封じましょう。あたしは、逃げません。ここにいますから」
老人は、長いことニーヴの顔を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……明日の、朝じゃな」
「明日の、朝です」ニーヴは微笑んだ。「約束します」
器を、敷物の脇にそっと置いた。座は整った。あとは明日の朝、ロアグが力を取り戻すのを待って、口上を唱え、老人が語るだけ――そのはずだった。
ニーヴは、炉端の隅を借りて横になった。長い一日だった。峠を越え、石を浴び、谷の、切れた誓いの話を聞いた。目を閉じると、あの傾いだ祠のざわめきが、耳の奥でまだ、かすかに鳴っていた。棚と、同じ音。切れた、誓い。絶えた、家。軽くなる、器。――答えの出ない問いばかりが並ぶ、あの胸の棚が、この谷でまた一段、混んでいく。
考えるな、と自分に言った。いまは、明日の朝の、一つの声のことだけ考えればいい。
ニーヴは、眠りに落ちた。
*
どれほど経ってからか。
肩を、揺すられた。
「声継ぎさん。声継ぎさんっ」
目を開けると、炉の火がずいぶん低くなっていた。夜の、深い刻限だった。ニーヴを揺り起こしたのは、西岸の若い衆の一人だった。顔が蒼白だった。
「ロアグさまが……容体が、急に」
ニーヴは、跳ね起きた。
炉端の寝床で、ロアグの息が変わっていた。宵に聞いた、ひゅう、という掠れた息が、いまは間遠に、途切れがちになっていた。老人の顔から、宵の強かった目の光が薄れかけている。明日の朝まで、とても――という思いが、ニーヴの背筋を氷の水のように伝った。
約束した。明日の朝、と。いちばん元気なときに、と。あたしが、延ばした。
「ロアグさま! あたしです、声継ぎです。……いま封じます。いま、すぐ」
老人の、閉じかけた目がかすかに動いた。まだ、聞こえている。まだ間に合う――間に合わせる。ニーヴは、敷物の脇の空の器を掴んだ。掴んだ手が、震えていた。落とすな。師匠の声が耳の奥で鳴った。落とすな。この器は、割れたら語り直せない。語り手が、もういないからだ。――いや、まだいる。まだここに、息がある。
その、ときだった。
石造りの家の、小さな窓の外が白んだ気がした。
ニーヴは、器を握ったまま窓のほうを見た。夜明けには、まだ遠い。なのに、外が明るい。ちがう。明るいのではない。――白い。
窓の外に、白いものが舞っていた。
ひとひら、ふたひら。それから、数えきれなく。
初雪だった。
夏のあいだ谷ごとに違う歌を歌い、秋になってどの谷でも同じ口笛を吹いていた風が――いま、その口笛より、もう一段低い音を、峠のほうから運んできていた。師匠の声が耳の奥で鳴った。風の音が変わったら、峠を戻れ。
変わった。いま、変わった。
初雪までに峠を戻れねば、春まで出られん。タヴィシュの声が重なった。
炉端で、ロアグの息が間遠になる。窓の外で、雪が峠を閉じにかかる。掌のなかで、空の器が、明日の朝を待たずに、いま、声を求めていた。
間に合うか、ではない。
何もかもが、いっぺんに来た。




