第八話 耳を病んだ男
夏の末に島から本土へ渡り、ロスマリーから川沿いを三日のぼって、ニーヴがクロスケリーの坂を登り着いたころには、丘はもう秋の色に傾ぎはじめていた。
石壁の際の草が黄ばみ、風に土の匂いより枯れ葉の匂いが勝つ。夏のあいだ谷ごとに違った歌を歌っていた風は、このごろどの谷でも同じ、低い口笛のような音を吹くようになった。
組合本部の炉の間で、師匠は待っていた。
ニーヴが島の首尾を告げ、勘定を帳場へ納めると、オシーン・マクブライは茶を一口飲んで、それから膝の前へ、封じ済みの器をひとつ、そっと押して寄越した。
「よそから回ってきた。……高地の入口、キルデナンだ」
「高地」
島から帰るなり高地とは、我ながら忙しい稼業である。ニーヴは器を両手で受け取った。奥で、声が座っている。
「市場の女将への、祝いの声だ。遠くへ嫁いだ妹から」オシーンは炉の火を見ていた。「……これは、ついでにする用だ」
「ついで、ですか」
「肝心の用は、その先だ」師匠は器の代わりに、木札を一枚、膝の前へ置いた。組合の刻みを結んだ、島で受け取ったのと同じ木札である。「峠の、向こう。急ぎの一件。……詳しくは、キルデナンで聞け。向こうから使いが下りてきておる」
ニーヴは木札の結い目を指で追った。読める。文字は読めないが、この刻みなら読める。――高地。峠向こう。配達、一件。急ぎ。それだけだった。中身は、この木札にも刻まれていない。
「急ぎなのに、中身は向こうで、ですか」
「峠の向こうの用を、坂の下から刻めるものか」オシーンは茶碗を膝へ引き寄せた。「行けば分かる。……キルデナンまで、四日だ」
四日。ダンロッホの半日、ブラーニヴの二日、ロスマリーの三日。独り立ちの春から、道はひと月ごとに延びていく。四日の道は、ニーヴにはまだ、いちばん遠い道だった。
帳場の隅で、弟弟子のコルムが、待ちかねたように立ち上がった。両手に、羊皮紙――ではなく、なぜか厚手の毛織りの布を、丸めて抱えている。
「姉さん。高地の心得です」
「また四枚読み上げるの」
「今日は読み上げません」コルムは布をずいと突き出した。「これを、持っていってください。ブリジッドさんのお店から借りてきました。高地は、丘とは寒さが違うんですって。峠は、もう朝は霜が下りてます。……凍えたら、口上どころじゃない。声継ぎが凍えて舌が回らなかったら、封じも開けも成りません」
石橋を叩く男は、渡る橋の寒さまで先に測る。ニーヴは笑って、毛織りを受け取った。ずしりと重い。この重さのぶん、コルムが心配したということである。
「ありがと。あんたがいれば組合は凍えないよ」
「姉さんが凍えないでください」コルムは眉を八の字にした。「それと……初雪です。高地の初雪は、丘より早い。峠が雪で閉じると、春まで開かないって、師匠が。……早く行って、早く帰ってきてくださいね」
早く行って、早く帰る。段取り男の心配は、いつも一等まっとうである。
発つ前、オシーンが茶をよこした。自分の茶碗より先に、ニーヴの膝の前へ、湯気の立つやつを黙って押して寄越す。それから、いつもの言葉ではなく、こう言った。
「……雪の音を、聞いておけ」
「雪の、音」
「高地の者は、初雪の前に、風の音が変わると言う。変わったら、峠を戻れ。……それだけだ」
落とすな、ではなかった。落とすな、を三度言われた稼業だから、四度目を半ば身構えていた。師匠の送りの言葉は、その日の荷にあわせて変わる。今日の荷は、器の重さより、空の色を案じる荷だった。
*
クロスケリーから北へ、丘を縫って四日。
道はアヴォンリーの湖のほとりをかすめて、それからいよいよ丘が高くなった。石壁の畑が尽き、羊の丘が尽き、木立が低くまばらになる。空が近い。風が痩せて、鋭い。ニーヴは母の店の毛織りを肩に巻きつけて、荷驢馬のアネモネと歩いた。
「アネモネ。だんだん、坂の町が恋しくなってきたね」
アネモネは答えない。答えないが、蹄の音だけは、たかたかと律儀に鳴らしてついてくる。高地の痩せた草でも、この相棒は文句を言わずに食んだ。上等の相棒である。
四日目の昼過ぎ、木立の切れ目から、ニーヴは高地の入口を見下ろした。
キルデナンである。
丘のあいだの窪地に、灰色の石屋根が身を寄せ合っていた。町のまんなかに、屋根のない広場が一つ。人と、荷と、羊と、牛と、鶏が、いっしょくたに湯気を立てている。市場だった。丘の民が丘のものを持ち寄って、丘のものと取り替える。声より先に、その賑わいが窪地から立ちのぼって、ニーヴの立つ丘の背まで届いた。
そして、その市場のさらに北。
窪地の向こうの空に、灰色の壁のような山がそびえて、雲を腹に巻いていた。あの山を越える一本道が、峠だった。ベン・モーラ峠。あの雲のどれかが、初雪を孕んでいる。
ニーヴは、毛織りの襟を掻き合わせて、坂を下りた。
*
市場の女将は、香草と塩漬け肉を並べた店の主で、名をマレードといった。
ニーヴが負い籠を下ろして名を告げると、四十がらみの、赤ら顔の大柄な女は、肉切り包丁を持ったまま固まった。
「妹? ソルハから? ……ソルハに、なんぞ」
「祝いの声です」ニーヴは急いで言った。負い籠を見た人が、まず弔いを案じるのは、どこの土地でも同じである。「弔いじゃありません。……ソルハさんから、お姉さんへ。祝いの」
「祝い」マレードの赤ら顔が、ぱっと明るくなった。明るくなった声が、市場の広さにものを言わせて、いきなり跳ね上がった。「祝いだと! おうい、みんな! うちのソルハが、なんぞ祝いを送ってきたよ!」
「あ――ちょ、女将さん、まだ中身は」
遅かった。
市場という市場が、その一言で沸いた。塩漬け肉の隣の香草売りが手を打ち、その隣の卵売りが跳ね、向かいの酒売りが樽の栓に手をかけた。誰も、まだ何の祝いか知らない。知らないのに、もう祝う支度をしている。丘の民は、祝いの気配を嗅ぎつけるのが、猟犬より速いらしかった。
「待って、待ってください!」ニーヴは負い籠を抱えて広場のまんなかで叫んだ。「開けてないんです! まだ何も、開けてないんですってば!」
「なあに、開けりゃ祝いなんだろ!」
「開けてから祝うのが、順ってもんでしょうが!」
ニーヴは思わず、母の店の口を借りたような早口で言い返してしまった。頭の中で算盤が、めずらしく祝いのほうへ倒れかけるのを、ぐっと引き戻す。まず、女将に聞かせるのが一つ。祝うのは、それからが二つ。順を守らねば、この声は届いたことにならない――聞く気のない耳の前で紐を解いても、届いたことにはならない。師匠に、口を酸っぱくして仕込まれた稼業の骨である。
「マレードさん。座を組ませてください。あなたが先に、ちゃんと聞くの。市場じゅうが祝うのは、そのあとです」
マレードは、はっとした。それから肉切り包丁を店台に置いて、前掛けで手を拭き、急に神妙な顔になって、店の奥の小上がりに膝を揃えた。膝の揃え方ひとつで、この賑やかな女が、妹の声を軽く扱う気は毛頭ないのだと知れた。
ニーヴは敷物を広げ、器を捧げ、解きの口上を唱えた。
「語り手はソルハ、マレードの妹。宛て名はマレード、ソルハの姉。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
市場が、ぴたりと静まった。祝う支度をしていた手が、いっせいに止まる。丘の民は、祝いを嗅ぎつけるのも速いが、座の作法を知らぬわけでもなかった。
刻み紐が、ほどけた。
――姉さん。ソルハだよ。……ゆうべ、女の子を産んだ。母子とも、達者だよ。
マレードの喉が、ぐ、と鳴った。
――それでな、姉さん。名前を、あんたのをもろうた。マレードって。……怒らんといておくれ。丘じゅうで、いっとう達者に長生きしそうな女の名前が、あんたじゃったから。
マレードの赤ら顔が、くしゃりと歪んだ。
――こっちは遠いで、当分は会いに行けん。じゃから、声を送る。……この子が口をきくころには、いっとう先に、伯母さんの話をしてやるよ。丘いちばん口やかましくて、丘いちばん面倒見のいい、市場の女将の話をな。……姉さん。達者での。
声は、それだけを言い残して、言い足すことを探すように、ひと呼吸だけ器のなかにとどまった。それから、市場の湯気が高い空へ吸われていくように、するりと薄れて、消えた。
あとには、遠くで牛が鳴く声と、栓を抜きかけた酒樽が、こぽ、と鳴った音だけが残った。
マレードは、しばらく動かなかった。
それから、大きな肩を一度、波打たせた。
「……あの、ばか妹」赤ら顔で、洟をすすった。「あたしの名なんぞ、なんで。もっとかわいらしいのを、いくらでも……」言いかけて、こらえきれずに笑った。涙をためた赤ら顔が、そのまま、くしゃくしゃに崩れて笑った。「……マレードって。もう一人、丘に増えるのかい。口やかましいのが」
「面倒見のいいのが、でしょ」ニーヴが言うと、マレードは声を上げて泣き笑いした。
役目を終えた器が、ニーヴの掌の上で、ただの素焼きに戻っていた。心なしか、軽い。
そして、その軽さを見計らったように――市場が、堰を切った。
「マレードだ! 小さいマレードの誕生だ!」
酒樽の栓が、ついに抜けた。香草売りが花輪の代わりに香草の束を宙へ放り、卵売りが「祝いだ、うちの卵を茹でるぞ」と鍋を掛け、羊飼いが羊を一頭、なぜか広場の真ん中へ引き出してきた。誰も小さいマレードの顔を見たことがない。母親のソルハすら、この市場のほとんどは知らない。それでも祝う。丘の入口は、祝う口実に飢えている。
ニーヴは負い籠を抱えたまま、渦の外れで目を白黒させた。届けたら退く、が稼業の作法である。だが、この渦は退かせてくれそうになかった。誰かがニーヴの手に茹で卵を握らせ、誰かが背を叩き、誰かが「声継ぎさんも一杯」と椀を突き出した。
*
「やかましいっ」
広場の北の隅、酒樽の並ぶ天幕の下から、しゃがれた大声が飛んだ。
「祝いなら、耳の遠いところでやれ! ……その、声継ぎの小娘の椀は、水で薄めとけ。四日歩いてきた腹に、高地の酒はきついわい」
市場の渦が、その声にだけは、少し道を空けた。
天幕の下に、白髪まじりの、いかつい男が床几に腰かけていた。歳のころは五十半ば。肩は広いが、片耳の後ろを、掌でしきりに揉んでいる。市場の元締めのタヴィシュだ、と誰かが教えてくれた。この窪地の市の、賑わいも揉め事も、みなこの男の采配で回るのだという。
「元締めさん」ニーヴは椀を置いて、天幕へ寄った。「賑やかで、いい市場ですね」
「賑やかすぎるわい」タヴィシュはじろりとニーヴを見た。がらがら声だった。「わしの市で祝宴を焚きつけといて、いい市場もあるか。……小娘。おまえのせいじゃろうが」
「あたしは順を守ろうとしたんです。焚きつけたのは女将さんで」
「マレードか。あれの声は、封じずとも峠向こうまで届くわい」タヴィシュは片耳を揉みながら、ふん、と鼻を鳴らした。それから、ニーヴの負い籠と、その脇に置かれた敷物と、掌の上のただの素焼きに戻った器を、順に見た。見る目が、ただの市場の元締めの目ではなかった。
「……その口上な」タヴィシュは低く言った。「『証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ』。……久しく聞かなんだ文句じゃ」
ニーヴは、天幕の下の男を見返した。
「元締めさん。あなた――」
「昔取った杵柄でな」タヴィシュは、掌で耳の後ろをまた揉んだ。「わしも、その負い籠を担いどった。高地の声継ぎでな。……もう、四半世紀も前じゃがの」
声継ぎが、市場の元締めに。ニーヴは、掌の器をそっと負い籠へ納めた。稼業を替えた声継ぎに、初めて会った。替えた理由を、まだ何も聞いていないのに、ニーヴの目は自然と、タヴィシュがしきりに揉む片耳へ吸い寄せられた。
「耳、ですか」
問うてから、無遠慮だったかと思った。だがタヴィシュは、気を悪くする風もなく、揉む手を止めた。
「耳じゃ」
その一言に、市場の賑わいの底で、ニーヴの耳の奥が、ふと鳴った。
ざわ、と。
疲れると耳鳴りがするたちだと、年季のあいだ、ずっとそう思ってきた。あの、遠い、大勢の、ひそやかなざわめき。初日の晩、無窓の間の前で聞いたあれ。西の湾で割れた器のそばで聞いたあれ。棚の奥ほど濃くなる、あれ。
なぜ、いま。
問い返す前に、タヴィシュが口を開いた。
*
祝宴の渦がひとしきり落ち着くまで、タヴィシュはニーヴを天幕の下に座らせて、水で薄めた椀を寄越した。それから、頼みもしないのに、ぽつり、ぽつりと語りはじめた。訥々とではない。がらがら声のまま、石を投げるような語り口で。
「若い時分の話じゃ。ちょうど、いまの季節でな」タヴィシュは峠のほうを顎でしゃくった。「あの峠道で、行き倒れがおった。旅の男でな。ふもとの声継ぎが呼ばれて、最後の声を封じた。……封じは、間に合うた。じゃが、宛先が知れなんだ」
「宛先が」
「男は、誰に宛てるとも言わずに、事切れた。名も、続き柄も、言い残さずにな。……封じは成った。声は器に座った。じゃが、誰へ届けりゃええか、組合の誰にも分からん」
ニーヴは、椀を握る手に、知らず力を込めていた。宛先のない声。届けようのない声。それは、あの棚へゆく。北の壁の、窓のない部屋の、いちばん奥の暗がりへ。
「わしは、若かった。血の気も多かった。……このまま棚に上げて、宛先の分からんまま眠らせるのが、我慢ならなんだ。だから、組合に願い出た。中を、聞かせてくれと」
「中を……開けたら、消えます」
「宛先が聞けば、な」タヴィシュはニーヴを見た。「宛先でない者が聞いても、あの声は消えん。……知っとったか」
ニーヴは、息を呑んだ。
器の声は、開けば消える。誰もが知っていて、誰も理由を考えない事柄だと思ってきた。開ければ消える。写しは取れない。だから、道の途中で聞いてはならない。
だが――宛先でない者が聞けば、消えない?
「先聞きじゃ」タヴィシュは、その耳慣れない言葉を、苦い薬のように口にした。「掟の二条を、組合の許しをもろうて破る。宛先を割り出すために、宛先でない者が、先に中を聞く。……めったに、やらん。組合の許しが、いる」
「何を、聞くんです。宛先が言い残されてないのに」
「手掛かりよ。声のなかに、ぽろりとこぼれる名。土地の訛り。誰かの呼び名。……ひと言でも拾えりゃ、そこから手繰れる」タヴィシュは椀を干した。「じゃが、そうそう都合よくはこぼれん。一度聞いて、拾えなんだら、もう一度聞く。二度で駄目なら、三度。……わしは、あの一つの声を、何べん聞いたか、覚えとらん」
何べんも聞いた、とタヴィシュは言った。
一度開けば消えるはずの声を、何べんも。
その矛盾に、ニーヴは口を開きかけた。開きかけて、閉じた。宛先でない者が聞いても消えない――ならば、なぜ世間は「開けば消える」と信じているのか。なぜ器は、宛先の耳の前でだけ、一度きりで消えるのか。
「……訳は」
「知らん」タヴィシュは、ぴしゃりと言った。「昔から、そうじゃ。訳は、組合の誰も知らん。おまえも、それ以上は組合で訊きな。……わしが知っとるのは、聞いた側に、何が起きるかだけじゃ」
タヴィシュは、片耳の後ろを、また揉んだ。
「あの声を聞き重ねてから、耳が、こうなった。……鳴りやまん。ざわ、ざわ、と。誰の声とも知れんのが、大勢、遠くで待っとるような音じゃ。飯を食うても、寝ても、消えん。市場のこの賑わいのなかでも、底のほうで、ずっと鳴っとる」
ニーヴの背筋を、冷たいものが伝った。
大勢の、遠い、ひそやかな、待っているようなざわめき。――同じだ。あたしが、疲れた日に聞くやつと。
「聞かれなかった声は、消えんのじゃ、嬢ちゃん」タヴィシュは、峠の空を見て言った。がらがら声が、そこだけ、ふと低くなった。「どこにも行かず、待っとる。宛先が聞くまで、いつまでも。……わしの耳は、それを拾いすぎる耳に、なってしもうた。声継ぎを続けられん耳に、な」
市場の元締めの、素の声が、そこに一つだけ落ちていた。
落ちて、すぐに、がらがら声が拾い直した。
「――で。おまえ、なんじゃ、その顔は」
「あ……いえ」ニーヴは口ごもった。「あたしも……疲れた日に、耳鳴りがするたちで。ざわざわって。年季のあいだ、ずっと、耳が弱いんだと思ってて」
タヴィシュの、揉む手が止まった。
「耳鳴り、じゃと」じろりと、ニーヴの目を――いや、耳を、覗き込むように見た。「……いつからじゃ」
「たぶん、ずっと。聞き分けに通ったころから。……このごろは、器の棚のそばで、いちばん濃くて」
タヴィシュは、長いこと、ニーヴを見た。市場の喧騒が、二人のあいだだけ、遠のいた。
「……ふん」やがて、鼻を鳴らした。「嬢ちゃん。それはな、病じゃない」
「病じゃない?」
「耳がいいだけじゃ。生まれつき、な」タヴィシュは、片耳から手を離した。「わしは、先聞きを重ねて、無理やりこの耳をこじ開けた。おまえのは、こじ開けんでも、初めから少し開いとる。……声継ぎのなかにも、たまにおる。棚のざわめきが、聞こえる耳がな」
「……いいこと、なんですか。それ」
「いいことも、悪いことも、あるか」タヴィシュは、ぶっきらぼうに言った。「よう聞こえる耳は、よう封じられる。よう届けられる。……じゃがな。いいのも、ほどほどにせえよ。あんまり拾いすぎると、わしみたいになる。飯より、寝床より、ざわめきのほうがでかくなる」
それから、ふいに、市場の渦のほうへ声を張った。
「おい、そこの! 小娘に、鼻歌なんぞ歌わせるなよ! ……嬢ちゃん、おまえもじゃ。歌うなよ、この市で。わしの耳は、もう十分に呪われとる。これ以上、妙なもんを拾わせんでくれ」
ニーヴは、ぽかんとした。それから、吹き出した。
「あたし、まだ歌ってませんけど」
「歌いそうな顔をしとる。四日歩いて、祝いを一つ届けて、浮かれとる顔じゃ。……わしにも、覚えがあるわい」
図星だった。ニーヴは笑いをこらえて、口を結んだ。傍らのアネモネが、なぜだか安堵したように、片耳を回した。この驢馬まで、あたしが歌わずに済んだのを喜んでいる。丘でも高地でも、あたしの歌の評判ばかりが、先回りして届いているらしい。
「……妙な話じゃがの、嬢ちゃん」
水を薄めた椀を弄びながら、タヴィシュが、ひとりごとのように言った。
「掟の一条と二条は、破れば祟る。届けそこねりゃ、声が残って祟る。先聞きすりゃ、耳が祟る。……身をもって、知っとる。じゃが、三条だけは、破っても、誰も祟らんのじゃ」
「三条……聞いた声は、他言しない」
「そうじゃ。聞いた声を、うっかり他人にしゃべっても、耳は鳴らん。声は残らん。罰は、当たらん。……当たらんのに」タヴィシュは、峠の空を見た。「声継ぎは、誰一人、破らん。祟りもせんのに、みな、墓場まで持っていく。……不思議と、思わんか」
思わんか、と問われて、ニーヴは答えを持たなかった。
掟の三条は、届けで聞いた声は他言しない。ただの決まりだと思ってきた。祟るから守る、罰が当たるから守る――そうだと思ってきた。だが、祟らないのに、誰も破らないのだとしたら。
それは、決まりではなく、何か別のものだった。
答えは出ない。ニーヴはその妙な話を、胸の隅の、いつもの棚へしまった。割れた器の破片や、大移しの年代記の一行や、軽くなる器や――答えの出ない問いばかりが並ぶ、あの棚へ。ずいぶん、混んできた棚である。
*
日が、峠の山の肩に傾きかけていた。
「ときに、嬢ちゃん」タヴィシュが、床几の上で座り直した。がらがら声が、市場の元締めの声に戻っていた。「おまえ、峠向こうへ行くそうじゃな。急ぎの一件で」
「あ――そうです。それを、あなたに聞けと。組合の木札に、詳しくはキルデナンで、と」
「使いは、三日前に峠を下りてきた」タヴィシュは、北の灰色の山を顎でしゃくった。「西岸から、必死の使いでな。……嬢ちゃん。おまえ、グレン・ファーラを知っとるか」
「いえ」
「知らんで、ええ。長らく、誰も気にかけん谷じゃった」タヴィシュは、声を落とした。「谷を挟んで、二つの氏族が向かい合うて住んどる。東の岸と、西の岸に。……昔はな、いがみ合うた家系じゃったと。じゃが、わしが生まれるより前から、あの谷は、長らく血を見なんだ。誰もが、もう終わった話じゃと思うとった」
市場の喧騒が、天幕の下まで届いていた。祝いの笑い声。子どもの歓声。だがタヴィシュの声は、その賑わいから、一段沈んでいた。
「それがな。この秋、突然に、また血が流れた」
「……血」
「東の若い衆が、西の羊小屋を焼いた。西の若い衆が、東の橋を落とした。長らく静かじゃった谷が、この秋、いっぺんに火を噴いた。……誰にも、訳が分からん。なぜ、いまさら、と」
ニーヴは、負い籠の器のことを思った。空になった器。掌の上の、軽い素焼き。声を運ぶこの稼業と、羊小屋を焼く火とは、遠いもののはずだった。
「おまえが届けるのは」タヴィシュは、ニーヴをまっすぐに見た。「西岸の、老いた氏族長の声じゃ。もう長うない、と使いは言うとった。……封じてほしい相手は、東岸の当主。かつての――おそらく、最後の声じゃ」
血讐の谷の、西の長から、東の長へ。焼けた羊小屋と、落ちた橋を挟んで。
「そんな谷へ、あたしが、一人で」
「一人で行くしか、ないじゃろうが。声継ぎは、一人で行く稼業じゃ」タヴィシュは、そっけなく言った。それから、片耳を、最後にもう一度、揉んだ。「……嬢ちゃん。耳を、大事にせえよ。声継ぎの耳は、二つとない。潰したら、二度と戻らん。……谷のざわめきに、呑まれるなよ」
素の声の、後ろ半分だった。
ニーヴは頷いた。頷いてから、峠の空を仰いだ。
灰色の山の肩に、雲が一つ、重く垂れていた。腹の色が、ほかの雲より、白い。
「元締めさん。あの雲」
「見えとるか」タヴィシュは、ニーヴの視線の先を追った。「……初雪を、孕んどる。あと、幾日もない」
風が、窪地を吹き抜けた。
夏のあいだ谷ごとに違った歌を歌い、秋になってどの谷でも同じ口笛を吹いていた風が――いま、その口笛より、もう一段低い音を、峠のほうから運んできた。師匠の声が、耳の奥で鳴った。風の音が変わったら、峠を戻れ。
まだ、変わってはいない。まだ。
「初雪までに峠を戻れねば」タヴィシュが、北を見たまま言った。「春まで、出られんぞ」




