第七話 塩の島の壺
その朝の帳場は、いつもより湿っていた。夏も末に近づいて、坂の町の石壁が朝から汗をかいている。ニーヴは茶を淹れ、師匠の口が開くのを待った。待つのは、もう手に馴染んでいる。
オシーン・マクブライは注がれた茶を一口飲み、二口飲んで、膝の前へ器を一つ、そっと押して寄越した。声を封じた、掌ほどの素焼きの器である。いつもは口だけで言い渡す人が、今朝は先に、封じ済みの器を出した。それがもう、いつもと違った。
「……よそで封じた声だ」オシーンは言った。「南の、銅掘りの山でな。声継ぎの手を、いくつも渡ってきた」
「よそで」
「語り手は、もうおらん」
茶を注ぐ手が止まった。
「落盤だ」師匠は器を見たまま言った。「出稼ぎの、塩焼きの父親でな。梁が落ちて、下敷きになった。すぐには死なんかった」
ニーヴは膝の上で指をそろえた。
「同じ組の男が山を駆け下りて、ふもとの声継ぎを呼んだ。連れて上がって、封じが間に合うた。父親は封じたその晩に逝った」
器はニーヴの膝の前で、ただ静かだった。耳を澄ますまでもなく、奥で声が座っている。
「宛て名は」
「シオナ。父親の娘だ」オシーンは初めて顔を上げた。「ソラウン島の、塩焼きの娘でな。歳は十六」
「島……」
「内海の、塩の島だ。ロスマリーから舟で一日」
ニーヴは器を両手で受け取った。受け取ってしまうと、急に重く感じた。中身は空のはず、器はいつも軽い。なのにいまは重い。重いのは、器に座った声の目方だった。
「勘定は」
「封じは山で払うた。運び賃は、島の娘が着き払いだ。取れるだけ取ってやれ。取らんのが、情けとは限らん」
その言いようを、ニーヴは胸に置いた。ただでもらった声は、もらったほうがあとで小さくなる。銅貨を払わせるのも、時には情のうちだった。
*
帳場の隅で、待ってましたとばかりに弟弟子のコルムが立ち上がった。両手に羊皮紙を、四枚も抱えている。
「姉さん。島渡りの心得です。書いておきました」
「四枚も?」
「島は勝手が違うんですって。師匠に伺って、ぜんぶ書き出したんです」コルムは咳払いをして読み上げた。「一、舟には酔うもの。前の晩は腹に脂を入れすぎないこと。二、器はしぶきで濡らさぬよう内懐に――」
「コルム。あたし、字は読めないよ」
「だから読み上げてるんですっ」
ニーヴは笑いを噛んだ。コルムの心得は二枚目に入り、三枚目に入り、いっこうに終わらない。石橋を叩く男は、渡る前に橋の寸法を四枚ぶん測る。
だが三枚目のなかほどで、ニーヴの耳がふと止まった。
「これが大事なんです」コルムは、そこだけ声を落とした。「島には組合の器が、いつも足りてません。声継ぎがめったに渡らないから。もし島で器が切れてたら、どうするか。師匠に訊いておきました」
「訊いて、なんて」
コルムは羊皮紙から目を上げずに読んだ。
「わたし――『師匠。島で正規の器が尽きたら、ありあわせの壺で封じてよいのですか』。師匠――『よい』。わたし――『なぜ、よいので』。師匠――」コルムはそこで一拍置いた。「『昔から、そうじゃ。訳は知らん』」
訳は知らん。
オシーンは炉端で茶をすすっていて、何も言わなかった。訊かれたことは、もう答えてある。二度は言わない人である。
ニーヴはその一問一答を、なぜだか二度、耳のなかで繰り返した。ありあわせの壺で封じは成る。昔からそう。訳は知らん。妙な話だと思った。声を封じるのはこの稼業の骨のはずである。その骨の入れ物が、どんな壺でもいいなんて。
「まあ、切れてなきゃ、いい話だけどね」
ニーヴは羊皮紙の束を、ありがたく受け取った。読めない四枚の心得を、負い籠の底へそっとしまう。読めなくても、コルムの声なら耳が覚えている。字の読めない声継ぎには、読めない紙より覚えた声のほうが、よほど確かな道連れだった。
発つ前、オシーンが茶をよこした。自分の茶碗より先に、ニーヴの膝の前へ、湯気の立つやつを黙って押して寄越す。それから、いつもの言葉ではなく二つだけ言った。
「舟に酔うな」
「はい」
「その器は、割れたら語り直せん」師匠は炉の火を見ていた。「語り手が、おらんからな。濡らすな。落とすな。……嬢」
落とすな、を師匠に言われるのは、これで三度目である。初日の正直な申告は、まだ帳消しになっていない。
「落としません」ニーヴは器を内懐へ納めた。「誓って」
*
ロスマリーまでの三日は、前に来た道だった。川に沿って南へ下ると、丘は夏の末の、疲れたような緑をしている。文字の町の坂を下りるのも二度目である。聖堂の鐘が、いまも刻を町じゅうへ知らせていた。あの鐘の便りは、読めない。読めないまま、ニーヴは坂の下の宿の厩へ寄った。春に一度、アネモネを預けた厩である。
「アネモネ。留守番だよ」
荷驢馬は飼葉桶から鼻づらも上げなかった。舟には乗せない。驢馬を海へ連れ出せば、互いに難儀するだけである。別れ際に藁を一抱え多めに頼んでおくと、アネモネはさして名残も惜しまず、桶へ首を突っ込み直した。相変わらず薄情な相棒だった。
「行ってくる。歌は、向こうで船頭に聞かせるから」
驢馬の耳が、ぴくりと動いた。歌という言葉にだけは、律儀に反応する。
港の桟橋で、島へ渡る舟を訊いた。塩を積んで内海を回る、古い帆舟だった。船頭は日に灼けた無口な男で、銅貨を確かめると、顎で舳先をしゃくった。乗れ、ということらしい。
舟が桟橋を離れると、陸がみるみる遠くなった。ニーヴは舳先に立って目を見開いた。海はブラーニヴ湾で見たのより、ずっと広い。あれは丘の上から見下ろした海だった。いまは、その海の上に自分が浮いている。胸のまんなかで、桶の底を弾くような軽い音が久しぶりに鳴った。初仕事の朝以来の音だった。
浮かれると、鼻歌が出る。出た。それも舟に合わせて、舟唄のつもりで。
船頭の背中が、びくりと強張った。
「……嬢ちゃん」船頭は櫂を握ったまま、振り向きもせずに言った。「その唄は、しまっといてくれ」
「え。なんで」
「魚が逃げる」
「魚、釣ってないでしょうが」
「これから釣るんだ」
ニーヴは口をつぐんだ。つぐんでから可笑しくなった。クロスケリーではアネモネが耳を伏せ、内海では船頭が魚を心配する。あたしの歌は、丘でも海でもこうも歓迎されないものらしい。まあいい。歌わずに海を見ているだけでも、今日は十分に楽しかった。
舟は風待ちもなく、日のあるうちに島へ着いた。
*
ソラウン島は、内海に伏せた平たい島だった。丘らしい丘はなく、低い岩場が海際をふちどっている。そのふちに沿って、白いものが点々と光っていた。塩である。浜には塩を吹いた砂が寄せ集められ、日と風にさらされている。あちこちの平たい釜から湯気が立ち、薪と潮と、炊きつめた塩の鼻を刺す匂いが、島じゅうに満ちていた。
桟橋に舟が着くなり、人が寄ってきた。負い籠を見た島の者が、まず一人。それから、どこから湧いたのか五人、十人。みな日に灼けて、手が塩で白っぽい。
「声継ぎさんかい!」
「うちの声を聞いとくれ。もう半年も待っとったんだ」
「うちが先だ。うちのは、もっと前からだ」
ニーヴは負い籠を抱えたまま、人垣に揉まれた。声継ぎがめったに渡らない島では、封じたい声が溜まりに溜まる。半年ぶんの島じゅうの想いが、いっぺんに押し寄せてきた。
「待って。順にちゃんと聞くから」ニーヴは両手を上げた。「でも、その前に。シオナさんという、塩焼きの娘さんは」
人垣が、しんとなった。寄せてきた勢いが、潮の引くようにすっと退いた。島の者たちは顔を見合わせ、浜のほうへそっと目をやる。
浜の端の、いちばん大きな釜のそばに、娘が一人しゃがんでいた。背をこちらへ向けて、釜のあくを黙々と掬っている。人垣の騒ぎに振り向きもしない。振り向かないのが、かえって目を引いた。
「シオナには」年かさの女が声を落とした。「あんた、いま行かんほうが」
「なぜです」
「父親が、死んだばかりでな。知らせだけ、先に届いた。あの子はそれきり、釜から離れんのだ。泣きもせん。ただ塩ばかり、炊いとる」
ニーヴは内懐の器へ、そっと手を当てた。この器の声が、あの背中に届くのだった。
*
「声継ぎさんっ」
しんとした人垣を割って、一人の老婆が飛び出してきた。背は低いが、声は島じゅうに届きそうだった。塩で真っ白の手を振り回し、ニーヴの前で仁王立ちになる。
「よくぞ来た! わしの声を、なんとかしとくれ。わしはネカネ。この浜の塩を四十年炊いてきた女だ」
「ネカネさん。順に――」
「順もへちまもあるか。わしのは、割れたんだ」ネカネは両手を胸の前で握り合わせた。「春に渡ってきた声継ぎさんが、わしの声を封じてくれた。海の向こうへ嫁いだ娘への声だ。運んでくれる声継ぎさんを待つあいだ、棚に上げて大事にしとった。なのに浜猫が、棚から落としよった」
「割れた」
「粉々だ!」ネカネの声が跳ね上がった。「わしの、娘への声が粉々だ。もう二度と届かん」
浜猫のしわざで割れた器を思い、ニーヴは、ふ、と肩の力を抜いた。これは泣く話ではない。
「ネカネさん。落ち着いて。その声、もう一度封じ直せますよ」
ネカネがぽかんとした。
「……なんじゃと」
「器は割れても、中身がこぼれるわけじゃないんです。語り手が生きてれば、もう一度語り直せばいい。あなたは生きてるでしょ」
「生きとるわ! ぴんぴんしとる!」
「なら、なんの心配もいらない。もう一度、娘さんへの声をあたしに封じさせてください」
ネカネは、握った手をほどいた。ほどいた手で目のあたりをこすり、塩の手だったから痛かったらしく、あいたた、と顔をしかめた。それから、ぱっと明るくなった。
「なんじゃ、それを早う言え! 半年、泣いて損した!」
島の者たちが、どっと沸いた。ネカネの器が割れたのは、島じゅうの知る大ごとだったらしい。よかったなあ、と誰かが背中を叩き、ネカネは照れ隠しにその手を払いのけた。
ところが、ニーヴが座の支度にかかろうとしたところで、島の年寄りが気の毒そうに口を挟んだ。
「声継ぎさん。器が、ないんだ」
「器?」
「島にゃ組合の器の置きが、少しはあった。けど、この半年でみんな使うてしもうてな。次の補給が、舟で来るはずが」年寄りは海のほうを見た。「ひと月前の嵐で、荷が流れた。次の便は、また先だ」
ニーヴは負い籠を探った。内懐の一つは、シオナへ届ける父親の声である。あとは返しのために持ってきた替えが一つ。だがその一つも、さっき桟橋で別の島の者に約束してしまった。ネカネの声を封じる器が、ない。
「弱ったね」ニーヴは負い籠のなかをもう一度探った。ないものは、探しても出てこない。「困った。ほんとに困った」
*
困ったとき、ニーヴの頭のなかでは算盤が勝手に弾ける。弾けたのは、なぜだか帳場でコルムが読み上げた、あの一問一答だった。
――師匠。島で正規の器が尽きたら、ありあわせの壺で封じてよいのですか。
――よい。昔から、そうじゃ。
「そうだ」ニーヴは顔を上げた。「島に、壺はありますか。素焼きの、口の狭い壺。焼き物なら、なんでもいい」
「壺なら」年寄りが島の裏手を指した。「窯場に、いくらでもある。塩を詰める壺だ。去年、本土の商家に頼まれて焼いたのが、そっくり注文流れになって山と余っとる。安物だがな」
「その安物、一つ借ります」
窯場から運ばれてきたのは、なんの変哲もない素焼きの壺だった。塩を詰めて売るための、飾りけもない安っぽい焼き物である。組合の窯で焼く器とは、口の形も肌の色もまるで違った。
ネカネが、それを見て顔をしかめた。
「声継ぎさん。まさか、それにわしの声を詰めるんか」
「そのつもりです」
「よしとくれ!」ネカネが後ずさった。「わしの、娘への声だぞ。そんな塩を詰める安物に、ばちが当たる。声が座るもんか。組合の、ちゃんとした器でなけりゃ」
ニーヴは口を開きかけた。組合のちゃんとした器でなけりゃ――あたしも、ついこのあいだまでそう思っていた。器は特別なものだと。声を封じるのだから、器のほうにも何か力があるのだと。
だが師匠は言った。ありあわせの壺でよい、と。昔からそう、と。
「ネカネさん。試すのが一つ。座らなけりゃ、あたしが恥をかくのが二つ。座ったら、あなたは損しない。損するのは、疑ったぶんだけあなたのほうです」
ネカネは渋った。渋ったが、娘への声をもう半年待っている。
「座らなんだら、承知せんぞ」
「座らせます」
座を組んだ。浜の、風の当たらぬ塩小屋の陰である。ネカネは安物の壺を、それでも両手でそっと捧げ持った。疑いながらも、捧げる手つきだけは大事な声を捧げる手だった。
ニーヴは膝を揃え、宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はネカネ、この浜の塩焼き。宛て名は――」
ネカネが海の向こうの娘の名を言い、続き柄を添えた。ニーヴはそれを口上に載せた。それからネカネが、安物の壺へ向かって娘への声を語りはじめた。半年ぶんの、こぼれるような声だった。ニーヴは証しの座で膝を揃え、ただ聞いた。聞いた中身は胸に置く。
語り終えて、ニーヴは壺の口を蜜蝋で塞ぎ、組合の刻み紐を定めの結いに結んだ。それから、耳を澄ました。
塩を詰める、なんの変哲もない安物の壺の奥で――
声が、座った。
組合の器と寸分たがわぬ、あの静かな気配だった。
「成りました」ニーヴは、自分の声が少し掠れているのに気づいた。「確かに、お預かりします」
ネカネが目を丸くした。
「座った、のか。ほんとに」
「座りました。組合の器と、なんにも変わらない」
ネカネは、その安物の壺をまじまじと見た。それから洟をひとつすすって、大声で笑った。
「ばちも当たらんかった! わしの声は、塩の壺で海を渡るんだ!」
島の者たちが、また沸いた。ニーヴも笑った。笑いながら、掌のなかの安物の壺をそっと撫でた。
――器って、なんでもいいんだ。
撫でながら、胸の隅に小さな棘が刺さった。春に西の湾で、割れた器の破片を拾ったときと同じ場所だった。声を封じるのに、器はなんでもいい。塩を詰める壺でも、声は座る。ならば器は、いったい何をしているのだろう。声は、どこにあるのだろう。
考えかけて、やめた。答えは出ない。昔からそう。訳は知らん。師匠がそう言うことに、あたしが答えを出せるわけがない。ニーヴは棘を胸の奥へ押し込んだ。押し込んでも、抜けはしなかった。
*
日が傾いて、島の騒ぎがようやく凪いだ。半年ぶんの声をあらかた封じ終えて、ニーヴは負い籠を下ろした。あとは一つだけ。いちばん最初に、いちばん後回しにした一つだけだった。
浜の端の、いちばん大きな釜。シオナは、まだそこにいた。日が傾いても釜から離れず、あくを掬い、火を見て、塩を寄せる。手だけが休みなく動いている。塩を炊く手だけは、この娘、迷ったことがないらしい。
「シオナさん」
娘が手を止め、振り向いた。日に灼けた、まだ幼さの残る顔だった。だが目だけが、幼くなかった。父親が死んだと聞いて、泣きもせず釜のそばで固くなった目である。
「……声継ぎさん」シオナはニーヴの負い籠を見て、目を逸らした。「あたしのとこには、用はないよ。封じたい声なんて、ないから」
「封じにきたんじゃないの」ニーヴは静かに言った。「届けにきたの。あなたのお父さんの、声を」
シオナの手が、あくを掬う柄杓を握り直した。
「……父ちゃんは、死んだよ」
「知ってる」
「山で死んだ。梁の下敷きになって。もう、いない」
「知ってる。でも、声はいるの」
ニーヴは内懐から器を出した。組合の、ちゃんとした器である。掌の上で、その奥に声が座っている。
「山で梁が落ちて、あなたのお父さんは下敷きになった。すぐには死ななかった。同じ組の男の人が山を駆け下りて、ふもとの声継ぎを呼んだの。連れて上がって、あなたのお父さんは、その声継ぎにこれを封じてもらってから逝った」
シオナの、柄杓を握る手が白くなった。
「封じたその晩に逝ったんだって。最後の力を、これに使ったの。あなたに宛てて」
「……あたしに」
「あなたに。シオナ、アイトルの娘、って。宛て名は、あなただよ」
シオナは柄杓を、そっと釜のふちに置いた。立ち上がって、塩で白くなった膝を払い、こわいものを見るような目でニーヴの掌の器を見た。
「……なんて言ってるの。父ちゃん」
「あたしは聞いてない」ニーヴは首を振った。「掟でね、届ける前に器は開けないの。開けたら消えるし、それに――あなたのだから。いちばん先に聞くのは、あなたじゃなきゃ」
*
座は、釜のそばに設えた。シオナがそう望んだのである。父ちゃんは、あたしが塩を炊くところしか知らんから、と。
日が内海の水平線に近づいていた。凪いだ海の上を、暮れの光がまっすぐ這ってくる。釜の下では薪が、ぱち、ぱちと爆ぜていた。
シオナは、釜のそばに膝を揃えた。塩焼きの娘の、まっすぐな膝だった。
ニーヴは器を捧げ、息を整えた。
「語り手はアイトル、シオナの父。宛て名はシオナ、アイトルの娘。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――シオナ。
ひと言目で、シオナの背筋が伸びた。
――父ちゃんじゃ。あんまり間がないでな。手短に言うぞ。
塩を炊く手のような、迷いのない声だった。詫びも、泣き言もない。声はいきなり、こう続けた。
――塩の炊き方じゃ。よう聞け。
シオナが、口をぽかんと開けた。
――水は、朝のいちばん退いた潮で汲め。濁りの少ない、澄んだところをな。おまえは寝坊じゃから、前の晩に桶を浜へ運んどけ。朝に慌てて汲むと、砂が入る。
シオナの、開いた口が震えはじめた。
――浜へ撒いたら掻いて、また撒け。三日、天気を見てな。塩の乗った砂を寄せて、海の水を通して、濃い水を漉すんじゃ。濃さは、豆で計れ。乾いた豆を一粒落として、ぷかりと浮けば炊きどきじゃ。沈むうちは、まだ薄い。
「……知ってるよ」
シオナの唇から、掠れた声がこぼれた。
「そんなの、全部知ってる。父ちゃんに教わったもの」
声は構わず、続いた。
――釜にかけたら、はじめは強火じゃ。ぐらりと煮立てて、浮いてくるあくは綺麗に掬え。おまえは、あくを掬うのが下手じゃ。せっかちじゃからな。焦って掬うと、塩まで一緒に捨てる。
「下手じゃないっ」
シオナが叫んだ。叫んで、それから両手で口を覆った。覆った手の隙間から、笑うような、泣くような息が漏れた。
――あくが止んだら、火を落とせ。とろ火で、ゆっくりじゃ。急ぐな。急ぐと、塩が荒れる。塩は、な。急いてはならん。
急いてはならん。
ニーヴの胸の奥で、なにかが鳴った。急ぐな、と、あたしも師匠に言われつづけてきた。走るな。落とすな。声を運ぶ稼業も、塩を炊く稼業も、急いてはならぬところは、同じらしい。
――釜のふちに、白い花が咲きはじめる。それが塩じゃ。咲いたそばから、そっと寄せてやれ。掬うたら、ざるにあげて、にがりをよう切れ。切りが甘いと、辛いばかりで、甘みが出んからな。
シオナは、両手で口を覆ったまま頷いていた。何度も、何度も。声の言うことを、一つ残らず先に知っている者の頷き方だった。父親の教えた手順を、娘は指の先まで覚えていた。
声は、そこでひと呼吸休んだ。
――……それだけ覚えとけば、おまえは飢えはせん。
休んで、それからいちばん最後に、こう言った。
――塩は、な、シオナ。泣いても、しょっぱいだけじゃ。よう炊いて、よう売って、達者で食え。父ちゃんの、塩焼きの娘。
声はそこで、言い足すことを探すように、ひと呼吸だけ器のなかにとどまった。それから、炊きあがった塩が湯気になって立ちのぼるように、釜の上の暮れの空へ細くのぼって、溶けて、消えた。
あとには、薪の爆ぜる音と、浜に寄せては返す波の音だけが残った。
シオナは、口を覆ったまま動かなかった。それから、ゆっくりと手を下ろした。
顔は、ぐしゃぐしゃだった。涙で、笑っていた。泣きながら笑うという器用なことを、この塩焼きの娘は、こともなげにやってのけた。
「……全部、知ってるよ、もう」
シオナは、しゃくり上げながら笑った。
「塩の炊き方なんて、六つのときから父ちゃんの横で、ずっと……。あくの掬い方だって、いまは下手じゃない。父ちゃんが山へ行ってるあいだ、ずっと一人で炊いて、うまくなったもの。教わらなくたって、全部知ってる。全部、覚えてる」
覚えてる、と言った声が崩れた。
「なのに、あのばか父ちゃん……死にぎわに、詫びの一つも達者での一つも言わずに……塩の炊き方だけ……あたしがとっくに知ってることだけ、最初から最後まで……」
シオナは両手で顔を覆って、しゃがみ込んだ。釜のそばで、塩で白くなった膝を抱えて、声を上げて泣いた。泣きもせず固くなっていた娘が、父親のいちばん父親らしい声を聞いて、ようやく泣いた。
ニーヴは証しの座で、膝を揃えていた。泣かなかった。証しに立つ者は座では泣かない。師匠に、そう仕込まれている。だが揃えた膝の上で、手のひらに爪が食い込むほどきつく握っていた。
塩の炊き方を、最初から最後まで。詫びも別れも言わずに。それが、この島の父親の愛のかたちだった。おまえは飢えぬ、と。それだけを最後の息で、娘に手渡していった。娘がとっくに知っていることを、知っていて、なお手渡さずにいられなかった。愛は時々、いちばん要らないものの顔をして、届く。
役目を終えた器が、ニーヴの掌の上で、ただの素焼きに戻っていた。心なしか、軽い。
*
シオナの泣き声が凪ぐまで、ニーヴは釜のそばで待った。
やがてシオナは、袖で乱暴に顔を拭って、赤い目で立ち上がった。立ち上がって、釜のふちの柄杓をまた手に取った。
「……声継ぎさん。あたし、炊くよ」
「うん」
「父ちゃんの言うとおりに炊く。急がずに。あくは丁寧に。にがりも、よう切る」シオナは洟をすすった。「達者で食えって言われたもの。飢えるわけには、いかないから」
泣きながら、もう釜に向き直っている。塩焼きの娘だった。ダンロッホの、石工の娘を思い出した。あの子も父親の声を聞いて、泣きながら竈の段取りを始めた。届いた声は、聞いた子の手の先へ、そうやって残っていくのだった。
勘定を受け取った。運び賃は、島までの道のりぶんきっちりもらった。取れるだけ取ってやれ、と師匠は言った。父親の声を、施しでなくきちんと買った娘のほうが、背筋を伸ばして生きていける。シオナは、塩を炊いて暮らす娘だった。
「達者でね、シオナ」
「声継ぎさんも」シオナは、赤い目で少し笑った。「あんたの歌は、聞かんでよかったよ。ネカネ婆が言うてた。丘の声継ぎは、歌だけは驢馬も逃げるって」
「アネモネのやつ、島まで言いふらしてないでしょうね」
ニーヴが心から嫌そうな顔をすると、シオナが今度はちゃんと、声を立てて笑った。
*
帰りの舟は、翌朝に島を出た。塩を積んだ帆舟が、内海をゆっくり本土へ渡る。ニーヴは負い籠に、ネカネの安物の壺と島じゅうの半年ぶんの声を抱えて、舳先に座っていた。舟ではもう歌わなかった。歌わずに、遠ざかる塩の島をしばらく見ていた。
「……嬢ちゃん」
櫂を繰りながら、船頭がめずらしく口をきいた。行きは魚が逃げると言った無口な男が、帰りはぽつりと世間話を寄越した。
「あんたら声継ぎは、遠くまで声を運ぶんだな」
「うん。峠でも、入り江でも、島でも」
「……海の向こうにゃ、声継ぎがおらんそうな」船頭は、内海のそのまた先を顎でしゃくった。「文字の来た、あっちの土地だ。声を封じる稼業も、器の棚もない、と。船乗りが、そう言うとった」
ニーヴは、遠い水平線を見た。
声継ぎのいない土地。声を封じる者も、届けられなかった声の棚もない土地。ならば、あの向こうの人たちは、文字にできない想いを、どうやって届けているのだろう。梁の下の父親が、娘に手渡したような、あの一度きりの声を。
考えかけて、答えの糸口すら掴めなかった。海の向こうのことは、渡った者しか知らず、その話も、この土地には伝わってこない。
答えの出ない問いを、ニーヴはまた一つ、胸の隅へしまった。
舟が本土の桟橋へ着くと、宿の厩からアネモネが引かれてきた。荷驢馬はニーヴを見て、ふん、と鼻を鳴らす。留守番のあいだ藁をたっぷり食ったらしく、腹が丸い。
「ただいま。太ったね、あんた」
厩の主が、思い出したように懐を探った。
「そうだ、声継ぎさん。あんた宛てに言伝てが来とるよ。クロスケリーの組合から、早馬で。ずいぶん急ぎらしい」
差し出されたのは、組合の刻みを結んだ小さな木札だった。文字は読めない。だが、この刻みなら読める。声継ぎのための、組合の刻みである。
ニーヴは、木札の結び目を指で追った。
高地。峠の、向こう。配達、一件。
そして、いちばん端に、刻みが一つ。
急ぎ。
――急ぎ、と、それだけだった。




