第六話 染物屋の縁談
独り立ちの夏は、丘の緑がいちばん濃くなる時分だった。石壁の際の白い花はとうに消えて、畑という畑で麦が背を伸ばし、風が渡るたびに丘の斜面がざ、ざ、と鳴る。坂の町クロスケリーはその丘に段々にへばりついて、朝から日を照り返していた。夏の盛りである。
このごろ、ニーヴには朝の癖がついた。
夜明けの掃除を済ませると、足がひとりでに廊下の突き当たりへ向かう。北の壁の無窓の間。棚番のファーガルが、昼を待たずに錠を開けて器を磨きはじめる刻限である。手伝わせてくれと最初に言ったとき、老人は「……手は、足りとる」といつもの調子で断った。それでも三日続けて通ったら、四日目に、乾いた布を一枚黙って寄越した。それが承知の返事だった。
棚のそばに座って、素焼きの肌をひとつずつ拭っていると、耳の奥が微かに鳴る。
ざわ、と。
初日の晩、この扉の前で聞いた、あれである。大勢の、遠い、ひそやかなざわめき。疲れると耳鳴りがするたちだと、年季のあいだはそう思ってきた。けれどこの静かな部屋で布を動かしていると、耳鳴りにしてはどうも筋が通りすぎている。
その筋のことは、まだ、考えない。考えるなと言われている。
――問うな。掟だ。
棚出しから帰った晩、最奥の段の器に届け先の札がないのを見咎めて、そう遮られた。師匠の声はいつもより短かった。短い返事ほど、奥に何かを畳んでいる。それも年季のあいだに覚えた読みだった。
だからニーヴは、問わずに、ただ磨く。それが、いまのところの落としどころだった。
その朝の落としどころを引っくり返したのは、玄関口の物音である。
どしん、と何かがつまずいて、荷の崩れる音がして、それから聞き覚えのある悲鳴が上がった。
「姉さん! 助けてくださいっ、姉さんの姉さんが、姉さんの姉さんの幼馴染を、連れてきて――」
弟弟子のコルムの、慌てると裏返る声だった。ニーヴは布を置いて廊下を戻った。
*
帳場の土間に、二人、立っていた。
一人は、ニーヴのすぐ上の姉のシボーンである。染物で袖まで青く染まった腕を組んで、仁王立ちしていた。もう一人は、その袖に引きずられてきたらしい、背の高い若い男だった。肩幅は樽ひとつぶんもあるのに、その肩を縮めて両手で自分の帽子をねじり回している。桶屋のコナルだった。オーウェンの息子で、坂の下で親父の跡の桶屋を継いでいる。シボーンとは同い年の幼馴染で、丘いちばんの臆病者、というのが町内の相場である。
「ニーヴ。声を一つ、封じてほしいのよ」シボーンは、母親ゆずりの早口で切り出した。「このでくのぼうが、半年も前から封じたい封じたいと言うだけ言うて、一歩も動かんの。見てられんから首根っこ掴んで連れてきた。組合の掟で、断れんのやろ」
「断らないよ。声継ぎだもの。……で、コナル。誰への、なんの声?」
コナルの帽子が、ぎゅっと絞られた。
「……その」
「うん」
「……なんでもない。やっぱり、いい。出直す」
踵を返しかけた背中を、シボーンが襟首で釣り上げた。
「メイヴへの、求婚の声よ」姉が代わりに言い放った。「ダンロッホの、モイラの姪の。この男、去年の秋にモイラの荷車でうちの店へ来たメイヴと、たった三日、桶の値の掛け合いをしただけで――」
「掛け合いはっ、掛け合いは、ちゃんと、まけたっ」コナルの声が裏返った。「一枚、まけた」
「まけた話は今どうでもええの。とにかく、それきり腑抜けになって、半年。あたしと母さんの耳が腐りかけとる」
帳場の奥で、茶碗が置かれる音がした。
「桶屋のコナル」
オシーン・マクブライである。炉端で茶をすすっていた師匠が、ようやく口を開いた。六十をいくつか越えた声継ぎは、言葉を銅貨のように惜しむ。
「求婚の声。ダンロッホのメイヴへ。……身内絡みか」
「あたしの姉の幼馴染です。身内ってほどじゃ」
「染物屋の敷居を三度またぐ話には、たいてい染物屋がぜんぶ噛んでおる」オシーンは茶碗を膝の前へ引き寄せた。「嬢。おまえがやれ。……ほかに、この一家を捌ける者がおらん」
言葉は少ないが、諦めの色は雄弁だった。ニーヴは笑いをこらえた。
コルムが、待ってましたとばかりに帳面をひらいた。
「では段取りを、段取りをっ。封じは本日午後、場所は――組合の座でよろしいですか」
「よくない」シボーンが即答した。「この男、組合の座なんぞに座らせたら、口上を聞いた途端に気を失う。うちの店の奥でやり。母さんも姉さんも、そのほうが、その」
「見物したいだけでしょ」
「見物したいだけよ」
姉は悪びれもしなかった。染物屋の血である。
*
午後、染物屋オケリガンの奥の間は、藍甕の匂いで満ちていた。
土間に据えた大甕のふちで藍が息をして、ぷつ、ぷつ、と小さく泡を上げる。壁際には染め上げの反物が幾竿も干され、青の濃淡で部屋が暮れかかったように見えた。ニーヴが敷物を広げ、その正面にコナルを座らせる。座は、それだけあればいい。香も祈りも要らない。要るのは、名乗りと、宛て名と、証しに立つ耳が一つ。
問題は、その耳が一つでは済まなかったことである。
「もっと胸を張り。花婿がそんな猫背で、なんとする」
母のブリジッドだった。四十五になる染物屋の女主人は、青く染まった手を前掛けで拭きながら、コナルの背後に陣取っている。すぐ横にシボーン、その横にいちばん上の姉、さらにその横で、なぜか近所の桶の得意先の女房までが湯気の立つ茶を配って回っていた。奥の間はいつのまにか、寄り合いの様相を呈していた。
「母さん」ニーヴは静かに言った。「座に、他人が多すぎ」
「他人やないよ。あんたの母さんと姉さんやないの」
「その母さんと姉さんが、いちばん、他人にしてほしい」
「まあ、この子は」ブリジッドは大仰に胸を押さえた。押さえてから、すぐに早口に戻った。「ええこと、コナル。求婚の口上言うのはね、まず相手の名を三べん胸で呼んでね、それから息を丹田に落として上目遣いはいかんよ卑屈に見えるから、かというて仰け反ってもいかん傲慢に見えるから要は真ん中、真ん中を――」
「母さん、一息で三十言った」
「あんたの早口、誰に似たと思うてるの」
似たくなかった、と思ったが、口には出さなかった。出したら、また三十返ってくる。
ニーヴは膝を揃え、器を捧げて、宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はコナル、オーウェンの息子。宛て名はメイヴ、モイラの姪、ダンロッホ在。――この座の、証しに立ちます」
あとは、コナルが器へ向かって語るだけだった。
語るだけの、はずだった。
コナルは掌の器を、割れ物どころか生き物のように、そっと両手で捧げ持った。口を開けた。
「……メ」
閉じた。
「メ、メ……」
また閉じた。三度目に開いた口からは、もう「メ」も出なかった。額に玉の汗が浮き、樽ひとつぶんの肩が木の葉のように震えている。
初仕事の日の石工のブランを思い出した。あの人も器を前に三度詰まった。けれどあれは、照れの詰まりだった。ほぐしてやれば、ほどけた。この詰まりは、色が違う。恐れの詰まりだ。しくじってはならない、と思いつめすぎて、口が恐怖で凍っている。
ニーヴは、いつもの手を出した。
「コナル。難しく考えないの。メイヴさんの顔だけ、思い浮かべて。忘れた文句は、もともと器に入れる文句じゃないんだよ。顔さえ思い浮かべてれば、口は勝手に――」
「顔が!」コナルが悲鳴を上げた。「顔を思い浮かべたら、なおさら、なんも言えん! あの人が笑うたときの、右の頬の、その、えくぼが……浮かんだ途端に、頭が真っ白に……!」
効かなかった。ブランに効いた手がまるきり効かない。かえって火に油を注いだ。背後で母と姉たちが、あらあらまあまあと沸き立った。座がますます遠のいていく。
こういうときは、いったん退く。ニーヴは器を膝に下ろした。手のうちの札が尽きたら、無理押しはしない。無理に封じても、恐れごと結んでしまうだけである。それでは届いても、震えが届く。
退いた分の穴へ、するりと入ってきたのは、姉だった。
「コナル・オーウェンの息子」
シボーンが、腕を組んだまま、幼馴染の前へ回り込んだ。染物の青い腕で、ずい、と屈む。
「あんた、去年の秋からこっち、店に来るたんびに、あたしに何て言うてきた」
「……なんも」
「『メイヴが笑うと、桶のたがまで緩む気がする』。『メイヴの声は、上等の蜜みたいや』。『あの人の前でだけ、樽の底が抜けたみたいに、なんでも言える気がする』。……耳が腐るほど聞かせたやろ。母さんとあたしに」
コナルの顔が、藍甕より濃い色に染まった。
「その半分でええ。いや、十分の一でええ。あたしに言うたことを、そのまま、その壺に言い」シボーンはふっと声をやわらげた。「あんたが樽の底が抜けたみたいになれる相手は、丘じゅう探して、あの子一人やろ。……なら、こわがることは、ないやないの」
部屋が、しんとした。
藍甕の泡だけが、ぷつ、と鳴った。
コナルは器へ目を落とした。それから、いちど、長い息を吐いた。恐れが、その息と一緒に少しだけ抜けたようだった。
四度目に開いた口は、もう詰まらなかった。
低い、朴訥な、けれど存外にまっすぐな声だった。ニーヴは証しの座で膝を揃え、ただ聞いた。聞いた中身は胸に置く。掟の三条。――ただ、聞きながら、ニーヴは思った。あたしの手より、姉さんの一言のほうがよほど効いた。人の恐れをほどく鍵は、こっちの帳場に揃っているとは限らないらしい。
語り終えて、コナルは肩から力を抜いた。ニーヴは器の口を蜜蝋で塞ぎ、刻み紐を定めの結いに結んだ。耳を澄ます。
――座った。
恐れではなかった。器の奥にあるのは、震えではなく、まっすぐな声だった。
「確かに、お預かりします」
背後で、母と姉たちがいっせいに洟をすすった。見物のはずが、いつのまにか全員、目を潤ませている。染物屋の血は、どうやら涙腺も早い。
*
翌朝、ニーヴは東の門を出た。
発つ前、炉の間で師匠が茶をよこした。自分の茶碗より先に、ニーヴの膝の前へ、湯気の立つやつを黙って押して寄越す。それから、いつもの言葉ではなくこう言った。
「……返事を、もろうてこい」
「行ってきます」
求婚の声だから、届けてしまいで終わりではない。届けた先に、返事がある。師匠の送りの言葉がその日の荷にあわせて変わることを、ニーヴはこのごろ少しずつ覚えはじめていた。
ダンロッホまでは、東へ半日。谷底の川に沿った、初仕事で来た農村である。器は胸の前の負い籠にではなく、内懐にそっと入れた。落とすのが怖いからではない。――いや、半分は、それだった。
発つとき、コナルが門の外まで追ってきて、真っ青な顔で念を押した。
「た、頼む。落とさんでくれ。割らんでくれ。もし割れたら、おれは……おれは、もういっぺん、あれを言わなならん……」
「割れても平気だよ」ニーヴは笑った。「器は割れても、中身はこぼれない。あんたが生きてるうちは、何べんだって語り直せる。……まあ、あんたの場合、それがいちばん怖いんだろうけど」
コナルは心底ぞっとした顔をした。ニーヴは吹き出しながら、丘の道を下りていった。割れても語り直せる、というのは、器の常である。語り手が生きていれば、実の害はない。――ふと、春に西の湾で割れた、あの器のことがよぎった。あれは語り手が生きていた。だから、笑って済んだ。済まないのは、語り手のいない声だ。あの棚の、いちばん奥のような。
考えるな、と自分に言った。いまは、生きた男の、生きた声を運んでいる。
谷底へ下りると、川風に家畜の匂いが混じった。ダンロッホの村である。
*
メイヴの家は、モイラの家と背中合わせの、川に張り出した水車小屋の隣にあった。
戸口で洗い物をしていた娘が、負い籠を見て顔を上げた。落ち着いた、静かな目をした人だった。それが、メイヴだった。
「声継ぎさん。……どちらから」
「クロスケリーの組合から。あなたへ、声のお届けです。語り手は――」
「コナル」
メイヴが、先に言った。言ってから、口もとをそっと片手で隠した。
「はい」ニーヴは頷いた。「桶屋のコナルさんから」
娘の耳のふちが、ほんのり色づいた。落ち着いた目のわりに、心当たりはちゃんとあったらしい。
そこへ、隣の戸口から声が飛んできた。
「おや、声継ぎさんじゃないか! なんだいなんだい、うちの姪っこに、いったい誰が」
行商人のモイラだった。四十がらみの、日に灼けた顔をほころばせ、荷を放り出して寄ってくる。
「モイラさん、久しぶり。……で、たぶん、あなたが荷車で繋いだ縁だよ」
「あたしの荷車が? ということは、クロスケリーの……あの、桶屋の、腑抜けかい」モイラは片手を打った。「まあ! やっと言うてきたのかい、あの木偶の坊。去年からこっち、うちの荷を頼むたんびにメイヴは達者かの一点張りで、桶の値は上の空で――」
「モイラ叔母さん」メイヴが、静かに遮った。「聞かせて。……いま」
叔母は、ぴたりと口を閉じた。閉じてから、目もとを袖でひと拭いして、姪の後ろへ行儀よく座り直した。
座は、川端の日向に設えた。メイヴが膝を揃える。ニーヴは器を捧げ、解きの口上を唱えた。
「語り手はコナル、オーウェンの息子。宛て名はメイヴ、モイラの姪。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――メイヴ。……おれだ。桶屋の、コナルだ。
最初のひと言で、メイヴの背筋が伸びた。
――その、な。ずっと、言おう言おうと、思うとった。去年の秋から、なんべんも……桶の値を、間違えるほど。
声が、ひと呼吸、つっかえた。座の外で三度つっかえた男は、座の内でも、律儀につっかえる。
――樽なら、丈夫なのを作る。雨の漏らん屋根も、直せる。手は、悪うない。……じゃから、その。おれと、所帯を、持ってくれんか。
声はそこで、言い足すことを探しあぐね、照れ隠しのように早口で付け足した。
――へ、返事は、急がんでええ。ほんとに、急がんでええから。……じゃあ。
じゃあ、と言ったきり、声は間の悪い挨拶を残して、ふっと途切れて、川面の光に紛れるように消えた。
あとには、川のせせらぎと、水車のきしむ音だけが残った。
メイヴは、しばらく動かなかった。
それから、両手を膝の上できゅっと握った。握った手の甲に、ひとしずく落ちた。落ちてから、娘は顔を上げて笑った。泣きながら笑う、という器用なことを、この落ち着いた人は、こともなげにやってのけた。
「……返しを、封じてもらえますか」
「もちろん。なんて、送ります?」
メイヴは、少し考えた。それから、新しい器を両手に捧げた。
ニーヴは膝を揃え、宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はメイヴ、モイラの姪。宛て名はコナル、オーウェンの息子、クロスケリー在。――この座の、証しに立ちます」
様式ばった長い口上のあとで、メイヴが器へ向けて言ったのは――たった、ひと言だった。
迷いは、なかった。飾りも、前置きも、なかった。半年、腑抜けになるほど遠回りした男の声への返事は、拍子抜けするほどまっすぐで、短かった。
ニーヴは器の口を塞ぎ、紐を結いに結んだ。耳を澄ます。
――座った。
短い声だった。けれど、その気配は、これまで運んだどの声にも負けていなかった。
「これで、締めて銅貨いくらだい」モイラが、行商人の顔に戻って訊いた。
「返しの封じと開けで、銅貨二枚が一つ。ダンロッホからクロスケリーまでの運び賃、半日道で二枚が二つ。……締めて、四枚」
「四枚っ?」モイラが素っ頓狂な声を上げた。「ちょいと待ちな、声継ぎさん。あの子が言うたのは、ひと言だよ。ひと言に四枚かい。長々しゃべったって四枚だろ。割に合わないじゃないか。まけとくれ、二枚に」
出た、とニーヴは思った。この人の値切りは、姪の縁談の最中でも、休まない。
「まけないよ」ニーヴは笑って、指を一本立てた。「運び賃はね、道のりで決まるの。声の長さじゃない。半日の道を運ぶ手間は、ひと言でも千言でも、おんなじだけかかるでしょ。……つまりね、モイラさん。短い声ほど、高くつくんだよ。ひと言いくらで数えたら、あの『はい』は、たぶん今日いちばん高い」
「高いっ?」
モイラが跳ね上がって、それから、ぷっと吹き出した。日に灼けた顔で、腹を抱えて笑いだす。メイヴまでが、泣き笑いの顔のまま、肩を揺らした。
高い、と言われた「はい」を、モイラは結局、銅貨四枚できっちり買った。姪の返事だ、まけさせるものかね、と胸を張って。値切りの名人が、自分から満額を払う。これも、たぶん、縁談というものの余禄のうちだった。
帰りの丘道、ニーヴは内懐のひと言を、そっと胸に抱えて歩いた。
半年かけて、樽の値を間違えて、口を三度凍らせて、姉に十分の一まで削ってもらって、それでようやく、あの男は一つの声を器に入れた。返事のほうは、たったひと言。――言いたいことが、たった一つに減るまでに、人はずいぶん遠回りをするものらしい。減りきった一言ほど、道のりが長い。だから、高くつく。
いい返事だ、と思った。今日の道は、蜂蜜みたいに甘い。
アネモネが、たかたかとついてくる。ニーヴは鼻歌が出かかって、寸前でこらえた。相棒の耳が、先回りで伏せる構えを見せたからである。
*
クロスケリーへ帰り着いたのは、その日の夕暮れだった。
染物屋の奥の間には、また一家が勢揃いしていた。母と、姉たちと、近所の女房と、隅で帽子をねじり回すコナル。ニーヴが戸を開けるなり、全員の首がいっせいにこちらを向いた。誰も、何も、訊けずにいる。訊くのが怖いのだ。桶屋の恐れがいつのまにか一家に伝染していた。
「開けるよ」
ニーヴは器を捧げ、コナルの前で解きの口上を唱えた。
「語り手はメイヴ、モイラの姪。宛て名はコナル、オーウェンの息子。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――はい。
それだけだった。
メイヴのひと言は、コナルの掌の上で言い終えるのと間を置かず、溶けるように消えた。長い声のように、名残を探して漂うことすらしなかった。言うべきことは一つで、その一つは、迷いなく言われて、迷いなく消えた。
奥の間が、息を止めた。
その静けさを破ったのは、コナルではなかった。当のコナルは、口を半開きにしたまま石の桶のように固まっている。先に崩れたのは、背後の一家だった。母が両手で顔を覆い、姉たちが抱き合い、近所の女房が誰よりも大声で泣きだした。
「よかった……よかったねえ、コナル……!」
コナルは、それでもまだ固まっていた。固まったまま、掌の空になった器を、両手でそっと胸に押し当てた。役目を終えて、ただの素焼きに戻った器である。心なしか、軽い。その軽さを、樽ひとつぶんの肩をした男が、壊れ物のように抱きしめて、声もなく震えていた。
届けたら、退く。あとに残るべきは、家の者だ。
ニーヴはそっと奥の間を辞した。背中で、母のいちばんの早口が聞こえた。祝言の膳の献立を、もう並べはじめている。染物屋の血は、涙が乾く前に、段取りを始める。
*
組合本部へ首尾を告げに戻ると、日はもう坂の町の向こうに落ちていた。
炉の間に師匠はおらず、廊下の突き当たりに、細い明かりが揺れていた。無窓の間の錠が、まだ開いている。棚番が、宵の見回りを兼ねて、最後の一拭きをしているのだった。
「ファーガル爺さま。届きました」
燭台の明かりの中で、老人は棚に向かったまま、器をひとつ、布で拭っていた。
「求婚の声と、返しのひと言。……両方、無事に」
「……そうか」
ファーガルは、こちらを向かなかった。向かないまま、掌の器をいとおしむように拭いつづける。棚は、段という段に素焼きの器が並んでいた。手前の肌は新しく、奥へゆくほど色が沈む。器のひとつひとつに、組合の刻みで語り手と宛て名を留めた木札が紐で提がっていた。
「爺さま。……その子らを、毎日ぜんぶ、拭いてるの」
「ぜんぶは、拭けん」老人は初めて、少し口数を増やした。「一日に、ひと棚。順に、回していく。……この子らは、動けんでな。埃をかぶっても、払うてくれと言えん。じゃから、こっちが、回ってやる」
この子ら、と老人は言った。
届かなかった声を、捨て場の荷ではなく、動けずに待つ子らのように、老人は呼んだ。ニーヴは布を取って隣の段を拭きはじめた。手を動かすと、また耳の奥が鳴る。ざわ、と。手前の段では、遠い。中程で、少し近い。奥の段へ寄ると――濃い。奥へ行くほど、ひそやかなざわめきが濃くなる。
「爺さま。いちばん奥の段は……ずいぶん、古そう」
問うな、と言われたのは、札のない器のことだ。段が古いかどうかは、器の色を見れば分かる。それくらいは、問いのうちに入るまい。
「古い」ファーガルは、奥へ目をやった。「あの段はな。……大移しの頃から、ある、と聞いとる。組合が、まだ運び屋と呼ばれとった時分じゃ」
大移しの頃から。
ニーヴの手が、止まった。
ロスマリーの、あの年代記の一行が耳の奥でよみがえる。テオドラが読んでくれた、たった一行。――大移し。決まり事ども、紙に移さる。運びの組合、器の棚を引き受く。あのとき引っかかった。できたばかりの運び屋が、なぜその年からもう棚を引き受けている。届け損ねた声が溜まるより先に、棚だけが先にあったことになる。順が、逆さまだ。
その逆さまが、いま、目の前にある。組合と、この棚は同い年なのだ。奥のいちばん古い段は、組合が生まれたその日からある。
妙な話だと、また思った。思ったが、手のうちで転がしても、やっぱり答えにはならなかった。答えの手前に、掟が一枚、立っている。問うな。ニーヴは布を握り直して、目の前の器を拭った。
そのときだった。
ファーガルの、拭く手が、止まった。
老人は、最奥の段から器をひとつ、両手で下ろしていた。他のどれとも変わらぬ、色の沈んだ素焼きの器である。それを、燭台の明かりに近づけて――拭くのではなく、掌の上で、ゆっくりと上下させた。目方を、量るように。
いちど。もういちど。
訥々の老人の横顔から、ふっと、血の気が引いた。
燭台の火が、揺れた。
「……軽くなっとる」
ファーガルは、掌の中の器を見つめたまま、誰にともなく呟いた。
「……開けても、おらんのに」




