表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
声継ぎ  作者: 篇乃綴り堂
第一部 独り立ちの春
PR
5/15

第五話 四十年目の続き柄

 独り立ちの春が夏に変わっても、師匠の朝の言い渡しは変わらず短いままだった。どこそこの誰、何の声、宛て名は誰――たいていは、それで仕舞いである。

 ところが、その朝は違った。

 オシーン・マクブライは注がれた茶を一口飲み、二口飲み、茶碗を膝の前へ引き寄せたまま、長いこと黙っていた。言葉を惜しむ人の沈黙は、いつものことである。いつものことだが、今朝のは目方が違う気がした。

 やがて師匠は言った。

 「嬢。……棚出しだ」

 帳場の隅で、がたん、と音がした。仕分けの帳面をつけていたコルムが、筆ごと立ち上がったのである。

 「た、棚出しですよ、姉さん! 無窓の間から、器が出るんですよ! この三年で、一度も、なかったですよ!」

 「落ち着きなよ。蔵から化け物が出るんじゃあるまいし」

 言いながら、ニーヴの背筋も勝手に伸びていた。

 棚出し。届けられなかった声の棚から、器が出る。つまり――長いこと待った声の宛て先が、どこかで見つかったということである。

 「四十年前だ」

 師匠は茶碗の中を見たまま話しはじめた。

 「ダンロッホの機屋はたやの娘が、声を一つ封じた。名は、オーナ。二十五だった。……宛て名は、姉のリア。モーンの娘リアだ」

 「四十年……」

 「姉は、その二年前に嫁いだ。相手は、湖の村々を渡って歩く舟大工でな。祝言に、妹は出なんだ。――喧嘩別れよ」

 珍しいこともあるものである。師匠が頼まれもしないのに続きを話している。年季の七年間、ニーヴが三十しゃべれば一言で締めてきた人の、これがたぶんいちばん長い朝だった。

 「封じたときから、宛ては旅の空だ。組合は湖回りの村を訪ね歩いたが、舟大工は渡り鳥でな。行く先々で、いつも一村ぶん遅れた。……そのうち、手掛かりが尽きた」

 「オーナさんは」

 「封じた年の冬に、流行り病で死んだ」

 茶碗が、こと、と鳴った。

 「声だけが、棚に残った。四十年だ。……この春、アヴォンリーへ祝いを運んだ者が、聞き当ててきた。リアは、湖畔のアヴォンリーで所帯を持っとった。三年前に、死んどる。――だが、娘がおる」

 「……娘さん」

 「イーファ。リアの娘だ」

 ニーヴは湯呑みを持ったまま、頭の中で指を折った。語り手は、四十年前に死んだ。宛て名も、三年前に死んだ。残っているのは、器の中の声と宛て名の娘が一人。

 「師匠。あの、宛て名が、もう」

 「おらんでも、届く」師匠は初めて顔を上げた。「嬢。宛て名は、なんと言って封じる」

 「名に、続き柄を添えて。……リア、モーンの娘、というふうに」

 「そうだ。名と、続き柄だ。――古い決まりがある。名と続き柄を継ぐ者は、宛て名の座を継いで、代わって聞くことができる。ぎ聞き、という」

 継ぎ聞き。初めて聞く言葉だった。

 「……どうして、そんなことができるんです」

 「知らん」

 あんまりあっさり言うので、ニーヴは湯呑みを取り落としかけた。

 「昔からそう決まっとる。決まりが先で、訳は伝わっとらん。この稼業には、そういうものが多い。……不足か」

 「いえ。……いえ! あの、勘定はどうなるんです。四十年前の配達を、いまから届けて」

 「済んでおる。封じと開けと運び賃、四十年前にオーナが払った」

 「でも、道が延びてます。アヴォンリーまでなら」

 「宛てを見失うたのは、組合だ。延びた道のぶんを、いまさら取り立てる法があるか」

 帳場育ちの算盤が、頭の中でめずらしく素直に引っ込んだ。それでいい、と算盤のほうも言っていた。

 「初めての棚出しが一つ。初めての継ぎ聞きが二つ。……師匠。初めてが、二つ重なってます」

 「務まらんか」

 「務めます!」


 無窓の間の錠は、昼前に棚番の手で開いた。

 ニーヴがこの部屋へ入るのは、初めてである。廊下の突き当たり、北の壁。敷居をまたぐとき、初日の晩のあのざわめきが聞こえてこないか、少しだけ身構えた。何も、聞こえなかった。棚は、ただ静かだった。

 窓のない部屋は昼でも夜の色をしていて、ファーガルの提げた燭台の明かりが届くところにだけ、棚が浮かんで見えた。段という段に、素焼きの器が並んでいる。手前の器は肌が新しく、奥へゆくほど、色が沈む。明かりの先は闇で、棚が奥のどこまで続いているのかは分からなかった。

 数えるのは、やめておいた。

 ファーガルは棚の中程から器を一つ、両手で下ろした。

 「……これじゃ」

 差し出された器は、四十年前のものにはとても見えなかった。埃ひとつない。蜜蝋の口は締まり、刻み紐の結いは昨日結ったばかりのようだった。

 「四十年ぶんの埃は、ない。……わしが、磨いとったでな。毎日」

 両手で受け取ると、器はただ静かだった。耳を澄ますまでもない。奥で、声が座っている。四十年、座りつづけている。

 「爺さま。……行ってまいります」

 「嬢ちゃんや」ファーガルは棚のほうを向いたまま言った。「ここはな。捨て場では、ないんじゃ。……わしは、そう思うて磨いとる。いつか届く声の、待合い所じゃとな。――今日、一人、発っていく」

 訥々の声の、最後のひと言だけが少し明るかった。

 支度を整え、負い籠に器を納め、革紐の掛かりを二度確かめた。見送りに出た師匠はいつもの言葉を言った。

 「行け」

 それから、いつもより一言多かった。

 「四十年待った声だ。走るな。……落とすな」

 落とすな、を師匠に言われるのは、これで二度目である。初日の正直な申告は、いまだに帳消しになっていないらしい。

 「落としません! 誓って!」

 言い切って、ニーヴはアネモネの手綱を取った。


   *


 クロスケリーから北へ、丘を縫って二日。アヴォンリーは、湖のほとりの村である。

 道は夏の入りの色をしていた。石壁の際の白い花はとうに終わり、丘の緑は日ごとに濃く、日は長い。急がず、休みは多めに、足元は選んで。走るな、の言いつけを、ニーヴは律儀に守った。守りながら、口だけは忙しく働かせた。

 「語り手はオーナ、リアの妹。宛て名はリア、モーンの娘。――宛て名の座を、娘イーファが継ぎます。証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」

 継ぎ聞きの口上は、いつもの解きの口上に、一句だけ増える。

 一句だけなのに、これがなかなか様にならなかった。

 「語り手はオーナ、リアの妹。宛て名の座を――違う。先に宛て名だ。ええと、宛て名はリア、モーンの娘。宛て名の座を、娘イーファが……継ぎ、ます……」

 幾千と稽古した口上に、四十年ぶんの一句が、するりとは載ってくれない。息継ぎの場所が定まらず、継ぎます、の重さが定まらず、十ぺん目までは散々だった。

 二十ぺん目のあたりで、ふと気づいた。

 アネモネの耳が、ぴんとこちらを向いている。

 「……あんた、口上は聞くんだね」

 鼻歌のときとは、えらい違いである。この驢馬の耳は、どうやら歌と口上を聞き分ける。聞き分けた上で、片方にだけ露骨に伏せる。

 「いいよ。じゃあ、あんたが証しでいいよ、もう」

 驢馬を証しに立てて、丘の道でニーヴは口上を唱えつづけた。すれ違った羊飼いが、ぎょっとした顔で羊ごと道を空けた。

 三十ぺんを過ぎると、口上は様になった。

 様になってくると、こんどは増えた一句の目方がじわりと掌に応えはじめた。

 宛て名の座を、継ぎます。

 語り手はもういない。宛て名も、もういない。それでも器の奥では、二十五の娘の声が四十年、座って待っている。あたしが生まれるより前から、ずっとだ。……それに、と負い籠の掛かりへ手をやった。割れても困らない、が器の常だけれど、あれは語り直す口があっての話である。この器だけは、割れたらそれきりだ。語り直す口は、四十年前の冬からもうない。

 「……走らないよ。走らないけど、さ」

 二日って、遠いね。

 誰にともなく言うと、アネモネがたかたかと歩調を上げた。分かっているのか、いないのか。

 その晩は、丘あいの百姓家に厩の隅を借りた。藁にくるまって、負い籠を胸の側に抱く。四十年前にこの結いを結った声継ぎは、どんな人だったのだろう。名も知らないその誰かと明日のあたしとで、一つの届けを半分ずつ担いでいる。そう思うと妙に背筋が伸びて、なかなか寝つけなかった。隣で、アネモネが藁を踏む音がした。

 二日目の昼過ぎ、丘をひとつ下りると、木立の向こうに光る水が見えた。

 湖だった。

 海とは、違う。寄せて返す音がない。かわりに、水が岸の石をひた、ひた、と数えるように叩いている。風が落ちると、対岸の丘が水の上にもう一つ、逆さに立った。

 アヴォンリーは、湖へ突き出した低い岬に石の家々が寄り集まった村だった。桟橋に小舟が数艘、岸には干した網。

 岸で網を繕っていた年寄りが、負い籠を見て決まりの文句を投げて寄越した。

 「声継ぎさん。祝いかい、弔いかい」

 ニーヴは少しだけ考えて、答えた。

 「――四十年前の、声です」

 年寄りの、繕いの手が止まった。

 「……そりゃあ」年寄りは妙にしんみりと言った。「祝いでも弔いでも、あるやつだ」


   *


 ドナル爺の家は、村はずれの、湖へ石段の下りる家だった。軒下に古い舟が一艘、逆さに伏せてある。舟大工の家の顔である。

 戸口に出たのは、四十がらみの女だった。日に灼けて、髪をきっちり結い上げ、手に糸切り鋏を持ったままである。負い籠を見ると、鋏を持つ手がすっと下がった。

 「クロスケリーの組合から参りました。声継ぎの、ニーヴ・オケリガンといいます。……こちらは、リアさんの――モーンの娘リアさんの、お身内のお宅と伺いました」

 女の顔から色が引いた。

 「……母は、三年前に亡くなりました。あの、母が、何か」

 奥から杖の音がした。

 戸口の陰に、大きな年寄りがぬっと立った。八十は越えていよう。それでも肩幅は広く、杖を握る手の甲まで古い道具の傷が散っていた。

 「……声継ぎさんが、リアに、何の用じゃ」

 「お届けです」

 ニーヴは負い籠から器を出し、両手に捧げた。

 「四十年前に封じられて、届けられなかった声を、お預かりしています。語り手は、オーナ。……リアさんの、妹さんです」

 沈黙は、長かった。

 湖の水音だけが、家の裏で低かった。

 「……オーナ」先に口を開いたのは、爺のほうだった。「……リアの妹の、オーナか」

 「ご存じですか」

 「名だけは、な。祝言に来なんだ妹じゃ。……リアは生涯、その名を口にせなんだ。ただの、一度もじゃ」

 女が――イーファが、父親を見た。その顔つきで、初めて聞く名なのだと知れた。

 炉端に通されて、ニーヴは経緯を話した。四十年前の封じ。渡り鳥の舟大工を、組合がいつも一村ぶん遅れて追ったこと。手掛かりが尽きて、声が棚に入ったこと。この春、名が聞き当てられたこと。それから――継ぎ聞きの古式のこと。

 「宛て名は、リア、モーンの娘。リアさんは、もうおいでになりません。けれど、名と続き柄を継ぐ人がいれば、宛て名の座を継いで、代わって聞くことができます。古い決まりです。……イーファさん。あなたに、聞いていただきたいんです」

 イーファは長いこと、膝の上の手を見ていた。

 「……わたしは」やっと出た声は、細かった。「叔母さんの顔も知りません。母に妹がおったことも、いま初めて聞いて。……その人が四十年前に母へ言い残したことを」顔が、上がった。「――母さんの名を、わたしが聞いて、いいんですか。母さんの代わりなんて、わたしには」

 務まるわけがない、と目が言っていた。

 ニーヴはすぐには答えなかった。答えなら二日の道々、ずっと考えてきた。考えてきて、口で説く筋のものではない気もしていた。それでも、言った。

 「代わりじゃ、ないんです」

 「……」

 「あの声は、リア、とだけ宛てて封じられたんじゃありません。リア、モーンの娘――名前に、続き柄を添えて封じられました。続き柄っていうのは、切れないんです。リアさんがモーンの娘であることがいまも変わらないように、あなたがリアの娘であることは、もう誰にも動かせない。あなたは、代わりじゃなくて……続きです。続きが聞くのは、横取りとは違うでしょ」

 「続き……」

 「それにね。これは師匠の受け売りでも何でもない、ただのあたしの了見ですけど」ニーヴは少し声を落とした。「四十年前のオーナさんに、姉さんの隣にいつか誰が座るかまでは知りようがなかった。でも、名前と続き柄で宛てるっていうのは、つまりそういうことじゃないですか。姉さんへ。姉さんの、続きのぜんぶへ。――あなたのところまで届くように、はじめから、そう宛ててあるんです」

 イーファは、まだ膝の手を見ていた。

 「イーファ」

 ドナル爺が、炉の火から目を上げた。

 「……聞いてやれ」

 「父さん……」

 「リアはな。手が動くとき、いっつも同じ歌を口ずさんどった。機を織るとき。水を汲むとき。おまえを寝かすときも、じゃ」

 イーファの唇が、かすかに動いた。歌の文句をなぞったらしかった。

 「祝言の年に、一度だけ訊いた。ええ歌じゃな、と。……リアは言うた。妹と、水汲みで歌うた歌じゃ、と。――それきり、四十年あまり。妹の話は、二度と出なんだ」

 爺は杖の頭に両手を重ねた。

 「名を言わんのが、忘れた証しなら、歌も捨てとるはずじゃろう。……あれは、死ぬ年の冬まで歌うとった」

 炉の火がぱち、と爆ぜた。

 「……イーファは」爺は、娘のほうへ顎をやった。「その声が封じられた年の、生まれじゃ。……声継ぎさん。あんたの器は、この子と同い年まで待っとったわけじゃ」

 それから爺は、娘へ向き直った。

 「おまえが聞かんならの、イーファ。あの声は、また四十年、待つんか」

 イーファは目を閉じた。

 開いたとき、迷いはまだ目の底に残っていた。残っていたが、膝はもう敷物のほうへ向き直っていた。

 「……聞かせてください」息を、ひとつ。「母の、名前で」


   *


 座は、湖へ下りる石段の上に設えた。

 イーファがそう望んだのである。母はここで水を汲み、ここで歌っていたから、と。

 日暮れにはまだ間のある刻限で、湖は凪いでいた。風が落ち、水が岸の石を叩く音だけが、ひた、ひた、と規則正しい。ドナル爺は敷物の脇に木の腰掛けを据え、杖を膝に横たえて座った。イーファは敷物の上、器の正面に膝をまっすぐ揃えた。

 ニーヴは器を捧げ、息を整えた。

 四十年と、二日。この一句のために、丘二つぶん稽古してきた。

 「語り手はオーナ、リアの妹。宛て名はリア、モーンの娘。――宛て名の座を、娘イーファが継ぎます。証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」

 刻み紐が、ほどけた。

 四十年前の結いは、昨日の結いと同じ素直さでほどけた。

 そして、声がした。

 ――姉さん。

 若い声だった。

 イーファよりも、下手をすればニーヴよりも、若い。四十年前のまま少しも老いていない声が、湖の岸で、姉さん、と呼んだ。

 ――あたし。オーナ。……ほかに、名乗りようも、ないけど。

 イーファの背筋が、伸びた。

 ――先に言うとくけどね、姉さん。あたしが悪かったとは、いまも思っとらんよ。姉さんが悪かったとも、もう思っとらん。……思っとらんけど。

 声が、途切れた。

 湖が、ひた、と石をひとつ数えた。

 ――帰り道が、わからんように、なってしもうた。それだけ。

 イーファの両手が、口を覆った。

 ――姉さんの選んだ人が、ええ人じゃとええ。姉さんの家に、機の音と歌があるとええ。……あんたのおらん機屋は、静かでかなわんよ。おとうは相変わらず口が重うて、あんたの倍、静かになった。

 声が、ふ、と笑った。四十年前の笑いが、水音の上でいまのものとして笑った。

 ――ほんで。これだけ、言いに来た。……覚えとる? 水汲みの歌。あんたが上で、あたしが下。……あんたが出てってから、誰も、上をうたわんのよ。

 息をひとつ吸う気配がした。

 声は、歌った。

 ――ゆこか、もどろか、水面みなもの道は――

 低いほうの節だけの、片側きりの歌だった。

 上の節のない歌は、それでも湖の水音を拍子にして、ゆっくりと水の上へ出ていき――一節の途中で、言葉が先に消えた。節の名残りだけがしばらく水面に浮いて、それから、落ちた一滴が輪を広げながら静まっていくように、湖へ、還って、消えた。

 あとには、湖の水音だけが残った。

 ひた、ひた、と。石を数える音だけが。

 イーファは両手で口を押さえたまま動かなかった。押さえた指のあいだから、震える息だけが漏れていた。

 ドナル爺は、動かなかった。腰掛けの上で目を閉じ、彫り物のように動かなかった。ただ、閉じた目尻から皺づたいに伝っていくものだけが、動いていた。

 ニーヴは、証しの座で膝を揃えていた。

 揃えた膝の上で、手を一度だけ固く握ってひらいた。

 役目を終えた器が、掌の上でただの素焼きに戻っていた。四十年磨かれつづけた肌だけが、暮れ方の光を静かに返していた。

 どれほど経ってからか、イーファが手を下ろした。

 「……この歌」かすれていた。「母さんの歌。……母さんが歌うのは、いっつも高いほうの節で。わたしが知っとるのは、上だけで……」

 言葉が、途切れた。

 「……下が、あったんじゃね。この歌。はじめから、二人の歌じゃったんじゃね」

 イーファは袖で目元を押さえ、それから立ち上がった。

 石段を二つ下りる。湖に向かって、息を吸う。

 歌った。

 上の節だった。母親が四十年、独りで歌いつづけた側の節が、いま消えたばかりの下の節を追いかけるように、水の上へ出ていった。

 うまい歌では、なかった。声は湿り、節は何度も揺れた。それでも、湖のどこか遠くで下の節と落ち合う気がした。

 器の要らない、返しの声だった。

 ドナル爺は目を閉じたまま、聞いていた。目尻のものだけが、また新しくなった。

 届けたら、退く。

 ニーヴは器と敷物を片づけ、暇を告げた。イーファは何度も礼を言いかけ、そのたびに言葉にならず、しまいには深く、長く、頭を下げた。

 ドナル爺は杖をついて戸口まで見送りに出た。

 「声継ぎさん。……クロスケリーの、その、棚の番人に」爺は言葉を探した。「四十年、磨いてくれた人に。……礼を」

 「伝えます。きっと」

 丘の背へ登りきったところで、ニーヴは一度だけ湖を振り返った。暮れきった水の上に、灯がひとつ、岬の先で揺れていた。歌は、もう聞こえない。それでも、湖のどこかで上と下の節がまだ落ち合っているような気が、なぜだかした。


   *


 クロスケリーへ帰り着いたのは、その二日のちの夕暮れである。

 炉の間で、ニーヴは首尾を告げた。

 「棚出しの声、アヴォンリーのイーファさんへ――リアさんの娘さんへ、宛て名の座の継ぎをもって、確かに届けました」

 「落としたか」

 「落としてません! 走ってもいません!」

 「なら、いい」

 それきりだった。それきりのあとで、師匠は自分の茶碗より先に、ニーヴの茶碗へ茶を注いだ。四十年の首尾への褒美は、湯気の立つ茶が一杯である。この稼業のあっさりは、今日も健在だった。

 夕餉の前に、ニーヴは廊下の突き当たりへ向かった。

 無窓の間の扉は、まだ開いていた。錠の下りる刻限には間がある。燭台の明かりの中で、ファーガルが、棚の中程の――器ひとつぶん空いた隙間を布で拭いていた。

 「爺さま。届きました」

 磨く手が、止まった。

 「四十年ぶん、埃のない器でした。……それから、言伝てです。四十年磨いてくれた人に、礼を、と。宛ての続きの、お家の人から」

 ファーガルは、こちらを向かなかった。向かないまま、空いた隙間をもうひと拭きした。

 「……そうか」

 と言った。しばらくして、もういちど。

 「……届いたか」

 訥々の声が、いつもよりなお訥々としていた。それだけだった。それだけの、器ひとつぶんの隙間を磨く背中が、ニーヴにはなぜだか少し眩しかった。

 辞儀をして、出ようとした――そのときである。

 燭台の火が揺れて、棚の奥が束の間だけ明るんだ。

 手前の段の器には、どれも小さな木札が紐で提げてある。組合の刻みで、語り手と宛て名を留めた札である。奥へゆくほど札は古び、色が沈み、それでも段ごとに行儀よく下がって――

 いちばん奥だけ、違った。

 最奥の段の器には、どれ一つ、届け先の札が、なかった。

 「……爺さま。あの、いちばん奥の段……」

 「嬢」

 廊下から、声がした。

 振り向くと、敷居に師匠が立っていた。いつからそこにいたのか、炉の間の茶碗をまだ手に持ったままである。

 「……あれは、誰宛てなんですか」

 問いは、考えるより先に口をついて出た。

 師匠は、茶を一口ぶんだけ間を置いた。

 「――問うな。掟だ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ