第四話 文字の町
クロスケリーを南へ、川に沿って三日。丘がすっかり夏の色に変わったころ、ニーヴは初めて文字の町を見た。
ロスマリーは、海と川が落ち合うところに開けた港町だった。斜面ばかりのクロスケリーと違って地面はどこまでも平らで、その平らな地面の上に、平らでない建物が背比べをしている。とりわけ町の真ん中に立つ大聖堂は、丘一つぶんもあろうかという石の塔を空へ突き上げ、その天辺で鐘が朝から幾度も鳴った。鐘は一つではない。大きいのと小さいのが順に鳴って、その鳴り方で何かを町じゅうへ知らせているらしかった。あれも一種の便りなのだと、ニーヴは坂の上から見下ろして思った。声で運ばぬ便りが、この町にはある。
港には帆柱が林のように立ち、荷を上げ下ろしする掛け声が絶えなかった。掛け声の合間を縫って、乾いた墨の匂いと、嗅いだこともない甘い香の匂いが風に乗って坂まで届いた。香のほうは聖堂で焚くものだと、あとで知った。
ニーヴは負い籠の掛かりを二度確かめて、坂を下りた。
胸の器には、丘の母の声が一つ封じてある。
クロスケリーを発つ前、組合の帳場で、師匠の口はいつもどおり短かった。
「クロスケリーの、ウナ。母の声。……宛て名は、ロスマリーの息子だ」
「息子さん、ロスマリーに」
「大聖堂の書記になったと、本人は言うておる」オシーン・マクブライは茶碗を膝の前へ引き寄せ、それきり黙りかけて、めずらしく一言足した。「……字の書ける男だ。字の書ける耳は、たまに声を安く見る」
安く見る、という言い方が道々ずっと耳に残った。
封じはその日のうちに済ませてあった。ウナの家は坂の町の裾の、日の当たらないほうの一間きりの家だった。糸を紡いで暮らしてきた人だと知れる、痩せてやつれた女が、寝床から半身を起こしてニーヴを迎えた。病はもう深いようだった。それでも器を捧げる腕には、糸を撚る手の癖が残っていた。語り終えたあと、ウナは枕の下から布の小さな包みを出して、銅貨を一枚ずつ、数えるというよりは確かめるように、ゆっくりと並べた。遠くへ声を送るのは高い。銅貨一枚あれば、宿場で温かい一膳にありつける。三日の道のりぶんの運び賃は、この家の暮らしには、けっして軽い数ではなかったはずだ。帳場育ちの算盤は、そういう銅貨の重さを勝手に量ってしまう。量ってしまってニーヴは少しだけ、その音を聞くのが辛かった。
だが、聞いた中身は胸に置く。掟の三条。並べられた銅貨の意味も、器の奥に座ったあの声も、宛先の耳へ届くまではニーヴのものではない。
坂を下りきると、町はもう文字だらけだった。
商家の軒には板が下がり、板には墨で何か書いてある。道の角の石にも、聖堂の壁にも、荷箱の腹にもみな文字がある。読める者にはあの一つ一つが道しるべであり、値札であり、名札なのだろう。ニーヴには、そのどれもがただの黒い模様だった。
「……こりゃ、目が二つあっても片方は使いものにならないね」
道の真ん中で立ち往生しかけて、ニーヴは負い籠を背負い直した。読めないなら訊けばいい。読み書きのできない者が国じゅうに大勢いて、その大勢の便りを声が運ぶ――それが、この稼業の成り立つ理由である。文字の町でも、口はついている。
「すみません、大聖堂の書記さまのお部屋は、どちらへ行けば」
魚を担いだ女に訊くと、女は指で坂の上を差した。荷を積む男に訊くと、男は肩で塔のほうをしゃくった。訊くたびに一歩ずつ、ニーヴは正しい方角へ寄っていった。文字を読めなくても、声を貸してくれる人がいれば迷子にはならない。町じゅうが黙って文字で喋っているようなこの場所で、それが少しニーヴには可笑しかった。
驢馬のアネモネは、坂の下の宿の厩に預けてきた。この町の道は人と荷車で埋まっていて、驢馬を連れ歩けば互いに難儀する。別れ際に藁を一抱え多めに頼んでおいたら、アネモネはさして名残も惜しまず、鼻づらを飼葉桶へ突っ込んだ。薄情な相棒である。
*
大聖堂の裏手に、書記たちの働く一棟があった。
戸をくぐると、まず匂いが変わった。墨と、革と、古い紙の匂い。窓辺の長机がいくつも並び、そこに前かがみの背中がいくつも並んで、みな一心に筆を走らせている。誰も口をきかない。羽根の先が紙を掻くさらさらという音だけが、部屋いっぱいに満ちていた。
これほど大勢がいて、これほど静かな部屋を、ニーヴは知らなかった。組合の帳場はコルムが一人いるだけで、その倍は賑やかである。
「あら」
声をかけてきたのは、机の列の端にいた女だった。歳のころは三十がらみ、墨で汚れた指をしていて、目もとに笑いの皺がある。灰色の頭巾をかぶっているから、聖堂に仕える人だと知れた。
「負い籠の人ね。……声継ぎさん、でしょう。丘のほうの」
「ご存じで」
「書物でだけ、知っています」女は嬉しそうに言った。「声を器に封じて運ぶ人たち。文字の要らない便り。――この目で見るのは初めて。わたしはテオドラ。ここで古い書きものの写しを取る役です」
テオドラは筆を置いて立ち上がり、部屋の静けさを気にしてか、ニーヴを廊下へ促した。
「どなたに、お届け?」
「エイダンさん、という書記さまです。丘のウナさんという方の、息子さんで」
テオドラの顔が、ほんのわずか曇った。曇ってから、それを笑みで隠した。
「エイダンね。……呼んできましょう。少し、お待ちを」
待つあいだ、ニーヴは廊下の窓から仕事場を眺めた。前かがみの背中の列はどれも同じ形に見えて、どれも少しずつ違った。あの中の一つが、丘のウナの息子なのだった。字の読めない母の産んだ、字を書く子。
やがて、テオドラが一人の男を連れて戻ってきた。
若い男だった。二十のなかばか、痩せて、指がやはり墨で汚れている。仕立てのよい聖堂の衣を着て背筋がまっすぐで、いかにも文字の町の人らしい身ごなしだった。だがニーヴを――正しくはニーヴの負い籠を見た瞬間、その背筋にふっと固いものが差した。
「……声継ぎ」男は、坂の町の訛りをきれいに削ぎ落とした喋り方をした。「わざわざ、丘から?」
「クロスケリーから参りました。お母さまの、ウナさんの声をお預かりしています」
「母が」エイダンは目を伏せた。「……母が、声継ぎを雇ったのか。そこまでの、銭を」
言ってから、しまった、という顔をした。銭のことをこの稼業の者の前で言うものではない、と気づいたらしい。ニーヴは気づかないふりをした。並べられた銅貨の重さは胸に置く。それも、この人に届けるべき中身のうちだと思ったから。
「……そんなに弱っているとは、知らなかった」エイダンは、目を落としたまま、半ばひとりごとのように言った。「母は、達者だと便りをよこすばかりで。案じるな、と……」
「お手すきのときに、座を設けさせてください。半刻もかかりません」
「……いまは、写しの途中だ」エイダンは仕事場のほうへ目をやった。「大事な写本でな。手を止めれば墨が乾く。……日を、改めてもらえないか」
ブランの、明日にせんか、を思い出した。あの石工も器を前に三度逃げた。だがあれは照れの逃げだった。この人の逃げは、色が違う。
仕事場には大勢の同輩の背中がある。この人は、あの背中たちの前で、丘の母の声を受け取りたくないのだ。文字を捨てた土地から来た使いを、文字で身を立てた自分の机の脇に立たせておきたくない。――ニーヴはそう読んだ。読み違いかもしれない。だが読み違いなら、確かめればいいだけである。
「エイダンさん」ニーヴは声を落とした。「座は、人の少ないところで組めます。聖堂の隅でも、庭の木の下でも。あなたとあたしと、証しに立つ耳が一つあれば足ります。……誰にも見せずに済みます」
エイダンの目が、初めてまっすぐニーヴを見た。図星を指された者の目だった。
横で、テオドラが静かに言った。
「わたしでよければ、証しに立ちます。……それとも、席を外しましょうか」
「いや」エイダンは少し掠れた声で言った。「……テオドラなら、いい」
同じ仕事場の同輩でも、この人になら、と言った。ならばこの人は、味方が一人でもいれば座に着ける。ニーヴは頭のなかで小さく頷いた。逃げ道を塞ぐのではなく、逃げなくていい場所を作ってやる。二十年閉じた戸を横から開けたときと、理屈は同じだった。
*
座の支度は、聖堂の中庭の楡の木陰に決まった。エイダンが写本の手を片づけてくるあいだ、ニーヴは敷物を広げ、テオドラは物珍しげにそのそばへ膝をついた。
「ねえ、声継ぎさん。一つ、訊いても?」テオドラは、いたずらっぽく声をひそめた。「わたし、ずっと不思議で。……封じた声は、道の途中で聞こえてしまったりは、しないの?」
「しませんよ。器は割っても鳴らないし、振っても中で何か動く気配もない。――中身は、開けの座で、宛先の耳に一度きり流れて、それで消えます」
「一度きり。写しも、取れない」
「取れません。取れたら、あたしら失業だけど」ニーヴは笑った。「あなたがた書記さまは逆でしょう。取った写しが本物と寸分たがわないのが、腕の見せどころ」
「そう」テオドラは目を輝かせた。「そこが逆さまで、面白いのよ。――文字は、残すための道具。声は……消えるための、道具」
消えるための道具、という言い方に、ニーヴは少し引っかかった。引っかかったが、それがなぜかは、まだ言葉にならなかった。
テオドラは立ち上がると、回廊の奥から革で綴じた分厚い書きものを一冊、両手で抱えて戻ってきた。表紙も中も、びっしりと文字で埋まっている。
「これね、聖堂の年代記。この町ができてからのことがぜんぶ書いてあるの。……せっかくだから見せたくて。あなたがたの組合のことも、載っているのよ」
「組合が? 聖堂の帳面に?」
「ええ。ずいぶん昔のところに、一行だけ」テオドラは慣れた手つきで紙を繰り、ある行を指で押さえた。「――読み上げましょうか。あなた、字は」
「読めません」ニーヴはあっさり言った。「読み書きは、聖堂と、商家と、書記さまのもの。あたしのは、口と、耳」
テオドラは、ふふ、と笑って、その一行を声に出して読んだ。文字の人が、文字を声にして、字の読めない者へ渡す。あべこべなようで、それがこの場ではいちばん理にかなっていた。
「――大移し。決まり事ども、紙に移さる。運びの組合、器の棚を引き受く」
ニーヴは、その一行を耳のなかで二度繰り返した。
大移しというのは、昔このあたりで、氏族の決まり事を紙へ書き改めたことを言うのだと、テオドラが添えた。子どもでも名だけは知っている、古い出来事らしい。だがニーヴの耳が引っかかったのは、そこではなかった。
「……運びの組合が、器の棚を引き受く」ニーヴは呟いた。「運びの組合って、うちの組合の昔の名でしょう。声を運ぶ、運び屋の組合」
「たぶん、そうね」
「その組合が、この年代記のとおりなら、大移しの年にできた。……できたばかりの駆け出しの運び屋が、なんだって、その年からもう棚なんか引き受けてるんです?」
テオドラは、きょとんとした。
「棚?」
「届けられなかった声を、しまっておく棚です。うちの本部の、いちばん奥にある。……ふつう、店を開けたばかりで、届け損ねた荷を溜める蔵なんか要ります? 荷なんて、まだ一つも運んでないのに」
言いながら、ニーヴは自分でもうまく形にならない気がした。組合と、あの北の壁の棚とが同い年――それは、考えてみれば妙な話だった。声継ぎがいて、声を封じて、届けそこなって、初めて棚は要るはずである。届ける前から棚があるというのは、順が逆さまだ。
「さあ……」テオドラは首をかしげ、指で年代記の続きを追った。「その先には、もう組合のことは書いてないわ。一行きり。年代記なんて、そんなものよ。書いた人が大事だと思ったことしか、残らない」
「書いた人が大事だと思ったこと、だけ」
「そう。残りはみんな、こぼれ落ちる。……声と、逆さまでしょう」
ニーヴはもう一度、その一行を耳のなかで撫でた。妙な話だと思った。思ったが、それ以上は手のなかで転がしても、答えにはならなかった。まあ、いい。いま運ぶのは、三百年前の帳面ではない。丘のウナの、たった一つの声である。
楡の葉の向こうから、エイダンが戻ってくるのが見えた。
ニーヴは年代記のことを、胸の隅へそっとしまった。
*
エイダンは、楡の木陰の敷物の前で、しばらく立ったまま器を見下ろしていた。
「……座れば、いいのか」
「膝を揃えて、器に向かって。あとはあたしが口上を唱えます。宛て名を読み上げたら紐が解けて、お母さまの声が流れます。一度きりです。……よく、聞いてあげてください」
「一度きり」エイダンは、テオドラのさっきの言葉をなぞるように呟いた。「消えるのか。……残らないのか、母の声は」
「残りません。聞いたぶんだけ、あなたのなかに残ります。それが声の届き方です」
エイダンは、膝を折った。仕立てのよい衣が皺になるのも構わず、地面の敷物へまっすぐに座った。背筋はやはりまっすぐだった。文字の人になっても、膝の揃え方には丘の母のしつけが残っている。座というものの前で、人は育ちを隠せない。ダンロッホの兄弟がそうだったように、この人もそうだった。
テオドラが、少し離れて座に着いた。
ニーヴは器を捧げ、解きの口上を唱えた。
「語り手はウナ、エイダンの母。宛て名はエイダン、ウナの息子。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――エイダン。母さんじゃ。
最初のひと言で、エイダンの肩がびくりと動いた。
――おまえが、南の大きな聖堂で字を書く役についたと、隣のおかみさんに読んでもろうた便りで知ったときはな。うれしゅうて、路地じゅうに触れて回った。うちのエイダンは、聖堂で字を書くと。……そのくせ母さんは、おまえの書いた字を、ただの一字も読めやせん。年に一度おまえがよこす便りも、みんな人に読んでもろうた。おまえの手が書いた字を、この目ではいっぺんも、読めんかった。……それだけは、母さん、すまんかった。
エイダンの、膝の上の手が握られた。
――じゃがな、エイダン。母さんは、おまえの字は読めんでも、おまえのことならぜんぶ知っとる。おまえが三つのころ、囲炉裏の灰に、燃えさしの枝で初めて何か書いた。覚えとらんじゃろ。「かか」と書こうとしたんじゃ。母さん、と呼ぶ、あの「かか」じゃ。字の形にもならん、みみずの這うたような線を二本。……あれを見たとき、母さんは思うた。ああ、この子は字の子になる。字の読めん母から、字を書く子が生まれた。世の中はおかしなことをするもんじゃ、とな。
声が、そこで少し笑った。灰の上のみみずを思い出して笑うような、皺の寄った笑いだった。
――もう、長うない。おまえの顔をもういっぺん見たかったが、南は遠すぎる。じゃから、声を送る。達者じゃ、案じるな、と便りに書いてもろうても、その先の、ほんとうのことは、借りた手には託せん。声なら、字の書けん母さんにも送れるでな。……エイダン。字の読めん母を持ったことを、恥じるなよ。母さんは、字を書くおまえを、いっぺんも恥じたことはないでな。いっぺんも、ない。
――達者で暮らせ。母さんの、字の子。
声はそこで、言い足すことを探すようにひと呼吸だけ器のなかにとどまって――それから、紡いだ糸の端が指を離れていくように、するりと細くなって消えた。
あとには、楡の葉を鳴らす風と、遠くの鐘の音だけが残った。
エイダンは、動かなかった。
まっすぐだった背が、ゆっくりと折れた。膝の上に置いた両の手で顔を覆う。墨に汚れた書記の指の隙間から、声にならない息が漏れて、それが一つ、二つと数を増して、やがて肩ごと震える嗚咽になった。文字で身を立てた男が、字にならない線を二本思い出して、泣いていた。
「……かか」
覆った手の下から、たった一言、それだけが漏れた。二十いくつの書記の口から出たのは、三つの子の言葉だった。
ニーヴは証しの座で、膝を揃えていた。
泣かなかった。証しに立つ者は、座では泣かない。だが揃えた膝の上で、手のひらに爪が食い込むほどきつく握っていた。テオドラも、少し離れたところでうつむいて、頭巾の陰の目もとを片手で押さえていた。
役目を終えた器が、ニーヴの掌の上で、ただの素焼きに戻っていた。心なしか、軽い。
*
嗚咽が凪ぐまで、誰も口をきかなかった。
やがてエイダンは、袖で乱暴に顔を拭って、赤い目のままニーヴのほうへ向き直った。
「……声継ぎさん」訛りが少し戻っていた。「おれは、丘へ帰る。写本を引き継いで、聖堂に暇をもろうたら、すぐに発つ。……じゃが、どう急いでも、支度に二日、三日は食う。あんたの足には、追いつけん」
エイダンの喉が、ひとつ上下した。
「返しの声は。……送れるのか。母に。……おれの足より、先に」
「送れます」ニーヴは静かに言った。「あたしは今日のうちに発ちます。あなたが器に語れば、あたしの足で三日。――あなたの、どの支度よりも先に、丘へ着きます」
「おれは、字を書く」エイダンは掠れた声で言った。「字なら、いくらでも書ける。長い便りも、美しい文字も。……だが、母は読めない。おれがどれだけ立派な字を並べても、母には一字も届かない」
握った拳が震えていた。
「おれはずっと、それを母のせいにしてきた。字も読めない、と。丘の者は、と。……逆だった。字の届かない相手に字で書こうとした、おれが、ばかだった」
「いまからでも間に合います」ニーヴは新しい器を負い籠から取り出した。「字の届かないところへは、声が行きます。それを運ぶために、あたしがいる。……語ってください。お母さまの耳に、いちばん近い言葉で」
エイダンは、震える手で素焼きの器を両手に捧げ持った。
ニーヴは宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はエイダン、ウナの息子。宛て名はウナ、エイダンの母、クロスケリー在。――この座の、証しに立ちます」
エイダンは、器へ向かって語りはじめた。
何を語ったかは、ニーヴの胸に置く。ただ、その語り出しは、訛りを削ぎ落とした聖堂の喋り方ではなかった。坂の町の、丘の裾の、母と同じ訛りの――「かか」と初めて書いた三つの子の、まっすぐな声だった。
語り終えて、ニーヴは器の口を蜜蝋で塞ぎ、刻み紐を定めの結いに結んだ。耳を澄ます。
――座った。
「……確かに、お預かりします」
器を胸の内懐へそっと納めた。丘までは三日。急ぐ道ではない。だが、遅らせていい道でもない。ニーヴは掛かりを二度、いつもより念入りに確かめた。
*
エイダンは、聖堂の門まで見送りに出た。
「母に……」門の下で、エイダンは言いかけてやめた。伝えてくれ、と言おうとして、それはもう器のなかにある、と気づいたのだろう。「……いや。声が、言うな。おれの声が」
「言います」ニーヴは頷いた。「あなたの声が、あなたの言葉で」
「……それと、あとから、おれが行く。それだけは、先に伝えてもらえんか。器の外の、用じゃが」
「伝えます」ニーヴは笑った。「そっちは、あたしの口で足りる用ですから」
エイダンは、深く頭を下げた。文字の町の人らしい、折り目の正しいお辞儀だった。だがその背中には、もう、あの固いものはなかった。
テオドラが、坂の途中までニーヴを送ってきた。夏の日が、港の帆柱の上で高かった。
「いいものを見せてもらいました」テオドラは、坂の海の見えるところで足を止めた。「文字を写して暮らしていると、つい思ってしまうの。残るものがいちばん尊い、と。……残らないものは、忘れられて当たり前だ、と」
ニーヴは、坂の下の港を見ていた。テオドラも、同じほうへ目をやっていた。荷を担ぐ男たち、戸口で網を繕う女たち、桟橋を駆けていく子ども。文字の要らない用を、声だけで一日じゅう足している、坂の下の人いきれだった。
「ねえ、声継ぎさん」テオドラは、まっすぐにニーヴを見た。「書かれたものは残ります。声は、消える。――それでも、あの人たちが文字ではなく声を選ぶのは、なぜだと、あなたは思う?」
ニーヴは、口を開きかけた。
開きかけて、気づいた。――あたしは、その答えを知っている。
十の年、囲炉裏端で聞いた、祖母の声。読み書きのできなかった人が、たった一度きり遺していった、短い声だった。それは語られたときの調子のままほどけて消えた。写しはない。二度目もない。一度きりだった。一度きりだったからこそ、あの声はまっすぐ、十のニーヴのまんなかへ来て、来た道ごと消えた。
消えるから、確かなのだ。
残らないから、その一度がまるごと本物になるのだ。
だがそれは、口で説くようなことではなかった。文字を写して暮らす人へ、声を運んで暮らす者が、勝ち負けのように差し出すことではなかった。エイダンの「かか」が、器のなかで一度きり鳴って消えたことこそが、もう、答えのぜんぶだった。
だからニーヴは、笑った。
答えは、胸に置いた。届けで聞いた声とおなじに。
片手を高く上げてテオドラへ振って、坂を下りた。港の鐘が、また鳴った。何を報せる鐘かは、いまも読めない。読めないまま、ニーヴは丘へ帰る道を選んだ。胸の器には、丘の母のもとへ帰る、字の子の声が一つ。
言わずにおくのが、いちばん確かなことも、ある。




