第三話 啖呵は足が速い
独り立ちして三件目の配達は、西へ二日の道だった。
丘をひとつ越えるたびに風の匂いが変わった。石壁の畑の土くささが薄れて、草いきれに知らない匂いが混じりはじめる。青くさいような生ぐさいような、それでいて胸のすくような匂いだった。二つ目の丘の背に立ったとき、ニーヴは匂いの正体をその目で見た。
海だった。
丘の裾が緑から灰色の岩へ移り変わり、その先で鈍く光る大きな水が空の縁まで広がっている。入り江が一つ陸へ深く切れ込んで、奥の斜面に灰色の屋根が段々に張りついていた。クロスケリーの坂の町を、そっくり海の際へ運んでいったような村である。
ブラーニヴ湾。
「アネモネ、見て。海だよ、海!」
ニーヴは負い籠を揺らして、その場で跳ねた。傍らの荷驢馬はたかたかと蹄を鳴らしたまま、海のほうも跳ねる主人のほうも格別ありがたがる様子はない。海は年季のうちに遠くから二度ばかり見た。だが配達で来るのは初めてである。近くの海は遠くの海よりずっと大きく、ずっとよく喋った。寄せては返す音が、丘の上まで律儀に届いてくる。
二日前の朝、帳場で師匠が言い渡した口は、いつもどおり短かった。
「ブラーニヴ湾の、漁師の女房。啖呵の声。……宛て名は、沖の亭主だ」
啖呵の声、というところでニーヴは茶を注ぐ手を止めた。
「啖呵、ですか。あの、啖呵」
「ほかに、どの啖呵がある」
オシーン・マクブライは茶碗を膝の前へ引き寄せて、それきり黙った。祝いを運び詫びを運び、今度は啖呵を運ぶ。独り立ちして半月足らずで、ずいぶんいろとりどりの情を背負わせてもらえるものだと思った。喜んで送る声があり、詫びながら送る声があり、そして腹を立てて送る声も、この世にはあるらしい。
「行け」師匠は言った。それからひとつだけ付け足した。「……啖呵は足が速い。送り手が急かしても、封じは急ぐな」
足が速い、という言葉の意味は道々ずっと考えて、いまもって分からずにいた。
村へ下りると潮の匂いが胸いっぱいになった。網を干す匂い、魚のはらわたの匂い、舟に塗る脂の匂い。坂の路地では女たちが戸口で網を繕い、子どもが桟橋のほうへ駆けていく。負い籠のニーヴを見て、繕いの手がひとつ、またひとつ止まった。
「声継ぎさんかい」年かさの女が針を止めて訊いた。「祝いかい、弔いかい」
どこの土地でも、負い籠を見た人はまずそれを訊く。祝いと答えればみな少し笑って、道を空けてくれる。ニーヴは足を止めて少し考えた。今日運ぶのはその二つの、どちらでもない。
「どっちでも、ないんです」
「ないって、あんた」女は眉を寄せた。「祝いでも弔いでもない声を、二日もかけて運んできたのかい」
「運びにきました。――腹の立つ声を」
女の手から繕い針がぽとりと落ちた。
「腹の立つ声を、って……あんた、どこの家へ行くんだい」
「漁師の、ノーラさんというお宅へ」
路地に、妙な間ができた。繕いをしていた女たちが顔を見合わせる。それからいっせいに、気の毒そうな、けれどどこか面白がるような目でニーヴを見た。
「……あんた、達者でな」
年かさの女はそれだけ言って、繕いに戻った。
村に一軒きりの宿は、桟橋のすぐ上にあった。ニーヴが厩の隅を借りて、アネモネを繋いでいると、宿の女将が寄ってきた。
「あんた、声のお届けだって? どこの家だい」
「ノーラさんという、漁師の――」
「ああ」女将は、それ一言で、得心のいった顔になった。「あの人の声なら、器なんぞ使わんでも、沖まで届きそうなもんだがねえ」
ニーヴは吹き出しかけて、こらえた。まだ会う前の語り手を、笑ってはいけない。それも、稼業の作法のうちである。
厩の藁を分けてもらって、アネモネのたてがみを梳いてやった。二日の道は、驢馬にも堪える。
「明日は、桟橋が賑わうよ。遠瀬の舟が戻る」女将は、桶を洗いながら言った。「戻ればいいがね。この春の遠瀬は、荒れてるから」
その一言が、なぜだか、耳に残った。
*
ノーラの家は、村でもいちばん海に近い、波音の真下のような家だった。
戸口に立ったニーヴを見るなり、女房は腰に両手を当てて天井を仰いだ。
「来たね、声継ぎさん。よくぞ来た! さあ入んな。茶は――いや、茶はいい。話が先だ。あんた、あたしの言うことを一言残らず、あのうすのろの耳の底まで叩き込んでくれるんだろうね」
ニーヴが名乗るより先に、話は始まっていた。
ノーラは大きな女だった。網を手繰る腕は丸太のようで、声は戸を閉めていても入り江の向こう岸まで届きそうだった。初仕事の石工のブランは、器を前にして口が石になった。この人は逆である。栓を抜いた樽のように、言葉がとめどなく溢れて止まらない。
声継ぎの稼業は、たいてい言葉を引き出すのが仕事である。詰まった語り手の口を、根気よくほぐしてやる。ところがこの家では、勝手が丸ごと逆さまだった。溢れてくるものを、どうやって器の一杯ぶんに掬い取るか。ニーヴは早くも、額にうっすら汗をかいていた。
「うちの亭主はデクランっていうんだ。この春で所帯を持って七年になる。七年だよ。七年連れ添って、いっぺんだってあたしの言うことを聞きゃしない。今度もそうだ。今度こそただじゃおかないよ」
「……あの、ノーラさん」ニーヴはようやく口を挟んだ。「まず座を設えさせてください。話は、器へ向かって――」
「そうだ、器だ! その器へ、洗いざらい言ってやるんだ」
座を設えるあいだも、ノーラの口は動きどおしだった。おかげでニーヴは、敷物を敷き終えるころには喧嘩の一部始終を残らず知ってしまっていた。
デクランはこの季節、沖の遠瀬へは出ない約束だった。遠瀬は潮がきつく風が読めず、春先には毎年、帰らぬ舟が一つ二つ出る。だからノーラは近瀬だけにしておくれと、亭主に指切りまでさせた。ところが三日前、ちょっとした言い合いの果てにデクランは意地になって、遠瀬へ出る舟に乗り込んでしまった。明日には戻るという触れだったが。
「約束を破ったんだ、あのうすのろは」
ノーラの声が、ほんの一瞬だけ上ずった。ニーヴはその、髪ひとすじほどの揺れを聞き逃さなかった。怒鳴っている声の底に、別のものが一つ沈んでいる。
だが、それは口にしない。
ニーヴは膝を揃え、器を捧げて、宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はノーラ、デクランの妻。宛て名はデクラン、ノーラの夫、ブラーニヴ在。――この座の、証しに立ちます」
あとは語るだけだった。
語るだけの、はずが――語りすぎるほど語られた。
ノーラは器へ向かって、堰を切ったように喋った。低く速く、ときに拳を握りときに膝を打って。ニーヴは証しの座で膝を揃え、ただ聞いた。聞いた中身は胸に置く。掟の三条。
――だが、その啖呵の言葉のあいだには、細い糸が一本、はじめから終わりまで織り込まれていた。怒りの糸ではない。案じる糸だった。叩き出してやる、の下に、無事で帰れ、が縫い取られている。ノーラ自身、たぶんそれには気づいていない。
語り終えて、ノーラは肩で大きく息をした。ニーヴは器の口を蜜蝋で塞ぎ、刻み紐を定めの結いに結んだ。耳を澄ます。
――座った。
「……確かに、お預かりします」
「明日だ」ノーラは洟をすすって言った。すすってから、洟をすすったのは潮風のせいだという顔をした。「明日の昼過ぎに遠瀬の舟が桟橋へ戻る。あの分からず屋が舟から降りたら、その足元で、それを開けとくれ。村じゅうの見ている前で、恥をかかせてやるんだ」
*
夜が明けきらないうちに、宿の戸を叩く音がした。
ニーヴが出ていくと、ノーラが立っていた。ゆうべの、入り江の向こうまで届く声はどこへやら、しおれた菜のような顔をしている。手には何も持っていない。持っていないのに、両手を胸の前で固く握り合わせていた。
「……声継ぎさん。ゆうべの、あれな」
「はい」
「あれを、なかったことにできんかね」
やっぱり来た、とニーヴは思った。師匠の声が耳の奥で鳴る。啖呵は足が速い。――足が速いのは啖呵ではなくて、あとから追いかけてくる後悔のほうだったのかもしれない。
「なかったことには、できません」ニーヴはできるだけ静かに言った。「預かった声は必ず届ける。組合の掟の一条です。あたしはもう、ゆうべあれをお預かりしました」
「じゃあ割っとくれ。叩き割って海へ捨てとくれ。銭なら払う」
「割るのも、できません」
なぜ、と訊かれると困る。封じた声を組合の手で毀してはならない――それは年季のはじめに、掟として叩き込まれた。理由は教わらなかった。訊いても、師匠も棚番のファーガル爺さまも口を濁した。届けられなかった声の器は、捨てることを固く禁じられて、組合の奥の窓のない部屋の棚で眠る。なぜ捨ててはいけないのか、その理由を組合の誰も知らない。知らないままに、みなその決まりだけを守っている。
「割れません。捨てられません。……あたしにできるのは、届けることだけです」
ノーラの顔がくしゃりと歪んだ。
「じゃあ、あの人は、あたしの啖呵を村じゅうの前で聞くのかい。叩き出してやる、なんて……ほんとは、そんな――」
言いかけて、ノーラは口をつぐんだ。ほんとは、そんなつもりじゃない。その先を、この人はまだ自分の口では言えずにいる。
ニーヴは少し考えた。頭の中で算盤が二つ、三つと弾ける。答えは案外あっさりと、染まるように出た。
「ノーラさん。一つ、手があります」
「手?」
「順番です」ニーヴは指を立てた。「先に啖呵を開けます。腹の立つのを洗いざらい聞かせる。それが一つ。――そのすぐあとに、もう一つ声を開ける。あなたがほんとうに届けたい声を。それが二つ。……夫婦の言い合いというのは、最後に言ったほうが勝つでしょう」
ノーラはぽかんとした。それから、しおれた菜が水を吸うように背筋を伸ばした。
「……最後に、あたしのほんとうを言えるってことかい」
「掟は曲げません。啖呵はちゃんと届く。でも、あなたの最後の一言は、あなたが決めていいんです」
新しい器を捧げて、ニーヴはもう一度、宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はノーラ、デクランの妻。宛て名はデクラン、ノーラの夫、ブラーニヴ在。――この座の、証しに立ちます」
ノーラは今度は堰を切らなかった。
器のふちに額がつくほど身をかがめて、低く短い声で、途切れ途切れに語った。ゆうべの半分も言葉はなかった。ニーヴは膝を揃えて聞き、聞いた中身はまた胸に置いた。だが今度は、胸に置くのが少しあたたかかった。
――座った。
二つの器が敷物の上に並んだ。素焼きの肌は双子のように見分けがつかない。だが、口を結んだ刻み紐の結いが、二つで違う。啖呵のほうは組合の定めの結い。仲直りのほうには、ニーヴが結い目を一つ余分に足しておいた。
「いいですか、ノーラさん。よく見てください」ニーヴは二つの器を持ち上げた。「結び目の少ないほうが啖呵。多いほうが仲直り。あたしはこの結いで、二つを見分けます。文字の読めない声継ぎが声を取り違えないための、組合の知恵です」
ノーラは二つの結い目を、穴のあくほど見つめた。
「……同じ壺にしか、見えんがね」
「見えなくて、いいんです。見分けるのは、あたしの役目ですから」
*
昼を過ぎて、桟橋は人で埋まった。
遠瀬へ出た舟が戻る日は、村じゅうが桟橋へ出るのだという。舟の数をこの目で数えおえるまで、家の者は落ち着いて飯も食えない。春先の遠瀬はそれだけの海だった。ニーヴは負い籠を胸に抱え、桟橋の付け根で沖を見ていた。人々の肩越しに、灰色の海の遠くから帆が一つ、二つと現れる。そのたびに桟橋のどこかで、女や年寄りがほう、と息を吐いた。誰かが指を折って数えているのを見て、ニーヴも一緒に数えた。声継ぎの負い籠を抱えた娘が他人の舟を祈るように数えているのを、誰も咎めなかった。
帆が一つ増えるたびに、桟橋の誰かの肩から、ほっと力が抜けるのが分かった。舟が戻るというのは、送り出した家の者にとって、これほどの大ごとなのだ。ノーラの啖呵の底に沈んでいた、あの案じる色を、ニーヴはもう一度、思い出した。あの女房も、きっと、この人垣のどこかで、指を折っている。
数えて、六。出ていったのも、六。
桟橋の人垣が、いっせいにほどけた。
デクランの舟は、いちばん最後に着いた。綱を投げ板を渡して、日に灼けた大きな男が疲れた足取りで桟橋へ降りてくる。ノーラと同じくらい大きな男だった。夫婦というのは、どこか似るものらしい。
その男が、桟橋の付け根の負い籠を見て足を止めた。
顔からみるみる血の気が引いていく。
「……声継ぎさん」デクランの声はしゃがれていた。「だ、誰が、死んだ」
負い籠を見た漁師が、まっさきに思うのはそればかりらしい。ニーヴは慌てて首を振った。
「違います! 弔いじゃありません。あなたの奥さんから、声のお届けです」
デクランの肩から力が抜けた。抜けてから――今度は別の理由で強張った。奥さんから、声。この男は三日前の言い合いを、ちゃんと覚えているらしかった。
「奥さんから?」「ノーラんとこの?」「何だい何だい」
舟を数えおえて手の空いた村人たちが、面白半分に寄ってくる。声継ぎの届けは村の見せ物である。ニーヴは負い籠を桟橋の板に下ろし、二つの器を取り出した。人垣がぐっと縮まった。
「おい、そっちの声継ぎさんよ」年寄りの漁師が節くれだった指を伸ばした。「壺が二つあるじゃねえか。どっちがデクランのだ」
「二つともデクランさんのです。順に開けますから、先にこちらを――」
「こちらってのは、どっちだ」
年寄りが、ひょいと片方の器をつまみ上げた。よりによって結び目の少ないほう――啖呵の器だった。
「開けるんじゃない!」
人垣の外れで悲鳴が上がった。ノーラだった。桟橋へなど来るものかと言った女房が、網小屋の陰から青い顔で飛び出してくる。「そっちは啖呵だ! まだ開けるんじゃないよ、この分からず屋どもが!」
「啖呵ァ?」
年寄りが慌てて器を放り出そうとした。放り出す先が悪かった。手から滑った素焼きの器は、桟橋の板の上で一度跳ね、二度跳ねて、みなの足のあいだをすり抜け――桟橋の縁でこつん、と杭に当たって。
割れた。
みなが息を止めた。
ニーヴも、止めた。
割れた器からはいまにも、ノーラの啖呵が溢れ出すはずだった。叩き出してやる、の怒声が村じゅうの頭の上へ、桶の水をぶちまけるように――
何も、起きなかった。
音一つ、しなかった。
桟橋の板に散らばったのは、ただの素焼きの白っぽい破片だけだった。声はない。怒声もない。囁きもない。割れた壺は割れた壺の顔をして、板の上に転がっている。潮風が破片のあいだを素通りしていった。
人垣が、狐につままれた顔で破片を見下ろした。
ニーヴはしゃがんで破片を集めながら、努めて何でもない声で言った。
「……大丈夫。割れても、困りません」
「困らんのかい」年寄りが目を丸くした。
「困りません。声継ぎの器は割れても、中身がこぼれるわけじゃない。語り手が生きていれば、もう一度語ってもらえばいいだけです。ねえ、ノーラさん」
水を向けられたノーラは、破片と亭主の顔とを代わる代わる見た。それから大きな肩から、ふうっと力を抜いた。
「……もう、いいよ。あの啖呵は」
「もう一度、語りますか」
「語るもんかね。二度もあんな……」ノーラはばつの悪そうにそっぽを向いた。「割れて、せいせいしたよ」
桟橋にどっと笑いが起きた。年寄りが腹を抱え、子どもが破片を指さして跳ね、デクランまでがわけも分からないまま、つられて笑っている。啖呵は割れ、誰の耳にも届かないまま白い破片になった。それで丸く収まった。――おもてむきは。
ニーヴだけが、笑わなかった。
破片を掌に集めていた指が、止まっている。
――聞こえた。
割れた器の白い破片のあたりから、ごく微かな、耳の奥をくすぐるようなざわめき。大勢の人が遠くでひそひそと囁き交わしているような気配が、波の音に紛れてほとんど聞き取れない。だが確かにあった。
初仕事の晩、組合の北の壁の部屋の前で聞いた、あれと同じだった。
あのとき棚番のファーガル爺さまは、少しばかり早口で「気のせいじゃ」と言った。――気のせい。ほんとうに、そうだろうか。
ニーヴは顔を上げて桟橋を見回した。笑っている村人。跳ねる子ども。誰も何も聞いていない。聞いているのは、あたしだけだった。
割れた破片をそっと拾い集めて、負い籠の隅の布にくるんだ。捨てる気には、なぜだかなれなかった。
笑いがおさまると、ニーヴは立ち上がって、残った一つの器を捧げ持った。結び目の多いほうである。
「デクランさん。もう一つ、お届けがあります。――こちらが、ほんとうの」
桟橋の人いきれの中では、座は組めない。ニーヴはデクランを、風下の網小屋の陰へ促した。板を一枚敷いて差し向かいに座る。ノーラは、と目で探すと、さっきの網小屋の陰にまだいた。来るものかと言った場所へ、それでも来ている。両手を胸の前で固く握り合わせて。
ニーヴは器を捧げ、解きの口上を唱えた。
「語り手はノーラ、デクランの妻。宛て名はデクラン、ノーラの夫。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――あんた。
ひと言目で、デクランの大きな肩がびくりと動いた。
――あたしはね、ゆうべあんたに叩き出してやると言うつもりで、声継ぎさんを呼んだ。ほんとだよ。ほんとに、そのつもりだった。
声が、そこで一度詰まった。
――でも、朝んなって桟橋の空を見たら、風が遠瀬のほうへ巻いてた。それを見たら、叩き出してやるどころじゃなくなっちまった。……無事で、帰っとくれ。それだけだ。喧嘩なら、いくらでもしてやる。あんたが帰ってきさえすれば、何べんでもしてやるから。
声は、それで終わりだった。
叩き出してやる、と言うために呼ばれた声継ぎが届けたのは、無事で帰れ、の一言だった。声は荒い言葉をひとつも使わずに、ほどけるように消えて――あとには、網小屋を叩く風の音だけが残った。
デクランはしばらく、膝の上の大きな手を見ていた。
それからゆっくりと顔を上げて、網小屋の陰を見た。
そこに、ノーラがいた。
目が合って、二人はどちらも何も言わなかった。言うべきことは、もう声継ぎが届けてしまった。あとに残る言葉は、この夫婦が二人の口で交わすものだ。ニーヴは空になった器を負い籠へ納めて、そっと立ち上がった。
届けたら退く。あとに残るべきは、家の者だ。師匠にそう仕込まれている。
網小屋を出るとき、背中でノーラの声がした。ゆうべの、入り江の向こうまで届く声が戻っていた。
「この、分からず屋! 心配、させるんじゃないよ!」
叩き出してやると言うはずだった声と、寸分たがわぬ大きさだった。ただ中身だけが、まるきり逆さまだった。
*
その晩は、村の宿に泊まった。
海際の宿は壁の向こうがすぐ波で、一晩じゅう寄せては返す音がしている。ニーヴは板間に横になって、天井の梁を見ていた。昼間の桟橋の笑いは、もう遠い。ノーラとデクランはいまごろ、あの海に近い家で二人ぶんの夕餉を囲んでいるだろう。喧嘩の続きをしているかもしれない。それも悪くない。喧嘩ができるのは、二人とも無事だからだ。
いい一日だった。啖呵は割れ、仲直りは届いた。おもてむきは、それで丸く収まっている。
なのに胸の隅に、小さな棘が一つ刺さったままだった。
ニーヴは起き上がって、負い籠の隅から布の包みを取り出した。ひらくと、白っぽい素焼きの破片が月あかりの中に転がった。昼間、桟橋で割れた啖呵の器の、なれの果てである。
破片を一つ指でつまんで、耳のそばへ持っていった。
何も聞こえない。ただの割れた素焼きだった。
なのに割れたその場では、確かにざわめきがあった。声はこぼれず音もせず、割れてなお、何かがあのあたりにいた。
声は封じられて器の中にある。開ければ流れ出て、消える。ずっとそう思ってきた。器は声の入れ物なのだと。
だが、器が割れて中から何ひとつこぼれなかったのなら――
軒の下の暗がりで、アネモネが藁を踏む音がした。ニーヴは破片を布にくるみ直して、相棒のほうへ小さく声をかけた。
「ねえ、アネモネ」
驢馬が耳をこちらへ向けた。
「声って、――どこにあるんだろうね」
アネモネはしばらくニーヴを見て、それからゆっくりと耳を伏せた。
答えは、返ってこなかった。




