第二話 受け手のない詫び
独り立ちして幾日か過ぎると、初仕事の朝に体のまんなかで鳴っていた桶の底のような音も、いつのまにか鳴りをひそめていた。かわりにニーヴが覚えたのは、待つ、という手つきである。師匠が今日の口を言い渡すまで、年季小僧のように黙って茶を淹れて待つ。急かしても、オシーン・マクブライの口は、一言も早くは開かない。
その朝の口は、いつもより一言だけ長かった。
「ダンロッホのフィンタン。詫びの声。……宛て名は、弟だ」
「弟さん?」
「キアラン。二十年、口をきいておらん」
茶を注ぐ手が止まった。
「嬢」オシーンは茶碗を膝の前へ引き寄せて言った。「詫びの声は、祝いとは勝手が違う」
「……はい」
「受け手が、いつでも受け取るとは限らん。祝いはみな喜んで耳を開ける。詫びは――閉じることがある」
それきり、師匠は黙った。ニーヴは続きを待ったが、続きはなかった。この人の言葉は、たいていこちらが半分を継がねば終わらない。
閉じた耳には、届かない。
声を運ぶだけなら、宛先の家の戸口に置いてくればいい。だが、置いてくるのは荷駄の仕事で、声継ぎの仕事ではない。声は、聞く気のない耳の前でどれだけ紐を解いても、届いたことにはならない。年季の七年、口を酸っぱくして仕込まれた稼業の骨である。届けるとは、聞かせて初めて成る。
「もう一つ」オシーンが言い足した。「詫びには、返しがつくことが多い。……持って帰る覚悟で行け」
返しの声。届けた先で受け手がその場で封じ返す声のことである。詫びには詫びの、祝いには祝いの返しが来る。行きと帰りで、二度封じ、二度運ぶ。配達料も二人ぶん――と、そこまで算盤を弾いて、ニーヴは自分の現金さに少し笑った。二十年黙った兄弟の話をしているのに、頭のどこかは、もう帰りの器の勘定をしている。帳場育ちは業が深い。
「行ってきます」
「フィンタンは、長くない」背に師匠の声が届いた。「急ぎはせんでいい。……焦って器を落とすな」
落とすな、と念を押されたのは、初日に器を取り落としかけたと、自分から正直に申告したせいに違いなかった。
アネモネは今日、組合に置いていくことにした。半日の道に驢馬はいらない。それに、うまくいけば荷車に乗せてもらうつもりだった。あの気位の高い荷驢馬は、他人の荷車の尻について歩くのを、たぶんたいそう嫌がる。
*
東の門を出て、丘二つ。ダンロッホへの下り坂にかかったところで、後ろから、車輪の音が追いついてきた。
「声継ぎさん! 乗ってくかい」
幌をかけた荷車が横に並んだ。手綱を握っているのは、四十がらみの、日に灼けた女だった。荷台には、塩の袋と鍋と反物の端切れと、値のつくものなら何でも積んである。丘陵地を回る行商人は、たいてい顔が広くて口が達者で、そして――
「ダンロッホまでなら、銅貨一枚でどうだい」
――たいてい、高い。
「片道半日を一枚?」ニーヴはにっこり笑った。笑ったが、乗らなかった。「あたしの足なら、ただで着くよ」
「その負い籠しょって、丘二つ越えて、器を大事に抱えて、かい」
「大事に抱えて、ね」
「途中でつまずいて落としでもしたら、銅貨一枚どころの騒ぎじゃなかろ」
うっ、と喉が鳴った。初日のあのぬかるみが頭をよぎった。女は、ニーヴの目のあたりに走った狼狽を、行商人の目ざとさで拾い上げた。
「ね。二枚だ」
「上がったよ、いま!」
「一枚半」ニーヴは指を一本立てた。「そのかわり、荷の上げ下ろしは手伝う。その塩の袋、膝で押さえながらじゃ辛いでしょ。あと道々、あんたの荷の売れ口をひとつ教える」
「売れ口?」
「あたし、声継ぎだよ。丘じゅうの家の、どこが祝いでどこが弔いか、負い籠を見せりゃ道の人が先に教えてくれる。祝いの家は気前がいい。塩も余分に買う」
女はたっぷり三つ数えるあいだニーヴを見た。それから歯を見せて笑った。
「……乗んな。あたしはモイラ。話のわかる声継ぎは、好きだよ」
荷車に揺られると、足で歩く倍の速さで丘が流れた。モイラは口の減らない女で、手綱を繰りながら、頼みもしない土地の噂を、次から次へと寄越した。どこそこの牛が双子を産んだ、どこそこの畑の境の石がゆうべ動いた。市の値も婚礼の予定も、この女の頭にはぜんぶ入っているらしい。
「今年もね、忙しくなるよ」モイラが言った。「年の締めに、寄り合いの月があるからね」
「寄り合い?」
「知らないのかい、声継ぎのくせして。年の暮れに、氏族長さまがたがあちこちの谷からあんたの町へ集まるのさ。境の揉め事を裁いて、来年の割り前を決めて、まあ酒を飲む。クロスケリーが年に一度、いちばん膨れあがる月さ」
「へえ」
「氏族長が集まりゃ供の衆も集まる。供が集まりゃ腹が減る。腹が減りゃ――」モイラは荷台の塩を顎でしゃくった。「あたしの塩が売れる。だから今から丘じゅうを回って、仕込んでるのさ」
なるほど、と思った。ニーヴにとってのクロスケリーは、生まれ育った坂ばかりの町でしかない。だがこの女の目には、同じ町が、年に一度ふくれあがる財布に見えているらしかった。ものの見えかたは立つ場所で変わる。染物もそうだ。同じ藍でも、日向で見るのと水の中で見るのとでは色が違う。
昼を少し回って、荷車はダンロッホの谷へ下りた。
「あたしはこの先の村まで。あんたの詫びの家は、川をさかのぼった谷のいちばん奥だとさ」モイラは器用に荷車を回しながら言った。「三日はこのあたりをうろつくよ。帰りもこの道を通る。乗りたきゃ、川端で待ってな」
「三日」ニーヴは口の中で繰り返した。ちょうどいい、と算盤が弾いた。二十年黙った相手を半日で口説けるとは、はなから思っていない。
*
谷のいちばん奥、川が岩を噛んで細くなるあたりに、その家はあった。石壁は苔むし、屋根の草は伸び放題で、人の手の回らなくなった家の顔をしていた。
戸を開けたのは、痩せた中年の女――フィンタンの、隣に住む姪だという。ニーヴを炉端の寝床へ通した。
寝床の老人は、骨に薄い皮を張ったような人だった。だが、負い籠を見たその目だけは、まだ強かった。
「……来てくれたか。声継ぎさん」
「クロスケリーの組合から参りました。詫びの声を、キアランさんへと伺っています」
「キアランは」老人の喉が、ひゅう、と鳴った。「……聞くと、言うたか」
ニーヴは答えに詰まった。まだ会ってもいない。だがこの目に「まだ会っていません」と言うのは、酷なような気がした。
「これから、伺います」
「そうか」フィンタンは天井を見た。「……あれは聞かんじゃろう。わしがあれの立場なら、聞かん」
座は炉端に設えた。フィンタンは器を捧げ持つ腕にも力が入らず、姪が横から支えた。ニーヴは宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はフィンタン、キアランの兄。宛て名はキアラン、フィンタンの弟、ダンロッホ在。――この座の、証しに立ちます」
あとは語るだけだった。
フィンタンはしばらく、器の暗がりを見つめていた。二十年、胸の底で温めてきた言葉が、いざ口を出ようとする段になって詰まっているようにも見えた。初日の石工のブランも詰まった。だがあれは照れの詰まりだった。この詰まりはもっと重い。悔いの目方で、言葉が沈んでいる。
やがて老人は語りはじめた。
低い、かすれた、けれど存外にしっかりした声だった。
ニーヴは証しの座で膝を揃え、ただ、聞いた。
聞いた中身は胸に置く。
――だがその中身は、初日にオルラの父の声を聞いたときとは、まるで違う重さで、ニーヴの胸に落ちてきた。詫びの言葉のあいだに、一つ、動かしようのない事実が置かれていた。それを聞いてしまったとき、ニーヴは、これから始まる三日がたやすくないことを悟った。
語り終えて、フィンタンは目を閉じた。ニーヴは器の口を蜜蝋で塞ぎ、刻み紐を定めの結いに結んだ。
耳を澄ます。
――座った。
「……確かに、お預かりします」
目を閉じたまま、フィンタンが言った。
「声継ぎさん。わしは、あれの返事は聞けんかもしれん」
「……」
「聞けんでも、ええ。届けてくれるだけで、ええんじゃ。……あれが聞いてさえ、くれたら」
届けてくれるだけでいい、と口では言う。だが老人の指は、薄い夜着をきつく握って、返事を待っていた。
*
キアランの家は、谷底のフィンタンの家から丘の斜面をひと登りしたところにあった。羊を飼っているらしく、石囲いの中で、生まれたばかりの仔羊が母羊の腹の下をよろよろと探していた。
男は崩れかけた納屋の前で、傾いだ柱を睨んでいた。フィンタンとは似ても似つかぬ――いや、鼻の形が同じだった。
「声継ぎだって?」キアランは負い籠をちらと見て、すぐ目を逸らした。「帰んな。おれは何も頼んじゃいねえ」
「頼まれたのは、あたしのほうです。あなたのお兄さんに」
「兄貴はいねえ」
「フィンタンさんから――」
「兄貴はいねえと言った」
石囲いの母羊が、間の抜けた声で鳴いた。
ニーヴはしばらく男の顔を見て、それから崩れかけた納屋を見た。柱が一本、根元から傾いで、梁を道連れにしかけている。次のひと降りで屋根ごと落ちる。
「……その納屋、あと一度大雨が来たら落ちますよ」
「余計な世話だ」
「落ちたら、道具も飼葉も雨ざらしですよ。仔羊も雨に濡らせない時季でしょう」
キアランの眉が動いた。図星の動き方だった。
ニーヴは負い籠を下ろし、腕をまくった。
「三日、貸してください。手間賃はいりません。……そのかわり、あたしの話も三日、そばで聞いてもらう。柱を起こしながらでいい。耳だけ貸してくれれば」
「聞かんぞ、おれは」
「聞かなくていいです。耳がそこにあれば」
これがニーヴの算段だった。二十年閉じた戸は、正面から叩いても開かない。だが戸の横で三日、当たり前の顔をして薪を割っていれば、閉めているほうがだんだん、ばつが悪くなる。宿代も浮く。日に灼けた行商人ほどではないが、帳場育ちの算盤も、たまにはこういう遠回りの目を弾く。
三日は、石を積むように過ぎた。
初めの日、キアランは一言も口をきかなかった。ニーヴが柱の根に石を噛ませ、傾ぎを起こすあいだ、離れたところで崩れた石囲いを黙々と積み直していた。ニーヴも無理に喋らなかった。喋らないことにかけては、この稼業、師匠という達人を間近で見て育っている。
二日目、キアランが黙って、麦粥の椀を一つ多く出した。
三日目には、向こうから口をきいた。
「……あんた、兄貴に会ったのか」
柱の根に石をかい込ませていたニーヴの手が止まった。
「はい」
「達者か」
「……」
達者ではない。だがそれを言っていいものか、ニーヴは石の頭を見つめた。掟の三条――届けで聞いた声は、他言しない。フィンタンが器に語ったことは、一言も口には出せない。だがフィンタンの容体は、器の中身ではない。ニーヴは言葉を選んだ。
「あんまり達者では、ないです」
キアランはそれきり、しばらく黙った。
「……二十年前だ」やがて、羊のほうを向いたままキアランは言った。「親父が死んだ。おれは海辺に出稼ぎに行っとった。浜の、塩焼きの手伝いにな」
ニーヴは石から手を離した。
「報せは来なかった。何も。おれが谷に戻ったのは、親父が土に入って、ひと月も経ってからだ。……兄貴は、おれの顔を見るなりこう言った。『よう、のうのうと帰ってきたな』と」
男の、石を積む手が止まっていた。
「おれは報せをもらっとらん。もらっとりゃ飛んで帰った。親父の死に目に間に合わせた。……なのに兄貴は、おれが薄情で、わざと帰らんかったと決めつけた。あの土地も家も、ぜんぶ一人で継いで、おれには、石ころ一つ寄越さなんだ。二十年だ。二十年あいつは、おれを親を捨てた男だと思うて生きてきた」
キアランは、手にした石を石囲いに叩きつけた。
「そんな兄貴の詫びなんぞ、いまさら聞けるか」
聞けるか、と男は言った。
ニーヴは口を開かなかった。開けなかった。
胸の底で、三日のあいだ鳴りやまなかった声がまた鳴った。フィンタンが器に語った、あの詫び。詫びの言葉のあいだに置かれていた一つの事実が、いま、キアランの言葉とかちりと噛み合った。歯車が二つ、二十年ぶりに正しく噛み合う音がした。
(ああ。そういう、ことか。)ニーヴは心のなかで天を仰いだ。
言えれば、どんなにいいだろう。たった一言キアランの耳に入れてやれれば、二十年のこじれはその場でほどける。ほどける自信が、ニーヴにはあった。
だが、言えない。
掟の三条。届けで聞いた声は、他言しない。ただの決まりだと思ってきたそれが、いまこんなにも重い。あたしが言ってはならない。この事実は、フィンタンの声がフィンタン自身の口で、キアランに告げねばならない。
あたしにできるのは、キアランの耳を開かせることだけだ。
「キアランさん」ニーヴは石を置いて、男に向き直った。「一つだけ言わせてください。中身は言えません。掟です。……でも、あたしはあの声を聞きました。証しに立って、ぜんぶ聞きました」
「だから、なんだ」
「聞いてから言います。――あなたは、聞いたほうがいい」
「……」
「二十年閉じてきた耳です。もう半日閉じておくのは、たやすいでしょう。でもその半日で、フィンタンさんの息が切れるかもしれない。切れたらこの声は、二度とあなたのところへは来ません」
届けられなかった声は、クロスケリーの本部の、北の壁の部屋へゆく。夜になると錠の下りる、窓のない部屋のあの棚へ。宛先に届かなかった器は、捨てることを禁じられて、あそこでいつまでも眠る。ニーヴはその棚を思い浮かべた。フィンタンの詫びが、あの暗がりの一つになる。想像すると、指の先が冷たくなった。
「聞くだけ、聞いてください。聞いて、それでももういらないと思ったら、あたしが持って帰ります。……でも、たぶんあなたは、いらないとは言わない」
キアランは長いこと、羊の群れを見ていた。
答えはなかなか出なかった。
答えの代わりに、丘の下から駆け上がってくる足音がした。
フィンタンの姪の、小さな息子だった。息を切らして坂を這うように登ってきて、キアランの前でつんのめった。
「……フィンタン爺やんが」子どもは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で言った。「けさから目を覚まさんの。息がだんだん遠うなって……声継ぎさんを呼んでこいって、婆やんが」
キアランの顔から血の気が引いた。
二十年いらないと言い張ってきた顔から、みるみる二十年が剥がれ落ちていった。あとに残ったのは、報せを待って、待って、ついに来なかった、二十年前の若い弟の顔だった。
「……間に合うか」キアランがかすれた声で言った。
ニーヴはもう、負い籠に手をかけていた。
「座を、いますぐ。――ここで開けます」
*
座を設える暇も、ほとんどなかった。キアランは納屋の前の、枯れ草と芽吹きの混じった地面に、ぼろの敷物を一枚広げた。それだけだった。だが、膝を折って座ったキアランの背はまっすぐだった。座というものの前で、人は育ちを隠せない。この兄弟は、同じ父に、同じようにしつけられて育ったのだ。
ニーヴは器を捧げ、解きの口上を唱えた。
「語り手はフィンタン、キアランの兄。宛て名はキアラン、フィンタンの弟。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――キアラン。……兄じゃ。
最初のひと言で、キアランの喉が、ぐ、と鳴った。
――おまえに、詫びを言うために、声継ぎを頼んだ。面と向こうては言えん。二十年言えなんだものが、いまさら、言えるか。じゃから器に、封じてもらう。臆病な兄で、すまん。
声はそこで、ひと呼吸休んだ。
――親父が逝く前のことじゃ。おまえは、海辺に出ておった。わしは、隣のダーグに銭を持たせて、おまえを呼びにやった。「キアランを連れて戻れ」と。……ダーグは三日して戻って、言うた。「言うてきた」と。「キアランは、来ぬと言うた」と。
キアランの、膝の上の拳が震えはじめた。
――わしはそれを信じた。おまえが報せを聞いてなお、帰らんかったと。親父の死に目より、浜の稼ぎを選んだと。……土に入れる朝も、おまえは来なんだ。じゃから、ひと月してのこのこ戻ったおまえに、わしはあの言葉を投げた。
――じゃがキアラン。この二十年、わしは夜ごとに考えた。ダーグはほんに、おまえに会うたのか。おまえはほんに、報せを聞いたのか。……分からん。いまとなっては、確かめようもない。確かめようもないのに、わしはおまえを憎むほうを選んだ。憎むほうが楽じゃったからじゃ。弟に捨てられたと思うより、弟を憎むほうが、寂しゅう、なかったからじゃ。
声がそこで、少しかすれた。
――すまなんだ。あの日の言葉は、みな嘘じゃ。おまえは薄情者ではない。わしが寂しかっただけじゃ。……達者で暮らせ。おまえの羊は、達者か。わしの、たった一人の弟。
声はそこで、ふつりと途切れた。
語り終えたのではない。言葉が尽きたのだ。二十年ぶんの詫びが、たったこれだけで尽きた。あとは言い足すことを探すように、ひと呼吸、器の中で息の気配だけが揺れて――それから、消し忘れた炉の火が灰の底へ沈んでいくように、遠くなって消えた。
あとには、丘の風と、間の抜けた羊の鳴き声だけが残った。
キアランは動かなかった。
敷物の上で拳を握ったまま、いつまでも動かなかった。
やがて、その大きな肩が、一度大きく波打った。
「……ダーグのやつは」声が潰れていた。「おれに会うちゃおらん。おれはあの年、浜を変えとった。ダーグは古い浜へ行って、おれがおらんで……兄貴に格好がつかんで……嘘をつきよったんじゃ。おれが来んと言うたと。……おれは、そんなこと言うとらん。言えるわけがない」
男の顔がぐしゃりと崩れた。二十年崩さずにきた顔が、子どものように崩れた。
「兄貴は呼んどった。おれを呼んどったんじゃ。おれは……おれは二十年、呼ばれもせなんだと思うて……あいつを恨んで……」
声が言葉にならなくなった。
ニーヴは証しの座で、膝を揃えていた。
泣かなかった。証しに立つ者は座では泣かない――師匠にそう仕込まれている。だが揃えた膝の上で、手のひらに爪が食い込むほど握っていた。
「キアランさん」ニーヴは声を低く、しっかりと出した。「フィンタンさんは、あなたの返事を待っています。……間に合わせましょう。返しの声を封じます。いますぐ」
「……間に合うか」
「あたしが走ります」
キアランは涙も拭わずに、ニーヴが差し出した新しい器を、両手で、捧げ持った。
ニーヴは宛ての口上を唱えた。
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はキアラン、フィンタンの弟。宛て名はフィンタン、キアランの兄、ダンロッホ在。――この座の、証しに立ちます」
キアランが器へ向かって語りはじめた。
何を語ったかは、ニーヴの胸に置く。ただ、語り出しのたったひと言だけは――それは、口上を唱えたあとの静けさの中で、もう聞こえていた。
兄さん。おれだ。
二十年ぶりの、「兄さん」だった。
語り終えたキアランの声がかすれて消えた。ニーヴは器の口を塞ぎ、刻み紐を結いに結んだ。耳を澄ます。
――座った。
立ち上がりながら、ニーヴは器を、負い籠ではなく胸の内懐へ、そっと入れた。この器は走る。負い籠で揺らすわけにはいかない。
「行ってきます」
「声継ぎさん」キアランがニーヴの手を、両手で握った。節くれだった羊飼いの手だった。「……頼む。兄貴に。おれが恨んでなんかいないと。二十年恨んどったのは、嘘じゃと。……頼む」
「声が言います。あなたの声が」
ニーヴは駆け出した。
*
丘の斜面を駆け下りた。
枯れ草と芽吹きの混じった斜面を、石囲いを飛び越え、羊の糞を蹴散らして、谷底へ向かって、ニーヴは走った。走ることだけは速い。腕っぷしも度胸も、並の十九だが、走るのだけは、年季のあいだ誰にも負けなかった。
胸の内懐で、器が心の臓の鼓動と一緒に上下した。
落とすな。
師匠の声が耳の奥で鳴った。二十年待った声だ。落とすな。あと少し。あと少しだ。
谷底の家の煙が見えた。細く頼りない煙だった。だが、まだ消えていない。竈の火がまだあるということだ。人の息がまだあるということだ。
ニーヴは最後の斜面を、転がるように駆け下りた。
フィンタンは、まだ息をしていた。
浅く、間遠に、いまにも止まりそうな息だったが、まだしていた。姪が、老人の手を握ってうつむいていた。ニーヴが土間へ転がり込むと、姪ははっと顔を上げた。
「……間に合うたか」
「合いました」ニーヴは肩で息をしながら、内懐から器を取り出した。掌の上で、声はまだ静かに座っていた。「フィンタンさん。……キアランさんから、お返しの声です」
老人の、閉じた瞼がかすかに動いた。
聞こえている。
ニーヴは乱れた息を、無理に整えた。整えねば口上が崩れる。崩れた口上で、この人の最後に聞く声を迎えるわけにはいかない。
膝を揃えた。
「語り手はキアラン、フィンタンの弟。宛て名はフィンタン、キアランの兄。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――兄さん。おれだ。
フィンタンの喉が鳴った。
――おまえの使いは、おれのところへは来なんだ。おれはあの年、浜を変えとった。ダーグは古い浜で、おれを探しあぐねたんじゃろ。……おれは報せをもらっとらん。親父が逝くことも知らなんだ。知っとったら、飛んで帰った。地の果てからでも、帰った。
閉じた老人の目尻から、水が皺を伝って落ちた。
――おれは、兄さんがおれを呼びもせんかったと思うて恨んどった。兄さんは、おれが来んかったと思うて恨んどった。……二人してダーグの嘘に、二十年踊らされとったんじゃ。ばかな話じゃ。ほんに、ばかな兄弟じゃ。
声がそこで、少し笑った。泣きながら笑う声だった。
――いま行く。兄さん。待っとってくれ。……もう恨んじゃおらん。初めから恨んじゃおらんかった。待っとって――
声はそこで消えた。
「待っとって」の続きを、器は返さなかった。キアランがそこで言い淀んだのか、言葉が間に合わなかったのか、ニーヴには分からない。ただ声は、「待っとって」と言い残して――引き潮が砂から水を抜いていくように、静かに、遠ざかって消えた。
あとには、竈の小さな火の爆ぜる音だけが残った。
フィンタンは、目を閉じたままだった。
だがその顔から、二十年の何かが、抜け落ちていた。詫びを言い終えた顔だった。返事を聞き終えた顔だった。
姪がそっと、老人の手首に触れた。
触れて、静かに、首を横に振った。
土間の戸口に、影が差した。
キアランだった。ニーヴの後を追って、丘を駆け下りてきたのだろう。息を切らし、戸口の柱に手をついて、そこから先へ入れずにいた。
二十年、またがなかった敷居だった。
「……兄貴」
声は届かなかった。フィンタンには、もう。
だが、とニーヴは思った。だが、届いていた。キアランの声は――器に封じたあの声は、フィンタンがまだ息のあるうちに、ちゃんと届いていた。フィンタンは弟の声を聞いて逝った。二十年の恨みが、嘘だったと知って逝った。
間に合わなかったのは、キアランの足だけだ。
声は、間に合った。
ニーヴはそっと、二つの器を手のなかにまとめた。役目を終えて、ただの素焼きに戻った二つの器。フィンタンの詫びと、キアランの返し。どちらも心なしか、軽い。
兄弟のことは兄弟に任せて、ニーヴは土間を辞した。証しに立つ者は、届けたら退く。あとに残るべきは家の者だ。それも師匠に仕込まれたことの一つだった。
*
クロスケリーへの帰り道は、来た道よりずっと遠く感じた。
川端まで下りると、約束どおりモイラの荷車がいた。行きはあれほど賑やかだった荷台が、帰りはしんとしていた。ニーヴは膝の上に、二つの空になった器を抱えていた。
モイラはしばらく、何も訊かなかった。行商人は口が達者なだけではない。訊かないことも商売の徳のうちだと、知っている女だった。
やがて丘の上で、モイラが手綱を繰りながら、ぽつりと言った。
「……あんたら声継ぎは、さ」
「うん」
「死に目の声ばかり運んで。よく、平気だね」
ニーヴは、笑った。
答えは、しなかった。
答えるかわりに、膝の上の空になった器を、そっと撫でた。
――平気なわけが、ないでしょ。




