第一話 宛ての口上
「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はブラン、オルラの父。宛て名はオルラ、ブランの娘、ダンロッホ在。――この座の、証しに立ちます」
口上は、我ながら惚れ惚れするほど様になった。七年の年季で幾千と稽古した文句である。様にならないほうがおかしい。
あとは語り手が、器へ向かって語るだけだった。
語るだけの、はずだった。
石工のブランは、掌ほどの素焼きの器を両手で捧げ持ったまま、口を開けた。閉じた。もう一度開けて、また閉じた。鑿を握らせれば丘いちばんと言われる指が、迷子の子どもの手になって、器のまわりで小さく震えている。
「……な、なあ、声継ぎさんよ」
「はい」
「やっぱり、明日にせんか」
「三度目だよ、それ」
ニーヴ・オケリガンは、十九になったばかりである。十二の年に組合の聞き分けに通り、七年の年季がこの春に明けた。独り立ちして最初の朝が今日で、これが最初の仕事だった。声を掌ほどの器に封じ、丘を越え、入り江を渡り、遠くの宛先まで運んで、開ける。声を継いで運ぶ者――だから世間は、この稼業を声継ぎと呼ぶ。彼女はこの通り名を、ずいぶん気に入っている。継ぐ、という言いようがいい。運ぶだけなら荷駄と変わらないが、継ぐとなると、手から手へ灯を渡すような趣がある。
もっとも、灯を渡すには、まず火を点けてもらわねばならない。
その火が、さっきから、いっこうに点かない。
座の設えは朝のうちに済ませてあった。石工の仕事場の隅、石の粉を掃き清めた床に敷物を敷いて、語り手と差し向かいに座る。仕掛けはそれだけである。香は焚かない。祈りもない。火も水も要らない。要るのは名乗りと、宛て名と、証しに立つ耳が一つ。――この名乗りから宛て名までを、宛ての口上という。宛て名は名に続き柄を添えて言う。オルラ、ブランの娘、というふうに。誰の声が、誰へ宛てられたか――この稼業の要は、詰まるところそれに尽きる、と師匠は言う。
その要の手前で、語り手が三度も座礁しているのだった。
ニーヴは器越しに、にっこり笑った。笑ったが、退かなかった。
「いい? 明後日、ダンロッホの婚家で祝いの膳が出る。おかみさんは明日、祝いの荷と一緒に隣の荷車で発つ。おじさんは石の納期で行けない。――ここまでは、いい?」
「う、うむ」
「あたしの足でダンロッホまで半日。いま封じれば日のあるうちに届いて、膳にも、おかみさんにも先んじるが一つ。明日に延ばせば、おじさんは今夜ひと晩じゅう唸って、いまの十倍語れなくなるが二つ。……三つ目、言おうか?」
「い、言わんでいい」
「娘さんはきっと、今日のおじさんの声が、いちばん聞きたい」
言ってしまってから、それが三つのうちでいちばん損得に関わりのないことに、ニーヴは自分で気がついた。まあ、いい。算盤は、たまに情のほうへ倒れる。帳場育ちの算盤は、その倒れ方も勘定のうちである。
ブランは長いこと唸って、それから、白旗を揚げた。
「……水を、一杯くれい。喉が、からからじゃ」
「はい、どうぞ」
「……手回しのいいことで」
椀を受け取った石工は、水を半分飲んで、うなだれた。
「言うことは、ゆうべ決めてきたんじゃ。寝床で指折り数えて、五つあった」
「うん」
「いま、ぜんぶ飛んだ」
「なら、覚え直さなくていいよ」ニーヴは笑いを噛んで言った。「うちの師匠の受け売りだけどね。語りの座で忘れた文句は、もともと器に入れる文句じゃなかったんだって。娘さんの顔だけ思い浮かべてれば、口は勝手に続きを言うよ」
「……そういうもんかね」
「そういうもんらしいよ。あたしも初日だから、受け売りしか持ってないの」
石工が椀の残りを干すあいだ、ニーヴは膝を崩さずに待った。待つのは平気だった。今朝から、体のまんなかで何かが鳴っている。太鼓というほど大袈裟なものではない。指で弾く桶の底くらいの軽い音が、浮かれて鳴りどおしなのである。
無理もない。今朝、組合の帳場で、師匠は最初の依頼をこう言い渡したのだ。
「石工のブラン。祝いの声。ダンロッホの娘へ」
以上である。組合長オシーン・マクブライは六十をいくつか越えた老声継ぎで、言葉を銅貨のように惜しむ。年季の七年間、ニーヴが三十しゃべれば、師匠は一言で締めた。今朝は、二言あった。
「行け」
それから茶碗を置いて、もう一言。
「嬢。初日だ。……口上を、丁寧にな」
「はいっ」
飛び出しかけた背中へ、帳場の奥から悲鳴が刺さった。
「姉さん! 蜜蝋! 蜜蝋忘れてます! 初日から封じ損ねる気ですかっ」
弟弟子のコルムである。十七で、石橋を叩いて叩いて、たまに叩き疲れて渡らずじまいになる性分だが、段取りの正確さでは兄弟子筋の誰より頼りになる。突き出された蜜蝋の包みと刻み紐の束を、ニーヴは笑って受け取った。
「ありがと。あんたがいれば組合は安泰だよ」
「姉さんが出ていけば、なお安泰ですっ」
言うようになったものである。
思い出し笑いを唇の内側で畳んで、ニーヴは背を伸ばした。ここは組合の帳場ではない、石工の家の証しの座の上である。膝を揃え直し、目の前で言い澱む男へ、意識をそっと戻した。
椀を置いたブランは、まだ空の素焼きの器を、しげしげと見た。
「……これな。お前さん、途中で聞いてみたりは、せんのか。中身を」
「しないよ。届けの前に、器は開けない。掟の二条」ニーヴは指を二本立てた。「だいたい、声は一度開いたら消えるんだよ? 道の途中であたしが聞いたら、娘さんには何も届かない。それじゃ商売にならないでしょうが」
「……そうか。そう、なるか」
「そうなるの。はい、深呼吸。器はあたしが見てる。おじさんは、娘さんのことだけ見てて」
見てて、と言われた石工は素直に宙を見た。壁の向こうのダンロッホを、透かして見るような目だった。それから、腹を括った男の顔で器へ向き直った。
四度目に開いた口は、もう詰まらなかった。
低く、ぽつり、ぽつりと、石を積むような語りだった。存外に、長かった。ニーヴは証しの座で膝を揃え、ただ聞いた。聞いた中身は胸に置く。届けで聞いた声は他言しない――掟の三条は座の内でも同じことだと、師匠に仕込まれている。
語りが終わると、ニーヴは器の口を蜜蝋で塞ぎ、組合の刻み紐を掛けて、定めの結いに結んだ。それから、耳を澄ました。
――座った。
器の奥で、声が座る。そうとしか言いようのない、静かな気配がある。封じが成ったかどうかは、これで分かる。どう分かるのかと訊かれても、困る。分かる者には分かり、分からない者には生涯分からない。その分かれ目がどこから来るのかは、組合の誰も知らない。知らないなりに、この気配ひとつを頼りに、声継ぎは今日も声を封じている。
「――成りました。確かに、お預かりします」
口上の声で告げると、ブランは肩から大きく息を抜いた。抜いてから、心配になったらしい。
「開けるときも、その、いまみたいな口上をやるんか」
「やるよ。語り手はブラン、オルラの父。宛て名はオルラ、ブランの娘――って、娘さんの前で唱えて、それから紐を解くの。誰の声が誰に宛てられたか、聞く人の耳が先にそれを知ってるのが、作法なんだって」
「……わしの名から言うんか」
「語り手が先。決まりだからね」
「そうか」ブランは、まんざらでもない顔で顎を撫でて、それから、ついでのような小声で訊いた。
「……わし、変なことは言うとらんかったか」
「いい声だったよ」
「中身は言わんのじゃろ」
「言わない。でも、いい声だったかどうかは、言っていいの」
勘定は、封じと開けで銅貨二枚、ダンロッホまでの運び賃が半日道で二枚、締めて四枚。ブランは五枚置いて、釣りはいらん、祝いじゃ、と言った。ニーヴは一枚をきっちり返して、にっこり笑った。
「気持ちだけもらっとく。帳場の帳面はね、一枚の狂いでも師匠の眉が動くんだよ」
*
クロスケリーは、丘の斜面に石造りの家々が段々に張りつく、坂ばかりの町である。組合の本部は坂の中程にあり、東の門を出ると、道は石壁の畑のあいだを縫って、丘を上り下りしながらダンロッホの谷へ向かう。
春はまだ浅く、丘は緑より土の色が勝っていた。それでも石壁の際には小さな白い花が咲きはじめ、風は谷を渡るたびに違う歌を歌った。ニーヴは器を胸の前の負い籠に納め、革紐の掛かりを二度確かめて、上機嫌で歩いた。傍らを、組合の荷驢馬が一頭、たかたかと蹄を鳴らしてついてくる。
帳簿の上の名は、驢馬二番。
ニーヴが年季のうちに勝手に付けた名は、アネモネ。南の港のほうで咲くという花の名を、響きがいいのでもらってきた。当の驢馬がこの名を気に入っているかどうかは、いまもって、よく分からない。
「アネモネ、聞いた? 初仕事だよ。祝いの声だよ」
驢馬は答えない。答えないが、歩調は合わせてくれる。上等の相棒である。
上機嫌のしるしに、鼻歌が出た。
アネモネが、耳を伏せた。
「……あんた、ほんっとうに音曲の分からない驢馬だね」
照れなくていいのに、と言い添えたが、驢馬は耳を伏せたまま、たかたかと歩いた。
二つ目の丘の上りで、羊を追う農婦とすれ違った。農婦は負い籠を見ると足を止め、道の端へ寄って、決まりの文句を投げて寄越した。
「声継ぎさん。祝いかい、弔いかい」
「祝い!」
「そりゃあ、いい」
農婦は歯を見せて笑い、羊を追って行った。道行く人は、負い籠を見るとたいていそれを訊く。祝いと答えると、みんな少しだけ笑って、道を空けてくれる。弔いと答えたときに人がどんな顔をするのかを、ニーヴはまだ、自分の届けでは知らない。
下り坂の途中に、霜解けのぬかるみが一枚、隠れていた。
足が、滑った。
体が泳ぎ、負い籠が跳ね、器が口から飛び出した。世界がゆっくりになった。ニーヴは泥へ膝から突っ込みながら両手を差し出し、掌のまんなかで、はっしと受けた。
「――――っ、ぶな」
心の臓が、三つ数えるあいだ暴れた。腕の中の器は何事もない。声が座ったままの、あの静かな手応えのままである。
……年季の二年目に、空の器を一つ、落として割ったことがある。青くなって破片を捧げ持って出頭したら、師匠は眉ひとつ動かさず、「掃け」と言った。器の代金は給金から三日ぶん引かれたが、咎めは、それきりだった。あの拍子抜けを、なぜだかいま思い出した。組合というところは、妙なところで厳しく、妙なところで、あっさりしている。
「……ま。割らないに越したことは、ないでしょ」
膝の泥を払って、歩き直す。アネモネが、いまのを見ていたぞ、という顔で片耳を回した。
「言うんじゃないよ。コルムには特に」
丘の背をひとつ越えると、風が変わった。畑の匂いに、家畜と干し草の匂いが混じる。ダンロッホの谷である。道は下りに入って、足は軽い。足が軽いと、頭は勝手に昔へ歩く。
――どうしてこの稼業を選んだの。
年季のあいだ、幾人にも訊かれた。そのたびに「食いっぱぐれがないから」と答えてきた。組合の帳場は堅いし、腕一本の稼業だし、手に職は嫁入り道具より確かだ。全部、本当である。
本当だが、いちばんの理由では、ない。
ニーヴが十の年に、祖母が死んだ。読み書きのできない人だった。この国の、たいていの人がそうであるように。葬式の晩、組合の年寄りの声継ぎが来て、囲炉裏端に器を一つ置いた。祖母の遺した声だという。宛て名は、ニーヴ本人だった。
染物屋の囲炉裏端に、家じゅうが集まった。姉たちは昼から泣きどおしで、ニーヴだけが、なぜだかうまく泣けずにいた。悲しくないのではない。悲しさがどこかでつかえて、下りてこなかったのである。
口上があって、紐が解かれて、祖母の声がした。
――うたが、じょうずだったね。
それだけだった。
それだけの声が、語られたときの調子のまま、皺の寄った笑いの気配のまま、囲炉裏端にひとつ流れて――ほどけるように、消えた。
聞いた瞬間、届いた、と分かった。どこがどうとは、いまも言えない。ただ、あの短い声はまっすぐ、十のニーヴのまんなかへ来て、来た道ごと消えた。写しはない。二度目もない。文字を知らない祖母が孫に遺せた、たった一度きりの――一度きりだからこそ、あんなにも確かな。
声が消えたあとで、十のニーヴは、ようやく泣けた。つかえていたものが、声といっしょにほどけて流れたのだと、いまなら分かる。
あの確かさの手ざわりが、忘れられなかった。それだけの話である。
「……ま、食い扶持でもあるしね」
誰に聞かせるでもなく言い足して、手綱を軽く引いた。谷の底に、ダンロッホの屋根が見えはじめていた。
*
ダンロッホは、谷底の川に沿った農村である。夕刻にはまだ間のある頃合いに、ニーヴは村へ入った。声継ぎの負い籠は遠目にも知れる。畑から子どもが二人駆けてきて、先導のつもりか、前を跳ねながら走った。訊くまでもなく、オルラの婚家は村でも知られた牛飼いの家だった。
オルラは、家の前で洗い桶を抱えて立っていた。若い、よく日に灼けた、ブランと同じ形の眉をした人だった。負い籠を見るなり、桶を取り落としかけた。
「クロスケリーから、声のお届けです。オルラさんですね?」
「……母さん? 母さんに何か」
「おかみさんは明日、祝いの荷と一緒にこちらへ来ますよ。声は――お父さんの。石工のブランの」
「……父さんが?」
オルラは、まじまじと器を見た。
「あの父さんが、声を? 嘘でしょ。父さん、あたしの祝言のときだって、口をきいたの、ぜんぶで五回だよ」
「今日は長かったよ」
「…………ほんとに?」
ほんとに。ニーヴは頷いて、座の支度を頼んだ。
開けの座は、囲炉裏端に設えられた。オルラは囲炉裏の火を整え、奥の揺り籠で眠る赤ん坊をひと目確かめてから、膝を揃えた。膝の揃え方ひとつで、座というものを重んじる家の育ちだと知れる。石工の家の娘である。
ニーヴは器を捧げ、解きの口上を唱えた。
「語り手はブラン、オルラの父。宛て名はオルラ、ブランの娘。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――オルラ。わしじゃ。
最初のひと言で、オルラの背筋が伸びた。
――その、なんじゃ。達者か。……いや、達者かどうかは、おっかあが行って見てくるんじゃった。ええと。じゃから、その。
器の中でも、父は詰まった。座の外で三度詰まった男は、座の内でも詰まるのである。オルラが吹き出した。笑いながら、もう目の縁が光っていた。
――膳には行けん。石の納期じゃ。すまんとは……いや、すまんとは言わん。石屋が石を納めんで、何が石屋か。じゃから代わりに、こいつを行かせる。高いんじゃぞ、これは。銅貨四枚する。
「値段を言うかなあ」
泣き笑いの声で、オルラが言った。器の声は構わず続く。
――それとな。いま、竈の石を刻んどる。おまえの竈の、焚き口の石じゃ。出来たら荷に載せて送るけえ、おまえの竈は、わしの石で火を焚け。……おまえが生まれた朝もな、わしは石場におった。手が震えて、鑿が滑って、親方にどやされた。いまも、まあ、その、たまに震える。歳のせいじゃ。……達者での。子と亭主を、大事にせえ。それだけじゃ。
それだけじゃ、と言った声は、それから一拍、何かを探すように黙って――結局、言い足さなかった。言い足さないまま、少し笑ったような息の気配だけを残して、薄れて、消えた。
あとには、囲炉裏の火の爆ぜる音と、揺り籠の寝息だけが残った。
オルラは、しばらく動かなかった。
それから袖で目元をひと拭いして、笑った。
「……聞いた? いまの。『歳のせいじゃ』って」
「聞いた」
「あれ、嘘。父さんの手、石の前じゃ震えたことなんかないもの」
「みたいだね」
「……ばか」
ばか、は父へ向けた言葉で、けれど世界でいちばん柔らかいばかだった。オルラは洟をすすって、囲炉裏の奥の竈を振り返った。
「焚き口の石で火を焚けって……うち、竈、古いままなのに。どうしよう。石が来る前に、直しておかなきゃ」
泣きながら、もう段取りを始めている。石工の家の娘である。オルラは揺り籠から赤ん坊を抱き上げ、眠ったままのその耳元へ囁いた。
「いまの、あんたの爺様の声。……って言っても、覚えてないか」
役目を終えた器は、ニーヴの掌の上で、ただの素焼きに戻っていた。心なしか、軽い。気のせいだと言う者もいるが、ニーヴの掌は、いつも軽いと言う。
「帰ったら父さんに伝えて。石、待ってるって。膳の残りは母さんに持たせるって」
「伝える。そっちは、あたしの口で足りる用だからね」
牛飼いの家の門を出て、三歩あるいて、ニーヴは跳ねた。
両腕を振り上げ、その場でくるりと回って、アネモネの首すじをばしばし叩いた。
「届いた! 一件目! あたしの、初仕事!」
アネモネは迷惑そうに首を振ったが、逃げなかった。見ていた子どもらが真似をして跳ねた。日はまだ丘の上にある。いまから発てば、夜には坂の町へ帰り着ける。
帰り道の丘の上で、一度だけ振り返った。谷底の家々に夕餉の煙が立ちはじめていた。あの煙のどれかの下へ、今日の声は届いた。器は空に戻り、声は消えて、それでも届いたものは、あの煙の下に残っていく。
いい稼業を選んだと、腹の底から思った。
鼻歌が出かかった。アネモネが、先回りして耳を伏せた。
「まだ歌ってないでしょうが」
*
クロスケリーへ帰り着いたころには、坂の町の窓に、ぽつぽつと灯が入っていた。
組合本部の炉の間で、ニーヴは今日の首尾を告げた。
「石工のブランの祝いの声、ダンロッホのオルラへ、確かに届けました。勘定は銅貨四枚、帳場へ納めます」
「そうか」
「あと……申告です。行きの下り坂で一度すべって、器を取り落としかけました。受けました。無事のまま、届けました」
言わずに済ませることもできた。できたが、隠して助かるのは今日のあたしだけで、隠して困るのは明日からのあたしである。師匠は茶を一口飲んだ。
「割ったか」
「割ってません!」
「なら、いい」
それきりだった。この稼業の妙なあっさりは、今日、これで二度目である。
オシーンは炉端で、それ以上は何も言わなかった。言わずに、自分の茶碗より先に、ニーヴの茶碗へ茶を注いだ。湯気の立つやつを、黙って膝の前へ押して寄越す。師匠の言葉は少ないが、茶は、雄弁である。
「明日の口は、朝に言う。飯を食え。寝ろ。……嬢」
「はいっ」
帳場の隅では、コルムが仕分けの帳面に突っ伏して寝ていた。明日の段取りを前倒しで検分して、力尽きたものらしい。石橋を叩く男は、叩き疲れて橋の手前で寝る。ニーヴは自分の肩掛けを外して、そっと弟弟子の背に掛けた。起こさぬように、そうっと――
「っ、寝てません! 検分してました!」
「はいはい。ご苦労さま」
夕餉を済ませ、寝間へ引き上げる。その途中である。
廊下の突き当たり、北の壁に、扉が一枚ある。
無窓の間。
届けられなかった声の、棚のある部屋である。宛先へ辿り着けなかった器は、捨てることを固く禁じられて、あの棚で眠る。なぜ捨ててはならないのか、理由は誰も知らない。組合とは決まりの多いところで、年季小僧はまず決まりを叩き込まれ、問いを後回しにするうちに、たいてい問うことを忘れる。ニーヴも、忘れているほうの口だった。
炉の火は遠く、廊下は暗い。昼間の高揚が疲れといっしょに足の裏へ沈んでいく、その静けさの中で――
ざわ、と。
聞こえた気がして、ニーヴは足を止めた。
人の声、のようなもの。大勢の、ひそやかな、遠いざわめき。扉一枚の向こうで、宴の名残りがまだ囁き交わしているような。
誰もいるはずがない。無窓の間には夜、錠が下りる。鍵に触れるのは棚番だけだ。
「……疲れてんのかな、あたし」
耳を澄まし直すと、もう何も聞こえなかった。梁がひとつ、こと、と鳴っただけだった。
「――嬢ちゃんや」
すぐ後ろで声がして、ニーヴは三寸跳び上がった。
燭台を提げた老人が立っていた。棚番のファーガルである。齢七十を越えて、いまも毎日、無窓の間の器を磨いて暮らしている人で、訥々(とつとつ)としか喋らないものだから、年季小僧たちには少し怖がられている。夜の見回りの途中らしかった。
「ファーガル爺さま……脅かさないでよ、もう」
「……こんな刻限に、なにを、しとる」
「あ、ううん。いまね、この扉の向こうで、誰かの声がした……ような、気がして」
燭台の火が、ふ、と揺れた。
老人はニーヴを見た。それから扉を見て、また、ニーヴを見た。
「――気のせいじゃ」
それだけを、少しばかり、早口で言った。




