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声継ぎ  作者: 篇乃綴り堂
第二部 聞くべき耳
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第十話 互いの証し

 いっぺんに来たものは、いっぺんには受けられない。受けられるのは、いつだって目の前の一つずつである。

 だから、まず口上だった。

 「ロアグさま。宛て名は、カハルさま。……続き柄は、なんと言って宛てます」

 抱え起こされた老人の胸が、ひゅう、と鳴った。笑ったのだと、一拍おいて分かった。

 「……東の長、じゃ。それしか、もう、なかろうが」

 窓の外では初雪が降りつづけている。高地グレン・ファーラ、西岸の館の奥の間である。炉の火は低く、急を聞いて集まった西岸の家の者が寝床のロアグの背を支えていた。ニーヴはその痩せた両手に空の器をそっと載せ、載せた両手ごと自分の両手で一度だけ包んだ。冷たかった。冷たかったが、震えはもう止まっていた。あたしの手の震えか、この人の手の震えか、どちらが止まったのかは分からなかった。

 約束を明日の朝に延ばしたのは、あたしだ。その明日を、夜が待ってくれなかった。……悔いは、あとで数える。いまは、目の前の一つ。

 膝を揃え、息を整える。

 「わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ。語り手はロアグ、西の長。宛て名はカハル、東の長、同じ谷の東岸在。――この座の、証しに立ちます」

 口上だけは、崩れなかった。七年の年季で幾千と稽古した文句は、封じ手の心の臓がどれほど暴れていても、口の上では崩れない。崩れないために、稽古というものはあるのだった。

 ロアグは、語った。

 何を語ったかは、ニーヴの胸に置く。掟の三条。ただ、その語りは一語ずつ、残った力を量って使う語りだった。声は幾度も途切れ、途切れるたびに炉の火の爆ぜる音と雪の静けさとが隙間を埋めた。存外に長くはかからなかった。言いたいことが一つに減るまでに、人はずいぶん遠回りをする――減りきった声は、短いのである。

 語り終えるのを待って、ニーヴは器の口を蜜蝋で塞ぎ、組合の刻み紐を定めの結いに結んだ。耳を澄ます。

 ――座った。

 「成りました。……確かに、お預かりします」

 ロアグは枕に戻され、しばらく浅い息をしていた。それから掠れた声で訊いた。

 「……様に、なっとったか」

 「いい声でした」ニーヴは言った。「中身は言えません。でも、いい声だったかどうかは、言っていい決まりなんです」

 「……そうか」

 骨と皮の顔が、少しだけ笑った。約束より半日早い封じだった。それでも、間に合った。窓の外の雪を見ながら、ニーヴは負い籠の掛かりを二度確かめた。届け先は、川ひとつ向こう。落ちた橋の、向こう岸である。

 夜明け前に、雪は小やみになった。


   *


 報せは、朝の粥より先に来た。

 「声継ぎさん。……中洲へ。東の当主代行が、あんたを呼んどる」

 戸口で言った西岸の若い衆の顔つきが、ゆうべまでと違っていた。敵の名代の呼び出しを石も投げずに取り次いでいる。それだけ、何かが起きたということだった。

 中洲の飛び石のたもとに、エイフェは立っていた。革の胴着の肩に薄く雪の積もるに任せている。どれだけ待ったのか、問うより先にエイフェが言った。

 「カハルが、倒れた」

 「……いつ」

 「ゆうべである。夜半――声継ぎ殿。そなたが西の長の声を封じたのは、いつだ」

 「……ゆうべの、夜半」

 同じ夜の同じ刻限に、谷の両方の岸で二人の長が床についた。エイフェはそれきり口を結んだ。因果を口にする者は、この谷にはいない。口にしないだけで、誰もが胸の内で二つを並べる。並べて、寒くなる。ニーヴも、寒くなった。

 「……意識は」

 「ある。起きられぬだけだ。年寄りどもは、冬の入りにはよくあることだと言うておる」

 「なら、枕元で開けます。いますぐ渡してください。器はここに――」

 「ならぬ」

 エイフェの声は、川音より低かった。

 「東の若い衆が、通さぬ。西の長の声を、倒れた当主の病間に入れてよいものか、と。……それが詫びなら、よい。だが、呪いなら。罠なら。……この谷では、どれもありうる」

 「呪いなんかじゃ――」

 言いかけて、ニーヴは口をつぐんだ。中身を知っているのは、あたしだけだ。そして、あたしは言えない。掟の三条は、こういうときにいちばん重い。

 「それにな、声継ぎ殿。考えてもみよ。声を聞いて、万一そのまま当主が逝けば……谷は、なんと言う」

 西の声が、東の長を取り殺した。

 言われなくても、聞こえた。そうなれば、石の投げ合いでは済まない。この谷は今度こそ、戻れないところへ落ちる。届けることが、火種になる。そんな配達を、ニーヴはまだ知らなかった。

 「時も、ない」エイフェは北の空を見た。「初雪で、峠は閉じぬ。閉じるのは、根雪である。初雪から根雪まで――年によるが、五日か、十日。……声継ぎ殿。そなたが帰れる窓は、それだけしかない」

 初雪までに峠を戻れ、と市場の元締めは言った。あの脅しの大づかみは、嘘ではなかったわけだ。閉じはじめの合図は、もう出ている。五日か、十日。そのあいだに二人の長のどちらが欠けても、この声は届かないまま、あの棚へゆく。

 ニーヴは飛び石の一つに腰を下ろした。負い籠を膝に抱えて川音を聞いた。落ちた橋のなれの果てが下手の瀬で水に洗われている。……考えろ。頭の中で算盤を弾く。弾いても、玉が湿って動かない。動かないなら、決まりごとの目から数え直すまでである。

 「掟はね、エイフェさん。三つしかないの」

 「……知っておる。届ける。開けぬ。他言せぬ」

 「そう。それだけ。……どこにも決まってないんだよ。届けの座を、どこで組めとも。証しに、誰が立てとも」

 証し、と口に出したとき、埃をかぶった記憶が一つ、頭の棚から落ちてきた。

 年季の四年目。口上の稽古の千回目あたりだったと思う。師匠がいちど、茶のついでのように古い型を口にしたことがある。

 ――古い型が、一つある。「証しに立つは、宛て名その人と、わたくし」。互いに宛てた二つの声を、一つの座で解くときの型じゃ。互いの証し、という。……使うことは、まず、ない。

 それきり、仕舞われた。使うことは、まず、ない。だが、無い、とは言われていない。

 字の読めない声継ぎは、聞いたものを忘れない。忘れないことだけが、あたしらの帳面だから。

 「……ねえ、エイフェさん。証しって、誰でもいいんだよね」

 ニーヴは顔を上げた。

 「カハルさまにも、封じてもらう。ロアグさまへ宛てた声を。それで、お二人ともこの中洲へ運んで、二つの声を一つの座で谷じゅうの見ている前で解く。――互いの証し。宛て名その人が、証しに立つ。そういう古い型がうちの口伝にあるの」

 エイフェの眉が、動いた。ニーヴは畳みかけた。算段は、口で言う。言ってから、走る。

 「勝算を言うよ。谷じゅうの目の前なら呪いも罠も入り込む隙がないが一つ。万一のことがあっても、両の長が同じ座で同じものを背負うんだから片方の岸の咎にならないが二つ。行って帰って、返しを待って、また渡って――なんて日数が、いっぺんの座なら要らない。窓の内に収まるが三つ。……四つ目、言おうか」

 「言え」

 「四つ目は、損得じゃない」ニーヴは少しだけ声を落とした。「証しの立った言葉は、あとから聞かなかったことにできない。若い衆に石を置かせられるのは、触れでも脅しでもなくて――たぶん、それだけだよ」

 エイフェは長いことニーヴを見た。量りかねている目ではなかった。もう量り終えて、自分の岸に載せる重さを載せ替えている目だった。

 「……見届けたい、とわたしは言うたな」

 「言った」

 「ならば、これがその座である」エイフェは東の岸へ向き直った。「東岸は、わたしが説く。西岸は、声継ぎ殿、そなたが説け」


   *


 説く、と一言で言うが、谷の五十年は一言では動かなかった。

 西岸では年寄りたちが首を横に振った。死にかけの長を、雪の中洲へ担ぎ出すのか。殺す気か。担ぎ出した先が敵の目の前とあっては、なおさらである。ニーヴは戸口から炉端へ、炉端から戸口へ、日が傾くまで説いて回った。説き疲れたころ、奥の寝床から掠れた声がした。

 「……戸板ごと、運べ」

 ロアグだった。

 「五十年、出せなんだ足じゃ。……最後くらい、渡らせえ」

 年寄りたちは、それでもまだ渋った。渋る口を閉じさせたのは理屈ではなく、長の目だった。死の床の目というものは、この谷でもどこの土地とも同じに強い。

 東岸へは、エイフェと二人で飛び石を渡った。石を握って集まりかけた若い衆を、エイフェが目だけで退かせ、ニーヴは当主の病間に通された。

 カハルは、岩を寝かせたような老人だった。骨組みが大きく、倒れてなお寝床のほうが狭く見える。ロアグより口数は少なく、目だけがゆっくり動いて、負い籠とニーヴの顔とを順に見た。

 「……ロアグが、声を」

 「はい。あなたに宛てて」

 「あれが先に詫びる気か」乾いた声が低く軋んだ。笑ったらしかった。「……先を、越された」

 詫びとは、ニーヴは一言も言っていない。言っていないのに、この老人は疑いもしなかった。五十年の敵の声を、呪いだ罠だと言い立てたのは若い衆のほうで、当の宛て名はひと言目から詫びと決めてかかっている。五十年ぶんの何かが、その決めてかかりの中にまるごと見えた気がした。

 「封じよ」カハルは言った。「わしの声も、あれに宛てる。……起こせ」

 封じの座は病間に組んだ。宛ての口上を唱える。語り手はカハル、東の長。宛て名はロアグ、西の長。抱え起こされたカハルは、器を載せた両手を膝に置き、長いこと黙ってから語りはじめた。

 何を語ったかは、胸に置く。ただ、語りのなかほどで、ニーヴは五十年こじれた縄の、結び目のほどける端緒を聞いた気がした。聞いて、揃えた膝の上で手を固く握った。これは、あの座で声自身が言う。あたしの口の、出る幕ではない。

 耳を澄ます。

 ――座った。

 「確かに、お預かりします」

 座の日は、明後日の朝と決まった。エイフェが空を読んだ。北の雲がひと息つく、次の雲の育つ前の束の間の晴れ間だという。短いほうの窓なら、もうぎりぎりである。二人の長がその朝まで保つかどうかは、誰にも分からなかった。分からないまま、谷は支度を始めた。

 支度が始まると、妙なことが起きた。

 「西は、長の戸板に熊の毛皮を二枚敷くそうな」

 「なら東は三枚じゃ。床几に敷いて、膝掛けにも掛ける」

 「西は、座の雪を今日のうちに掃くと言うとるぞ」

 「掃くのは東じゃ。中洲の東半分は、東の雪じゃろうが」

 石の代わりに、見栄が飛び交いはじめたのである。どちらの長を、どちらが手厚く運ぶか。この秋、石と焼き討ちにまで噴き出した両岸の張り合いが、行き場を失って毛皮の枚数に流れ込んでいた。ニーヴは笑いを噛んだ。張り合いは、止まらなくていい。飛ぶものが石でさえなければ、当分はそれでいい。

 勘定まで張り合いになった。封じと開けの手間賃を、西はロアグの分を、東はカハルの分を、それぞれ払うと言って譲らないのである。敵に貸しは作らん、という理屈だった。帳場育ちの算盤は黙って両方から受け取った。貸し借りの帳尻を気にしているうちは、谷はまだ帳面の上で繋がっている。


   *


 座の朝は、晴れた。

 川音のほかに、音はなかった。

 両岸から下りてきた谷じゅうの人間が、雪を掃いた中洲を遠巻きに囲んで立っている。誰も座らない。座る作法が、この谷にはもうないのだ。長どうしが同じ座に着くのは五十年ぶりだと、古老たちは言った。子どもまでが袖を引かれて黙っていた。

 祠を背に、敷物を一枚。その東に床几が一つ、西に戸板が一つ、三歩を隔てて向かい合う。カハルは毛皮にくるまれて床几に抱え起こされ、ロアグは戸板の上に半身を起こした。寝て聞く声ではない、とどちらの長も同じ言葉で言い張ったからである。エイフェは東の列の先頭に、腰の刃物を家の者に預けて立った。

 敷物の上には、器が二つ。先に解くのは、西の声である。先に封じた声から先に――それは、ニーヴが決めた。

 膝を揃える。息を、ひとつ。

 「語り手はロアグ、西の長。宛て名はカハル、東の長。――証しに立つは、宛て名その人と、わたくし」

 器の紐に指をかけ、一度だけ、東の床几の老人を見た。カハルは、顎を引いた。それが合図だった。

 刻み紐が、ほどけた。

 ――カハル。……わしじゃ。おまえ、まだ怒っとるのか。

 最初のひと言で、東の床几の老人が、五十年ぶんまとめて息を呑むのが分かった。

 ――わしはもう、疲れたよ。おまえと張り合うのに疲れたんじゃない。……おまえと張り合わん五十年に、疲れた。

 川音が、声の切れ間を埋めた。

 ――なあ、カハル。わしらの喧嘩は、なにが初めじゃった。羊か。女子か。境の石か。……わしは、覚えとらん。長いこと、覚えとる顔をしとった。五十年憎んだ訳を、忘れたとは、言えなんだでな。

 どちらかの岸で、笑いに似た息が漏れて、すぐに消えた。

 ――一つだけ、訊きそびれたことがある。親父を土に入れた、明くる朝じゃ。墓の上に、白い石が一つ、載っとった。丸い、水に磨かれた、河原の石じゃ。……あの並びの石はな、この谷では、中洲にしか、ない。

 ――誰が載せたか、五十年、誰にも訊かなんだ。……訊いて、違う答えが返るのが、怖かったんじゃろうよ。わしは。

 床几の上で、息の詰まる音がした。

 ――カハル。わしはもう、川も渡れん。じゃから、声で渡る。言いたいことは山ほどある気がしとったが……器を前にすると、一つきりじゃ。……会いたかった。長になってからも、ずっとじゃ。それだけよ。

 声は、そこで言い足すことを探さなかった。探さないまま、瀬音のあいだへ一段ずつ下りるように遠のいて、消えた。

 あとには、川音だけが残った。

 誰も、動かなかった。

 ニーヴは二つ目の器を捧げ、口上を唱えた。

 「語り手はカハル、東の長。宛て名はロアグ、西の長。――証しに立つは、宛て名その人と、わたくし」

 今度は、西の戸板の老人が顎を引いた。

 刻み紐が、ほどけた。

 ――ロアグ。……カハルじゃ。声継ぎ殿に聞いたぞ。おまえ、先に逝く気じゃな。……相変わらず、段取りだけは早い男よ。

 戸板の上で、笑いとも咳ともつかぬ音がした。

 ――白い石は、わしじゃ。

 それきり、声はひと呼吸、黙った。

 川音だけが流れた。西の戸板から、息とも声ともつかぬものが、ひとつ漏れた。

 ――葬いの晩は、渡れなんだ。東の長の子が西の土を踏んだと知れりゃ、それこそ血じゃ。じゃから明くる晩、月の落ちてから、飛び石を渡った。敵の岸で、おまえの親父に手を合わせた。……五十年で、わしが西へ渡ったのは、あれが一度きりじゃ。石は、名乗りの代わりよ。中洲の石なら、おまえには分かる。分かって、それでも訊けんじゃろうと思うたでな。……意地の悪い名乗りじゃった。すまなんだ。

 ――なあ、ロアグ。わしらは、憎み合うたんじゃないぞ。……長に、なってしもうただけじゃ。友としてなら、いつでも詫びれた。長としては、一度も詫びれなんだ。それだけのことに、五十年かかった。

 ――石を置け、と、東にはわしが言う。西には、おまえが言え。五十年ぶりの、二人での仕事じゃ。……済んだら、先に行って、待っとれ。今度は、わしが渡る番じゃ。あっちの川にも、飛び石ぐらい、あるじゃろう。

 声は、言い終えて――雪がひとひら川面に触れて消えるのと、同じ静けさで、消えた。

 あとには、川音と。

 どちらの岸からだったか、洟をすする音が、一つ。

 それから、数えきれなくなった。

 両岸の嗚咽のなかで、二人の長はどちらからともなく手を伸ばした。床几と戸板は、三歩、離れている。届かなかった。届かないまま、皺だらけの掠れた笑いが二つ、重なって鳴った。五十年ぶりに、二人が同時に同じことをした音だった。

 やがて、ロアグが息を集めた。

 「……西の衆。聞いたな」

 器の中の声よりずっと薄い声だった。それでも、谷に通った。

 「石を、置け」

 「東も、置く」カハルが続けた。「恨みは、捨てんでええ。……預けよ。いつか、この谷に、新しい誓いの立つ日まで」

 一拍、川音。

 それから、石の置かれる音がした。ひとつ。またひとつ。両の岸で、若い衆の手から握られていたものが下ろされていく。ニーヴは途中で数えるのをやめた。

 ニーヴは証しの座で膝を揃えていた。泣かなかった。証しに立つ者は、座では泣かない。口の中で頬の裏を軽く噛んで、川音だけを数え直していた。

 棚上げである。和解では、まだない。恨みは捨てられず、預けられただけだ。この秋、なぜ谷の血が急に噴いたのか――その訳だけは、二つの声のどちらにもなかった。石は置かれ、訳は、置かれたままである。それでも、と思う。今日この谷は五十年ぶりに、両の岸で同じ音を聞いた。

 役目を終えた二つの器は、ただの素焼きに戻っていた。心なしか、軽い。その空を、二人の長はどちらも欲しがった。取り替えて、一つずつ渡した。敵の声の入っていた空を、互いの形見にするのだという。器の代金二つぶんは、給金から引いてもらうことにする。……悪くない、使い道だった。

 座がほどけ、両岸がそれぞれの長を担いで戻っていく。人波は一度、長たちの戸板と床几に両岸入り乱れて手を貸しかけ、思い直してまた分かれた。五十年は、一朝には縮まらない。縮まる日は、今日でなくていい。

 その人波を見送って、ニーヴは祠のそばに立った。エイフェが隣に並んだ。

 石を積んだだけの古い建物に、戸はない。石の口が暗くひらいているだけである。目が慣れると、奥に石の棚が見えた。色の沈んだ素焼きが肩を寄せて並んでいる。手前も奥も、古さの差が読めないほど古い。

 そして、どの器にも――札が、ない。

 語り手と宛て名を留めた木札が、一つも提がっていない。耳の奥では、あの遠いざわめきが変わらずしみ出している。

 「祠は」エイフェがぽつりと言った。「今日のを、聞いたであろうか」

 「……聞いてた、と思う」

 それ以上は、どちらも言わなかった。


   *


 ロアグは、明くる朝、逝った。

 夜明け前に、眠ったまま息を引き取ったのだと、西岸の家の者は言った。枕元には、役目を終えた素焼きの器が一つ、両の手のあいだに抱えられていたという。

 明け方の西岸の家々から、低い声がひとつ、またひとつ、立ちのぼりはじめた。弔いの歌だと、教えられる前に分かった。谷を出る支度を整えて、ニーヴは西の館の戸口で頭を下げ、それから中洲へ下りた。

 エイフェが待っていた。

 「峠の窓が、閉じかけておる。北の雲が、育ちはじめた。……行け、声継ぎ殿」

 「うん。……ねえ、エイフェさん。見届けられた?」

 「見届けた」

 エイフェはまっすぐに言った。それから、ほんの少しだけまっすぐでなくなった。

 「あの夜……わたしは正しいのだろうかと、そなたに訊いたな。答えは、いまも持たぬ。だが――昨日のわたしたちは、間違うてはおらなんだと思う」

 「あたしも、そう思う」

 「谷は、そなたに借りができた」

 「貸しじゃないよ。あたしは、届けただけ」ニーヴは笑った。「……でも、覚えとくなら形にしてよ。今度この谷に声継ぎが来たら、石じゃなくて、茶を出すこと」

 「……約定である」

 エイフェは笑わなかった。笑わなかったが、その断定はこれまででいちばん柔らかかった。春に峠が開いたら――と言いかけて、当主代行は口を結び、結んだまま片手を上げた。

 ニーヴも手を上げて、峠への道へ足を向けた。


   *


 峠のふもとの牧夫の小屋で、アネモネは待っていた。

 荷驢馬はニーヴを見ると、白い息をひとつ吐いた。それが精一杯の出迎えらしかった。首すじに額を当てると、冬毛と藁の匂いがした。生きて戻った、とそこでようやく思った。

 「ただいま。……歌わないから、安心しなよ」

 驢馬の耳が、半分だけこちらを向いた。

 無口な牧夫は預かり賃の銅貨を受け取ると、北の空を顎でしゃくった。

 「……次の雲が、二日で来る。行くなら、いまじゃ」

 「行きます。二日で、越えます」

 峠道の雪は、くるぶしまでだった。登りは一本道で、迷いはない。ニーヴはアネモネと並んで、ただ黙々と登った。荷は軽い。負い籠にあるのは、空の器と蜜蝋と紐――いつもの道具だけである。届ける声は、もうない。届け切った。二つとも。

 その晩は、頂を目の前にした岩陰に火を焚いた。風はまだ、ただの風の音で鳴いていた。

 二日目の朝、峠の頂に立った。

 振り返ると、谷は雪の下で静かだった。東岸と西岸の家々の煙が、同じ白さで、同じ空へ立ちのぼっている。焼けた羊小屋の黒も、薄い雪が覆いはじめていた。

 白い息が、長く出た。出てから、少しだけ震えた。震えの残りは、寒さのせいにしておく。

 歩き出す。

 考えは、勝手に手繰られていった。疲れた頭というものは、糸口だけを咥えて、あとは坂を転がるものである。

 祠の棚。札のない器。

 誓いの器は、届け先へ運ぶものではない。両の長が、たがいを聞き手と定めて封じ、あの祠に納めた――はじめから届ける物ではないのだから、届け先の木札が、要らない。

 届け先の札の、要らない器。

 ……あたしは、それと同じ顔の棚を、知っている。

 組合本部の、廊下の突き当たり。北の壁の、無窓の間。手前から中程までは、語り手と宛て名の木札が行儀よく提がって――最奥の段にだけ、どれ一つ、札がない。誰も開けない、いちばん古い段。問うな、と師匠の言った、あの段。

 足が、止まった。

 アネモネが二歩先で振り返り、白い息を吐いた。峠の雪の上に、音はそれきりだった。

 ――あれも、誓いだ。


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