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声継ぎ  作者: 篇乃綴り堂
第三部 いつかの声継ぎへ
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11/15

第十一話 寄り合いの月

 ニーヴが坂の町へ帰り着いてから、雪は三度降った。

 降るたびに、北の空を見た。丘の雪は日のあるうちに屋根から落ちるが、高地の雪は落ちない。積んで、固まって、道を埋める。……峠は、もう閉じた頃だった。閉じたなら、石を置いたばかりのあの谷は、春まで外と切れる。

 考えている暇は、なかった。

 クロスケリーが、膨れていたのである。

 寄り合いの月だった。年の締めに、あちこちの谷から氏族長たちがこの坂の町へ集まってくる。境の揉め事を裁き、来年の割り前を決め、それから存分に酒を飲む。町が年に一度いちばん膨れあがる月――春の荷車の上で、行商人のモイラがそう言っていた。あのときニーヴは、へえ、と聞き流した。

 聞き流した罰が、いま来ている。

 長が上ってくれば、供の衆も上ってくる。長が谷を空けるということは、谷に残る者がいるということでもある。残った者には、留守の長へ言いたいことが山ほどあった。

 それが、ぜんぶ、声になる。

 「姉さん! 坂の上、二軒目の宿! 東の谷の長の供頭へ、細君から一件!」

 「聞いた!」

 「そのあと聖堂裏へ三件。同じ語り手から二日続きの封じが二つあります。結い目を、間違えないでくださいね」

 「間違えないよ!」

 帳場の板壁が、黒くなっていた。コルムが炭で直に書いた、宿の名、長の名、語り手の名、封じの日である。列は日ごとに伸びて、梁の下まで届いていた。

 「壁は、あとで削れよ」

 炉端から、師匠の声が一言だけ飛んだ。

 「削ります! 削りますから、いまは書かせてください!」

 返しの声を近い谷へ下ろす足が足りず、モイラの荷車まで臨時に借り上げられた。口達者なはずの行商人は、何を言っても「そうか」しか返さない師匠に根負けして、口惜しがりながら荷車を出していった。

 昼を回って、坂の中程の市の端で足を止めた。朝から何も食べていない。粥売りの鍋が、坂の風の中で湯気を上げていた。

 「一膳ください」

 「二枚だよ」

 「二枚?」ニーヴは掌の銅貨を見た。「粥一膳が、二枚?」

 「寄り合いの月だからね」粥売りの女は悪びれもしなかった。「鍋が空くまで、なんでも二枚さ」

 銅貨一枚あれば、宿場で温かい一膳にありつける。それが丘の相場で、二枚は倍だった。とはいえ、半枚の銅貨などというものはない。銅貨は市井でいちばん小さい貨で、一枚に足りない端は、取り替えか、顔なじみの掛けで回る。

 「じゃあ、こうしよう」ニーヴは指を立てた。「いま一枚払うが一つ。残りは掛けにして、次に来たとき二膳で三枚にするが二つ。……あたしはこの月、日に三度この坂を上り下りするよ。二膳めは、必ず来る」

 粥売りは、三つ数えるあいだ黙って、それから柄杓を鍋へ突っ込んだ。

 「……乗った。掛けは、あんたの名で付けとくよ」

 立ったまま椀をかき込んでいると、コルムが坂を上ってきた。

 「姉さん。……あ。粥、買ったんですか」

 「買った。二枚のを、一枚と掛けで」

 「ブリジッドさんのお店で、炊き出しが出てます」コルムは眉を八の字にした。「寄り合いのあいだ、組合の者はただだそうです。汁も、麦の飯も」

 ニーヴは、椀を持つ手を止めた。

 母の顔が浮かんだ。藍の匂う手で汁をよそっている顔である。娘の稼業を誇るとは口が裂けても言わないくせに、こういうことだけは黙って先にやる。

 「……あたしの一枚は」

 「一枚と、掛け半分の丸損ですね」

 「言わなくていい!」


   *


 その日のいちばん大きな用は、坂の上の宿にいた。

 丘向こうの谷の氏族長ルアリ、というお人である。歳は五十がらみ。首に重たげな銀の輪をかけ、供の衆を八人連れて上ってきた。器はその谷で封じられ、谷の声継ぎの手から帳場へ上がってきた。語り手は、ルアリの妻のベヴィンである。

 「長さま。お声のお届けです」

 宿の板の間では、囲炉裏の前に長が座り、その後ろに供の衆が七人居並んでいた。八人めは戸口に槍のように立っている。座を組むには、賑やかすぎた。

 「人を退けますか」ニーヴは訊いた。「座は、あなたとあたしがいれば足ります」

 ルアリは鼻から息を出した。

 「妻の声じゃ。隠すことが、あるか」

 「ないなら、いいんです」

 「ない」

 ない、と言い切った顔には、うっすら見栄の艶があった。供の衆の前で、家の細君の声を堂々と受ける。絵にしたいのだと知れた。座をどこで組むかは宛て名の人が決めることだから、ニーヴは止めなかった。

 ……ただ、七年の年季で覚えたことが一つあった。妻の声は、たいてい、夫の見栄より正直だ。

 器を捧げ、解きの口上を唱えた。

 「語り手はベヴィン、ルアリの妻。宛て名はルアリ、ベヴィンの夫。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」

 刻み紐が、ほどけた。

 ――あんた。ベヴィンだよ。

 落ち着いた、低い声だった。ルアリの背が、いい具合に伸びた。

 ――まず一つ。見栄を張るな。

 供の衆のうちの一人が、噴いた。

 ――寄り合いの二日目に、あんたは必ず声を荒らげる。去年も、その前もだ。荒らげる前に、水を一杯飲め。あとで飲んでも、遅いんだよ。

 ――二つ。膝を冷やすな。荷のいちばん底に、膝当ての厚い毛織りを入れといた。人前で巻くのが恥ずかしいのは知ってるから、夜だけでも巻け。あんたの膝が春まで持たんかったら、谷の羊の勘定は誰がするんだ。

 ――三つ。土産はいらん。去年の鉢は、まだ棚で埃をかぶってる。鉢より、あんたの膝だ。

 七人ぶんの肩が、揃って震えていた。声を殺すのに、みな必死である。氏族長ルアリは、囲炉裏の火をじっと睨んでいた。

 ――……それだけ。……いや、もう一つあった。

 声が、そこで少し休んだ。

 ――谷は、心配せんでいい。あんたがおらんでも、羊は勝手に草を食う。……ただ、戻ってきたら、寄り合いの話を聞かせておくれ。声継ぎさんに封じてもらわんでいい話を、たっぷり、あんたの口で。

 声は、それだけ言って――窓の桟の霜が、息をあてたところからゆるんでいくように、輪郭をなくして消えた。

 あとには、囲炉裏の薪がひとつ崩れる音と、坂の下から上ってくるざわめきだけが残った。

 氏族長は、しばらく火を睨んでいた。

 「……声継ぎ殿。返しを、封じたい」

 「承ります」

 ニーヴは新しい器を出した。出しながら、訊いた。

 「人は、退けますか」

 長は、まだ火を睨んでいた。それから、絞り出すように言った。

 「……退けてくれ」

 供の衆が押し出されるまでに、三つ数えるほどもかからなかった。戸の外で堰を切ったような笑いが起き、長の耳にも、当然、届いた。

 ニーヴは笑わなかった。笑わないのも稼業の作法である。作法ではあったが、頬の裏を噛むのに、いくらか力が要った。

 宛ての口上を唱え、長が語った。何を語ったかは胸に置く。ただ、語り出しのひと言だけは、もう聞こえていた。

 ――ベヴィン。膝当ては、見つけた。

 耳を澄ます。

 ――座った。

 「確かに、お預かりします」


   *


 エイフェ・ニ・ファーラが坂を上ってきたのは、その二日あとの、日の落ちる前だった。

 戸口でその声を聞いた瞬間、ニーヴは帳面を放り出した。

 「声継ぎ殿」

 「エイフェさん!」

 「……騒々しいな。相変わらず」

 高地の当主代行は、厚い毛織りを二重に巻き、雪の匂いをさせて立っていた。

 「峠は」ニーヴは訊いた。

 「閉じた」エイフェはあっさり言った。「わたしが越えたのが、最後の窓であった。……春まで、帰れぬ」

 「……春まで」

 「谷を空けて、冬をよそで越す。名代とは、そういう役だ」エイフェは敷居をまたぎ、肩の雪を払った。「寄り合いの座に、グレン・ファーラの名で出る。……五十年、あの谷は名代を出しておらぬ。長どうしが同じ座に着けぬ谷が、どうして一人の名代を立てられる」

 「……まとまったんだ」

 「まとまった」口の端が、ほんのわずか上がった。「東と西で、一人。東の当主が推し、西の家の者が承知した。谷が一つの名に頷いたのは、五十年ではじめてである」

 ニーヴは跳ねた。跳ねたところを見られているのに気づいて、咳払いをした。

 「……茶を出すよ」

 エイフェが、顔を上げた。

 「約定であったな」

 「そっちの谷でって話だったけどね。順番が、逆になったの」

 炉の間で、ニーヴは茶を淹れた。師匠は炉端の定位置から、高地の名代へ黙って場所を空けた。

 「峠を下りたところで、キルデナンの市の元締めに会うた」エイフェは懐から小さな木札を出した。「そなたへ、と。市の門の下で、わたしを待っておったそうだ」

 組合の刻みを結んだ木札だった。文字は読めないが、この刻みなら読める。

 ニーヴは結び目を指で追った。

 高地。古い言葉。

 エハヴ。

 耳の、鳴るを、そう言うた。

 訳は、知らん。

 最後の五つの刻みは、あのがらがら声そのままだった。

 「エハヴ」ニーヴは、その音を口の中で転がした。「……エイフェさん。これ、高地の言葉?」

 「言葉である」エイフェは茶碗を両手で包んだ。「谷の古老が、祠の前で唱える。わたしも幼いころに覚えた。……意味は、誰も説かぬ。唱えは唱えである、と」

 「唱えて」

 「いま、か」

 「いま」

 エイフェは茶碗を膝の前に置き、背筋を伸ばして目を閉じた。

 高地の古い形の言葉が、坂の町の炉の間に落ちた。同じ言葉の古い形である。聞き慣れないのに、意味は半分こちらへ渡ってくる。

  宛てられし声は、聞かるるまで、消えず。

  聞くべき耳の絶えしとき、声は迷ふ。

  ――これ、エハヴのことわりなり。

 炉の火が、爆ぜた。

 ニーヴは、動かなかった。膝の上で、指が一本ずつ勝手に握られていった。

 「……もう一度」

 「もう一度、か」

 「お願い」

 エイフェは、もう一度唱えた。二度目は、ニーヴの耳が一語も落とさずに拾った。

 「師匠」ニーヴは炉端を振り向いた。「師匠、いまの」

 オシーン・マクブライは、茶碗を持ったまま動かずにいた。

 持ったまま――飲んでいなかった。


   *


 その晩、板壁に炭を足していたコルムが、ふいに手を止めた。

 「……あ」

 「なに」

 「姉さん。三日前に、寄り合いに合わせてロスマリーの商家の荷が上がってきたんです。その荷に、姉さん宛ての紙束が混じってました」コルムは帳場の棚の下から、麻布に包んだものを引き出した。「聖堂の書記さまからだそうです。テオドラ、という方から」

 「三日前?」

 「……壁に、欄がなかったんです。姉さん宛ての紙束の、欄が」

 石橋を叩く男は、叩く橋の欄がないと、橋のことをまるごと忘れる。麻布をひらくと、羊皮紙が数枚あった。びっしりと文字が並んでいる。ニーヴには、黒い模様である。

 「読める?」

 「読めます」コルムは、こういうときだけ胸を張った。「帳場の帳面をつけるのに、字は要りますから。名と数だけですけど。……声継ぎは読めなくても、組合の帳面は誰かが書かないと回りません」

 組合というところは、妙なところで文字を嫌い、妙なところで文字に頼っていた。

 コルムは羊皮紙を灯へ寄せ、指で行を追って読み上げた。

 「――『大移しの年の前後を写しました。あなたの問いの答えは、年代記の本文にはやはりありません。ただ、綴じの余白に、昔の写し手の書き入れがありました』」

 文字の人が書いたものを、字の読める小僧が声にして、字の読めない声継ぎへ渡す。あべこべなようで、これがいちばん理にかなっていた。

 「書き入れ、いきます。……『土地の者、返る声をエハヴと呼ぶ。古き言にて、こだま、返る声の意なり。声は聞かるるまで消えずと信ず。俗信なり』」

 俗信なり。

 コルムが顔を上げた。

 「あの、姉さん。俗信って、たしか、いなかの言い伝えという――」

 「上等だよ」ニーヴは言った。声が、掠れていた。「訳が、書いてある」

 高地の谷は、意味の分からない唱えごとを三百年、口で運んだ。南の聖堂は、意味だけを書き留めて、俗信の棚へ放り込んだ。どちらも半分ずつ持っていて、半分では何にもならなかった。

 その二つが、いま、坂の町の炉の間で並んだ。


   *


 エイフェが宿へ引き取り、コルムが帳面に突っ伏して寝入ったあとも、ニーヴは炉端に残った。

 残ったのは、問うためである。

 「師匠。帳場に上げてない申告が、一つあります」

 オシーンは炉の火を見ていた。

 「言え」

 「高地の谷に、祠がありました。川のまんなかの中洲です。組合よりずっと古い石積みで、戸がなくて、奥の石の棚に色の沈んだ古い素焼きが並んでます。……ぜんぶ、届け札がありません。どれ一つ」

 薪が、鳴った。

 「谷の古老は、あれを誓いの器だと伝えてます。長どうしが、たがいを聞き手と定めて和平を誓い、その声を封じて納めた。声のある限り、谷に血は流れぬ、と。……それが切れた、と古い者は言うそうです」

 「……そうか」

 「帰りの峠で、思ったんです」ニーヴは膝を揃え直した。「うちの無窓の間の、いちばん奥の段と、同じ顔だって。棚出しから帰った晩に、師匠が問うなと言った、あの段です」

 オシーンは、動かなかった。

 「あれも、誓いだと思います」

 炉の火が、低くなった。

 「訊きます」ニーヴは言った。「掟の外なら、外だと言ってください。そのときは引きます。……でも、外だと言われるまでは、訊きます」

 「……言うてみい」

 「最奥の段は、何なんですか。……谷の祠と、うちの棚が、同じ音で鳴るのはなぜですか。……あたしの耳は、何を聞いてるんですか」

 オシーンは、長いこと黙っていた。

 言葉を銅貨のように惜しむ人の沈黙は、慣れている。慣れているが、今夜のは目方が違った。炉の薪が二本、燃えて崩れるまで、この人は何も言わなかった。

 それから、炉にかけた鍋の湯を汲んだ。師匠は二つの茶碗に湯を注ぎ――自分の茶碗を、先に膝の前へ置いた。

 ニーヴは、その手を見た。

 今まで、いちどもなかったことである。この人はいつでも、自分の茶碗より先にニーヴの茶碗へ注いだ。首尾を告げた晩も、しくじった晩も、四十年待った声を届けて帰った晩も、黙って膝の前へ押して寄越した。

 今夜、その順が、崩れた。

 「……嬢」

 「はい」

 「わしは、答えを持っておらん」

 炭が、ひとつ落ちた。

 「先代から受けたのは、二つきりじゃ」オシーンは、自分の茶碗を見たまま言った。「最奥の段に、手を触れさせるな。理由は、問うな。……それだけだ」

 「……それだけ」

 「それだけよ」

 ニーヴは口を開いた。開いて、何も言えずに閉じた。

 「棚出しの晩、おまえに問うなと言うたな」師匠は言った。「あれは、掟ではない。……口伝じゃ。痩せた、口伝じゃ。継ぐたびに削れて、二つの文句だけになった」

 「師匠は、訊かなかったんですか。先代に」

 「訊かなんだ」

 薪が、鳴った。

 「訊かんことが弟子の顔じゃと、忠義じゃと、そう思うとった」オシーンは、初めてニーヴを見た。「嬢。おまえに問うなと言うたのは、掟のためではない。……わしが、問えなんだからじゃ」

 言葉を惜しむ人の、いちばん長い夜だった。

 ニーヴは、しばらく何も言えなかった。言えないまま、自分の茶碗を両手で持った。この人はずっと、あたしの茶を先に注いできた。注ぎながら、答えを持たない自分をずっと畳んで、あの炉端に座っていたのだ。

 「……師匠」

 「なんじゃ」

 「あたしも、答えは持ってません。でも、今日、材料が三つ揃いました」

 ニーヴは炉端に膝を進めた。

 「高地の唱えごと。市の元締めの木札。聖堂の書記さまの写し。……三つとも、同じ一語を持ってます。爺さまを、起こしていいですか」

 「……起きとる」

 廊下から、燭台の火が近づいてきていた。

 「……こんな刻限に、なにを、しとる」

 棚番のファーガルだった。夜の見回りの途中である。老人は、炉端の二人と羊皮紙とを、順に見た。

 ニーヴは立ち上がった。

 「爺さま。棚のことなの。……今夜、寝ずに付き合ってもらえる?」

 ファーガルは、燭台を持ち替えた。

 「……五十年、ろくに寝とらん」


   *


 夜なべの調べは、炉の間で始まった。

 炉端に並べたのは三つ。組合の刻みを結んだ木札。羊皮紙の写し。それに、ニーヴが寝間から取ってきた小さな布の包みである。

 ひらくと、白っぽい素焼きの破片が灯の下へ転がった。春に西の湾の桟橋で割れた、啖呵の器のなれの果てである。捨てる気になれず、ずっと持っていた。

 「宛てられた声は、聞かれるまで消えない」ニーヴは言った。「それだけを置いて、合わせてみます」

 「なにに、合わせる」オシーンが訊いた。

 「ぜんぶに」

 破片を一つつまんだ。

 「器は、割れても何もこぼれません。塩を詰める安物の壺でも、封じは座ります。……ずっと、変だと思ってました。中身が入ってるなら、割れたら出るはずだもの」

 「……出んな」ファーガルが言った。

 「出ないんです。入ってないから」

 炉の火が、ぱち、と鳴った。

 「声は、器の中にいません。負い籠の中にも、内懐にもいない。どこにもいないんです。宛てられたから、消えずにいるだけ。……器は、入れ物じゃなくて」

 言いながら、指の腹で破片の縁を撫でた。答えは、染まるように出た。

 「札です。宛て名を結んだ、札」

 紐をかけ、蜜蝋で口を塞ぎ、定めの結いに結ぶ。あの所作は、壺の口を閉じているのではなかった。宛て名を、そこへ結んでいたのだ。だから壺は何でもいい。宛て名が結ばれていれば、座る。

 この一年、丘を越えて抱えてきたのは、壺ではなかった。宛て名だったのだ。

 「次。開ければ消えて、写しが取れません」

 「そういうものじゃ」師匠が言った。

 「そういうものだけど、なんで、が要るんです」ニーヴは早口になった。「聞かれるまで消えないなら、聞かれたら終わりです。届いた、で済んだんだから、消える。……写しが取れないのも、それ。器の中に音があるなら、二つ並べて写せばいい。写すもとが、はじめから無いんだもの」

 文字は残すための道具、声は消えるための道具。文字の町の書記はそう言った。――半分だけ、当たっていた。声は消えるための道具ではない。届くための道具で、届いたから消えるのだ。

 「その次。先聞きです」

 オシーンの目が、わずかに動いた。

 「聞かれるまで消えない、の聞かれるは、宛て名の人が聞くことなんです。ほかの誰が耳を突っ込んでも、聞かれたことにならない。だからキルデナンの元締めは、一つの声を何べんも聞けた。……宛先の耳の前でだけ一度きりで消えるのも、同じ理屈です」

 「……道理じゃ」ファーガルが、低く言った。

 「その次。継ぎ聞き」

 湖の岸が、頭に浮かんだ。石段と、片側だけの歌と。

 「宛て名は、名と続き柄で言います。リア、モーンの娘、というふうに。……あたし、湖の村で受け手の人に言ったんです。あなたは代わりじゃなくて続きです、って。あのときは、ただの了見でした」

 灯を見た。

 「了見じゃなかった。理屈でした。宛てられてるのは、その人じゃなくて、その名と、その続き柄なんです。だから宛て名の人が死んでも、続きが聞けば、声は届いて、消える」

 ニーヴは立ち上がって、炉端を一周した。

 「合った」

 「座れ」

 「座れません! 一つも余らなかったんですよ、師匠。……合ってる勘定は、飯よりうまいね」

 「座れ」

 座った。座ってから、声が落ちた。次に合わせるものが、笑える話ではなかったからである。

 「聞かれなかった声は、消えません。……宛先に届かなかった器が、あの部屋の棚で待ってるのは、そういうことです。捨て場じゃない、いつか届く声の待合い所だって、爺さまが言ったでしょう。ほんとうでした」

 燭台を持つ手が、止まった。

 「……この子らは、動けんでな」

 「動けないんじゃなくて、待ってるんです。ぜんぶ。手前の段も、奥の段も」

 そして、耳の奥が、いつものように鳴った。

 ざわ、と。

 初日の晩、扉一枚の向こうで聞いたあれ。西の湾の破片のそばで聞いたあれ。棚の奥ほど濃くなるあれ。谷の祠からしみ出していたあれ。

 「あたしの耳鳴りは」ニーヴは、自分の耳のあたりへ手をやった。「病じゃなかった。疲れでもない。……待ってる声の、音だ」

 言ってしまうと、背中に冷たいものが下りた。あれは、遠くて、ひそやかで、数えきれないほど大勢だった。一つ一つが、宛て名の人に聞かれるのを待つ、誰かの一度きりの声なのだ。

 布の上の破片へ、目が落ちた。

 落ちて、息が止まった。

 「……師匠。この破片の声は、どこへ行ったんですか」

 炉の間が、しんとした。

 あの日、桟橋で器は割れた。語り手が生きていれば語り直せばいい――だから、笑って済んだ。女房は、もういいよと言った。啖呵は二度と語られなかった。

 だが、封じは、成っていたのだ。

 あの声は宛てられていて、そして、聞かれていない。

 「消えてません」ニーヴは言った。「あの啖呵、いまも、どこかにいます」

 「……おるな」

 「宛て名は決まってて、聞かれてなくて、でも届く道がない。器が割れて、結び目がなくなったから。……あのとき破片のそばで聞いたざわめきは、あの声です」

 破片を掌に集めた。掌の上で、白っぽい素焼きはただの素焼きだった。

 「これ、どうすれば」

 「どうも、ならん」

 オシーンだった。

 「こぼれた声は、消えはせん。……聞き手のところへ行く道だけが、なくなる」

 「じゃあ、いつまで」

 「いつまでも」

 薪が、崩れた。

 「迷いまよいごえ

 ファーガルが、ぽつりと言った。ニーヴは老人を見た。

 「……爺さま、いま」

 「高地の年寄りの、言いようじゃ」ファーガルは廊下の暗がりのほうを向いた。「聞き手を失うた声を、迷い声と、そう言うた。……わしも、意味は知らんで使うとった」

 聞くべき耳の絶えしとき、声は迷ふ。

 唱えごとの、二行目だった。訳が、いま合った。

 「割るな」ニーヴは言った。「捨てるな、割るな、こわすな。……組合が口を酸っぱくして言うのは、そういうことだったんだ。器を割ったら、声は消えるんじゃない。迷うんだ」

 年季二年目に空の器を割ったとき、師匠は眉ひとつ動かさず、掃け、と言った。あのあっさりの意味が、いま分かった。空の器なら、掃けばいい。声の座った器を割ったら、掃いて済む話ではないのだ。

 「……ねえ、師匠」

 「なんじゃ」

 「なんで、世界はそんなふうにできてるんですか」

 オシーンは、冷めた茶を一口飲んだ。

 「知らん」

 「爺さま」

 「……訳は、伝わっとらん」

 聖堂の書き入れは、俗信なりと締めていた。学のある人たちは、この理を書き留めながら、意味は考えず、俗信のひと言で片づけた。高地の谷は意味を知らずに三百年唱えつづけ、組合は理由を知らずに掟だけを守ってきた。

 誰も、知らないのだった。

 ニーヴは、笑った。笑ってしまってから、なぜ笑ったのか自分で分かった。

 「藍がなんで青いのか、母さんも知らないんです」

 「……あん」

 「知らないまま、うちは三代、青を売ってます。手順は一つも間違えないのに、なんで藍が青いのかは誰も説けないの。……それでも、青は青いでしょう」

 オシーンは茶碗を膝に戻し、鼻から息を出した。笑ったのだと、一拍おいて分かった。

 だが、合わないものが、まだ残っていた。

 「祠です」ニーヴは言った。「谷の誓いの器。あれも宛てられた声なら、聞かれるまで消えない。だから、いまも待ってる。……でも」

 「でも、か」

 「誓いの宛て名は、誰なんですか」

 答えは、なかった。

 長どうしが、たがいを聞き手と定めて誓った――ならば宛て名は相手の長である。だがその長はとうに死んでいる。名と続き柄を継ぐ者がいれば、続きが聞ける。継ぐ者がいるあいだは……そこで算盤が止まった。玉が湿って、動かない。

 何が「切れた」のか。そして、うちの棚のいちばん奥の段。あの札のない器は、誰に宛てた誓いなのか。

 「爺さま」ニーヴは、立ち上がった。「棚を、見せて」


   *


 夜の無窓の間は、昼よりなお夜の色をしていた。

 ファーガルが錠を開け、燭台をかざす。棚は、明かりの届くところにだけ浮かんで見えた。段という段に、素焼きの器が並んでいる。

 ニーヴは敷居のところで足を止めて、耳を澄ました。

 ざわ、と。

 いつもと同じ音が、今夜はまるきり違って聞こえた。耳鳴りではない。この部屋いっぱいに、聞かれるのを待つ声が詰まっているのだ。

 「……ぜんぶ、待ってるんだね」

 誰にともなく言った。答えはなかった。ないほうが、正しかった。

 オシーンは、敷居の外に立ったままだった。棚へは、入ってこなかった。

 ファーガルが燭台を提げて奥へ歩き、最奥の段の前で立ち止まった。それから両手を上げて、器を一つ下ろした。

 「……嬢ちゃんや」

 訥々の声が、いつもより硬かった。

 「五十年、黙っとった。……問うなと、言われとったでな」

 老人は、その器を燭台の下へ差し出した。ほかのどれとも変わらぬ、色の沈んだ素焼きである。届け札は、ない。

 だが、器の肩に、何かが刻まれていた。

 文字ではない。爪で引いたような細い線が、素焼きの肌に一列。

 組合の刻みだった。声継ぎに読める、あの刻みである。

 ニーヴは、指を這わせた。字の読めない指が、一つずつ、刻みを読んだ。

 棚の、意味を、問うに至った。

 いつかの、声継ぎへ。

 指が、止まった。

 敷居の外から、師匠の声がした。

 「……開けてよいのは、宛先だけだ」

 燭台の火が、揺れた。

 「嬢。これは、誰宛てだ」


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