第十一話 寄り合いの月
ニーヴが坂の町へ帰り着いてから、雪は三度降った。
降るたびに、北の空を見た。丘の雪は日のあるうちに屋根から落ちるが、高地の雪は落ちない。積んで、固まって、道を埋める。……峠は、もう閉じた頃だった。閉じたなら、石を置いたばかりのあの谷は、春まで外と切れる。
考えている暇は、なかった。
クロスケリーが、膨れていたのである。
寄り合いの月だった。年の締めに、あちこちの谷から氏族長たちがこの坂の町へ集まってくる。境の揉め事を裁き、来年の割り前を決め、それから存分に酒を飲む。町が年に一度いちばん膨れあがる月――春の荷車の上で、行商人のモイラがそう言っていた。あのときニーヴは、へえ、と聞き流した。
聞き流した罰が、いま来ている。
長が上ってくれば、供の衆も上ってくる。長が谷を空けるということは、谷に残る者がいるということでもある。残った者には、留守の長へ言いたいことが山ほどあった。
それが、ぜんぶ、声になる。
「姉さん! 坂の上、二軒目の宿! 東の谷の長の供頭へ、細君から一件!」
「聞いた!」
「そのあと聖堂裏へ三件。同じ語り手から二日続きの封じが二つあります。結い目を、間違えないでくださいね」
「間違えないよ!」
帳場の板壁が、黒くなっていた。コルムが炭で直に書いた、宿の名、長の名、語り手の名、封じの日である。列は日ごとに伸びて、梁の下まで届いていた。
「壁は、あとで削れよ」
炉端から、師匠の声が一言だけ飛んだ。
「削ります! 削りますから、いまは書かせてください!」
返しの声を近い谷へ下ろす足が足りず、モイラの荷車まで臨時に借り上げられた。口達者なはずの行商人は、何を言っても「そうか」しか返さない師匠に根負けして、口惜しがりながら荷車を出していった。
昼を回って、坂の中程の市の端で足を止めた。朝から何も食べていない。粥売りの鍋が、坂の風の中で湯気を上げていた。
「一膳ください」
「二枚だよ」
「二枚?」ニーヴは掌の銅貨を見た。「粥一膳が、二枚?」
「寄り合いの月だからね」粥売りの女は悪びれもしなかった。「鍋が空くまで、なんでも二枚さ」
銅貨一枚あれば、宿場で温かい一膳にありつける。それが丘の相場で、二枚は倍だった。とはいえ、半枚の銅貨などというものはない。銅貨は市井でいちばん小さい貨で、一枚に足りない端は、取り替えか、顔なじみの掛けで回る。
「じゃあ、こうしよう」ニーヴは指を立てた。「いま一枚払うが一つ。残りは掛けにして、次に来たとき二膳で三枚にするが二つ。……あたしはこの月、日に三度この坂を上り下りするよ。二膳めは、必ず来る」
粥売りは、三つ数えるあいだ黙って、それから柄杓を鍋へ突っ込んだ。
「……乗った。掛けは、あんたの名で付けとくよ」
立ったまま椀をかき込んでいると、コルムが坂を上ってきた。
「姉さん。……あ。粥、買ったんですか」
「買った。二枚のを、一枚と掛けで」
「ブリジッドさんのお店で、炊き出しが出てます」コルムは眉を八の字にした。「寄り合いのあいだ、組合の者はただだそうです。汁も、麦の飯も」
ニーヴは、椀を持つ手を止めた。
母の顔が浮かんだ。藍の匂う手で汁をよそっている顔である。娘の稼業を誇るとは口が裂けても言わないくせに、こういうことだけは黙って先にやる。
「……あたしの一枚は」
「一枚と、掛け半分の丸損ですね」
「言わなくていい!」
*
その日のいちばん大きな用は、坂の上の宿にいた。
丘向こうの谷の氏族長ルアリ、というお人である。歳は五十がらみ。首に重たげな銀の輪をかけ、供の衆を八人連れて上ってきた。器はその谷で封じられ、谷の声継ぎの手から帳場へ上がってきた。語り手は、ルアリの妻のベヴィンである。
「長さま。お声のお届けです」
宿の板の間では、囲炉裏の前に長が座り、その後ろに供の衆が七人居並んでいた。八人めは戸口に槍のように立っている。座を組むには、賑やかすぎた。
「人を退けますか」ニーヴは訊いた。「座は、あなたとあたしがいれば足ります」
ルアリは鼻から息を出した。
「妻の声じゃ。隠すことが、あるか」
「ないなら、いいんです」
「ない」
ない、と言い切った顔には、うっすら見栄の艶があった。供の衆の前で、家の細君の声を堂々と受ける。絵にしたいのだと知れた。座をどこで組むかは宛て名の人が決めることだから、ニーヴは止めなかった。
……ただ、七年の年季で覚えたことが一つあった。妻の声は、たいてい、夫の見栄より正直だ。
器を捧げ、解きの口上を唱えた。
「語り手はベヴィン、ルアリの妻。宛て名はルアリ、ベヴィンの夫。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
――あんた。ベヴィンだよ。
落ち着いた、低い声だった。ルアリの背が、いい具合に伸びた。
――まず一つ。見栄を張るな。
供の衆のうちの一人が、噴いた。
――寄り合いの二日目に、あんたは必ず声を荒らげる。去年も、その前もだ。荒らげる前に、水を一杯飲め。あとで飲んでも、遅いんだよ。
――二つ。膝を冷やすな。荷のいちばん底に、膝当ての厚い毛織りを入れといた。人前で巻くのが恥ずかしいのは知ってるから、夜だけでも巻け。あんたの膝が春まで持たんかったら、谷の羊の勘定は誰がするんだ。
――三つ。土産はいらん。去年の鉢は、まだ棚で埃をかぶってる。鉢より、あんたの膝だ。
七人ぶんの肩が、揃って震えていた。声を殺すのに、みな必死である。氏族長ルアリは、囲炉裏の火をじっと睨んでいた。
――……それだけ。……いや、もう一つあった。
声が、そこで少し休んだ。
――谷は、心配せんでいい。あんたがおらんでも、羊は勝手に草を食う。……ただ、戻ってきたら、寄り合いの話を聞かせておくれ。声継ぎさんに封じてもらわんでいい話を、たっぷり、あんたの口で。
声は、それだけ言って――窓の桟の霜が、息をあてたところからゆるんでいくように、輪郭をなくして消えた。
あとには、囲炉裏の薪がひとつ崩れる音と、坂の下から上ってくるざわめきだけが残った。
氏族長は、しばらく火を睨んでいた。
「……声継ぎ殿。返しを、封じたい」
「承ります」
ニーヴは新しい器を出した。出しながら、訊いた。
「人は、退けますか」
長は、まだ火を睨んでいた。それから、絞り出すように言った。
「……退けてくれ」
供の衆が押し出されるまでに、三つ数えるほどもかからなかった。戸の外で堰を切ったような笑いが起き、長の耳にも、当然、届いた。
ニーヴは笑わなかった。笑わないのも稼業の作法である。作法ではあったが、頬の裏を噛むのに、いくらか力が要った。
宛ての口上を唱え、長が語った。何を語ったかは胸に置く。ただ、語り出しのひと言だけは、もう聞こえていた。
――ベヴィン。膝当ては、見つけた。
耳を澄ます。
――座った。
「確かに、お預かりします」
*
エイフェ・ニ・ファーラが坂を上ってきたのは、その二日あとの、日の落ちる前だった。
戸口でその声を聞いた瞬間、ニーヴは帳面を放り出した。
「声継ぎ殿」
「エイフェさん!」
「……騒々しいな。相変わらず」
高地の当主代行は、厚い毛織りを二重に巻き、雪の匂いをさせて立っていた。
「峠は」ニーヴは訊いた。
「閉じた」エイフェはあっさり言った。「わたしが越えたのが、最後の窓であった。……春まで、帰れぬ」
「……春まで」
「谷を空けて、冬をよそで越す。名代とは、そういう役だ」エイフェは敷居をまたぎ、肩の雪を払った。「寄り合いの座に、グレン・ファーラの名で出る。……五十年、あの谷は名代を出しておらぬ。長どうしが同じ座に着けぬ谷が、どうして一人の名代を立てられる」
「……まとまったんだ」
「まとまった」口の端が、ほんのわずか上がった。「東と西で、一人。東の当主が推し、西の家の者が承知した。谷が一つの名に頷いたのは、五十年ではじめてである」
ニーヴは跳ねた。跳ねたところを見られているのに気づいて、咳払いをした。
「……茶を出すよ」
エイフェが、顔を上げた。
「約定であったな」
「そっちの谷でって話だったけどね。順番が、逆になったの」
炉の間で、ニーヴは茶を淹れた。師匠は炉端の定位置から、高地の名代へ黙って場所を空けた。
「峠を下りたところで、キルデナンの市の元締めに会うた」エイフェは懐から小さな木札を出した。「そなたへ、と。市の門の下で、わたしを待っておったそうだ」
組合の刻みを結んだ木札だった。文字は読めないが、この刻みなら読める。
ニーヴは結び目を指で追った。
高地。古い言葉。
エハヴ。
耳の、鳴るを、そう言うた。
訳は、知らん。
最後の五つの刻みは、あのがらがら声そのままだった。
「エハヴ」ニーヴは、その音を口の中で転がした。「……エイフェさん。これ、高地の言葉?」
「言葉である」エイフェは茶碗を両手で包んだ。「谷の古老が、祠の前で唱える。わたしも幼いころに覚えた。……意味は、誰も説かぬ。唱えは唱えである、と」
「唱えて」
「いま、か」
「いま」
エイフェは茶碗を膝の前に置き、背筋を伸ばして目を閉じた。
高地の古い形の言葉が、坂の町の炉の間に落ちた。同じ言葉の古い形である。聞き慣れないのに、意味は半分こちらへ渡ってくる。
宛てられし声は、聞かるるまで、消えず。
聞くべき耳の絶えしとき、声は迷ふ。
――これ、エハヴの理なり。
炉の火が、爆ぜた。
ニーヴは、動かなかった。膝の上で、指が一本ずつ勝手に握られていった。
「……もう一度」
「もう一度、か」
「お願い」
エイフェは、もう一度唱えた。二度目は、ニーヴの耳が一語も落とさずに拾った。
「師匠」ニーヴは炉端を振り向いた。「師匠、いまの」
オシーン・マクブライは、茶碗を持ったまま動かずにいた。
持ったまま――飲んでいなかった。
*
その晩、板壁に炭を足していたコルムが、ふいに手を止めた。
「……あ」
「なに」
「姉さん。三日前に、寄り合いに合わせてロスマリーの商家の荷が上がってきたんです。その荷に、姉さん宛ての紙束が混じってました」コルムは帳場の棚の下から、麻布に包んだものを引き出した。「聖堂の書記さまからだそうです。テオドラ、という方から」
「三日前?」
「……壁に、欄がなかったんです。姉さん宛ての紙束の、欄が」
石橋を叩く男は、叩く橋の欄がないと、橋のことをまるごと忘れる。麻布をひらくと、羊皮紙が数枚あった。びっしりと文字が並んでいる。ニーヴには、黒い模様である。
「読める?」
「読めます」コルムは、こういうときだけ胸を張った。「帳場の帳面をつけるのに、字は要りますから。名と数だけですけど。……声継ぎは読めなくても、組合の帳面は誰かが書かないと回りません」
組合というところは、妙なところで文字を嫌い、妙なところで文字に頼っていた。
コルムは羊皮紙を灯へ寄せ、指で行を追って読み上げた。
「――『大移しの年の前後を写しました。あなたの問いの答えは、年代記の本文にはやはりありません。ただ、綴じの余白に、昔の写し手の書き入れがありました』」
文字の人が書いたものを、字の読める小僧が声にして、字の読めない声継ぎへ渡す。あべこべなようで、これがいちばん理にかなっていた。
「書き入れ、いきます。……『土地の者、返る声をエハヴと呼ぶ。古き言にて、こだま、返る声の意なり。声は聞かるるまで消えずと信ず。俗信なり』」
俗信なり。
コルムが顔を上げた。
「あの、姉さん。俗信って、たしか、いなかの言い伝えという――」
「上等だよ」ニーヴは言った。声が、掠れていた。「訳が、書いてある」
高地の谷は、意味の分からない唱えごとを三百年、口で運んだ。南の聖堂は、意味だけを書き留めて、俗信の棚へ放り込んだ。どちらも半分ずつ持っていて、半分では何にもならなかった。
その二つが、いま、坂の町の炉の間で並んだ。
*
エイフェが宿へ引き取り、コルムが帳面に突っ伏して寝入ったあとも、ニーヴは炉端に残った。
残ったのは、問うためである。
「師匠。帳場に上げてない申告が、一つあります」
オシーンは炉の火を見ていた。
「言え」
「高地の谷に、祠がありました。川のまんなかの中洲です。組合よりずっと古い石積みで、戸がなくて、奥の石の棚に色の沈んだ古い素焼きが並んでます。……ぜんぶ、届け札がありません。どれ一つ」
薪が、鳴った。
「谷の古老は、あれを誓いの器だと伝えてます。長どうしが、たがいを聞き手と定めて和平を誓い、その声を封じて納めた。声のある限り、谷に血は流れぬ、と。……それが切れた、と古い者は言うそうです」
「……そうか」
「帰りの峠で、思ったんです」ニーヴは膝を揃え直した。「うちの無窓の間の、いちばん奥の段と、同じ顔だって。棚出しから帰った晩に、師匠が問うなと言った、あの段です」
オシーンは、動かなかった。
「あれも、誓いだと思います」
炉の火が、低くなった。
「訊きます」ニーヴは言った。「掟の外なら、外だと言ってください。そのときは引きます。……でも、外だと言われるまでは、訊きます」
「……言うてみい」
「最奥の段は、何なんですか。……谷の祠と、うちの棚が、同じ音で鳴るのはなぜですか。……あたしの耳は、何を聞いてるんですか」
オシーンは、長いこと黙っていた。
言葉を銅貨のように惜しむ人の沈黙は、慣れている。慣れているが、今夜のは目方が違った。炉の薪が二本、燃えて崩れるまで、この人は何も言わなかった。
それから、炉にかけた鍋の湯を汲んだ。師匠は二つの茶碗に湯を注ぎ――自分の茶碗を、先に膝の前へ置いた。
ニーヴは、その手を見た。
今まで、いちどもなかったことである。この人はいつでも、自分の茶碗より先にニーヴの茶碗へ注いだ。首尾を告げた晩も、しくじった晩も、四十年待った声を届けて帰った晩も、黙って膝の前へ押して寄越した。
今夜、その順が、崩れた。
「……嬢」
「はい」
「わしは、答えを持っておらん」
炭が、ひとつ落ちた。
「先代から受けたのは、二つきりじゃ」オシーンは、自分の茶碗を見たまま言った。「最奥の段に、手を触れさせるな。理由は、問うな。……それだけだ」
「……それだけ」
「それだけよ」
ニーヴは口を開いた。開いて、何も言えずに閉じた。
「棚出しの晩、おまえに問うなと言うたな」師匠は言った。「あれは、掟ではない。……口伝じゃ。痩せた、口伝じゃ。継ぐたびに削れて、二つの文句だけになった」
「師匠は、訊かなかったんですか。先代に」
「訊かなんだ」
薪が、鳴った。
「訊かんことが弟子の顔じゃと、忠義じゃと、そう思うとった」オシーンは、初めてニーヴを見た。「嬢。おまえに問うなと言うたのは、掟のためではない。……わしが、問えなんだからじゃ」
言葉を惜しむ人の、いちばん長い夜だった。
ニーヴは、しばらく何も言えなかった。言えないまま、自分の茶碗を両手で持った。この人はずっと、あたしの茶を先に注いできた。注ぎながら、答えを持たない自分をずっと畳んで、あの炉端に座っていたのだ。
「……師匠」
「なんじゃ」
「あたしも、答えは持ってません。でも、今日、材料が三つ揃いました」
ニーヴは炉端に膝を進めた。
「高地の唱えごと。市の元締めの木札。聖堂の書記さまの写し。……三つとも、同じ一語を持ってます。爺さまを、起こしていいですか」
「……起きとる」
廊下から、燭台の火が近づいてきていた。
「……こんな刻限に、なにを、しとる」
棚番のファーガルだった。夜の見回りの途中である。老人は、炉端の二人と羊皮紙とを、順に見た。
ニーヴは立ち上がった。
「爺さま。棚のことなの。……今夜、寝ずに付き合ってもらえる?」
ファーガルは、燭台を持ち替えた。
「……五十年、ろくに寝とらん」
*
夜なべの調べは、炉の間で始まった。
炉端に並べたのは三つ。組合の刻みを結んだ木札。羊皮紙の写し。それに、ニーヴが寝間から取ってきた小さな布の包みである。
ひらくと、白っぽい素焼きの破片が灯の下へ転がった。春に西の湾の桟橋で割れた、啖呵の器のなれの果てである。捨てる気になれず、ずっと持っていた。
「宛てられた声は、聞かれるまで消えない」ニーヴは言った。「それだけを置いて、合わせてみます」
「なにに、合わせる」オシーンが訊いた。
「ぜんぶに」
破片を一つつまんだ。
「器は、割れても何もこぼれません。塩を詰める安物の壺でも、封じは座ります。……ずっと、変だと思ってました。中身が入ってるなら、割れたら出るはずだもの」
「……出んな」ファーガルが言った。
「出ないんです。入ってないから」
炉の火が、ぱち、と鳴った。
「声は、器の中にいません。負い籠の中にも、内懐にもいない。どこにもいないんです。宛てられたから、消えずにいるだけ。……器は、入れ物じゃなくて」
言いながら、指の腹で破片の縁を撫でた。答えは、染まるように出た。
「札です。宛て名を結んだ、札」
紐をかけ、蜜蝋で口を塞ぎ、定めの結いに結ぶ。あの所作は、壺の口を閉じているのではなかった。宛て名を、そこへ結んでいたのだ。だから壺は何でもいい。宛て名が結ばれていれば、座る。
この一年、丘を越えて抱えてきたのは、壺ではなかった。宛て名だったのだ。
「次。開ければ消えて、写しが取れません」
「そういうものじゃ」師匠が言った。
「そういうものだけど、なんで、が要るんです」ニーヴは早口になった。「聞かれるまで消えないなら、聞かれたら終わりです。届いた、で済んだんだから、消える。……写しが取れないのも、それ。器の中に音があるなら、二つ並べて写せばいい。写すもとが、はじめから無いんだもの」
文字は残すための道具、声は消えるための道具。文字の町の書記はそう言った。――半分だけ、当たっていた。声は消えるための道具ではない。届くための道具で、届いたから消えるのだ。
「その次。先聞きです」
オシーンの目が、わずかに動いた。
「聞かれるまで消えない、の聞かれるは、宛て名の人が聞くことなんです。ほかの誰が耳を突っ込んでも、聞かれたことにならない。だからキルデナンの元締めは、一つの声を何べんも聞けた。……宛先の耳の前でだけ一度きりで消えるのも、同じ理屈です」
「……道理じゃ」ファーガルが、低く言った。
「その次。継ぎ聞き」
湖の岸が、頭に浮かんだ。石段と、片側だけの歌と。
「宛て名は、名と続き柄で言います。リア、モーンの娘、というふうに。……あたし、湖の村で受け手の人に言ったんです。あなたは代わりじゃなくて続きです、って。あのときは、ただの了見でした」
灯を見た。
「了見じゃなかった。理屈でした。宛てられてるのは、その人じゃなくて、その名と、その続き柄なんです。だから宛て名の人が死んでも、続きが聞けば、声は届いて、消える」
ニーヴは立ち上がって、炉端を一周した。
「合った」
「座れ」
「座れません! 一つも余らなかったんですよ、師匠。……合ってる勘定は、飯よりうまいね」
「座れ」
座った。座ってから、声が落ちた。次に合わせるものが、笑える話ではなかったからである。
「聞かれなかった声は、消えません。……宛先に届かなかった器が、あの部屋の棚で待ってるのは、そういうことです。捨て場じゃない、いつか届く声の待合い所だって、爺さまが言ったでしょう。ほんとうでした」
燭台を持つ手が、止まった。
「……この子らは、動けんでな」
「動けないんじゃなくて、待ってるんです。ぜんぶ。手前の段も、奥の段も」
そして、耳の奥が、いつものように鳴った。
ざわ、と。
初日の晩、扉一枚の向こうで聞いたあれ。西の湾の破片のそばで聞いたあれ。棚の奥ほど濃くなるあれ。谷の祠からしみ出していたあれ。
「あたしの耳鳴りは」ニーヴは、自分の耳のあたりへ手をやった。「病じゃなかった。疲れでもない。……待ってる声の、音だ」
言ってしまうと、背中に冷たいものが下りた。あれは、遠くて、ひそやかで、数えきれないほど大勢だった。一つ一つが、宛て名の人に聞かれるのを待つ、誰かの一度きりの声なのだ。
布の上の破片へ、目が落ちた。
落ちて、息が止まった。
「……師匠。この破片の声は、どこへ行ったんですか」
炉の間が、しんとした。
あの日、桟橋で器は割れた。語り手が生きていれば語り直せばいい――だから、笑って済んだ。女房は、もういいよと言った。啖呵は二度と語られなかった。
だが、封じは、成っていたのだ。
あの声は宛てられていて、そして、聞かれていない。
「消えてません」ニーヴは言った。「あの啖呵、いまも、どこかにいます」
「……おるな」
「宛て名は決まってて、聞かれてなくて、でも届く道がない。器が割れて、結び目がなくなったから。……あのとき破片のそばで聞いたざわめきは、あの声です」
破片を掌に集めた。掌の上で、白っぽい素焼きはただの素焼きだった。
「これ、どうすれば」
「どうも、ならん」
オシーンだった。
「毀れた声は、消えはせん。……聞き手のところへ行く道だけが、なくなる」
「じゃあ、いつまで」
「いつまでも」
薪が、崩れた。
「迷い声」
ファーガルが、ぽつりと言った。ニーヴは老人を見た。
「……爺さま、いま」
「高地の年寄りの、言いようじゃ」ファーガルは廊下の暗がりのほうを向いた。「聞き手を失うた声を、迷い声と、そう言うた。……わしも、意味は知らんで使うとった」
聞くべき耳の絶えしとき、声は迷ふ。
唱えごとの、二行目だった。訳が、いま合った。
「割るな」ニーヴは言った。「捨てるな、割るな、毀すな。……組合が口を酸っぱくして言うのは、そういうことだったんだ。器を割ったら、声は消えるんじゃない。迷うんだ」
年季二年目に空の器を割ったとき、師匠は眉ひとつ動かさず、掃け、と言った。あのあっさりの意味が、いま分かった。空の器なら、掃けばいい。声の座った器を割ったら、掃いて済む話ではないのだ。
「……ねえ、師匠」
「なんじゃ」
「なんで、世界はそんなふうにできてるんですか」
オシーンは、冷めた茶を一口飲んだ。
「知らん」
「爺さま」
「……訳は、伝わっとらん」
聖堂の書き入れは、俗信なりと締めていた。学のある人たちは、この理を書き留めながら、意味は考えず、俗信のひと言で片づけた。高地の谷は意味を知らずに三百年唱えつづけ、組合は理由を知らずに掟だけを守ってきた。
誰も、知らないのだった。
ニーヴは、笑った。笑ってしまってから、なぜ笑ったのか自分で分かった。
「藍がなんで青いのか、母さんも知らないんです」
「……あん」
「知らないまま、うちは三代、青を売ってます。手順は一つも間違えないのに、なんで藍が青いのかは誰も説けないの。……それでも、青は青いでしょう」
オシーンは茶碗を膝に戻し、鼻から息を出した。笑ったのだと、一拍おいて分かった。
だが、合わないものが、まだ残っていた。
「祠です」ニーヴは言った。「谷の誓いの器。あれも宛てられた声なら、聞かれるまで消えない。だから、いまも待ってる。……でも」
「でも、か」
「誓いの宛て名は、誰なんですか」
答えは、なかった。
長どうしが、たがいを聞き手と定めて誓った――ならば宛て名は相手の長である。だがその長はとうに死んでいる。名と続き柄を継ぐ者がいれば、続きが聞ける。継ぐ者がいるあいだは……そこで算盤が止まった。玉が湿って、動かない。
何が「切れた」のか。そして、うちの棚のいちばん奥の段。あの札のない器は、誰に宛てた誓いなのか。
「爺さま」ニーヴは、立ち上がった。「棚を、見せて」
*
夜の無窓の間は、昼よりなお夜の色をしていた。
ファーガルが錠を開け、燭台をかざす。棚は、明かりの届くところにだけ浮かんで見えた。段という段に、素焼きの器が並んでいる。
ニーヴは敷居のところで足を止めて、耳を澄ました。
ざわ、と。
いつもと同じ音が、今夜はまるきり違って聞こえた。耳鳴りではない。この部屋いっぱいに、聞かれるのを待つ声が詰まっているのだ。
「……ぜんぶ、待ってるんだね」
誰にともなく言った。答えはなかった。ないほうが、正しかった。
オシーンは、敷居の外に立ったままだった。棚へは、入ってこなかった。
ファーガルが燭台を提げて奥へ歩き、最奥の段の前で立ち止まった。それから両手を上げて、器を一つ下ろした。
「……嬢ちゃんや」
訥々の声が、いつもより硬かった。
「五十年、黙っとった。……問うなと、言われとったでな」
老人は、その器を燭台の下へ差し出した。ほかのどれとも変わらぬ、色の沈んだ素焼きである。届け札は、ない。
だが、器の肩に、何かが刻まれていた。
文字ではない。爪で引いたような細い線が、素焼きの肌に一列。
組合の刻みだった。声継ぎに読める、あの刻みである。
ニーヴは、指を這わせた。字の読めない指が、一つずつ、刻みを読んだ。
棚の、意味を、問うに至った。
いつかの、声継ぎへ。
指が、止まった。
敷居の外から、師匠の声がした。
「……開けてよいのは、宛先だけだ」
燭台の火が、揺れた。
「嬢。これは、誰宛てだ」




