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声継ぎ  作者: 篇乃綴り堂
第三部 いつかの声継ぎへ
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第十二話 棚番の五十年

 答えられなかった。

 誰宛てだ、と問われて、声継ぎが答えられなかったのである。

 夜の無窓の間には、燭台の火だけが起きていた。ファーガルの両手の上、色の沈んだ素焼きの肩に、組合の刻みが一行。棚の、意味を、問うに至った。いつかの、声継ぎへ。――ニーヴの指は、その刻みをもう三度なぞっていた。三度なぞって、口は動かなかった。

 あたし、と言いかけたのである。言いかけて、先が喉で止まった。欲しい答えを、欲しいから言う――それは、量りに指を載せる手つきだ。帳場育ちの算盤は、世のどの不正よりも先に、まず自分のその手つきを嫌う。

 「……戻して、ええかの」

 ファーガルが誰にともなく訊き、誰も答えなかった。老人は器を捧げ持ち、最奥の段へそっと戻した。戻された器は、ほかのどの器とも同じ顔で闇に沈んだ。

 「夜が明ける」敷居の外で、オシーンが言った。「……寝ろ。嬢」

 寝ろと言われて眠れる晩ではなかった。それでも寝間へ引き上げたのは、夜が明ければ配達があるからである。どんな問いの前でも、声継ぎの朝は来る。来てしまうのである。


   *


 朝は、雪催ゆきもよいだった。

 坂の町は屋根まで薄白く、それでも寄り合いの月の賑わいは衰えない。よその谷の供の衆が慣れない坂で滑って荷を崩し、笑い声と怒鳴り声が湯気になって立つ。高地の名代は連日、寄り合いの前さばきに引っ張り出されているという。町は膨れたまま年の締めへ転がっていく。

 その朝の口は、市中の一件だった。

 「行商のモイラ。炉開きの祝いの声。……桶屋の、若女房へ」

 桶屋の若女房。その言いようがくすぐったくて、ニーヴは笑いを噛んだ。メイヴである。夏の盛りにひと言の返しで縁談を決めた、あのダンロッホの娘である。祝言は、ニーヴが峠の向こうにいた秋のうちに済んでいた。膳の評判だけを、帰ってから姉に散々聞かされた。

 語り手のモイラは三日前の晩、帳場へ来て声を封じていった。封じる前に、市中の届けは運び賃なし、勘定は封じと開けの二枚きり――それを都合三度確かめてから座に着いたのは、いかにもあの人である。姪の炉開きの朝に、当の叔母は来られない。組合に借り上げられた荷車で、近い谷を回る身の上だからである。

 桶屋の奥の間には、真新しい炉が切ってあった。縁の石がまだ白い。今朝、この炉に初めての火が入った。新しい所帯の炉に初めて火を入れる朝の祝いを、炉開きと呼ぶ。

 コナルはその炉の前で、例によって帽子をねじり回していた。

 「に、荷が、届いたそうで」

 「荷じゃないよ。声だよ」

 「こ、声が、届いたそうで」

 「これから開けるの。ほら、座って」

 横からシボーンが幼馴染の襟首をつかみ、敷物へ据えた。朝の仕事を抜けて見物に来た染物屋の姉は、「母さんは炊き出しで手が離せんと、えらい悔しがっとった」と愉快そうである。メイヴは炉の向こうで膝を揃え、新しい所帯の女房の顔で静かに待っていた。

 ニーヴは器を捧げ、解きの口上を唱えた。

 「語り手はモイラ、メイヴの叔母。宛て名はメイヴ、モイラの姪。――証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」

 刻み紐が、ほどけた。

 ――メイヴ。あたしだよ。炉開きの朝に、いられなくてすまないね。荷台に積んでるのが、みんな誰かの返しの声なんだ。祝いを待ってる耳が、谷じゅうにあるんでね。……あんたなら、行っといで、と言うだろ。だから、あたしの祝いだけ、声で一番乗りさせてもらうよ。

 炉の前で、メイヴの背筋が伸びた。

 ――ひとつだけ、言っとくよ。薪と火は、値切るんじゃない。値切っていいものと悪いものの見分けは、荷車の上で教えたはずだ。……それから、隣で帽子をねじってる男。あんたはね、桶の値をまける前に、自分の値を覚えな。メイヴが選んだ男の値だよ。安いはずが、ないんだ。

 コナルの帽子が、雑巾のように絞られて、止まった。

 ――達者でおやり。ふたりとも、うんと稼いで、うんと笑いな。喧嘩をしたら、いつでもあたしの荷車へ帰っといで。……帰りの荷車賃は、取るけどね。

 声はそれだけ言って――焚きつけの細枝が新しい薪へ火を渡し終えて、すっと退くように、消えた。

 あとには、真新しい炉の火が最初の薪を食む、ぱちぱちという音だけが残った。

 メイヴは濡れた目のまま、隣を見た。

 「……だそうよ」

 「じ、自分の値……」コナルは絞った帽子をかぶり直した。「た、高い桶を、作らんといかんの」

 「そういう意味やないやろ」

 シボーンが噴き、メイヴがこらえきれずに笑いだした。丘いちばんの臆病者は、女房と幼馴染に笑われながら、どこか嬉しそうに、真新しい炉へ薪を一本足した。

 返しは、と訊くと、メイヴは首を振って、叔母の荷車が次に町へ寄る日を指折り数えた。それがいちばんいい返しである。届けたら、退く。ニーヴは新しい炉に一礼して、桶屋を出た。

 帰りの坂で、粥売りの鍋が湯気を上げていた。

 「約定、果たしに来たよ。二膳で、三枚」

 「……ほんとに来たね、あんた」

 「帳場育ちを嘗めないでよね」

 銅貨三枚で、湯気の立つ椀がふたつ。一杯目は立ったままかき込み、二杯目は少しゆっくり食べた。腹の底から温まった。届く声は、いい。封じて、運んで、開けて、笑いと洟すすりが残って、勘定が合う。……坂の上の、あの器だけが、三百年、勘定の合わないままでいる。

 ニーヴは椀を返し、雪催いの空の下を坂の上へ戻った。


   *


 晩の炉の間は、揉めていた。いや――言葉が飛び交うわけではない。同じところを回って動かない相談を揉めていると呼ぶなら、である。

 「整理します」コルムが帳面を繰った。「開けてよいのは、宛先だけ。あの器の宛ては、名でも続き柄でもなく――問うに至った者、です。では、誰かが至ったと、誰が証すんですか。届けの座なら、証しには声継ぎが立ちます。でも、声継ぎが宛先かどうかの証しには、誰が立つんです」

 誰も答えない。

 「それに、口上が組めません。解きの口上は、語り手の名から言うのが決まりです。あの器は……語り手の、名が分からない」

 段取りの男の言うことは、今夜も一等まっとうで、まっとうなまま、どこへも進まなかった。

 「さ、先聞きという手も、あるにはあると、帳面には」

 「あるよ」ニーヴは言った。「やらない」

 「ですよね」

 「先聞きは、宛てを割り出すための例外だよ。あの器の宛ては、割り出すまでもなく肩に書いてある。……横から先に聞いたら、あたしはその時から一生、至らなかった者だよ」

 「……嬢」炉端で、オシーンが茶碗を置いた。「宛てを違えて開ければ、先聞きと同じ道だ。タヴィシュの耳を、見たか」

 「……見ました」

 「あれは、組合の許しを得た先聞きで、ああなった。三百年の器が、違えた耳に何を残すか――わしには、量れん」

 それきりオシーンは黙り、長い沈黙の底から、独り言のように足した。

 「わしが、量ってやれればな。……わしの口伝は、痩せとる。おまえを量る目盛りを、わしは持たん」

 「いつかの声継ぎが」コルムが、おそるおそる言った。「いまの誰かとは、限らないのでは。……来年かも、五十年先かも、しれません」

 それも、まっとうだった。まっとうな言葉ばかりが炉の間に積もって、あとは薪の音だけがした。組合長は問えなかったことを負い、棚番は黙っていた五十年を負い、段取りの小僧は組めない口上を前に帳面を繰る。ニーヴは――名乗りたい欲と、欲で名乗ってはならない怖さとを、膝の上で持て余していた。

 相談は、その晩も、次の晩も、同じところを回った。

 そのあいだにも町は膨れ、帳場の板壁の炭書きは梁を越え、封じと開けは日に幾つも重なった。どんな問いの前でも、声継ぎの朝は来る。来て、暮れて、また来た。器は、最奥の段で待っていた。三百年待った器には、二日や三日など瞬きほどでもあるまい。……瞬きほどでも、ないはずだった。


   *


 その夕暮れ、ニーヴは磨きの手伝いで無窓の間にいた。

 夏に始めた朝の癖は、冬が来て、夕の癖も兼ねるようになっている。乾いた布で、素焼きの肌をひとつずつ拭う。耳の奥では、いつものざわめきが、いつものように鳴っている。もう、耳鳴りだとは思わない。待っている声の音だと知ってからは、この手伝いは、掃除ではなく見舞いに変わった。

 ファーガルは、最奥の段の前にいた。

 夏からこちら、老人は日々の磨きの締めに、必ずあの段のひとつの器を掌に載せる。開けてもいないのに軽くなっていく、あの器である。載せて、量って、眉を寄せて、戻す。それが締めの手順になって久しい。

 その手が、止まっていた。

 「……嬢ちゃんや」

 振り向いた老人の掌の上で、器はいつもと同じ顔をしていた。

 「持って、みい」

 両手で受け取って、ニーヴは息を呑んだ。

 軽い。

 知っている軽さだった。開けの座で役目を終えて、ただの素焼きに戻った器の、あの軽さである。この一年、届けのたびに掌が覚えてきた軽さである。だが――口を塞ぐ蜜蝋は割れていない。刻み紐は、定めの結いのままである。

 封じられたまま、終わっている。

 耳を寄せた。棚じゅうのざわめきの中で、その器のあたりだけが、欠けていた。穴があいたように、そこだけ静かだった。

 「量るまでも、なかったんじゃ」老人の声は、掌ごと震えていた。「持ち上げた指が、先に知っとった。……間に合わなんだか」

 間に合わなかった。誰が。何に。訊き返すより先に、唱えの二行目が胸へ落ちてきた。氷を呑んだようだった。

 聞くべき耳の絶えしとき、声は迷ふ。

 器は毀れていない。結びは、そのままある。切れたのは――耳の側だ。この声の聞くべき耳が、世のどこかで絶えたのだ。四十年待って、続き柄で届いた声が、この棚にはあった。待つことは、道だった。この器は、その道の先を、失った。

 切れた、と高地の古い者は言った。何が切れたのかは誰も知らぬ、と。……いま、掌の上で、何かが切れ終わっている。

 「いつか届く声の、待合い所じゃと」ファーガルはニーヴの手から器を引き取り、段へ戻した。戻す手つきだけは崩れなかった。「わしは、そう思うて磨いてきた。……待っても、届かん子が、出た」

 その晩である。宿回りから戻ったコルムが、炉の間へ転がり込んできた。

 「南から、報せです。寄り合いの裁きに、持ち込みが。……ロスマリーの近くで、川ひとつを分け合うふたつの村が、堰を壊し合ってるそうです。手も、出たと」

 「水争いなんて、夏のものでしょ」

 「それが」コルムは帳面を握りしめた。「水利の取り決めは、百年動かなかったそうなんです。百年、誰も指一本触れなかった取り決めが、この冬、いきなり。……南の供の衆が言うんです。誰にも訳が分からない、なぜ、いまさら、って」

 なぜ、いまさら。

 その言葉の形を、ニーヴは知っていた。秋の市場で、峠の空を見上げながら聞いた形である。長らく血を見なかった谷が、この秋いっぺんに火を噴き、なぜいまさら、と誰にも訳が分からない――。

 高地の谷。南の川。国の北の端と南の端で、同じ「なぜいまさら」が鳴っている。そして同じ冬、坂の上の棚では、封じられたままの器がひとつ、軽くなり切った。

 並べただけで、背中が冷えた。並べた三つに橋を架ける言葉を、あたしはまだ持っていない。……持っていないのに、架かる先だけが、もう見えてしまっている。

 オシーンは、その晩、茶を淹れなかった。


   *


 夜半、眠れずに寝間を出た。

 廊下の突き当たりに、細い明かりが揺れていた。錠が、開いている。

 ファーガルは、棚の中程の段の前に小さく座っていた。燭台を脇に置き、膝に布を広げ、その上に器がひとつ。色の沈み方からして、五十年ものの古さの器である。

 「……眠れんかの、嬢ちゃんも」

 「爺さまも」

 「わしは、ええんじゃ。五十年、こうじゃで」

 ニーヴは隣に膝を折った。老人は布ごと器を持ち上げ、節くれた指の腹で肩のあたりをゆっくり拭った。強くも速くもない。羽で撫でるような手つきである。五十年磨かれた素焼きは、指の腹に吸いつくほど滑らかだった。

 「この子はの」拭いながら、ファーガルは言った。「わしが、届けそこねた子じゃ」

 布が、器の肩をひと回りした。

 「五十年あまり前。わしは二十四で、負い籠がまだ肩に馴染まん時分じゃった。死の床の語り手から、声を預かった。宛ては……とうに家を出て、行き方の知れん人での」

 「……探したんでしょ」

 「探した。村を三つ、四つ。……手掛かりが、道の股で二筋に割れての。日は詰まる、預かりはほかに三つある、冬は来る。わしは易いほうの筋を先に片づけて、残りは春じゃと、そう決めた」

 布が、止まった。

 「春に行き直したら、手掛かりは消えとった。雨ざらしの炭書きのようにの。……語り手は、その冬のうちに逝っとられた。器だけが、わしの負い籠の中で、行き先をなくした」

 石をひとつずつ積むような話だった。積み終えて、老人は器を膝へ戻した。

 「組合は、わしを咎めなんだ。探しようのない宛てはある、誰のせいでもない、とな。……誰のせいでもない、で、わしの腹は収まらなんだ」

 「……それで、棚番に」

 「棚番が空いたのは、明くる年じゃ。手を挙げたのは、わしひとり。二十五の棚番なんぞ、後にも先にもわしだけじゃろて」老人は息だけで少し笑った。「以来な。朝、錠を開けると、どの棚より先に、この子の前へ来る。来て、言うんじゃ。すまなんだ、今日も見つけられなんだ、とな。……わしゃあ、五十年、この子に毎朝謝っとるんじゃ」

 燭台の火が、静かに燃えた。

 磨く手が、また動きだした。羽のような手つきは変わらなかった。変わらないまま、皺の谷を光るものがひとすじ伝い、顎の先で布に落ちた。老人はそれも、器を拭く布でついでのように拭いた。

 「爺さま。……訊いて、いい?」

 「なんじゃ」

 「その声の中身。覚えてるの」

 「一言も、忘れとらん」即座だった。「証しに立ったんじゃ。五十年、毎晩、胸の内で聞き返しとる」

 「……誰かに、言った?」

 「言わん」

 これも、即座だった。

 「祟らないんだよ、三条は。破っても耳も鳴らない、罰も当たらない。……市場の元締めが、そう言ってた」

 「知っとる」ファーガルは器を見たまま頷いた。「祟らんでも、言わん。あの声は、あの人がわしにくれたんじゃない。あの人が、わが子に預けたんじゃ。わしは、預かり札での。……札が荷を開ける法が、あるかの」

 一条と二条は、破れば祟る。届けそこねれば声が残り、先に聞けば耳が病む。世界の理が、守らせに来る。三条だけは――何も来ない。何も来ないところで、この人は五十年、毎晩ひとりで聞き返しながら、一言も外へ漏らさずにいる。

 掟の三つ目は、決まりの顔をした、人の徳なのだった。

 気がつくと、頬が濡れていた。座ではないから、拭わなかった。拭わないまま布を取り、隣の器を磨いた。しばらく、ふたりぶんの布の音だけがした。

 「……嬢ちゃんや」

 やがて、ファーガルが言った。

 「わしは、いつか届くと思うて、五十年磨いた。待つのがわしの詫びじゃと、思うての。……じゃがの。今日の、あの子を持ってしもうたら」

 布を持つ手が、初めて迷子になった。

 「待つだけでは、間に合わんのかもしれん」

 ニーヴは磨きかけの器をそっと段へ戻した。

 膝の上で、両の掌をひらいて見た。開いた器の軽さを一年ぶん覚えてきた、声継ぎの掌である。

 ――決めた。


   *


 炉の間の火は、まだ起きていた。

 オシーンは炉端の定位置に、茶碗も持たずに座っていた。はじめから眠る気がないらしかった。ニーヴは差し向かいに膝を揃えた。

 「師匠。開けません」

 「……ほう」

 「今夜は、名乗るだけです。棚の前で名乗って、あたしの問いを申し上げる。器には、指一本触れない。……勝算を言うよ。あたしが宛先じゃないなら、器は黙ったまま。誰も何も失わないが一つ。あたしが宛先なら――封じが成れば、座った、と分かるでしょ。宛てが合えば、器のほうが答えるはず。あたしの耳は、それを聞き外さないが二つ」

 オシーンは炉の火を見ていた。見たまま、言った。

 「……三つ目は」

 ニーヴは少しだけ笑ってしまった。この人は、あたしの数え方を、あたしより先に知っている。

 「三つ目は、損得じゃない。……いちばん奥の子たちは、三百年待ってるんだよ、師匠。待って、待って、待ちきれないまま終わった子が、今日、出た。谷でも、南の川でも、たぶん同じことが始まってる。……問える者が問わずにいるのは、もう丁寧じゃない。ただの、後回しだよ」

 沈黙は、長かった。薪が一本、燃え崩れるまで続いた。

 それから、オシーン・マクブライは立ち上がった。

 「……問え」

 問うな、と言った人が、言った。

 「わしが、見届ける」


 無窓の間の敷居を、オシーンは今夜も跨がなかった。跨がずに、敷居のすぐ外へ膝を揃えて座った。触れさせるな、の口伝を守り抜いてきた人の、それが精一杯の立ち会いだった。ファーガルが燭台を提げて奥へ立ち、最奥の段から刻みのある器を両手で下ろして、手前の板に布を敷いて据えた。

 ニーヴは、その前に膝を揃えた。

 床の冷たさが、膝から腿へゆっくり上ってくる。揃えた指の先は、もっと冷たい。息を、ひとつ。ふたつ。

 「――わたくしは、ニーヴ・オケリガン。組合の声継ぎ」

 誰に宛てるのでもない口上を、ニーヴは生まれて初めて唱えていた。

 「この棚の意味を、問いに参りました。名乗りの証しに、独り立ちの春から届けた声を、申し上げます」

 声が、早くも震えた。構わず、数えはじめた。この数え方しか、あたしは知らないのである。

 「石工が娘へ宛てた、祝いの声が一つ。二十年閉じた耳に間に合った詫びと、その返しが一つずつ。桟橋で割れて、どこへも行けなくなった啖呵が、一つ」

 棚は、暗い。燭台の火は手元ばかりを照らし、段々の器は闇の奥へ続いている。ざわめきは、いつものように鳴っていた。

 「字の読めぬ母が、字の子へ遺した声が一つ。四十年待って、続き柄で届いた声が一つ。臆病者の、半年遠回りした求婚が一つに、その返しの、ひと言が一つ」

 指先が膝の上で震えている。数えるたび、掌のまんなかが、届け終えた器の軽さをひとつずつ思い出していく。

 「塩の炊き方だけの遺言が一つ。市場じゅうを祝わせた、妹の声が一つ。雪の谷で、互いを証しに立てた声が、ふたつ」

 名を挙げる口が、止まらなくなった。寄り合いの月の坂を上り下りして届けた声が、まだいくつも残っている。宿の供頭へ。聖堂裏へ。留守の谷から、長たちへ。挙げても挙げても、まだあった。息の継ぎ目が、短くなっていく。それでも、飛ばさなかった。飛ばしていい声など、一つもない。

 「……今朝の、炉開きの祝いが、一つ」

 息を、継いだ。ここから先は、届けの帳面ではない。

 「――そのひとつずつが、わたくしに問いを残しました。声はどこにあるのか。器は何をしているのか。なぜ、宛て名の耳の前でだけ、一度きりで消えるのか。なぜこの棚は、捨てることを許されないのか。……高地の唱えと聖堂の書き入れが、答えの半分をくれました。宛てられた声は、聞かれるまで消えない。――それでも、まだ残っています。高地の祠と、この棚とが、なぜ同じ声で鳴るのか。いちばん奥の、札のない器たちは、誰の、誰に宛てた声なのか。聞くべき耳の絶えるとき、なぜ、誰ひとりそれと知らずにいるのか」

 震えは、もう隠しようがなかった。震えたまま、最後まで言った。

 「――わたくしは、棚の意味を、問うに至りました。至った者かどうかは、わたくしには量れません。ですから、量ってください。……この座の証しには、あなたがたが、立ってください」

 言い終えた。

 静けさが、来た。

 初めは口上の余韻かと思った。違った。耳の奥で鳴りつづけてきたざわめきが、引いていくのである。潮の引き方ではない。大勢がひとりずつ、順に口をつぐんでいく引き方である。ひとつ。またひとつ。息を呑むように、棚の手前から奥へ、静けさが渡っていく。

 膝の下の床が、冷たい。揃えた指の先が、冷たい。その冷たさのまんなかで、ニーヴの掌だけが、何かを聞いていた。

 布の上の、刻みの器の奥で。

 何かが、座り直した。

 この一年、封じのたびに覚えてきた、あの静かな手応え。声が座るときの、あれである。それが――誰の封じでもない夜のまんなかで、いま確かに、こちらへ向き直った。

 棚は、静まり返っていた。これまで聞いたどの静けさとも違う。待つ者たちの静けさではない。――聞き終えた者たちの、静けさだった。

 「……嬢ちゃんや」

 ファーガルの声が、ずいぶん遠くでした。敷居の外で、オシーンの立ち上がる気配がした。

 ニーヴは、動けなかった。

 認められた、と分かった。分かったそばから、畏れが膝の下から背骨を這いのぼってきた。嬉しさは、来なかった。来たのは、目方だった。三百年ぶんの。

 燭台の火が、揺れずに立っていた。

 ――宛て名は、あたしだ。


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