第十三話 うたが、じょうずだったね
棚の前で名乗った晩から、三日が過ぎた。
刻みの器は最奥の段へ戻され、ニーヴは一度も触れていない。触れずに、朝は配達へ出て、昼は坂を上り下りし、晩は帳場の板壁の炭書きを見上げた。寄り合いの月は、誰の都合も待たない。宿という宿に長と供の衆が詰まり、坂は荷と人で川のようになっていた。
三日のあいだに、祝いの声を四つ、詫びの声を一つ、それから催促の声を二つ運んだ。催促の声というのは、去年の割り前の勘定がまだ済んでいない、というやつである。谷から上ってきた長の膝元で、留守を預かる者の声が「銭を、取ってきてくださいまし」と朗々と鳴るのを、ニーヴは証しの座で神妙な顔をして聞いた。取り立てまで声で運ぶ月なのである。
それでも、どの坂を上っているときも、掌のまんなかに目方があった。
宛て名は、あたしだ。そう分かったからといって、次にやることが分かるわけではない。開ければ消える。一度きりで、写しはない。誰の耳の前で紐を解くかも決めずに開けるのは、宛て名を唱えずに封じるのと同じである。三晩、算盤を弾いた。三晩とも、玉が一つ余った。
「姉さん。眉間に、皺」
「寄ってないよ」
「寄ってます。三日、ずっとです」
コルムは炭で汚れた指を袖で拭い、板壁の欄をまた一つ伸ばした。
その朝、炉の間で、めずらしいことが起きた。
ニーヴが茶を注ぐより先に、師匠のほうが口を開いたのである。
「嬢」
「はい」
「……見てもらいたい器が、一つある」
「器?」
「三晩前、おまえが棚の前で名乗るのを見た」オシーンは茶碗を膝の前へ引き寄せた。「見て、思い出した。……二十二年、思い出さなんだものを、な」
*
無窓の間の錠は、朝のうちにファーガルが開けていた。
棚の中程の段である。いちばん奥ではない。老人は燭台をかざし、色の沈んだ器を一つ、両手で下ろした。三十年ぶんの埃も、四十年ぶんの埃も、この部屋にはない。毎日、この人が拭いているからである。
器には、木札が提がっていた。組合の刻みで、語り手と宛て名を留めた札である。
この段は、夏からこちら、何度も拭いた。拭いたが、札を読んだことは一度もない。棚の札は棚番のもので、拭き手の見るものではない――そういう順が、この部屋にはある。
ニーヴは初めて、指で刻みを追った。字は読めないが、この刻みなら読める。
語り手は、ラフラン。組合長。
「……先代?」
「先の、組合長じゃ」ファーガルが言った。「三十年前の秋に、この子を預かった」
「宛て名は」
ニーヴは札の下半分へ指を移した。移して、止まった。
刻みは、二つきりだった。
次の、組合長へ。
名が、ない。
「名が、ないの」
「ない」ファーガルは頷いた。「先の組合長は、こう言うて預けなさった。――次の組合長に、渡せ、と」
オシーンは、敷居の外にいた。今朝も、跨がなかった。跨がぬまま、低く言った。
「……二十二年前だ」
「え」
「あの人が逝って、わしが組合長になった年よ。爺さまが、その器を棚から下ろして、わしの前へ置いた」
ニーヴは振り返った。
「開けたんですか」
「開けられなんだ」
ファーガルが器を膝に戻し、節くれた指で肩を撫でた。
「口上が、組めなんだ。……語り手の名はある。宛て名に、名が、ない。宛て名を唱えられん器は、解けん」
「そのとき、帳場が付けた」オシーンが言った。「宛て名不備。届けようなし、と」
「それで」
「それで、仕舞いよ」
「コルム!」ニーヴは廊下へ声を張った。「二十二年前の帳面、出せる?」
「出せます!」
廊下を、足音が転がっていった。しばらくして、埃をかぶった古い帳面を三冊も抱えたコルムが、息を切らして敷居の外へ滑り込んできた。
「あ、ありました。二十二年前の欄です。……『先の組合長の器、宛て名不備。届けようなし。棚へ戻す』。三代前の小僧の字ですね。それと、封じの年の欄にも一つ。『封じと開け、二枚。組合長ご自身より納め』」
「自分の組合に、自分で払ったの」
「あの人は、そういう人じゃ」オシーンが言った。
ニーヴは木札をもう一度なぞった。
次の、組合長へ。
なぞりながら、頭の中で、湿って動かずにいた玉が一つ、ことりと動いた。
「……師匠。これ、続き柄ですよ」
「あん」
「宛て名に名がないんじゃなくて、宛て名が名じゃないんです。『次の組合長』は、続き柄でしょう」
ニーヴは早口になった。母ゆずりの早口である。
「宛て名は、名に続き柄を添えて言う。オルラ、ブランの娘。フィンタン、キアランの兄。……でも、身分で添えた声を、あたしはもう何度も運びました。ネカネ、この浜の塩焼き。雪の谷では、こう唱えたんですよ。語り手はロアグ、西の長。宛て名はカハル、東の長。――長も、塩焼きも、続き柄です」
燭台の火が、ゆっくり揺れた。
「継ぎ聞きです」ニーヴは言った。「名と続き柄を継ぐ者は、宛て名の座を継いで、代わって聞くことができる。……師匠が、あたしに教えたんですよ。四十年前の声を届けに出した、あの朝に」
「継ぎ聞きは、親子のものじゃ」
「『決まりが先で、訳は伝わっとらん』。師匠が、そう言ったんです」ニーヴは指を立てた。「訳の伝わってない決まりを、親子だけの話だと決めたのは、どこの誰ですか。決まりは、続き柄を継ぐ者、としか言ってない。……師匠は、先の組合長の座を継いでます。宛て名の座を、継いでるんです」
オシーンは、敷居の外に立ったままだった。
沈黙は、長かった。
「……口上は」
「組めます」ニーヴは言った。「継ぎ聞きの口上には、一句増えるでしょう。宛て名の座を、誰それが継ぎます、って。名は、そこで足ります。宛て名の欄に名がなくても、継ぐ人の名が代わりに立つ」
炉の間へ戻る廊下の途中で、ニーヴはとうとう堪えきれなくなった。
「なんで――」振り返った。「なんで、長年、気づかないんですか!」
「気づかんかった」
「二十二年ですよ! うちの古式でしょう! あたしが年季で仕込まれた、うちの!」
「帳面に、届けようなしとあった」
「帳面が間違ってたんですよ」
「帳面は、間違わん」
「間違いますよ! 人が書いたんだから!」
廊下の隅で、小さな声がした。
「……間違います」
コルムだった。古い帳面を三冊、胸に抱えたまま、耳まで赤くしている。
「ぼくは、この月のはじめに、姉さん宛ての紙束の欄を、板壁に立てませんでした。立てなかったから、三日、まるごと忘れました。……欄のないものは、無いことになるんです。帳面は、そういうふうにできてます」
オシーンは、しばらく弟子二人を見ていた。
それから、炉の間の敷居を跨いで、いつもの定位置に座った。
「……座を、組め」
*
座は、炉の間に設えた。
年季のうちから、朝ごとに茶を注いできた場所である。敷物を一枚、炉の脇に広げた。ファーガルは器を捧げて運び、部屋の隅へ下がった。コルムは帳面を抱えたまま、戸口の内側で膝を折った。
ニーヴは器を受け取り、掌の上で一度、静かに量った。
三十年、座りつづけている。
オシーンは、敷物の正面で膝を揃えていた。揃えてから、袖の中で手を組み直した。それから、また解いた。
ニーヴは、危うく吹き出しかけた。
この一年、宛て名の人を何人も見てきた。桟橋の漁師も、市場の女将も、桶屋も、湖の岸の娘も、座に着くとみな同じ顔になる。何が出てくるか分からない耳を、これから開けにいく顔である。組合長も、宛て名の座に座れば、ただの受け手だった。
「師匠」
「なんじゃ」
「息、してください」
「……しとる」
膝を揃えた。息を、ひとつ。
「語り手はラフラン、組合長。宛て名は、次の、組合長。――宛て名の座を、跡の組合長オシーンが継ぎます。証しに立つは、わたくし、組合の声継ぎ」
刻み紐が、ほどけた。
三十年前の結いは、昨日の結いと同じ素直さでほどけた。
――次の、組合長へ。
最初のひと言で、オシーンの背が伸びた。
――わしは、ラフランじゃ。組合長をしとる。おまえの名は、知らん。知らんまま、宛てる。……ほかに、宛てようが、なかった。
低く、平たい声だった。惜しんで喋る人の声ではない。必要なことを必要なだけ並べていく、帳面のような声だった。
――渡しそこねたものが、一つある。棚の、いちばん奥のことじゃ。
――わしは師から、三つ受けた。手を触れさせるな。理由は、問うな。……それと、もう一つ。
オシーンの、膝の上の手が動いた。
――その三つ目の意味が、わしには分からん。分からんものを口で渡すと、渡す口が濁る。濁ると、次の代で落ちる。……わしの師も、たぶん落とした。四つあったのかもしれん。五つあったのかもしれん。もう、確かめようがない。
――じゃから、声にした。声は、痩せん。三十年でも、五十年でも、おまえの耳へ、そのまま届く。
ニーヴの背筋を、冷たいものが上った。
口伝は、口から口へ渡るたびに削れる。この人は、痩せていくものを、痩せない側へ移し替えたのだった。
――三つ目は、こうじゃ。
――開く者が、来るまで。
ファーガルの、膝の上の手が止まった。
――触れさせるな。理由は、問うな。開く者が、来るまで。……わしが受けたのは、この三つよ。これで仕舞いか、まだ削れとるのか、それも分からん。奥の段が何であるかも、わしは知らん。知らんまま、守った。
――もう一つ、言うておく。これは口伝ではない。わしの、私の言じゃ。
――おまえは、たぶん、問わん組合長になる。わしが、そうじゃったでな。問うなと言われた者は、問えん。……恥じるな。口伝が痩せるのは、受けた者の罪ではない。渡す者が、痩せさせるんじゃ。わしが、痩せさせた。
――いつか、問う者が来る。
――来たら、退いてやれ。量ろうとするな。おまえの目盛りで量れるものなら、この口伝が代々こう痩せはせん。……量るのは、棚じゃ。おまえは、退けばええ。退くのは、組合長の仕事じゃ。
声が、そこで短く笑った。笑い方まで、帳面のようにそっけない人だった。
――それと、これは口伝でもなんでもない。ただの、年寄りの世話焼きじゃ。
――組合長になると、口が減るぞ。人の話を、しまいまで待たにゃならんでな。……減ったぶんは、茶で足りる。弟子の茶碗を、先に満たせ。たいてい、それで足りる。
――以上じゃ。次の、組合長へ。……達者で、やれ。
声は、言い足すことを探さなかった。探さないまま――ほどいたばかりの紐から、結い目の癖がゆっくり抜けていくように、形をなくして消えた。
あとには、炉にかけた鍋の湯が、ふつ、ふつと鳴る音だけが残った。
オシーン・マクブライは、動かなかった。
膝の上に手を置いたまま、まっすぐ前を見ていた。
それから、ゆっくりと、目を閉じた。
それだけだった。言葉を銅貨のように惜しむ人の、いちばん長い返事だった。ニーヴは証しの座で膝を揃えて待った。ファーガルは隅で頭を垂れ、コルムは戸口の内側で帳面の角を握りしめていた。
役目を終えた器が、ニーヴの掌の上で、ただの素焼きに戻っていた。心なしか、軽い。
量るのは、棚じゃ。
三晩前の夜が、耳の奥で鳴った。あの棚は、たしかに量った。手前から奥へ、ひとつずつ口をつぐんで、そうして量った。……三十年前の人が、そう言い置いていったのだった。
どれほど経ってからか、オシーンが目を開けた。
開けて、炉の鍋から湯を汲んだ。二つの茶碗へ注いだ。
――ニーヴの茶碗が、先だった。
膝の前へ黙って押して寄越された湯気を、ニーヴはしばらく見ていた。
ずっと、この人はそうしてきた。初仕事の首尾を告げた晩も、しくじった晩も、四十年待った声を届けて帰った晩も。教わってから始めたのなら、それは決まりである。教わらずに始めて、二十二年続けたのなら、それは――この人のものだ。
「……師匠」
「なんじゃ」
「先代の言うとおりでしたね。茶」
オシーンは自分の茶碗を持ち上げ、口をつける前に、一言だけ言った。
「……知らんかった」
それから、二口飲んで、それきりだった。
ファーガルが、空になった器を布で受け取った。
「……この子も、行き先へ、着いたな」
訥々の声が、そこだけ少し明るかった。
「爺さま。三十年、拭いてくれてありがとう」
「……拭いとっただけじゃ」
「拭いてなかったら、今日、札が読めませんでした」
老人は返事をしなかった。しなかったが、布を畳む手が、いつもより丁寧だった。
その晩、オシーンは炉端で、ひとつだけ訊いた。
「嬢。……奥のあれは、いつ開ける」
「まだ、算盤が合いません」
合わない玉は、いつもの一つだった。師匠のは、あたしが証しに立てる。あたしのは、誰も立ってくれない。届けの座に立つ者がいないというのは、この稼業ではじめて出会う勘定だった。
「そうか」
それだけだった。退くのは、組合長の仕事じゃ――先代の声は、たぶん、この人の中でまだ鳴っている。ニーヴは冷めかけた茶を飲み干して、坂を下りた。母の店の片づけが、まだ残っているはずだった。
*
染物屋オケリガンの土間は、藍の匂いより汁の匂いのほうが濃かった。
寄り合いのあいだ、組合の者はここでただ飯を食う。母が勝手にそう決めた。決めておいて、娘には一言も言わない。ニーヴがそれを知ったのは、坂の途中で粥に銅貨を一枚払ったあとである。
「遅い」
大鍋の前で、母のブリジッドが言った。
「炊き出しは終いよ。あんたの分は、鍋の底」
「底で、いい」
汁をよそってもらって、上がり框に腰かけた。土間の隅には、洗いあげた椀が三十も伏せてある。竈の灰をかき出していたシボーンが、鼻を鳴らした。
「あんた、また痩せたやろ」
「寄り合いの月だもの」
「明後日は」母が、鍋の縁を布で拭きながら言った。「婆さまの日じゃ」
匙が、止まった。
「……九年」
「九年。あんたが十の年じゃ」母は数を確かめるように言った。「寄り合いの月に逝ったで、うちは毎年、いちばん忙しいときに婆さまを思い出すんよ。……あの晩、あんただけ泣かんかったねえ」
「声のあとで、泣いたよ」
「そうじゃ。声のあとで、堰が抜けたように泣いた。あたしゃ、あの声が悪さをしたかと思うたわ」
ニーヴは汁を一口飲んだ。
九年前の囲炉裏端は、いまでも手の届くところにある。組合の年寄りの声継ぎが器を置いて、口上を唱えて、紐が解けて――祖母の声が、語られたときの調子のまま、皺の寄った笑いの気配のまま、ひとつ流れて、ほどけるように消えた。たった一行きりの声だった。
あの一行のまっすぐさが、この稼業を選ばせた。九年、そう思ってきた。
「母さん」
「なん」
「婆さまが、あれを封じた日って。……あたし、家にいた?」
母は、鍋を拭く手を止めなかった。
「おったよ」
「……」
「おったどころか。あんたのおかげで、あの座は難儀じゃった」
「難儀」
「秋の、日の高い昼じゃった」母はなんでもないことのように続けた。「婆さまが、声継ぎを呼べと言うてね。あんたが組合に入る、二年前じゃ。来てくれたのは、組合の年寄りの声継ぎさん。名は、忘れた。……市中じゃで、勘定は封じと開けで二枚きり。婆さまが枕の下から出して、自分で払うた。器は弔いの晩まで組合に預かってもろうた」
「うん」
「座は、奥の間じゃ。庭とは、戸一枚。……静かにしとれと、あんたに三度言うた」
匙を持つ手が、止まった。
「……あたし、なにしたの」
「歌うた」
灰かきの手を止めて、シボーンがこちらを向いた。にやりと笑っている。
「歌うたねえ」母が鍋を伏せた。「物干しの竿を叩いて、大声で。あたしが二度、止めに出た。二度とも、あんたはやめんかった」
「三度目はあたしが出た」シボーンが言った。「あんた、あたしを見て笑うて、庭を三周逃げたんよ。逃げながら、まだ歌うとった」
「文句も節も、あってなかったわ。あんたの歌は、昔からああじゃ」
ニーヴは、動かなかった。
合わないと思っていた帳面に、繰り越しの欄が一つ、いま見つかった。見つけた途端に、九年ぶんの勘定が、かたりと合った。
奥の間と庭は、戸一枚。
封じの座は、静かなものである。香も焚かず、祈りもせず、火も水も要らない。要るのは名乗りと、宛て名と、証しに立つ耳が一つ。――耳が、一つ。その耳のある部屋の、戸一枚向こうで、十の孫が竿を叩いて大声で歌っていた。
祖母は、それを聞きながら、封じたのだ。
――うたが、じょうずだったね。
嘘だ。
あれは、嘘だった。
ニーヴは、上がり框に汁の椀を置いたまま、声を上げて笑った。それから、笑ったまま泣いた。
「な、なんじゃ、この子は」母がぎょっとした。「いまさら、なんで泣くんね」
「泣いてない」
「泣いとるやろが」
「泣いてる! でも笑ってる!」
「どっちかにし」シボーンが灰まみれの手で背中を叩いた。
叩かれながら、ニーヴの頭は勝手に一年ぶんの道を戻っていた。
初仕事の日、石工のブランは器の中で言った。いまも、まあ、その、たまに震える、歳のせいじゃ、と。娘のオルラは泣き笑いで言った。あれ、嘘。父さんの手、石の前じゃ震えたことなんかないもの、と。
石工の「歳のせいじゃ」が一つ。……婆さまの一行が、二つ。
そして、どちらもまるごと届いた。嘘のところも、そっくり同じ調子で、宛て名の耳へ届いて、消えた。声は選り分けない。ほんとうのところだけを渡したりはしない。語られたとおり、全部を持っていく。
「母さん」ニーヴは洟をすすった。「婆さま、あの日、庭のほうを見てた?」
「見とったよ」母はあっさり言った。「声継ぎさんが宛て名を唱えとるあいだじゅう、婆さまは戸のほうを向いとった。……あたしは、うるさいのを気にしとるんじゃと思うとった」
「気にしてたんじゃないよ」
「じゃあ、なんね」
「……聞いてたんだよ」
母は、しばらく娘を見ていた。それから前掛けで手を拭いて、汁をもう一杯よそった。
「食べ。冷めるよ」
この人は、たぶん、いま自分が娘に何を渡したのか知らない。染物屋の女主人は、そういうことを一日に三度、なんでもない顔でやってのける。
*
組合へ戻ると、日はとうに落ちていた。
厩で、アネモネが藁を踏んでいた。ニーヴは飼葉桶のふちに腰かけて、しばらく相棒の首を撫でた。
「アネモネ。歌っていい?」
驢馬が、こちらを見た。
「駄目とは言わせないよ」
歌った。子どものころ、庭で竿を叩いて歌っていたやつである。文句は半分しか覚えていなかった。覚えていないところは、勝手に作った。
アネモネは、耳を伏せかけて、やめた。
やめた理由は、驢馬にしか分からない。ニーヴは構わず最後まで歌った。ひどい歌だった。自分でも分かるくらい、ひどかった。九年前の秋の庭も、たぶんこれと同じくらいひどかったのだろう。
歌い終えて、厩の梁を見上げた。
「……婆さま。うたが、じょうずだったね、って」
声が、詰まった。
「あれ、嘘でしょ」
答えはない。答えの返らない声を、九年前に一度きり聞いた。写しはない。二度目もない。確かめる手だては、この世のどこにもなかった。
それでいい、と思った。
「嘘でも、届いたよ。まるごと。……嘘のところも、いっしょに」
アネモネが、鼻を鳴らした。
ニーヴは飼葉桶のふちから下りて、相棒の鼻づらを両手で挟んだ。
「あたしはね、アネモネ」
驢馬の耳が、片方だけこちらへ向いた。口上を聞くときの向け方だった。
「嘘まで届ける仕事なんだよ」
*
その晩おそく、エイフェが炉の間へ上ってきた。
宿の膳が口に合わんと言って、二晩に一度は坂を上ってくる。約定の茶は、もう何杯目か分からない。
ニーヴは、話した。夏から毎日量られてきた器が、封じられたまま軽くなり切ったこと。南の川で、百年動かなかった水の取り決めが、この冬いきなり破られたこと。高地の谷と、南の川と、坂の上の棚と。三つ並べても、橋を架ける言葉がまだ無いこと。
エイフェは、最後まで何も言わなかった。
言わずに二杯目を飲み干し、茶碗を伏せて、それから一言だけ言った。
「……わたしの谷は、訳を知らぬまま石を置いた」
「うん」
「置いた石は、いつでも拾える」
それだけ言って、雪の坂を下りていった。
*
寄り合いは、坂のいちばん上の、石造りの広間で開かれる。年に一度、この月にだけ戸の開く建物である。
初日の午後、組合は末席に呼ばれた。谷ごとの返しの声の段取りを申し上げるためである。長たちの座が広間をぐるりと囲み、供の衆はその後ろに膝を折り、火は四隅で焚かれていた。丘向こうの谷のルアリが、厚い毛織りを膝に巻いて座っているのが見えた。人前で巻くのは恥ずかしい、と留守の妻に言われた、あの膝当てである。
オシーンが段取りを申し上げた。長い口上ではない。言葉を銅貨のように惜しむ人の申し状は、寄り合いでも短かった。ニーヴは師匠の斜め後ろに控え、帳面を抱えたコルムと並んで膝を揃えていた。
「――以上に、ございます」
「相分かった」その年の座を預かる、いちばん年かさの長が言った。「下がってよい」
オシーンが辞儀をした。ニーヴも辞儀をして、腰を浮かせた。
そのときである。
「――待たれよ」
北の列から、声が上がった。
厚い毛織りを二重に巻いた、若い当主代行だった。エイフェ・ニ・ファーラは立ち上がり、まっすぐ座の真ん中を見て言った。
「グレン・ファーラの名代として、議題の外に、一つ願いがある」
ざわめきが起きた。どこかの谷の長が、議題にないものは受けぬ、と苦い声を投げた。
「知っておる」エイフェは引かなかった。「知っておって、願う。……この秋、わたしの谷では、長らく静まっていた血が噴いた。訳は、いまも誰も知らぬ。南の川でも同じことが起きたと聞く。訳は、やはり誰も知らぬ」
広間が、静かになった。
「訳を知らぬまま、我らは石を置いた。置いた石は、いつでも拾える。……この座には、それを拾わせぬ言葉が要る」
エイフェは、ゆっくりと振り向いた。
振り向いた先に、ニーヴがいた。
「声継ぎ殿に、発言の座を」
四隅の火が、低く鳴っていた。
膝の上で、抱えた負い籠の革紐が、かさりと鳴った。
満座の顔が、こちらを向いた。
座の真ん中から、乾いた一言が落ちた。
「――前へ」




